ボールペンと哲学
こどものころ、家にあるボールペンは大抵キャップがなくなつてゐて、まだインキがあるにも関はらず書けなくなつてゐるものが多かつた。
ボールペンとはいつしかキャップを失つてしまひまだ途中なのに書けなくなるもの。
この思ひ込みが覆るのは、受験勉強をしてゐたときのことだ。
勉強をするときにボールペンを使ふといいのだといふ。
なぜといつて、ボールペンのインキを使ひきると達成感があるからなのださう。
受験生といふことでそんなにお金もないから五本いくらとか十本いくらの廉価なボールペンを買つてきて、せつせと勉強をはじめた。
するとどうしたことだらう。
ちやんと、インキを使ひきることができるではないか。
一本だけではなかつた。
受験勉強の終はるまでに何本かボールペンを使ひきつた。
不思議だつた。
ボールペンとは、いつのまにかペン先が乾いて書けなくなつてしまふものではなかつたのか。
そして、あるとき気がつくのである。
父も母も、ボールペンを使つたあと、キャップをしないといふことに。
もちろん、することもあるのだが、よくよく見てゐると使ひ終はつたあとボールペンをそのまま筆立てなどに戻してしまふ。
キャップをするのを忘れるのか、それともキャップの存在自体を忘れてしまふのか、そこのところはよくわからないし、親に訊いたこともない。
ただ、両親そろつて、といふところが衝撃的だつた。
両親には似たところがほとんどない。
なのに、こんなところがそつくりだなんて。
以前、失礼ながらある人に訊いたことがある。
なんで結婚したのか、と。
その人と相手の方とはお互ひに似たところはほとんどなかつたやうに思ふ。
旦那さんは保守派で、奥さんは絵に描いたやうなリベラルだつた。
それでゐて、その時点でもう二十五年近くつれそつてゐた。
なぜ結婚したかの答へは、philosophy がおなじだからかな、だつた。
もしかするとそのご夫婦にもボールペンのキャップをしないで放置するやうな共通点があつたのかもしれないなあ。
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