レースを作つてゐる気分
Spring Doilyの二段目をせつせと作つてゐる。
タティングレースでドイリーを作るのはひさしぶりだ。
タティングレースにかぎらないか。
かぎ針編みでも棒針編みでもドイリーなんて久しく編んでゐない。
円形になるのだらうかと不安にかられつつ結んでゐる。
先日、中央のモチーフがゆがんでゐると書いた。
そのせゐもあるのかもしれないが、どちらかといふと二段目の手加減が間違つてゐるやうだ。
中央のモチーフの花びらの中央にあるピコとつなぐ大振りのリングが小さすぎるのかもしれない。
それでちよつとつれてしまつてゐるものと思はれる。
円形になるかなあ。
三段目は問題ないと思ふのだが。
しかし、ドイリーはいい。
なにしろ「レースを作つてゐる!」といふ気分になるからだ。
栞だとかうはいかない。
モチーフも、大きいものならともかく、小さいものだと「レースを作つてゐる!」といふ気分は稀薄だ。
そこへいくとドイリーは「ああ、ヲレはいま、レースを作つてゐる!」といふ喜びにあふれた気分で作ることができる。
なぜなのかなあ。
思ふに、ボビンレースだとなにを作つても、「レースを作つてゐる!」といふ気分になるのぢやあるまいか。
クッサンがあつて、その上にピンをさして、細い糸がその上を這ひ、その先にはボビンがあつて、そのボビンを右へ左へ操作する。
それだけで「レースを作つてゐる!」といふ気分になれるのぢやああるまいか。
たとへ作つてゐるものがちいさなモチーフだつたり細いエジングであつたとしても。
タティングレースだつて、針の動かし方も独特だし、特にタティングシャトルを使へばもつと「タティングしてゐる」といふ気持ちにあふれてもをかしかない。
をかしかないけど、あまりさういふ気分にならないのは、タティングをすることが日常になつてしまつてゐるからなのかもしれない。
いづれにせよ、Spring Doily がちやんと円形になりますやうに、と祈らずにはゐられない。
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