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Friday, 29 November 2019

映画館でスマートフォンを使ふ

最近TwitterのTimeLineで、映画館で映画を見てゐる最中にスマートフォンを使ふことについてのつぶやきがいくつか流れてきてゐる。

今年はずいぶんと映画館に行つたけれど、上映中にスマートフォンを使つてゐる人を見かけたことはそれほどない。
立川シネマシティで「ボヘミアン・ラプソディ」の爆音応援上映のときにスマートフォンを使つてゐる人を見かけたときには仰天したけれどもね。
だつて前売券発売開始直後に即売り切れるやうな、チケットを入手するだけで大変な映画だよ。
スマートフォンを使つてゐた人だつて、さうしてチケットを取つたことだらう。
もしかすると、戻りチケットを取つたのかもしれないが、それだつて戻るのをしよつ中確認する必要がある。
そこまでしてチケットを取つて、それでも上映中にスマートフォンを確認せずにはゐられない。

映画を見てゐる最中にスマートフォンを使ふ人の云ひ分は、「二時間は長すぎる」「二時間も放置すると仲間はづれにされさうで怖い」などだ。

だつたら映画館に映画を見にくる必要はない。
ネット配信や、DVD・Blu-rayになるのを待つて、家で見ればいい。

電車やバスの中でのスマートフォンの使用禁止にはそこはかとない陰険さを感じる。
「マナーモードでご利用ください」はわかるが、優先席付近での使用を禁止するといふのは、初期の携帯電話のころならともかく、いまはどうなんだらうと思ふ。
#間違つてゐたら教へてください。

だが、映画館は違ふ。

なぜ違ふのかといふと、スマートフォンの画面が明るくて映画が見づらくなるからだ。
映画館では暗いところで映画を上映する。
明るくなると映画が見づらくなる。
だから出入り口も廊下などの照明が影響しないやう作られてゐることが多い。
上映中、気分が悪くなつたりどうしてもお手洗ひに行きたくなつたりした客がゐたとき、ドアを開けて外の明かりが入つてきたせゐスクリーンが真つ白になつてしまふといふことを避けるためだ。

映画を見てゐる最中にスマートフォンを使ふ人は、そこの理屈がわからないのだらうか。
わかつてゐても「自分ひとりならかまはない」と思つてゐるのだらうか。
いづれにしても、さういふ人が映画館に行くのは間違つてゐる。

さういふ人が来なくなつたら、ますます映画館はさびれていくのかもしれないが。

Thursday, 28 November 2019

英語民間試験のなぞ

大学入学共通テストの英語民間試験のことがなぜだか気になる。
もう大学受験なんぞしないし、周囲に受験を控へた子どももゐないといふのに。

気になる点のひとつは、「どう考へてもいいとは思へないのに、なぜ民間試験をやるのか」といふことだ。
何回か受けられるのはいいと思ふが、そのたびに受験料が必要だ。
それに受験勉強は英語だけやつてゐればいいわけではない。
英語だけにそんなに労力は避けない。
それとも英語だけ先に終はらせておいて、あとはほかの教科に力を入れやうといふことなのか。
どうもさうは思へないのだが。

去年の一月に「史上最悪の英語政策」を読んだ時点では自分には見えてゐなかつた問題点が最近明らかになつた。
民間試験を受けるには、受験会場に行く必要がある。
住んでゐる場所によつては、三日がかり、四日がかりで受験せねばならぬ人もゐるといふ。
住んでゐるところによつてそんなに差があつたらダメでせう。
平等ぢやないぢやん。
完全に平等にするのはむつかしいこともあるかとは思ふが、これだけ明白に差異があるのに導入したらダメでせう。

何回か受けられるのはいい、とは書いたが、これでは複数回受験する選択肢はない人もたくさん出てくるといふことだ。
それだけで民間試験はダメだと思ふけどなあ。
受験生に負担をかけちやいかんだらう。

こんなにダメなのに、政府は全然完全撤廃しやうといふ気配を見せない。
2020年の入試では民間試験はやめることにしました、といふ記事を見かけたが、話によると中途半端なやめ方で、このままでは大学に無言の圧力をかけて民間試験を導入させることになるのでは、といふ。
納得できないことばかりだ。

納得できないことはこの世の中にはたくさんある。
昨今のニュースを見てゐると、「なぜこれがまかりとほるのか」といふ内容ばかりだ。
だがさうした問題をおいて、英語民間試験が気になるのはなぜなのか。
わかりやすいから、といふのはあると思ふ。

でもそれだけではない気がする。
心のどこかで、教育は国の礎と信じてゐる。
さういふことなのかもしれない。
自覚はまつたくないけれど。

あるいはまだ大学を受けるつもりでゐるのか。

まさかね。

Wednesday, 27 November 2019

ドラッグストアが空いているのは

先日、お菓子売場やドラッグストアがお葬式のやうだ、といふやうなエントリを書いたが。

お菓子売場はともかく、ドラッグストアについては十月以降、行く必要を感じてゐなかつた。
もちろん、行くこともなかつた。
といふのは、九月に買へるものは買つてしまつてゐたからだ。
九月に買へなかつたティッシュペーパーが尽きてしまつたので、さういやあの店は最近生鮮食品も置いてゐるし、といふので立ち寄つたのが先週のことである。

ドラッグストアで買ふものといふのは、さうしよつ中なくなつたりしないやうだ。
九月から先週までのあひだ、トイレットペーパーだけは職場帰りに立ち寄るに便利な別のドラッグストアで買つたけれど、ほかのものは一切見なかつた。

さう考へると、ドラッグストアに限つていふと、客が少ないのは九月に買ひためたからで、それが尽きてくるころにはぼちぼち客も戻つてくるのではないか。
さうも思へる。

なにしろ、あらゆる洗剤の在庫が家にある。
風呂場用の洗剤などなにを考へたものか四袋も買つてゐる。
ティッシュペーパーはこの先しばらくなくなることはないだらう。
次にドラッグストアに行くことになるとしたら、石鹸がなくなるか歯磨き粉がなくなるかしたときだ。
まだ当分先なのだつた。

生鮮食品はさすがにちよつと、と思つたが、ドリップタイプのコーヒーは二袋買つてしまつた。
安かつたからだ。
この機会に買はねばと思つた。
どうせ飲むのだからいいのだけれど、なんだらう、このさもしさは。
もともとあさましい、いやしい心根の自分だと思つてはゐたけれど、なんだかますますいやしくなつてゐる。

「エロイカより愛をこめて」にジェイムズくんといふ登場人物がゐる。
モデルはレッド・ツェペリンのジミー・ペイジだといはれてゐるが、現在のジミー・ペイジとは似ても似つかない。
先日、久しぶりにジェイムズくんだつたころのジミー・ペイジの動画がTwitterのTimeLineに流れてきて「あー、このころはジェイムズくんだつたよなあ」と逆の感想を抱いたところだ。
髪型がジェイムズくんだつたんだよね。
といふよりは、ジェイムズくんが当時のジミー・ペイジをうつしたのだらうけれど。

ジェイムズくんといふのは守銭奴で、と書くと守銭奴が怒るのではないかといふくらゐ度を超した守銭奴で、登場したばかりのころはそれでも美少年といはうか美青年だつたはずなのだが、いつの間にか頭身が少なくなり、「ジェイムズくんといふ生き物」としか呼べないやうな存在になつてしまつた。
最近の自分の思考はジェイムズくんにそつくりだと思ふ。
いつそジェイムズくんくらゐ突き抜けてしまつたら「あさましい」とか「さもしい」とか思はずにゐられるのにな、とも思ふ。

今後、ますますあさましくさもしくいやしく生きていくんだらうな。

仕方ない、もともとさうなんだから。

Tuesday, 26 November 2019

Spring Doilyを作るとして

RenulekのSpring Doilyを作つてみたい。
以前からさう思つてゐる。
好きなだけ大きくできるし、途中の段でやめてもいい。

なぜ作つてゐないのかといふと、中央のローズモチーフが苦手だからだ。
自分には作れないとも思つてゐた。
チェインのみの段を二目づつ増やして中央のモチーフを囲んでいくといふのが、自分にはどうにもできない気がしてゐた。

ところが、藤戸禎子の「モチーフ&エジング101」の表紙のドイリーを作つてみたら、思つたより悪くない。
#復刻版は表紙のモチーフが異なる。

最終的に何段まであるのか確認してはゐないが、Spring Doilyは真ん中のローズモチーフを一段と考へて三段めまで作ればわりと満足するのではないかといふ気がしてゐる。

「Spring Doily tatting」でWeb検索をかけると、大小さまざまの彩り豊かなドイリーの写真がたくさん表示されることと思ふ。
一枚目は三段目までで終はりにしたけど、二枚目は九段目まで作つてみやうといふのもありだ。
あるいは、今回はとりあへず三段目までにしておいて、別なものを作つてまた戻つてきて四段目を付け足してもいい。

いいぢやあないか。

いいのになかなかできないのは、色と糸の太さの選定に悩んでゐるからだ。

さうかうするうちに、ほかに作りたいものが出てきたりして気がそがれる。

えいやっと思ひ切ることが肝要なのだが、さて。

Monday, 25 November 2019

前後の身頃を組みあはせる

ヴェストがどうにか形になつた。
糸端を全部始末してゐることを確認して切つてしまへばとりあへず着られる。

日曜日の朝、前後身頃をはぎあはせるところからはじめた。

まづ肩のはぎで苦労する。
参考にした編み方では、肩は伏せ止めすることになつてゐた。
中表にしてはぐと、表に微妙に響く。
三度ほどやりなほしてうまくいかなかつたので、ほどいて肩の部分だけ編みなほした。
編み方では引き返し編みはしてゐなかつたが、編みなほすときに引き返し編みにした。
それで three-needle bind-off ではいだ。

つぎに襟のゴム編みを編む。
Vネックなので前の真ん中は三目一度なのだが、モデルは真ん中ではぎあはせてゐるやうに見える、とは前回も書いた。
また、二、三編み方を参考にしたところ、いづれも真ん中の目の左右で二目一度をしてゐた。
さういふものなんだらうか。
悩んだ末、結局三目一度にした。
うーん、やつぱりちよつと真ん中の目がゆるむだらうか。
アイロンかければなんとかなるかな、と思つたが、スチームがきかないのでそのままになつてゐる。

つづいて脇のとぢだ。
いつになく丁寧にとぢたものの、やつぱりちよつとつれちやつたな。
片方の脇をとぢた時点で、先週書いたWendy KnitsのWendyさんがなぜ脇をとぢるセーターの方が好きなのか、よくわかつた。
形が決まるんだよね、輪に編んだセーターに比べて。
でも脇をとぢるのは苦痛だ。
どうしたものかね。

袖ぐりのゴム編みにはとくに問題はなかつた。
目を拾ふのが大変だつたのと、案外円周が長いから目を止めるのに苦労したくらゐか。

今回ヴェストを編んでゐて、案外くつ下を編むことで身につけたことが役に立つな、と思つた。
減らし目増し目にしてもさうだし、ゴム編み止めや引き返し編み、たた&たた夫さんのくつ下を編んでゐれば段から目を拾ふこととか、あれもこれもくつ下を編んでゐるときにやつたことばかりだ。
くつ下を編んでゐてやらないことといつたら脇のとぢくらゐか。これもくつ下を輪に編まずに平たく編んで最後にとぢるやうにしたらやることになる。
そんなことはやつたことないけれども。

今年はできればもう一枚ヴェストを編みたいと思つてゐる。
たた&たた夫さんのヴェストを編みたい。
でも手持ちの糸だとすべり目とかにした場合、暑くなりすぎるかなあといふ懸念がある。

もう一枚編んだら今回の教訓を生かせる気がするんだよね。

Friday, 22 November 2019

死人と死にかけた者しかゐない

先月末、家族の誕生日といふのでケーキを買つて帰ることにした。
いつも立ち寄る洋菓子店に行つた。
この店の周囲にはほかにもケーキなどを扱ふ洋菓子店や和菓子店、ゴディヴァやモロゾフといつた店を集めたスペースにある。
例年この時期に行くと、自分と似たやうな会社帰りの人々でそれなりににぎはつてゐるところだ。

それが、今年は違つた。
なんだか閑散としてゐる。
空気がしづんでゐる。
活気がない。
お菓子売場ですよ。
それも、おみやげに買つて帰るやうな菓子の並んだところだ。
華やかでにぎやかな雰囲気のあるところだ。

客が少ないといふことはもちろんある。
しかし、売り子の人々にも生き生きとしたやうすが感じられない。
「Nothing but the dead and dying back in my little town.」
サイモン&ガーファンクルの「My Little Town」のさはりが脳内に蘇る。
死人と死にかけた者しかゐない。
我が街には。

昨日は、帰宅途中に近所のドラッグストアに行つた。
これがまたお菓子売場とおなじやうな雰囲気で、な。
明るい店内には数多の商品がきちんと陳列されてゐる。生活必需品が多い。
夜、外から見たら誘蛾灯のやうに見えるはずだ。
なのに、このしづんだ雰囲気はどうだらう。

お菓子売場もドラッグストアも、決して死んだやうといふ雰囲気ではない。
でも生きてもゐない。
先にも書いたやうに、活気がないのだ。
どちらも売るものはうなるほどあつて、それも見た目に訴へかけてくるやうにきれいに並んでゐて、それでゐて買ふ人がゐない。
売る方も半ばあきらめてゐるのかもしれない。

いつまてこんな状態がつづくのだらう。
もうお菓子売場の華やぎやドラッグストアの賑はひはもどつてこないのだらうか。

もどつてこないのかもしれないな。

Thursday, 21 November 2019

テーブル茶道と大向ふ

我が家には畳の部屋がない。
床に座るといふこともほとんどしなくなつて今に至る。

お茶席なども、テーブルでいすに座つてするテーブル茶道が増えてゐるといふ。
畳の上での正座は、若い人はできないといふし、すでに茶の湯をあるていど極めたやうな人でも足腰の経年劣化でむつかしいこともある。

もしやと思つてWeb検索してみたら、いすに座つてする座禅といふのもあるさうだ。
さうだよなあ。結跏趺坐とか、できないもんな。半跏趺坐だつてやつがれにはちよつとムリ。

いすで茶道とかいすで座禅とか、「邪道」といふ向きもあるかもしれない。
でもこれをきつかけに「やつぱり古来のお点前に挑戦してみたい」とか「お寺に行つて座禅を組んでみたい」といふ人も出てくるかもしれない。
間口は広い方がいい。

などと書きながら、ほんたうにさうかなあ、といふ気もする。
昨今、歌舞伎を見る人のあひだでは大向ふに対する風当たりがとても厳しい。
大向ふの会の人でさへあのかけ声はどうよ、と云はれたりする。
extremeな人は、もう大向ふ全部を禁止してしまへ、とも云ふ。

確かに、声をかける人の技量は以前に比べて劣化してゐるやうに思へる。
きちんと比較することはできないけれど、やつがれが見始めたころに比べてチャリがけといはれる屋号や何代目など以外のふざけた声がかかることが増えてゐる。
かけるタイミングもよろしくないこともある。
幕の開く前にかけるつてどうなのよ。しかも出てこない役者の屋号をかけるつて。
さう思ふことも少なくない。

でもそれつて、初心者が増えてゐるからぢやないのかなあ。
これまで声をかけたことのない人、かけはじめたばかりの人が増えてゐるのぢやあるまいか。
#幕開き前にかけるのは会の人だといふ話だが。

ほぼ日刊イトイ新聞の「大向うの堀越さん。」第二回に、「誰でも自由に声を掛けていいのですね」といふほぼ日側の質問に、「それを止める権限は誰にもないんです」と大向ふの堀越一寿さんは答へてゐる。
この方は以前深夜番組に若い大向ふの人三名くらゐと一緒に出演してゐて、やはり「誰でもかけていい」といふ旨の発言をしてゐた。

誰でもかけていいのだつたら、やつてみたからう。
問題は、歌舞伎の大向ふは茶の湯や座禅に比べて暗黙の了解が多いといふことだ。
ほぼすべてが暗黙の了解といつていい。
いつなにをどうかけていいのかといつたことからして、何度も芝居に通はないとわからない仕組みになつてゐる。
茶の湯や座禅にもやつてみなければわからないことはたくさんあらうが、教へてもらへる場が存在する。
大向ふにはそれがない。
練習するにも実践を重ねるしかない。
本を読んでわかることなどたかが知れてゐる。
いまなら家で映像を見ながらかける練習をするといふ手もあらうとは思ふがね。

昔はよかつたね、といふ話になつて恐縮だが、やつがれが歌舞伎を見始めたころは、大向ふの会の人でなくても声をかけてゐる人はゐた。
中にはとてもよく通る声で、タイミングもすばらしい人もゐた。
それがいつしかゐなくなつてしまつた。
なぜゐなくなつたのかはわからない。

さういふ人々がゐなくなつてしまつたから、余計に妙ちきりんな声をかける人が目立つやうになつてしまつたのかもしれない。
あるいは、前の歌舞伎座のときによくゐたといふ悪目立ちする声をかける人が出入り禁止になつたといふ、さういふ事件が心ある大向ふのさまだけになつてしまつたといふこともあるかもしれない。
幸ひにして、やつがれはその出入り禁止になつたといふ人とおなじ時に芝居を見たことがないのでよくわからないのだけれどもね。
もしかするとおなじ時に見てゐたこともあつたのかもしれないけれど、気にならなかつたのかもしれない。
大向ふは、そんなに気にして聞くものでもなからうし。

そんなわけで、間口を広げたはいいものの、受け皿がないととんでもないことになる、といふのが大向ふなのではないかと思つてゐる。
茶道や座禅はそこのところは問題なさそうで重畳だ。

大向ふ、なんとかならないかね。
かける方も非難する方も。

Wednesday, 20 November 2019

年内に使ひ切りそなRollbahn 2020

現在すでにRollbahnの2020手帳を使用してゐる。

今年は一月からLEUCHTTRUMを使つてゐた。七月の下旬まで使つた。
そこからRollbahnの普通のLサイズを使ひはじめて九月の下旬で使ひきつた。
残り三ヶ月ほど、どうしたものかと考へて、来年用のRollbahnのLサイズを手にした。
理由は、今年の十月から使へるやうになつてゐることと、来年おなじ手帳を使ふにあたり、使ひ勝手やどれくらゐ使ふものか知りたかつたからといふことがある。

思つたより使ふなあ。
十二月半ばには使ひきりさうな勢ひだ。
使ひきつた時点で来年から使はうと思つてゐた手帳に切り替へてもいいけれど、ライダー・キャロルは年が改まつたら手帳も改めた方がいいといふし。

Rollbahnには中綴ぢの薄い手帳もある。
残りわづかのあひだ、そちらにしてみるか。
あるいは、Lサイズとどちらにしやうか悩んでゐたスリムサイズを試してみるか。

LEUCHTTRUMを使ふのに案外時間がかかつたから、そんなに使ふと思つてゐなかつたんだよなあ。
LEUCHTTRUMの次に使つたRollbahnが早めにいつぱいになつてしまつたのは、海外旅行に行つたからだと思つてゐたし。
旅行の予定や覚え書きなどを書いていくうちにすぐページが尽きてしまつた。
さういふことだと思つてゐたんだよなあ。

LEUCHTTRUMをゆつくり使へてゐたのには、持ち歩けないことも多かつたから、といふのがあるのではないかと思つてゐる。
休みの日に持ち歩くかばんには、A5サイズはちよつと大きいんだよね。
RollbahnのLサイズはB6サイズの紙をリング製本にしてみました、といつた寸法なので、ギリギリかばんに入るサイズだ。
ゆゑにどこにでも持つてゆける。
それで書くやうになつたのだらう。

また、LEUCHTTRUMを使つてゐたときはちよつと構へたところがあつたんだと思ふ。
Rollbahnになつてからは、なぜか即手に取つて書き込むことが増えた。

LEUCHTTRUM、好きなんだけどなあ。
線がひいてあるよりはドットの方が好きだし。
いまLEUCHTTRUMに乗り換えたら、今年の最初に使つてゐたときよりもあれこれ書き込むやうな気はしてゐる。

Rollbahnを二冊つづけて使つたことで、だいたい平均的な使用量も見えてきた。

まちつと買ひ足しておくかな。

Tuesday, 19 November 2019

達成感がほしい

クロバーの匠は日本が世界に誇る編み針だと思つてゐる。
先頃リニューアルしたのだが、まだ手にしてゐない。
現在編んでゐるヴェストも匠の輪針で編んでゐる。

最近愛用してゐるタティングシャトルもクロバー製だ。
最初に手にしたのがクロバーの鼈甲柄角付きシャトルだつたこともあり、クロバーのシャトルには愛着がある。
サイズが絶妙だしね。
糸を巻いて手のひらに乗せたときの感覚が好きだ。
なんともいへず可愛いし、糸を巻いてあるからいつでも使へるといふ、出番を待つてゐる感じもいい。

そんなわけで Chinese Coin Bookmark はクロバーのシャトルで作つてゐたのだが、途中で失敗して糸がほどけないといふ話は先週書いたとほりだ。

仕方がないので切つて、ひとまづはなにか別なものを作らうとしてゐる。
いまはシャトルひとつでできるモチーフを作つてゐる。
シャトルひとつだけで作るモチーフは、どうも苦手でなかなかうまくできない。
外周のピコやリングとリングとのあひだの糸の長さがそろはず、モチーフが波打つてしまふこと一度ならず。

最近はだいぶマシになつてはきたけれど、はじめて作つたときには「……これ、できるやうになるんだらうか」と暗澹たる気持ちになつたものだ。

でもなあ、モチーフ作りつてなんかかう、いまひとつ達成感にかけるんだよなあ。
ここはやはりドイリーを作つてみるしかなからうか。
ドイリーつてものすごく「作つたー」といふ達成感を得られるんだよね。

その後何に使つていいかよくわからないけれど。

Monday, 18 November 2019

Without No Seams Nor Needlework

あみものを始めてからこの方、とぢはぎが苦手でならない。
メリヤスはぎは、くつ下を何足も編むことでだいぶ克服できたのだが、とぢはなあ。
セーターとかほとんど編まずにきたしなあ。

編んでも脇のとぢがどうにも苦手だ。
糸をすくつていくうちに、どこをすくつてゐるのかわからなくなつたり、左右で違ふ段の糸をすくつてゐたりする。
たた&たた夫さんのタートルネックのリブ編みセーターを編んだときは輪にして編んだほどだ。
このセーターは黒い糸でしかもパピーのグランメリノといふ合太ていどのチト細い糸で編んだからといふこともある。

Wendy Knitsを見たら、今回はとぢに関する話だつた。
Wendyさんはとぢがあるセーターが好きだといふ。
縫ひ目のもたらす形が好きなのださうな。
とぢのないセーターは着ていくうちにだらつとしてしまふといふこともある。

それはそのとほりだな、と、たた&たた夫さんのセーターを見て思ふ。
もともとのデザインでは脇をとぢることになつてゐるからそんなことはないのだらうけれど、やつがれの編んだセーターはどことなくだらつとした出来に感じる。
ダーツがあるからなんとかなつてゐる、さういふ感じだ。

なるほど、ダーツを入れるとちよつと形がととのふのか。
これは今後セーターやヴェストを輪に編むときに役立つかもしれないな。

今回は、モデルがあるので仕方なく前後身頃をわけて編んだ。
モデルのヴェストの写真からではよくわからないけれど、この形はおそらくとぢがある。
さう思つてせつせと編んでゐる。

編んでゐるうちはいいが、とぢは、なあ。
そしてその先には襟と袖とのゴム編みが待つてゐる。
これがまたどこから目を拾へばいいのかわからないんだよなあ。

初心者向けの本をひつぱりだしてこなければ。

Friday, 15 November 2019

風邪の予防に

風邪をひいてしまつた。
月曜日に寝込んで、以降、咳と鼻水とに悩まされてゐる。
どちらも「おさまつたかなー」と思ふとまた出てくるといつた寸法でどうにもよくない。

風邪やインフルエンザの予防には、朝起きたら即歯を磨くといい、と聞いた。
眠つてゐるあひだに口の中に菌が増えて、それが原因で風邪やインフルエンザにかかるのだといふ。
歯を磨くことで、さうした菌を除去できる、といふのだ。
朝一番に歯を磨くやうになつて風邪をひかなくなつた、といふ人の話もあつた。

はじめてはみたものの、そのあひだ風邪にもインフルエンザにもかかつた。
まだつづけてゐるけどもね。

もともと、風邪をひきやすい性質だ。
こどものころは人に先駆けて風邪をひき、春のくるころや五月の連休前後にもまたひいてゐた。
鼻と喉、気管がポンコツといふ話もある。
なんかあるとすぐ声が出なくなるしね。

手洗ひうがひも励行してゐる。
小学生のときに習つたとほり、手のひら、手の甲、指の股、爪の先、手首と洗ふやうにしてゐる。

こんなに気をつけてゐるのに、なんで風邪をひくのかなあ。
我ながら不思議でならないが、原因はわかつてゐる。

寝不足と冷えだ。
寝不足だけでもまづい。
でもコンボでくるともつとまづい。
今回がさうだつた。
寝不足がずつとつづいてゐて、さらに土曜日曜と「ちよつと寒いかな」と思ふことがあつたけれども「すぐ寝るから(といつて寝ないのだが)」と我慢したのがよくなかつたらしい。

こんなに苦しい思ひをするのなら、今後は早寝を心がけるよ。
さう思ひつつ、やはり就寝時間は早くならない。
こんなことではまた風邪をひいてしまふ。

それにしても、「風邪の予防には十分な睡眠とあたたかくしてゐることが必要です」といふだけのことを、なぜもつと強調しないのだらう。
なぜ朝一番に歯を磨くといいだとか手洗ひうがひを心がけるやうになどといふのだらう。
やつてゐても全然効かないのに。

不思議なことである。

Thursday, 14 November 2019

貧乏とバター

去年、バターをはじめて買つた。
それまでは「あたしがバターつて云つたらマーガリンでせう」状態だつた。

「あたしがバターつて云つたらマーガリンでせう」といふのは Twitter で見かけた話だ。
奥さんが旦那さんにバターを買つてきてくれるやう頼む。
旦那さんはすなほにバターを買つてくる。
すると奥さんが怒つて云ふのだ。
「あたしがバターつて云つたらマーガリンでせう」と。

Twitter では奥さんが悪いといふ意見が大勢だつた。
そりやさうだ。
マーガリンを買つてほしかつたのなら最初から「マーガリン」と云へばいい。
バターと云はれたらバターを買つてくるだらう。

だが、果たしてさうなのだらうか。
旦那さんは乳製品売場で迷はなかつたのだらうか。
バターの値段を見て、その価格が自分の収入にそぐつたものか否か、考へてみなかつたのだらうか。
そんなこと云はれても、「バターを買つてきて」と頼まれたのだから、バターを買つてくるのが正しい。
だから迷ふことはなかつた。
あつたとしても、どのバターを選ぶかといふことくらゐで。
それつて、「こどもの遣ひぢやあるまいし」つて話なんぢやないの?

やつがれが「あたしがバターつて云つたらマーガリンでせう」なのは、もちろん収入がバターと見合はないからだ。
マーガリンの、それもできるだけ安くてそれでも可能なかぎりおいしいと思ふものを買ふ。

ずつとさうしてきたのだが、去年のいまごろ魔が差した。
カルピスバターを購入した。
廉価なものばかりの行きつけのスーパーマーケットに、なぜかおいてあつたからだ。

ためしてみたらこれが美味い。
マーガリンに比べると、バターナイフを使つてもとりづらいし、トーストなどには塗りづらい。
そこは工夫する必要があるけれど、それを補つてあまりあるおいしさだ。

ありがたいもので、Web検索をかけるとバターの保存法方なども出てくる。
最初に適切なサイズに切りわけて冷凍庫に入れるといいといふ。
あとは必要なだけ取り出すと、バターの酸化を避けつつ使ふことができるのらしい。

そんなわけで、かなり長いあひだカルピスバターを使つてゐた。
使ひきつたので、マーガリンを買つてきた。
バターナイフで即取れて、トーストにも塗りやすい。
気がつくとあつといふ間に減つてゐる。

どうしたことだらう。

どうも、バターにくらべて風味が落ちるので、つひ使ひ過ぎてしまふやうなのだ。
それに、バターナイフなどで取りやすいといふ点もある。

これつて、どうなんだらうな。
店頭価格はバターの方が高いけれど、使つてみたらマーガリンの方が高くつくのぢやあるまいか。
きちんと比べてみないとわからないけれど、そんな気がする。

これも最近 Twitter で見かけた話だ。
ブーツがほしい。
でもいいブーツは高くて買へない。
仕方なく安物のブーツを買ふ。
しばらくはあたたかいし、水たまりの水も気にならない。
だが、安物は安物だ。
そのうち穴が空き、履いてはゐても寒いし水も浸入してくる。
いいブーツは一生履ける。
安物を履きつぶしてはまた買ふといふことをくり返した方が高くつく。

貧乏はつらいな。

Wednesday, 13 November 2019

ゲーム掛取

寄席やホール落語に行くと、年末の噺のかかるやうになつてきた。
先日も大晦の噺である「睨み返し」を春風亭一之輔の真一文字の会で聞いたところだ。

掛け取りとはなにか。
いまでいへば、借金の取り立てといふことにならうか。

今月歌舞伎座で「市松小僧の女」といふ芝居がかかつてゐる。
芝居の中で、魚屋が主人公の家にやつてきて、この家のものの好みの魚をあれこれ置いてゆき、お勘定をといふ段になつて、「今日は急いでゐるので、また今度」と去つていく。
近頃自分の周囲では見かけないやりとりだ。

こんな感じで、あるいは客の方から「今日は手元不如意だから今度またまとめて払ふよ」などといつてその場では支払はずにおく。
この未払ひの分、「掛け」を一年の最後大晦日に取り立てることを「掛け取り」といふ。

落語では「掛け取り」とか「掛取万歳」とかいふ噺があつて、掛けを取りに来る商人の方も必死なら掛けを取られる客の方も必死といふ噺がある。
必死なのだが、どこかをかしい。

「睨み返し」を聞いてゐて、掛け取りといふのはある種のゲームでもあつたのか、と思つたのはそのせゐだ。

無論、取りに来る方も「今日はなにがなんでも掛けを取つて帰る」と決死の覚悟なら、取られる方は取られる方で「ない袖は振れない」。
噺のマクラにも「大晦日首でも取つてくる気なり」「大晦日首でよければやる気なり」といふ川柳が出てくるほどだ。

借金の取り立てはどちらも必死だらう。
実際はひどく苦しく悲惨なものだつたのに違ひない。

さう思ひながらも、噺に出てくる人々は、ちよつとしたやりとりを楽しんでゐる。少なくとも、どうにか取られまいとする客の方には、そんなやうな雰囲気がある。
だいたい、顔見知り同士だしね。
互ひに互ひをよく知つてゐることも多い。
幼なじみだつたりとかさ。
さうすると、噺にあるやうなのは大げさとしても、端から見たら冗談としか思へないやうな掛け取りといふのもあつたのではあるまいか。

実は悲惨なものを楽しく見せてゐるんだらうと思つてゐたが、さうばかりでもなかつたやうな気がする。

噺の妙か。

Tuesday, 12 November 2019

初心にかへるといふ云ひ訳

タティングレーズで作つてゐる Chinese Coin Bookmark はみごとに途中で間違へてしまつた。

スプリットリングをつなぐ先を間違へてしまつて、ほどかうとしてもほどけない。
二つ目のタティングシャトルの最後の目がどうやらひつくり返らなかつたやうなんだな。

風の噂にかういふときはペンチを使ふといいといふ話も聞く。
生憎と現在手元にペンチがない。
はさみを入れる、だな。

Chinese Coin Bookmark は一度は成功してゐるのだから、そしてその一度しか成功してゐないのだが、できると思ふんだがなあ。
スプリットリングでどんどんモチーフをつなげていくといふのは、おもしろいと思ふのに。

仕方がないので、元々の目的に立ち返ることにする。
最初は、「タティングレースでしつかりした栞を作りたい」だつたのだ。
Chinese Coin Bookmark はその中から出てきた選択肢である。
別の選択肢もあつてしかるべきだ。
えうは「しつかりした栞」になればいい。

まだシャトルには糸が残つてゐるから、シャトルひとつでできるものでしつかりした栞を作ることにしやう。
シャトルが空になつたら新たに Chinese Coin Bookmark にチャレンジしたい。
といふのも、今使つてゐるシャトルはクロバーの鼈甲柄のシャトルなので、糸を巻くのもほどくのもチト手間がかかるからだ。

Chinese Coin Bookmark は、年内にはなんとか作りたいと思つてゐる。
年内。

もうそんな時期だねえ。

Monday, 11 November 2019

手編みの究極の姿とは

ひたすらメリヤス編みばかりしてゐると、ときどき編み地の中に思はぬ模様が浮かび上がる。
手がゆるんだりきつくなつたりするせゐで、編み目が不規則になるからだ。

編みなほした方がいいのかなあと思ひつつ、そのままにしてゐる。
広げて針を打ちスチームアイロンをかけたらなんとかなるんぢやあるまいかとも思ふし、こんなことを云つてはいけないのかもしれないけれど、そのままでもいいぢやあないかとも思ふ。

以前、「毛糸だま」の特集でデビー・ブリスがテスト・ニッターについて語つてゐたことがある。
コットンの糸できれいなメリヤス編みが編めること、といふやうな話だつた。
手編みといふと、人の手によるものならではの不揃ひな編み目や編み地がいはゆる「味」といふことで認められることもある。
しかし、デビー・ブリスの意見は異なるのらしい。
手編みならではのそろつたきれいな編み目編み地を追求する、といふやうなことを語つてゐた。

それだつたら機械で編んだものでもいいぢやあないか。
さういふ意見もあらう。
機械で編んだものと手で編んだものとは違ふ、といふのは、スピンハウス・ポンタで知つた。
手で編んだものの方がやはらかいし、糸もまた手で紡いだもので編んだ方がやはらかいのだといふ。

では目をそろへるためにきつきつに編んだらどうか。
三國万里子作品のやうに、ギッチギチのゲージで編めば、目はそろふだらう。
でもそれだと楽しくないんだよね、といふことは以前ここにも書いた。
Elizabeth Zimmermannも云つてゐる、さうやつてきつきつのゲージで編んだつて楽しくないだらう、と。
そこは人によるのだらう。
ギッチギチのゲージが楽しい人と、EZのやうに1号くらゐ編み針が違つたつて問題ないといふ人と。

デビー・ブリスはギッチギチ派でもないと思ふ。
以前作品を編んだときにそんなにきつい手で編んだ記憶はない。

いづれにせよ、普通に編んで目がそろふ。
それが手編みの究極の姿なのだらう。

残念ながら、その域には全然達してゐない。
こんなに段によつて目の大きさが変はつていいのか知らんと思ふくらゐだ。
なにしろ妙な模様が浮かび上がつてくるくらゐだからね。
前身頃になつてすこしマシになつてきてゐる気はする。
このまま編み続けたらすこしはまともに編めるやうになるのかな。

でも次に編む予定のものは縄編みや地模様の入つた作品なのだけれど。
メリヤス編みがきちんと編めるやうにならなければ、さういふ作品に取り組んぢやいけないかな。

Friday, 08 November 2019

ボヘミアン・ラプソディ発高砂屋経由山村聰行

去年の11/9、映画「ボヘミアン・ラプソディ」が封切られた。
当初、見に行くつもりはなかつた、とは以前書いたとほりだ。
そんなわけで、「ボヘミアン・ラプソディ」には封切りの日ではなく、翌日に行つた。

その日は昼間に国立劇場に行く予定があつた。
「名高大岡越前裁」を見に行つた。
記録を見ると、かなり気に入つたやうである。
なにしろ、中村梅玉の大岡越前がよかつた。
裃が似合ふんだよねえ、高砂屋。
配下のものにもものすごく尊敬されて愛されててさ。
「あー、わかるわー」とか思つてしまつた。

配下のものには坂東秀調、市川男女蔵、坂東彦三郎がゐて、市井のものに化けなきやいけないといふのでそれぞれ「すし屋」の権太、六段目の勘平、「菅原伝授手習鑑」の梅王丸・桜丸・松王丸をチャリ場で演じるといふ場面があつて、おもしろかつたりね。

山内伊賀亮の坂東彌十郎もよかつたんだよねえ。
彌十郎はややもするとせりふがちよつと弱いところがある。
口跡はいいし、声もとどくのだが、いまひとつ真に迫るところに欠けることがある。
それが伊賀亮はよかつたんだよなあ。

伊賀亮といふと、山村聰のイメージだ。
むかし、再放送で見た「大岡越前」で演じてゐたのだ。
大詰の捕物で、この番組にしてはめづらしく加藤剛演じる大岡越前が刀を手にしたりして(記憶違ひかもしれないが)、ものすごくもりあがつた回だつた。
ここの山村聰がよくてねえ。

山村聰といへば、「悪のインテリをぢさま」で、山形勲より出会ひがはやかつた。
佐藤慶の柳生烈堂といふのもゐるのだが、柳生烈堂は悪役ぢやないか。それに、萬屋錦之介の拝一刀もだいぶ悪役に見えたしな、こどものころは。

なんだらうね、山村聰のあのよさ。
につこり笑つた笑顔なんかはとてもいいのだが、悪なんだよ。
ものすごい悪なんだよ。
ステキだつたなー。

と、「ボヘミアン・ラプソディ」のことを考へてゐたはずなのにいつのまにか山村聰で頭がいつぱいなのは通常運行なのだつた。

Thursday, 07 November 2019

ボールペンと哲学

こどものころ、家にあるボールペンは大抵キャップがなくなつてゐて、まだインキがあるにも関はらず書けなくなつてゐるものが多かつた。

ボールペンとはいつしかキャップを失つてしまひまだ途中なのに書けなくなるもの。
この思ひ込みが覆るのは、受験勉強をしてゐたときのことだ。
勉強をするときにボールペンを使ふといいのだといふ。
なぜといつて、ボールペンのインキを使ひきると達成感があるからなのださう。

受験生といふことでそんなにお金もないから五本いくらとか十本いくらの廉価なボールペンを買つてきて、せつせと勉強をはじめた。
するとどうしたことだらう。
ちやんと、インキを使ひきることができるではないか。
一本だけではなかつた。
受験勉強の終はるまでに何本かボールペンを使ひきつた。

不思議だつた。
ボールペンとは、いつのまにかペン先が乾いて書けなくなつてしまふものではなかつたのか。

そして、あるとき気がつくのである。
父も母も、ボールペンを使つたあと、キャップをしないといふことに。

もちろん、することもあるのだが、よくよく見てゐると使ひ終はつたあとボールペンをそのまま筆立てなどに戻してしまふ。
キャップをするのを忘れるのか、それともキャップの存在自体を忘れてしまふのか、そこのところはよくわからないし、親に訊いたこともない。

ただ、両親そろつて、といふところが衝撃的だつた。
両親には似たところがほとんどない。
なのに、こんなところがそつくりだなんて。

以前、失礼ながらある人に訊いたことがある。
なんで結婚したのか、と。
その人と相手の方とはお互ひに似たところはほとんどなかつたやうに思ふ。
旦那さんは保守派で、奥さんは絵に描いたやうなリベラルだつた。
それでゐて、その時点でもう二十五年近くつれそつてゐた。
なぜ結婚したかの答へは、philosophy がおなじだからかな、だつた。

もしかするとそのご夫婦にもボールペンのキャップをしないで放置するやうな共通点があつたのかもしれないなあ。

Wednesday, 06 November 2019

ラグビー・カミングアウト・普及

ちかごろ「実はラグビーやつてたんですよ」といふ話をよく聞く。

これまで云はなかつた理由はなにか。
「ラグビーやつてたんですよ」と云つても、その場がもりあがつたりしないからか。
たぶん、さうだらう。
ラグビーといふ競技は知られてゐて、しかし、何人制でどういふルールの競技なのかといふことは、これまであまり知られてこなかつたんだと思ふ。

なにしろ、「こどもがラグビーはじめたの」といふ友人に「ラグビーかー。わかんないなー。後ろにしかパスしちやいけないとか、新日鐵釜石とか松尾雄治とか平尾誠二くらゐしか」と答へたら、「よく知つてるね」と云はれたくらゐだ。
スポーツニュースを見てゐれば耳に入つてくる名前を二、三云つただけで「よく知つてゐる」と云はれてしまふ。
さういふ状態だつたのだらう。

それがワールドカップのおかげでそしてそのワールドカップで日本代表が活躍したおかげで、ラグビーのことが広く知れ渡るやうになつた。
そこで、無意識の縁から「さうだ、自分はかつてラグビーをやつてゐたぢやあないか」といふ記憶が呼び覚まされて、「実はラグビーやつてたんですよ」といふカミング・アウトに結びつく。

あるいは、云ひたくても云へない、だつて「ラグビー? ふーん」で会話が終はつてしまふもの、とあきらめてゐた人が、天下晴れて「実はラグビーやつてたんですよ」と云へるやうになつたのか。
これもありうるな。

ところで「こどもがラグビーはじめたの」のこの「こども」は女の子だ。
最近はどうなの、と訊いたら、女子ラグビーはオリンピックへの出場を目指してゐて、それに適した子でないとつづけられないやうな状態なのだといふ。
それに適した、といふのは、ラグビーがうまくてやる気に燃えてゐる、といふことだ。
趣味でとか好きだからとかくらゐの気持ちではつづけられなくなつてしまつた、といふのである。

日本で野球がさかんでいい選手も多いのはなぜか。
裾野が広いからぢやあるまいか。
囲碁だつたか将棋だつたかちよつと忘れてしまつたが、素人には到底わからぬやうなすごい手を打ち指す名人が生まれるのは、囲碁や将棋を楽しむ無数の人々がゐるからだ、といふ。
へぼ碁を打ちへぼ将棋を指す無名の数多の人々がゐる、さういふ裾野の広さが名人を生む土壌になつてゐる。
さういふ話だつた。

それが本当なら、女子ラグビーの未来は決して明るくない。

せつかく注目が集まつてゐるといふのに、残念なことだ。

Tuesday, 05 November 2019

デジタル・ミニマリズムとタティングレース

しつかりとしたタティングレースの栞を作らうとここに書いて幾星霜。
昨日、やつとタティングシャトルに糸を巻いてみた。

作らうと思つてゐるのは Chinese Coin Bookmark だ。
以前、一度だけ作つてみたことがある。
ダルマの葵で二回モチーフをつなげたやうなかたちのものを作つた。
ダルマの葵は30番くらゐなのだらうか、レース糸にしては太いのだが、とても結びやすい糸だ。
リングをとぢるときに気持ちよく糸が引ける。
Chinese Coin Bookmark は形からして多少太い糸の方が見栄えがするかなと思つて葵にしたのだが、少々大きくなりすぎた。

それでその後40番の糸などで作りなほさうとしたことも何度かあるのだが、そのたびに失敗してゐる。
スプリットリングの目の分割を間違へるんだよなあ。

Chinese Coin Bookmark ではスプリットリングを用ゐて丸いモチーフを作る。
モチーフがひとつならそんなにむつかしくないのだが、モチーフを連続してつながうとすると、モチーフの最後のリングがちよつとむつかしい。

スプリットリングは、大抵の場合リングを作る目数の半分を一つ目のシャトル、もう半分を二つ目のシャトルを使つて作る。
Chinese Coin Bookmark ではリングによつては目の分割が3:1になることがあつて、そこを勘違ひするとモチーフを連続して作ることができなくなつてしまふのだつた。

うつかりしてゐると失敗する。
片手間にはできない。
さういふ栞なのだつた。

最近、Cal Newport の「Digital Minimalism」が翻訳されたらしく、たまに Twitter の TL に「デジタル・ミニマリズム」などといふ文字が流れてくる。
実践したいならなにか趣味を持つことだ。
読書・登山・釣り・観劇、なんでもいい。
趣味に没頭してゐたらスマートフォンなど触つてゐる暇はない。
あみものやタティングレースも同様だ。

さういふ意味では Chinese Coin Bookmark は「デジタル・ミニマリズム」に最適なのかもしれない。

Monday, 04 November 2019

後ろ身頃を編み終へる

Vest in Progress

ヴェストの後ろ身頃を編み終へた。
袖ぐりの減らし目は「いだてん」を見る前に終はらせて、あとはひたすら編んだ。
メリヤス編みと裏メリヤス編みなので、たまに飽きるがどんどん編めてはゐる。

 

後ろ身頃を編み終へて思ふことは、「脇のとぢがめんどくさいな」だ。
編む前に考へたんだよね。
編めるところは輪に編まうかなつて。
さうしたら脇のとぢがゐらなくなる。
モデルにしたヴェストは脇の部分がよく見えないが、おそらくとぢてゐることだらう。
そんなわけで身頃をわけて編むことにしたわけだが、あさはかだつたかもしれない。

 

せつかくきれいに編めてゐるのに(やつがれ比)、とぢで失敗したら目も当てられない。
時間をかけてとぢるしかあるまいなあ。

 

もうひとつ、モデルのヴェストはVネックの前中央をとぢてゐるやうに見えるといふ問題がある。
編む場合は大抵前中央で三目一度をする。その方がきれいに仕上がると思ふのだが。

 

うーん、まあそのときがきたら考へるか。

 

Friday, 01 November 2019

新作と旧作

昨日のエントリで、歌舞伎の新作をくさすやうなことを書いた。
「新たな試みをしなければ客は入らない」とも書いてはあるけれど、旧作支持の意見だ。

旧作を支持してゐるけれど、新作がなければこのまま歌舞伎は滅びるばかりだらう。
ゆゑに、新作も見に行く。
「阿弖流為」と「ワンピース」とは新橋演舞場でも見たし、大阪松竹座でも見た。
見る必要があると思つたし、見たいと思つたからだ。

でも、歌舞伎NEXTやスーパー歌舞伎およびスーパー歌舞伎IIを歌舞伎だとはあまり思つてゐない。
どちらかといふと、歌舞伎つぽい何かだと思つてゐる。

でも見る。
歌舞伎かどうかはどうでもよくて、おもしろければいいぢやない。
「阿弖流為」も「ワンピース」も、エンターテインメントとしてこんなにおもしろいものはさうざらにはない。

かういふ、歌舞伎かどうかわからないけれど、エンターテインメントとして優れた新作が増えれば、そのうちそれが歌舞伎といふことになつて後の世に伝へられるのぢやあるまいか。
現在自分が好きだと思つて見てゐるいはゆる古典の演目ももとはさうしたものであつたらう。

昨今の新作は、手の込んだものが多く、再演がむつかしさうなのが唯一の気がかりか。
それも技術の進歩などで解決することもあるのかもしれない。

新作をよしとする心と、旧作の方が好きといふ心とはまた違ふのだつた。
新作をよしとするのは理性、旧作が好きといふのは感情、かな。

感情がかつのは、仕方のないことだと思つてゐる。

10月の読書メーター

10月の読書メーター
読んだ本の数:10
読んだページ数:2454
ナイス数:29

The Case-Book of Sherlock Holmes (English Edition)The Case-Book of Sherlock Holmes (English Edition)感想
以前、「前書きがすべてな気もする」と書いたけれど、やはりそんな気がする。続けて読んでくると、なんかこう、パンチが足りない気がする。
読了日:10月03日 著者:Sir Arthur Conan Doyle
もう少し浄瑠璃を読もうもう少し浄瑠璃を読もう感想
文楽も見取り興行の増えたいま、もともとどういう話だったかを知るには読むしかないのかもしれない。文楽を見始めたころは通し上演が多くて、通しといいながら上演されない場面もありはしたけれど、これがよかったのかもしれないなあと思いつつ読んだ。現代風にアレンジされていくわけもわかったように思う。
読了日:10月04日 著者:橋本 治
歴史学で卒業論文を書くために歴史学で卒業論文を書くために感想
図書館通いをはじめるにあたり資料の調べ方などを知りたかったというのと、澤田昭夫の「論文の書き方」と比較してみたかったので読んでみた。
そういう目的があったはずなのに、端々に見られる学生への配慮が心に残る。それだけ丁寧に説明しないとダメということかもしれないけれど、なんとなく愛情を感じなくもない。
大学側としては一年生のうちから「卒論書くんですよ」と云った方がいいんじゃないかと思うのだが、云ってるのかな。
読了日:10月08日 著者:村上 紀夫
クイーンは何を歌っているのか? (CDジャーナルムック)クイーンは何を歌っているのか? (CDジャーナルムック)感想
文楽や歌舞伎にイヤホンガイドというものがある。舞台を見ている最中、イヤホンを通して適宜解説をしてくれるサーヴィスだ。とても役に立つ反面、「美しいですね」だとか「すばらしいですね」などと云われると、「それは押し付けられることじゃないよね。こちらがどう感じるかの問題で、ガイドに云われることじゃないよね」と思ってしまう。この本にもそういう点がしばしばある。著者のことをよく知っていれば「この著者はこういう判断をするのだ」とわかるのだが、不明にしてよく存じ上げない。そこだけちょっと残念だった。
読了日:10月13日 著者:朝日順子
橋本治歌舞伎画文集―かぶきのよう分からん橋本治歌舞伎画文集―かぶきのよう分からん感想
十三代目片岡仁左衛門が「吉田屋」の伊左衛門を演じたときの絵が二枚あって、七百貫目の借金を負いながら「総身が金ぢゃ」と平気で宣う若旦那のやはらかさ鷹揚さのよく出た絵だ。孝夫当時の現・仁左衛門の伊左衛門の絵もあって、見比べると二人の違いが面白い。絵を描くから役者それぞれの特徴がよくわかるという。昭和の終わりに「演劇界」に連載していた絵と文章をまとめた本で、繁く芝居通いをするようになったころよく読んでいた。読み直すと全然理解が及んでいなかったことがわかるが、それが果たして正しいのかどうかもチトわからない。
読了日:10月14日 著者:橋本治
論文の書き方 (講談社学術文庫)論文の書き方 (講談社学術文庫)感想
どことなく「いまこれを書かなければ」という危機感を感じる。実際に論文の書き方のわからない学生をいやというほど見てきたんだろう。参考文献にひとつひとつ「一部論文の書き方が出てくる」とか「翻訳がこなれていない」とか記してくれているのも丁寧で頭が下がる。ここから三森ゆりかの言語技術につながる部分もあるなあ。古代・近代・現代という時代の区切りかたには問題がある、という話など、論文の書き方以外にも参考になる点が多々ある。
読了日:10月15日 著者:澤田 昭夫
盟三五大切 時桔梗出世請状 (歌舞伎オン・ステージ (9))盟三五大切 時桔梗出世請状 (歌舞伎オン・ステージ (9))感想
「時桔梗出世請状」に関する十三世片岡仁左衛門の芸談がおもしろい。「盟三五大切」は1976年の時の台本を元にしているようだが特にそう明記してあるわけではない。「時桔梗出世請状」は現在上演される場のみ。注がとても細かく、「稽古」や「勘当」にもついている。また「大和町に行く」を小万を演じた坂東玉三郎の屋号にかけているという注があるが、初演は岩井粂三郎だったのだし最初からあったセリフなのではとか気になる点もある。いずれにしてもどちらも話がよくできていて、そりゃ面白いよな、といったところ。
読了日:10月22日 著者:
絵を見る技術 名画の構造を読み解く絵を見る技術 名画の構造を読み解く感想
片っ端から絵を見たくなる、そんな本だ。
三森ゆりかの言語技術の講義で絵の見方についても学んだ。何が描かれているかを分析的に見るという方法だ。この時に絵画も音楽もその良し悪しを分析的に評価することで他人と感想を分かち合うことができるという話も聞いた。この本は絵画を分析的に評価できるようになるよう導いてくれる。橋本治の浮世絵の説明で構造が三角形になっているとか台形になっているというのを読んで、絵を見るときに参考にしていたが、この本を読んでさらに理解が深まったと思う。
読了日:10月25日 著者:秋田麻早子
桃尻語訳 枕草子〈上〉 (河出文庫)桃尻語訳 枕草子〈上〉 (河出文庫)感想
著者による巻末の解説を読むと、「身の丈に合わせた」ってこのころからなのか、と暗澹とした心持ちになる。千年も前から、というのと、一体前回読んだときは何を読んでいたのか、というのと、両方に対して。註が細かく、イラストがあるのがいい。「昔はつまらない人間でもみんな、ホント、素敵に生きてたのねェ……」(P106)。つまらないかどうかはわからないが、こうして文章で読むと「実に」と思う。
読了日:10月28日 著者:橋本 治
論証のルールブック [第5版] (ちくま学芸文庫)論証のルールブック [第5版] (ちくま学芸文庫)感想
簡潔でわかりやすく、ついさらっと読んでしまいがちで自らの手綱を引き締めながら読む。しかし、だ。これって日々「これは証拠になるな」と鵜の目鷹の目で生きなきゃってことなのだろうか。それはちょっとつらいな。多少、あやふやでもいいじゃん、と思うのだが、人は他人には厳しいからな。ディベートでは相手を云い負かすのではなく、相手の主張に耳を傾けること、というくだりがいい。どちらが正しいかを争うものではないということだろう。論理関連の書籍にはシャーロック・ホームズがつきものなんだな。
読了日:10月30日 著者:アンソニー ウェストン

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