雨の沼津 雪の岡崎
橋本治が「源氏物語」について書いてゐたことに、紫式部には漢籍の教養があつたから、対句的な書き方をしてゐる場面がある、といふことがある。
対句といふと、たとへば杜甫の「登楼」の三句めは「錦江春色来天地」で四句めが「玉塁浮雲変古今」となつてゐて、錦江と玉塁、春色と浮雲、来と変、天地と古今とがそれぞれ対になつてゐて、句全体もまた対になつてゐる。
橋本治は、「源氏物語」の夕顔の家と六条御息所の住まひとの描写が対になつてゐる、と書いてゐたと記憶する。
かたや夕暮れどき、かたや明るい日の下で、花といつて夕顔がひつそりと咲いてゐるだけといつた家と、見事に手入れされた庭をもつ屋敷とで、それぞれ話が進んでいく。
さうやつて見ると、浄瑠璃なども対句の関係になつてゐるものがある。
「仮名手本忠臣蔵」の判官と勘平との切腹が対になつてゐる。
判官は家臣と検分役とに見守られて立派な広間で腹を切る。
勘平は鄙の住まひで義母と二人の浪士とのゐる中で腹を切る。
判官からは由良之助が、勘平からは数右衛門がそれぞれ本心を聞き出す。
「仮名手本忠臣蔵」は義太夫狂言にしてはめづらしくモドリのない作品で、ゆゑに判官と勘平とが入れ替はつてゐるのではないか、といふ見方をされることがある。
「伊賀越道中双六」の沼津と岡崎とも対になつてゐるんぢやあるまいか。
雨の沼津と雪の岡崎。
かたやみづからの命を犠牲にして敵の在処を知らうとする老人と、みづからの幼子を犠牲にして秘密を守らうとする主人公。
かたや隠してゐるわけではなく互ひに親子と知らぬ仲。かたやみづからの正体を隠し偽名を名乗る弟子。
一番わかりやすいのは「伽羅先代萩」だらうか。
「竹の間」と「対決」、「御殿」と「刃傷」とがそれぞれ対になつてゐる。
女ばかり(若君・千松・忍びは男だけど)の「竹の間」と「御殿」と、男ばかりの「対決」と「刃傷」。
「竹の間」では政岡が詮議され、「対決」では仁木弾正らと渡辺外記左衛門らとがお白州で取り調べに合ふ。「竹の間」の裁き役は沖の井、「対決」は細川勝元だ。
「御殿」では幼い千松が命を落とし、八汐が成敗され、「刃傷」では年老いた外記が瀕死の重態となり、弾正が退治される。
この対の関係を見るには、通し上演を待つしかない。
「仮名手本忠臣蔵」はそれでも比較的通し上演があるからいいとして、「伊賀越道中双六」の岡崎なんて滅多にかからないし。
人気のある段だけ上演する、といふのにも意味はあると思つてゐる。
あまり上演されない段や演目を見る機会があると、なるほど、これは確かにおもしろくないよな、と思ふこともある。
その一方で、「ああ、これはかういふ話だつたのか!」と目の覚める思ひのすることもある。
客の入りを考へるとこれまで上演回数の少なかつた演目をかけるのはむつかしいかもしれない。
でも見てみたいとも思ふのであつた。
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