テーブル茶道と大向ふ
我が家には畳の部屋がない。
床に座るといふこともほとんどしなくなつて今に至る。
お茶席なども、テーブルでいすに座つてするテーブル茶道が増えてゐるといふ。
畳の上での正座は、若い人はできないといふし、すでに茶の湯をあるていど極めたやうな人でも足腰の経年劣化でむつかしいこともある。
もしやと思つてWeb検索してみたら、いすに座つてする座禅といふのもあるさうだ。
さうだよなあ。結跏趺坐とか、できないもんな。半跏趺坐だつてやつがれにはちよつとムリ。
いすで茶道とかいすで座禅とか、「邪道」といふ向きもあるかもしれない。
でもこれをきつかけに「やつぱり古来のお点前に挑戦してみたい」とか「お寺に行つて座禅を組んでみたい」といふ人も出てくるかもしれない。
間口は広い方がいい。
などと書きながら、ほんたうにさうかなあ、といふ気もする。
昨今、歌舞伎を見る人のあひだでは大向ふに対する風当たりがとても厳しい。
大向ふの会の人でさへあのかけ声はどうよ、と云はれたりする。
extremeな人は、もう大向ふ全部を禁止してしまへ、とも云ふ。
確かに、声をかける人の技量は以前に比べて劣化してゐるやうに思へる。
きちんと比較することはできないけれど、やつがれが見始めたころに比べてチャリがけといはれる屋号や何代目など以外のふざけた声がかかることが増えてゐる。
かけるタイミングもよろしくないこともある。
幕の開く前にかけるつてどうなのよ。しかも出てこない役者の屋号をかけるつて。
さう思ふことも少なくない。
でもそれつて、初心者が増えてゐるからぢやないのかなあ。
これまで声をかけたことのない人、かけはじめたばかりの人が増えてゐるのぢやあるまいか。
#幕開き前にかけるのは会の人だといふ話だが。
ほぼ日刊イトイ新聞の「大向うの堀越さん。」第二回に、「誰でも自由に声を掛けていいのですね」といふほぼ日側の質問に、「それを止める権限は誰にもないんです」と大向ふの堀越一寿さんは答へてゐる。
この方は以前深夜番組に若い大向ふの人三名くらゐと一緒に出演してゐて、やはり「誰でもかけていい」といふ旨の発言をしてゐた。
誰でもかけていいのだつたら、やつてみたからう。
問題は、歌舞伎の大向ふは茶の湯や座禅に比べて暗黙の了解が多いといふことだ。
ほぼすべてが暗黙の了解といつていい。
いつなにをどうかけていいのかといつたことからして、何度も芝居に通はないとわからない仕組みになつてゐる。
茶の湯や座禅にもやつてみなければわからないことはたくさんあらうが、教へてもらへる場が存在する。
大向ふにはそれがない。
練習するにも実践を重ねるしかない。
本を読んでわかることなどたかが知れてゐる。
いまなら家で映像を見ながらかける練習をするといふ手もあらうとは思ふがね。
昔はよかつたね、といふ話になつて恐縮だが、やつがれが歌舞伎を見始めたころは、大向ふの会の人でなくても声をかけてゐる人はゐた。
中にはとてもよく通る声で、タイミングもすばらしい人もゐた。
それがいつしかゐなくなつてしまつた。
なぜゐなくなつたのかはわからない。
さういふ人々がゐなくなつてしまつたから、余計に妙ちきりんな声をかける人が目立つやうになつてしまつたのかもしれない。
あるいは、前の歌舞伎座のときによくゐたといふ悪目立ちする声をかける人が出入り禁止になつたといふ、さういふ事件が心ある大向ふのさまだけになつてしまつたといふこともあるかもしれない。
幸ひにして、やつがれはその出入り禁止になつたといふ人とおなじ時に芝居を見たことがないのでよくわからないのだけれどもね。
もしかするとおなじ時に見てゐたこともあつたのかもしれないけれど、気にならなかつたのかもしれない。
大向ふは、そんなに気にして聞くものでもなからうし。
そんなわけで、間口を広げたはいいものの、受け皿がないととんでもないことになる、といふのが大向ふなのではないかと思つてゐる。
茶道や座禅はそこのところは問題なさそうで重畳だ。
大向ふ、なんとかならないかね。
かける方も非難する方も。
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