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Thursday, 31 October 2019

迷走狂言立て

最近の歌舞伎は、大手出版社のやうだなと思ふことがある。
売れなくても古典や名著と呼ばれる本を出版しつづける一方で、泡沫のやうな売れ筋の本も刷つてゐる。
売れる本のおかげで古典や名著がなんとか生き延びてゐる。
そんな感じだ。

新たな試みをしなければ客は入らない。
なにか派手な仕掛けをしないと客は喜ばない。
そのとほりだらう。
明治以降、どこかの時点で確立された見取り狂言の形式である「一幕目は時代物、中幕、二幕目は世話物」といふ江戸歌舞伎の流れを汲む狂言立てはもう通用しない。

この狂言立てにはいい点がいくつかあつて、そのうち一番いいなと思つてゐるのが、「昼の一幕目の時代物と夜の二幕目の世話物は若手で、昼の二幕目の世話物と夜の一幕目の時代物は幹部で見られる」といふことだ。
客は時分の花の舞台と円熟の舞台と、両方を楽しむことができる。
見る方にとつてもよければ、演じる方にだつていいはずだ。
若い役者に活躍の場があるといふことだからだ。
おそらく、この狂言立てが定着したのは、さういふ利点があつたからなのではないかと思つてゐる。

昨今は、実験をしてゐるのかもしれないが、かういふ狂言立てがくづれてきてしまつた。
もうこれでは客が入らない。
さういふことなのかもしれない。

若手の活躍の場といつて、一月の浅草公会堂はつづいてゐて、それぞれが勉強会を開いたりしてもゐる。
八月歌舞伎座の納涼歌舞伎が当初の役割を失つてしまつたことは惜しまれる。

でもさう思つてゐるのは自分だけで、大勢はいまの納涼歌舞伎の方がいいし、昔人気があつただけのつまらない(かどうかは人によるとは思へども)演目などはかからなくなつてもいいといふ向きなのかもしれない。

今月は歌舞伎を見てゐない。

連休に御園座と歌舞伎座とに行く予定だつたのだが、台風十九号のせゐで行けなかつた。
御園座は上演はしたといふが、新幹線が運転見合せでは如何ともし難い。

これを機会に段々見なくなるのだらうか。

さて。

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Wednesday, 30 October 2019

きちがひぢやが仕方がない

あひかはらず手ぬぐひを使つてゐる。
だが、以前はその時々に合はせた手ぬぐひを持つことが多かつたのに、それをほとんどしなくなつてしまつた。

手ぬぐひの楽しみといつて、季節の柄を使ふとか、播磨屋を見に行くなら播磨屋格子、音羽屋を見に行くなら斧琴菊、季節に関わらず道成寺なら桜、藤娘なら藤棚、すし屋なら山道と、その時に応じた柄を持つといふのがある。
さう思ふから、桜の花が散り始めると楽しみで仕方がない。
桜の花が終はると、紫の色の花の季節がやつてくるからだ。
藤にはじまつて菖蒲、杜若、紫陽花、朝顔、桔梗と紫色の花がつづく。
また好きな柄ばかりだ。
#さういふ柄を買つたからだけど。

それが今年はあまり季節に関わらない柄を持つことが多い。
ここのところ、手ぬぐひの入れ替へをしてないことに気がついた。
それで季節柄をあまり使つてゐないことにも気づいたのだつた。

例年だと十月一日からハロウィン柄を使ひはじめるのだが、今年はまだ一度も使つてゐない。
といふわけで、今日はハロウィン柄の手ぬぐひを持つてきた。
明日もハロウィン柄にするつもりだ。

ハロウィン柄も好きな柄が多くて、十月は菊の柄も持ちたいところなのだが、つひハロウィン柄にしてしまふ。
去年まではさうだつた。

ハロウィン柄に関していふと、なんだか持ち歩く気にならなかつたから、といふのが大きい。
まづ、秋めかない。
気温は下がつてきたし、湿度も低くなつてはきた。
だが、秋、それも自分の知る十月らしくない。
十月つてもつと涼しくて乾燥してると思ふんだよね。
だつて衣替への季節ですよ。
制服も冬服に切り替はる時期だ。
この気温この湿度ぢや冬服はちよつとどうよ、といふ日が多くはあるまいか。
気温は低くても湿度が高かつたりね。

あと、そんな気分にならないといふこともある。
世の中、ハロウィンとかいつてゐる場合ぢやないだらう。
だからこそ敢へてハロウィン柄、とも考へないでもない。
でも、どうもさういふ気分になれない。
今朝ハロウィン柄の手ぬぐひを出してきて、「ああ、やはりいいな、好きな柄だな」と思ふ一方で、「そんな、浮かれてゐちやいけないんぢやあるまいか」と思つてしまふ。

日本には四季があるといふけれど、ここ数年、夏と冬とその中間くらゐしかない気がしてゐる。
あるいは乾期と雨期か。

手ぬぐひも「かつてはいまくらゐの時期に梅が咲いたんですよ」とか云ひ訳しながら使ふやうになるのかもしれないな。

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Tuesday, 29 October 2019

下手の考へ休むに似たり

タティングレースでしつかりした栞を作りたい、と、先日書いた。
その後、着手してゐない。

タティングレースの栞は、あみものやタティングレースの本にはさんで使つてゐた。
作つてゐる作品の作り方が載つてゐるページや、作品の写真の載つてゐるページにはさむとこれがなかなかよい。
かうして使つてゐる分には、栞がやはらかいことも気にならなかつた。
どうやら読む本だと栞のやはらかさが気になるらしい。

使用する糸にもよるのかもしれない。
最近は Lisbeth #40 で作ることが多いが、もつと太い糸あるいはもつと細い糸で作つた方がいいのではないか、とか。
おなじ糸でも色によつて違ふのではないか、とか。

栞ひとつとつても、どうしたら使ひやすいのか、どうしたら使ひやすく作れるのか、など、考へることがいくつも出てくる。

そんなわけで、なかなか着手できずにゐるのだつた。

考へるより、試しに作つてみた方が早いのにね。

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Monday, 28 October 2019

定番

Starting knitting a vest

10/26(土)、ヴェストを編みはじめた。

編み方は、手持ちのヴェストの編み図・編み方を参考にして、自分のゲージから段数・目数を割り出した。
Vネックの部分だけちよつと不安なので、参考にした編み図・編み方のいづれかをそのまま用ゐるつもりだ。
Vネックは過去に編んだことがあるけれど、いつもちよつとゆるくなつてしまつてゐた。
よれたやうな感じになつちやふんだよね。
針を細くしてみるか、それともちよつときつめに編んでみるか。
後ろ身頃を編みながらそんなことを考へてゐる。

毛糸はパピーのシェットランドにした。
今回のヴェストは色ありきだつた。
深紫の毛糸で、シェットランドかクイーンアニーがいいなと思つてゐた。
クイーンアニーの方にちよつと青みのかつた深紫の毛糸があつて、そちらの方が色としては好みに近い。
でも今回はモデルがあるのでなあ。
それにシェットランドの方が少し細くて求めてゐるヴェストには向いてゐる気がした。

候補がどちらもパピーの糸なのは偶然で、クイーンアニーもシェットランドも廃番にはなつてゐないだらうと思つたからだ。
パピーでいふと、ブリティッシュエロイカやプリンセスアニーはあるだらうと思つてゐる。
ほかの毛糸はいつなくなるかわからない。
もうなくなつてゐるかもしれない。
ゆゑに、編み図や編み方なしに編む場合で、いはゆるふつうの糸(ストレートヤーンといふかもしれない)を使ふ場合は、上に上げた毛糸から選ぶことが多い。
定番といふことは重要なことだ。

いま編んでゐるヴェストもヴェストとしては定番の形だ。
好みでいふと前開きの方が好きなのだが、今回はモデルがあるのでなあ。

前開きのヴェストはまたあらためて編むつもりでゐる。

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Friday, 25 October 2019

懐古趣味

先日、「橋本治歌舞伎画文集〈かぶきのよう分からん〉」を久しぶりに読み直した。

「画文集」の名のとほり、橋本治の描いた役者絵や昭和の終はるころ「演劇界」に連載してゐた画文とを編んだ本で、1992年に出版された。

過去ばかりふり返つてゐる自分が、「やつぱりアクチュアルなものを見聞きしなきや」と思つてここ数年はやつてきた。
一月の浅草公会堂にも行くしな。
一月の浅草公会堂は演目の並びがとても歌舞伎らしくていいといふのもあるからね。

それで、橋本治の著書からも遠ざかつてゐた。
歌舞伎に関していふと、橋本治の影響が甚だ大きいからだ。
一番歌舞伎にはまつてゐたころ、否、はまりはじめたころに読んだのが橋本治の歌舞伎や江戸に関する本だからだ。
この「かぶきのよう分からん」もその中の一冊だ。

もともと、橋本治はあまり好きではなかつた。
高校生のとき、中学時代の友人が「桃尻娘」を勧めてきて、読んでみてなんとなくイヤな気分になつたからだ。
「桃尻娘」はよかつた。
「その後の仁義なき桃尻娘」とかだつたかなあ、なんとなくイヤな感じを覚えたのは。
人間の、すごく意地汚い部分を描いてゐる。
勧めてくれた友人にさう伝へると、「だつて世の中、さういふものでせう」といふやうな答へが返つてきた。
友人の方がずつと大人だつた。

さう云はれて、イヤなものはイヤだけれども、つづけて読んでいくうちに、「桃尻娘」以外の著書を読むこともあつた。
「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」とかね。
「ロバート本」と「デビッド百コラム」とか。

そのうち芝居見物をするやうになつて、橋本治のさういふ本を読むやうになつて、「広告批評」なんかも読んだりした。そのおかげで中村歌右衛門と淀川長治との対談も読めたんだからありがたい。

橋本治の歌舞伎や江戸に関する本をたまに読み返すと、まつたくその域から外に出られてゐないことを思ひ知る。
域を出るどころか、ほとんど理解できてゐないのだが、でも読むたびに「さうだよなあ」「さうなんだよなあ」「なんでほかの人はかういふことを云はないんだらう」と思つてしまふ。

「かぶきのよう分からん」もさうだ。

「演劇界」の連載のときに描かれた絵を見ると、その当時のことを描いた絵が案外少ないことに気づく。
なにしろ九代目市川團十郎の「鷺娘」なんか描いてゐるしね。
初代中村吉右衛門の幡随長兵衛も描いてゐる。
おそらく当時のものだらうなと思ふのは尾上梅幸のお軽と坂東玉三郎のマルグリットくらゐぢやあるまいか。
尾上菊五郎の虎蔵はたぶん若い頃、もしかすると菊之助時代に演じたものを描いたのではないかといふ気がするし、八代目坂東三津五郎や三代目市川左團次、守田勘弥などあのころもうあの世の人だつた役者も多い。

文章の方は当時のことを書いてゐるといへるけれども、絵と文章とがセットだから、三津五郎はインテリだから公家悪がよかつたとか、左團次の求女に歌右衛門のお三輪、先代中村芝翫の橘姫の道行きがよくてよくて、といふ話が出てくる。
九代目團十郎の絵には九代目團十郎に関する話がついてくる。

それを読んでゐると、「昔の話をしてもいいんだな」と思へてくるのだつた。
もういつそ、過去に見た記憶の中の芝居や役者のことだけ考へていかうかな、とかね。

アクチュアルなものを見聞きしなけりやと人は云ふ。
橋本治もアクチュアルなものを見聞きしての「かぶきのよう分からん」だつたのだらうと思ふ。

わかつてはゐても、古いものはなにもなにも懐かしいのだつた。

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Thursday, 24 October 2019

限定品という呪文

ぺんてるプラマンの40周年限定色を買ひ足してしまつた。
買はないとすでに持つてゐる限定色を使はないと思つたからだ。

プラマンの限定色は、バーガンディ、ブルーブラック、オリーブグリーン、ダークグレイ、ターコイズブルー、セピアの六色だ。
いづれもいい色で、使へる色ばかりだ。
いまはダークグレイをペンジャケットに入れて使つてゐる。
とても書き心地がいい。
でもなぜだかあまり使ふ気にならない。
だつて、使ひ切つたら、もうおなじものは手に入らないでせう。

とくに使ひ勝手のよいブルーブラック、普段手帳によく使ふ色に近いバーガンディやオリーブグリーン、六色の中ではひとつだけ明るい色合ひのターコイズブルーは、もつたいなくて使へない。

使はずにただとつておくだけの方がもつたいない。
もつともだと思ふ。
でも、理性では割り切れないものがあるんだなあ、残念ながら。

そんなわけで、バーガンディ・ブルーブラック・オリーブグリーンの三色セットとターコイズブルーを買ひ足してしまつた。
だつて店頭に並んでゐたんだもの。
買ふでせう、さうしたら。

買つたからには、先に買つたペンをがんがん使ふ……といきたいところだが、「限定色」といふ呪文が強すぎて、なー。

もう「限定」なものは買はないことにするしかないか。

と、心にもないことを書いておく。

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Wednesday, 23 October 2019

Double, Double, Toil and Scrabble

iPhoneのアプリケーションのWord Masterを再開した。
Word MasterはScrabbleのやうなゲームだ。

Scrabbleはボードゲームだ。
プレイヤはアルファベットを一文字一文字書いたタイルを七つ持つ。どの文字が来るかは来てみないとわからない。
碁盤目状のボードの上に単語になるやうタイルを置いていく。
語彙力がある方が有利なのはもちろんだが、文字には使用頻度によつて点がつけられてゐて、さらにはボード上には文字のタイルを置くと得点を二倍や三倍にするマスがいくつかあり、ボードゲームとしての性質もある。
語彙力試しとボードゲームとしての先読みと運の性質とを持つたおもしろいゲームだと思ふ。

ここのところiPhone相手に勝てるやうになつてきた。
Easyモードで、といふところが情けないが事実である。

遊んでゐると、EasyモードとはいへiPhoneの語彙力の方が圧倒的に上だ。
こんな単語、自分には思ひつかないよ、といふやうな単語をいくつもくり出してくる。
それでゐて負けずにゐられるのは、先にも書いたボードゲームとしての性質があるからだ。

iPhoneも得点の高くなるマスには得点の低い文字しか置けないやうに文字を置く傾向がある。
だが、Easyモードだからだらう、そんなに手強くはない。
こちらは足りない語彙力を補ふために得点の高くなるマスにできるだけ点の高い文字を置くことに腐心する。
結果、際どいところで勝てる、といふ寸法だ。

本来は、先のことも見据ゑて単語を作るべきなんだらうが、そこまでには至つてゐない。
その前に語彙力をなんとかしろよ、といふ話だ。

Scrabbleには以前から興味があつた。
ただ語彙力がないので遊べないと思つてゐた。
去年、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見てゐたら劇中Scrabbleに興じるやうすが出てきた。
それでWord Masterを落としてきた。
遊ばなくなつたのは、電池の消耗が激しかつたからだ。
Word Masterに限らず、ゲームアプリケーションはどうも電気を使ふやうに思ふ。

Scrabbleはそれなりに時間のかかるゲームだし、外で遊ぶのには適してゐない。
さう判断して、最近自宅に置きつぱなしにしてゐるiPad miniにWord Masterを入れてみた。

つひつひ遊んでしまつてよくない。
英語の語彙力のためといふ名目もあるから云ひ訳もできるからさらによくない。

よくないとわかつてゐて遊んでしまふのがゲームといふものなのだらう。

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Tuesday, 22 October 2019

終はりが見えない

ほぼ真四角のタティングレースのモチーフの角同士をつないてゐる。

藤戸禎子の「タティングレース モチーフ&エジング101」に掲載されてゐるモチーフを使つてゐる。
復刻版の表紙のモチーフではなく、もうひとつのタティングシャトルひとつでできるモチーフだ。
シャトルは GR8 Tatting Shuttle を使つてゐて、かういふシャトルひとつだけで作れるモチーフとすこぶる相性がいい。

隅同士をつなぐと、五つつないだところで九マスの正方形ができる。対角線上に四角いモチーフが並ぶ感じだ。
本ではそこでとまつてゐるのだが、もう四つつなげてみた。
あと一つつなぐと、角が縦になるやうにおいた四角形が三つ重なつたやうな形になる。
そこで終はりにしやうかなと思つてゐる。

モチーフつなぎには際限といふものがない。
つながうと思へばいくつもつなげていける。
糸があるだけ延々つなぐこともできる。
モチーフつなぎの作品があつて、そのとほりに作るのならいいのだが、なんとなくつないでゐるといつまでも終はらない。

以前、タティングレースのモチーフをつないでスカーフを作つたことがあつたが、このときは百枚つなげると決めてゐた。
百枚もつなげばそれなりの長さになるだらうと思つたからだ。
実際はその手前で求めてゐた長さになつたのでそこでやめた。

今回のモチーフつなぎは、なんとはなしにはじめて、なんとはなしにつないでゐた。
ゆゑにいつまでたつても終はりが見えない。
先週も書いたやうにしつかりした栞も作りたいし、とりあへずはこんなところでやめておくつもりだ。

もともとはスカーフやショールにするモチーフをさがしてゐたのだが、このつなぎ方だとスカーフやショールには適してゐない気がする。

つなぎ方をかへればいけるかもしれない。試してみないと、かな。

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Monday, 21 October 2019

計算できない

パピーのシェットランドで編まうと思つてゐるヴェストになかなか手をつけられずにゐる。

まづ、どう編めばいいかわからないからだ。
本などを見て「これが編みたい」といつて編み始めるわけではないからだ。
かういふ形のヴェストを編むといふことは決まつてゐて、目数・段数は自分で割り出す必要がある。

つねづねそれをしやうと思つてゐるのだが、なかなかできない。
めんどくさいからだ。
また、やらうと思ふとすでに夜遅く、頭がぼーつとしてきて計算できない状態になつてゐる。

なにもないところからは割り出せないので、似たやうな形のヴェストを本やWebで探して「これをもとにしやう」といふのは決めてある。
あとはゲージをもとに計算するだけなのだが、それができない。
Vネックにするので、そこの工夫も必要だ。

編む気、ないのかなあ。

ゲージをとつたのが一ヶ月前。

ゲージをとるところからやりなほすか。

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Friday, 18 October 2019

プレッシャーと創造性

創造的であるには (How to be creative)、ゆつたりした気分でゐること、とよくいはれる。
ジュリア・キャメロンが「The Artist's Way」でさう書いてゐるし、ジョン・クリーズも「Professor at Large」の中で何度もさういふ話をしてゐる。

ジョン・クリーズは、人の脳にはウサギ脳とカメ脳とがあるといふ。
ウサギとカメとはイソップ寓話にあるあの話の両名のことだ。
ウサギ脳はとにかく早く速くと効率を求める脳。
カメ脳はみづからの心の赴くままにあれこれ考へ行動してみる脳。

創造的であるには、カメ脳を優先する。
だが、カメ脳はウサギ脳に負けがちだ。
なぜならウサギ脳は「プレッシャー」といふ強い力を持つてゐるからだ。

つまり、プレッシャーやそれによるストレスにさらされてゐるときは創造性を発揮できないといふことだ。

さはさりながら、とも思ふ。
たとえば、〆切に追はれてゐるときの方があれこれ思ひついたりすることはないか、とかね。
柴田錬三郎が書いてゐた。
毎週「週刊新潮」に連載してゐた眠狂四郎について、〆切がせまつてゐるのにどうしても書けない。
これはおそらく〆切といふプレッシャーによつて創造的ではゐられない状態だからだらう。

だが、ふとした瞬間にひらめくものがあつて、それでなんとか連載一回分を書くことができる。
これはどう説明したらよからうか。
〆切によるプレッシャーはいよいよ強くなつてゐるはずだ。
しかし、ここで柴錬はひらめくのである。

作り話?
さういふ可能性もないではない。
創造的であるかどうかとはチト違ふが、やつがれもまた、似たやうな経験をしたことがある。
本番検証中に障害が発生して、原因をつきとめねばといふときに、ふと「原因はあそこだ!」とひらめくのだ。
なぜ本番にのせる前に気がつかなかつたのかと思ふが、とにかく突然ひらめく。
そして、そのひらめきは正しい。

どうやら人は過度のプレッシャーにさらされたときにも創造的になることがあるのではないか。
そんな気がする。

「過度のプレッシャーにさらされたときの創造性」に関してもちよつと探つてみることにするか。

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Thursday, 17 October 2019

中央図書館に行く

先日、久しぶりに市の中央図書館に行つた。
書庫にある本を出してもらふことになつたので、出てくるまで館内をうろうろしてみた。

奥にいくと、こども向けの本のコーナーがあつた。
中に、さまざまな言語の絵本や物語の本を並べた棚があつた。
この本棚にかなりのスペースがさかれてゐる。
最寄りの図書館にも英語で書かれた本はある。
ここには英語はもちろん、中国語や韓国語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ポルトガル語、その他、数多の言語で書かれた本があるのだつた。
ぱつと見たところ、ドイツ語の本が思つたより多い感じがした。童話とかが多いからなのかな。
ロシア語の絵本も面陳されてゐたし、原語とおぼしきミッフィーの絵本もあつた。

今年見た映画でいまのところ一番おもしろかつたのは「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」だ。
映画の中では、ニューヨーク公共図書館にはあたりまへに中国語やスペイン語によるサーヴィスがあつて、英語が話せなくても全然問題なささうだつた。
さういへば大英博物館に行つたときも、チケット売り場に日本語で案内をしてくれる人がゐた。普通に日本の博物館で訊きたいことを質問してから買ふやうに買ふことができた。

市の中央図書館で、さうしたサーヴィスが受けられるのかどうかはわからない。
英語とか中国語、韓国語なら土地柄話せる人はゐさうな気はする。でも確かめてはゐない。
ただ少なくとも、図書館に行けば本を読むことはできる。
インターネットにアクセスすることはできないが、印刷物からの情報を得ることはできるだらう。

「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」では、トニ・モリスンのことばとして「Libraries are the pillars of our democracy.」といふことばが登場する。
情報を自由に得ることができる場所といふ意味で、そして誰にでも開かれてゐる場であるといふ意味で、最寄りの図書館も含めて、図書館は民主主義の柱なのだらう。

古い本の匂ひを吸ひつつ、なぜだか新鮮な空気に包まれてゐるやうな気分になつた。

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Wednesday, 16 October 2019

「推し」がゐない

先週、ジョン・レノンの誕生日に思ひ出したことがある。
中学生のときに知り合つた友人が云つたことばだ。

「私はジョンが好きだけど、Nちやんはポールだよね」

さう云はれて、「自分はポール・マッカートニーが好きだつたのか!」と蒙を啓かれる思ひがし、同時に「はたしてほんたうにさうだらうか」といふ気持ちになつた。

ビートルズの中で誰が好きかとか、それまで考へたことがなかつたことにも遅まきながら気がついた。

ビートルズを聞くやうになつたのは小学四年生の時のことだ。
当時は周囲に「ビートルズ、いいよねえ」と語り合へる相手もなく、ただただラジオから流れてくる歌を聞くばかりだつた。
母は「レコードなんて買つてもすぐに聞かなくなるから」といふし、小学生ではなかなかレコードなんて買へなかつたといふこともあるのだが、あのころなぜかFM局でビートルズ特集を組むことが多く、ラジオを聞くだけでほぼすべての歌を聞くことができたのだつた。

中学の時に出会つたジョン・レノンが好きな友人が、ビートルズについて「いいよねえ」と語れるはじめての相手だつた。

今風に云ふと、「推しがゐなかつた」といふことになるだらうか。
友人に「ポールが好きだよね」と云はれてはじめて「だつて四人でビートルズだし」と思ふやうになつた。
かといつて「箱推し」といふのともまた違ふ。
ビートルズ好きだけど、別に推しはしないんだよなあ。
強いて云へば、「この歌いいから聞いてよ」と思ふ歌はあるが、でもそれもしたことないなあ。

だいたい、ビートルズのメンバーの生ひ立ちだとか為人とか、気にならないしね。
どうでもいいぢやん、そんなこと。
最近(え、以前から? こりやまた失礼しました)立川志らくがめうちきりんなことを云つてあちこちから非難されてゐるが、それと志らくの落語とは関係ない。
高座は高座。
めうちきりんな発言はめうちきりんな発言。
さういふものだと思つてゐる。

さう考へると一事が万事そんな感じで、自分の好きな芸能人の好きな食べ物は何でどんな服をよく着て犬派だとか猫派だとか、そんなことはどうでもいいのだつた。
#天本英世のガラムだけはちよつと別かも。

「推し」といふことばが一般的になつてきて、よくよく考へてみると自分には「推し」と呼べる対象がないことに気づく。
世の中、「推し」がゐた方が楽しさうだ。
生きる張り合ひにもなりさうだし。
で、自分にはゐないだらうかと考へたところ、どうもゐさうにないし、これまでもゐた試しがなかつたやうに思ふ。

それつてたぶん、好きだなあと思ふ芸能人やその他の存在の為人にあまり興味がない、あつてもまづ欠点から探してしまふ傾向があるからなんだらうな。
推せないのだ。
「こんなにすばらしいんですよ」と世界に云つて回れない。
だつてこんなダメなところもあんな人間としてどーよと思はれるやうな欠点もあるんだもの。

それでも好きなら「推し」と呼べるのだらうか。

推さなきやダメか。

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Tuesday, 15 October 2019

新たな口実

タティングレースの栞を使ひはじめた。

普段、タティングレースの栞はあまり使はない。
使ふときは、あみものやタティングレースの本に使ふ。
写真のページと作り方のページとに栞をはさんでどちらも即開けるやうにする。

この使ひ方でいままで不満を感じたことはなかつたのだが、今回はちよつと不満だ。
栞がやはらかすぎるのである。

栞はもうちよつとかつちり作らないとダメかな。
いつもの調子で結んでゐてはいけないのかもしれない。
のりをつけるといふ手もあるが、さうするとかびが生えるといふ話も聞く。
本にはさんだ状態でかびが生えたら目も当てられないものなあ。

といふわけで、新たに栞を作る口実が増えてしまつた。

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Monday, 14 October 2019

このまま春になりさうな

この秋冬はまづヴェストを編む予定でゐる。
そこでゲージをとつたはいいが、ずいぶん時間がたつてしまつた。
もう一度とりなほすかなあ。

と思つてゐるあひだに一週間くらゐたつてしまふ。
編み方や編み図があるわけではないので、自分で必要な段数・目数・袖ぐりや襟ぐりの減目具合を割り出さないといけないしな。
そこが面倒で進んでゐないといふ話もある。

夕べは突然冷えたので、この前編んだ Dane Shawl を羽織つてみた。
うーん、そんなにあたたかくないかも?
化繊混だから仕方がないかな。
洗濯機でがしがし洗へるからずいぶん使ふだらうと思つてはゐるけれど、どうかなあ。
まあ、いつでもものすごくあたたかくないとダメといふことはないので、さういふときにはいいかもしれない。

化繊混でもローワンのフェルテッドツイードはあたたかい。
パピーのシェットランドでヴェストを編んだら、フェルテッドツイードでも別のヴェストを編むつもりだ。
その前に灰色のカーディガンかなあ。
灰色のカーディガンも自分で段数・目数等を割り出す必要があつて、ヴェストよりむつかしいと考へてゐる。

考へてばかりゐると、春が来てしまふな。

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Friday, 11 October 2019

それでも文語を使ひたいか

文語と口語とを混ぜて使ふのつて、どうなんだらう。
ときどき考へる。

ビジネス文書は口語で書くこと、といふきまりがある。
旧文部省の「公用文の書き方 資料集」に「文語脈の表現はなるべくやめて、平明なものとする」とあるし、その付録には「なるべくわかりやすい自然な口語文を用いること」とあるので、それを受けてのことだらう。

ところで、やつがれは文語文については口語文でのそれに同等する教育を受けてゐないと思つてゐる。
口語文ではかうしてからうじて文章を書くことができるが、文語文ではできない。
必然的にビジネス文書も口語で書くことになる。

はずなのだが。
どうなんでせうね、実際のところ。

世の中にはいはゆる「文語脈の表現」があちこちにある。
たとへば、千野帽子の指摘する少年まんがのせりふとか。
「出よ、ナントカのカントカたる大魔王の僕なるナニガシよ!」みたやうなせりふね。
口語文なら「出ろ、ナントカのカントカな大魔王の僕のナニガシよ!」になるのだらうか。

それは呪文だから文語文でもいい、といふ話もあるか。
でも、文語文を使ひたいのだつたら全編それで通さないと気持ち悪くないだらうか。
気持ち悪くないんだらうな、たぶん。

ビジネス文書にも文語脈の表現はいくつもあるしね。
ここにも以前書いたやうに、人は気取つて書かうとすると文語脈の表現を使ひたくなるんだと思ふ。
文語脈の表現の方が正式に見える、とかね。
正式なのは旧文部省の資料にあるとほり現代口語文なのだらうが、人はさうは思はない。

で、やつがれのやうに文語文の教養の足りないものが、口語文と文語文の入り交ぢつたやうな(やつがれにとつて)気持ちの悪い文章を書いてしまふのだらうと思ふのだ。

もちろん、「ずつと口語文で書いてきたけど、ここはあへて文語脈の表現で書きたい」といふこともある。
人一倍気取り屋だつたりするやつがれにはある。
他の人のことは知らないけれど。

でもさういふときに教養のなさが邪魔をするんだよなあ。
なので、ビジネス文書など公の文書にはできるだけ「これは口語文のはず」と思ふ表現を使ふやうにしてゐる。
blogやTwitterはその限りではないけれどね。

といふやうなことをクイーンの「Teo Torriatte」を聞きながら考へてゐた。
歌の歌詞だから曲にあはせて口語文と文語文とが入り乱れるのは仕方がないと思ふけど、出だしはせめて「手をとりあひてそのままゆかむ」とかだつたらよかつたのになあと思はずにはゐられない。

あるいは文語脈の表現を全部口語にしておくとかね。

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Thursday, 10 October 2019

ちやんとした人間になりたいか

先日、健康診断のときのことだ。
順番待ちで込み合つてゐて、それでもやつと空いてゐる席を見つけたので座らうとしたときのことである。
向かひ側から人がやつてきた。
こつちの方がいすに近いし、おそらくやつがれの背後にある受付の方に行きたいのだらう。
さう思つて道を譲つたら、その人はいすに座つてしまつた。
おなじ職場にゐる、顔は知つてゐるが一緒に働いたことはない人だ。
以前から傍若無人なところのある人だとは思つてゐた。

その一方で、人間、この人のやうに生きてゐた方が楽なのではないか、とも思つた。
やつがれのやうに、向かひから人がやつてきたから道を譲るとか、背後から人がやつてくる気配があるからドアを開けておくとか、さういふことをする人間の方が苦労は多いし、有り体に云つて損なのではあるまいか。

健康診断といふのはやたらと無駄に待ち時間ばかり長いから、いろいろ考へた。
たぶん、人間としては、相手より自分の方がちやんとしてゐる。
では、自分はちやんとした人間になりたいのだらうか。
ちやんとした人間でありたいと思つてゐるのか。
思つてゐるとしたらなんのために?

そこで、「ちやんとした人間だと他人から思はれたいからさうしてゐる」といふことに気づく。
「自分は「ちやんとした人」である」といふメッキがはがれてしまつた。

自分がさうしたいから他人に道を譲つてゐるのではない。
人からちやんとした人だと思はれたいからしてゐる。
だから他人が譲つてくれないとすつきりしない気持ちになる。
「こつちは譲つてゐるのに」と思ふからだ。
譲つてゐるのは自分の意思でさうしてゐるに過ぎないのにね。

それでは今後は他人に道を譲つたり、ドアを開けておいたりしないことにするのか。
それもなんだかできないのだつた。
さうするものだと思つてゐるからだ。
でも身についてはゐないその証拠に、相手に譲る気がなければこちらもなにもしないことがある。
ちやんとした人といふのは、他人の言動に関はらず他人のことを慮る人のことだらう。

生きる甲斐なしとはこのことだらうか。
でも席に座つたあの人は、そんなこと思つてもみないんだらうな。

やはりあの人のやうな人間の方が生きてゐて楽なことに間違ひはなささうだ。

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Wednesday, 09 October 2019

Bullet Journalのメモの管理

Bullet Journal でひとつ悩んでゐることに、履歴の管理といふことがある。
履歴といふと大げさかもしれないが、書いたものを書きつぱなしにしないための手段がいまのところない。
一応、インデックスは書籍・芝居・落語・映画については作つてゐる。
あとはまめに見返すしかないのかなあ。

たぶん、Bullet Journal の問題のひとつは、日々の見出しが日付になつてゐることなのだと思ふ。
スケジュールやタスクを書き留めるのには最適なのだが、メモに関してはさうとはいへない。
日付と連携しないメモはたくさんあるからだ。

メモを書くときはアウトライン化して第一階層に見出しをつけることもある。
だが毎回毎回見出しを思ひつくわけでもないし、一々見出しを考へてゐたら思ひついたことがどこかへ消へてしまふ。

見返す時間を設けて、ものによつては情報カードを作るとかした方がいいのかなあ。

といふわけで、情報カードの復活を考へてゐるところだ。

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Tuesday, 08 October 2019

年賀状とタティングレースのモチーフ

ときどき年賀状のことを考へる。
毎年、その年のうちに書けてゐない。
今年は12月23日の祝日もなくなつてしまつた。
ますます書ける気がしない。
もうやめてしまはうか、と思はないでもないが、どうしたものかなあ。

一時、タティングレースのモチーフを年賀状に貼り付けてゐたことがある。
その年作りためたモチーフがちやうどいい数あつたから、と云ひたいところだが、年賀状の図案がどうにも思ひつかず、「ぢやあタティングレースのモチーフでも貼り付けたらどうだらう」と思ひついてはじめた。

無謀だつた。
見栄えのするモチーフを作るにはそれなりに時間がかかる。
それでも作りためたモチーフがある程度あつたからできたものの、一から作るとなつたらムリだらう。

今年はどうかといふと、栞や栞になりさうなエジングならそれなりに数がある。
またモチーフ貼り付け大作戦でいくかな。
いまからなら作つても間に合ふかもしれない。

モチーフつてほかにこれといつて使ひ道が思ひつかないからなあ。
ピアスにするとかペンダントトップにするとか、それはそれでおもしろさうだけど、作つてもまづ使はないことを考へるとモチーフのままおいておくのと変はらないし。
そもそもピアス穴をあけてゐないし。

Rollbahnの透明のカヴァを買つたからそこに入れてもいいかと思つたら、Diary & Notebook にはカヴァがちよつと小さすぎるやうだし。

モチーフを作るのは楽しいんだけどねえ。
作つたあとどうすればいいのやら。

といふわけで、そろそろ年賀状のことを考へやうかな、と思つてゐるのだつた。

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Monday, 07 October 2019

こんなこともあらうかと

Sweater for Dolls

 

先週は暑かつた。
真夏の蒸し暑さはないものの、暑いことにかはりはない。
そんな中、「世界の伝統柄を編む ミニチュア ニットコレクション」といふ本を紹介された。
22cmドールに着せられるサイズだといふ。
買ふでせう。
我が家のおリカのために買ふでせう。

 

そして買つたら編むでせう。
と思つたが、本で使用されてゐる編み針はビーズ手芸用の細い針が多い。
ビーズ編み用の細い針も持つてゐたはずだが、あれは編みづらかつた記憶がある。

 

そこで思ひ出した。
さうだ、Addi の USサイズ#000の棒針を持つてゐたはずだ。
もう何年も前に買つて、封も切らずにそのままになつてゐる。
買ふときも、「買ふとして、いつたい何に使ふんだらうなあ」と思ひながら買つた。

 

そんな状態でなぜ買つたのかといふと、お道具といふものはいつなんどき使ふことになるかわからないからだ。
ある日突然#000の編み針が必要になつたとして、手元になかつたら編むことができない。
備へあれば憂ひなし、とも云ふ。
真田志郎風にいへば「こんなこともあらうかと」だ。

 

今回はまさに「こんなこともあらうかと」だつたなあ。
USサイズの#000は1.5mm。
本の針のサイズとまつたくおなじといふわけではないが、0号針(日本サイズは2.1mm、USサイズは2mm)で編むよりはマシだらう。

 

Dane Shawl を編んであまつたくつ下毛糸で本に出てゐるガーンジーセーターを編み始めてみた。
さすがAddiの針は編みやすい。

 

今週も暑い日があるといふし、しばらくはこんなことをしてゐる気がする。

 

Addi Knitting Needle US Size #000

 

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Friday, 04 October 2019

雨の沼津 雪の岡崎

橋本治が「源氏物語」について書いてゐたことに、紫式部には漢籍の教養があつたから、対句的な書き方をしてゐる場面がある、といふことがある。

対句といふと、たとへば杜甫の「登楼」の三句めは「錦江春色来天地」で四句めが「玉塁浮雲変古今」となつてゐて、錦江と玉塁、春色と浮雲、来と変、天地と古今とがそれぞれ対になつてゐて、句全体もまた対になつてゐる。

橋本治は、「源氏物語」の夕顔の家と六条御息所の住まひとの描写が対になつてゐる、と書いてゐたと記憶する。
かたや夕暮れどき、かたや明るい日の下で、花といつて夕顔がひつそりと咲いてゐるだけといつた家と、見事に手入れされた庭をもつ屋敷とで、それぞれ話が進んでいく。

さうやつて見ると、浄瑠璃なども対句の関係になつてゐるものがある。
「仮名手本忠臣蔵」の判官と勘平との切腹が対になつてゐる。
判官は家臣と検分役とに見守られて立派な広間で腹を切る。
勘平は鄙の住まひで義母と二人の浪士とのゐる中で腹を切る。
判官からは由良之助が、勘平からは数右衛門がそれぞれ本心を聞き出す。
「仮名手本忠臣蔵」は義太夫狂言にしてはめづらしくモドリのない作品で、ゆゑに判官と勘平とが入れ替はつてゐるのではないか、といふ見方をされることがある。

「伊賀越道中双六」の沼津と岡崎とも対になつてゐるんぢやあるまいか。
雨の沼津と雪の岡崎。
かたやみづからの命を犠牲にして敵の在処を知らうとする老人と、みづからの幼子を犠牲にして秘密を守らうとする主人公。
かたや隠してゐるわけではなく互ひに親子と知らぬ仲。かたやみづからの正体を隠し偽名を名乗る弟子。

一番わかりやすいのは「伽羅先代萩」だらうか。
「竹の間」と「対決」、「御殿」と「刃傷」とがそれぞれ対になつてゐる。
女ばかり(若君・千松・忍びは男だけど)の「竹の間」と「御殿」と、男ばかりの「対決」と「刃傷」。
「竹の間」では政岡が詮議され、「対決」では仁木弾正らと渡辺外記左衛門らとがお白州で取り調べに合ふ。「竹の間」の裁き役は沖の井、「対決」は細川勝元だ。
「御殿」では幼い千松が命を落とし、八汐が成敗され、「刃傷」では年老いた外記が瀕死の重態となり、弾正が退治される。

この対の関係を見るには、通し上演を待つしかない。
「仮名手本忠臣蔵」はそれでも比較的通し上演があるからいいとして、「伊賀越道中双六」の岡崎なんて滅多にかからないし。

人気のある段だけ上演する、といふのにも意味はあると思つてゐる。
あまり上演されない段や演目を見る機会があると、なるほど、これは確かにおもしろくないよな、と思ふこともある。
その一方で、「ああ、これはかういふ話だつたのか!」と目の覚める思ひのすることもある。
客の入りを考へるとこれまで上演回数の少なかつた演目をかけるのはむつかしいかもしれない。

でも見てみたいとも思ふのであつた。

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Thursday, 03 October 2019

なぜなに「飛ぶ教室」

エーリッヒ・ケストナーの「飛ぶ教室」が気になる所以はいろいろある。

以前ここにも書いた気がするが、前書きでケストナーが「飛ぶ教室」を書き始めるまでや書き始めたあとのことをあれこれ綴つてゐるその中に、「緑の鉛筆」が出てくる。
いま思へば、それはファーバー・カステルの鉛筆のことなんぢやなからうかと合点がいくのだが、こどものころは緑の色鉛筆のことだと思つてゐた。
それで緑の色鉛筆を使つて書いてゐた時期がある。
書きづらかつたなー、あれは。

「飛ぶ教室」といふ題名も気になる。
なぜ「飛ぶ教室」なのか。
「飛ぶ教室」といふのは、登場人物のひとりであるジョニーの書いた戯曲の題名だ。
物語の中では、クリスマスにジョニーの通ふギムナジウムの生徒たちが「飛ぶ教室」を上演することになつてゐる。
実際に飛ぶ教室があつて、地理などで出てくる土地を訪ねる、みたやうな内容の戯曲だ。

「飛ぶ教室」自体は、ジョニーの友人たち、そして先生を描いた物語だと思つてゐる。
それがなぜ「飛ぶ教室」なのだらうか。
ときをり考へてみるが、わからない。
「Das Fliegende Klassenzimmer」を「飛ぶ教室」と訳すからいけないので、「さまよへる教室」としたらどうだらうかと思はないでもない。
「Der Fliegende Hollaender」は「さまよへるオランダ人」だからね。

もうひとつ、常々気になつてゐるのが、読んでゐて違和感を覚える部分がある、といふところだ。
ギムナジウムの生徒たちに合ひ言葉(でいいのか悩むところだが)があつて、これが時にしつくりこないのである。

同じ街にある学校の生徒たちと喧嘩することになつて、無論喧嘩は禁じられてゐるから秘密裡に計画されるわけだが、このとき作戦隊長みたやうな生徒がほかの生徒たちに「準備はいいか」といつた声をかかけると、ほかの生徒たちがその合ひ言葉を返す、それがなんだか妙なんだよね。
いろんな場面で使はれるから、ある場面ではしつくりきても別の場面では違和感が残る感じ、とでもいはうか。

これつてドイツ語が読めたら解決するのか知らんと思つてドイツ語を習つてみたこともあるけれど、解決するほどにはできるやうにならず……といはうか、全然できるやうにならず、現在に至つてゐる。
近頃面目次第もござりませぬ、とは、粂寺弾正のせりふにあるとほりだ。

といふわけで、思ひ出したからまたドイツ語でもやつてみるか、と思ひつつ、もういまさらといふ気もする秋のゆふぐれなのだつた。

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Wednesday, 02 October 2019

人生アップデート

人生をアップデートできずにゐる。

「昔はかうだつたのに」でパワー・ハラスメントやセクシュアル・ハラスメント認定されてしまふ、といふ話ではない。
いや、あるのか。
パワー・ハラスメントやセクシュアル・ハラスメントについては、世の中がだんだん「かういふのはダメ」といふやうになつてきたな、といふ気はしてゐる。
ある日いきなりいままで問題とされなかつた行為が「パワー・ハラスメントです」「セクシュアル・ハラスメントです」と云はれたといふ気はしない。
準備段階がちやんとあつたと思つてゐる。

一方で、同性愛についてはある日突然「異性愛同様、公に認められて然るべし」といふ風になつてゐた気がしてゐる。
準備段階があつたやうな気がしない。
もしかするといまがその準備段階なのかもしれない、と思ふくらゐである。
気がつくと映画にもさうした内容を取り入れたものが多い。
映画はあまり見ないから、これまでに準備段階があつたのかもしれない。

さういふアップデートも間に合つてゐないけれど、落語とか浪曲とかのアップデートもまつたく間に合つてゐない。
当代の文治は一度しか聞いたことがないし、圓楽は楽太郎時代に一度聞いただけ、文楽に至つては一度も聞いたことがない。
いづれの名前を聞いてもいまだに先代のことを思ひ出してしまふ体たらくだ。

浪曲も、虎造、米若、二葉百合子くらゐでとまつてしまつてゐる。

寄席にはほとんど行かないし、浪曲も聞きには行かないから当然の結果でははある。
それで困りはしないしね。
落語はともかく、たまにTVで浪曲を聞いても最近は虎造や米若のやうな声の人はゐないやうだし。

アップデートしなければ。
さうは思ふものの、「いつかしなけりや」と思ひつつ、そのままになつてゐる。
それなりに見てゐる歌舞伎の方はまだましで、役者の名前を聞けば当代が浮かぶやうにはなつてゐるけれども、それでもなほ「誰某つて云つたら何代目のことだよなぁ」と思ひ込んでゐる名前もある。

アップデートしなければ、と云ひつつ、そんな気はさらさらないといふ証拠だらう。
だつて、虎造・米若・二葉百合子で十分楽しいぢやん。
まだ聞いてゐないものもたくさんあるしさ。

このままアップデートしなくてもいいだらうか。

落語や浪曲、歌舞伎についてはいまのままでもいいやうな気はしてゐるが、さて。

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Tuesday, 01 October 2019

浮気心

ここのところ、クロバーの角付きのタティングシャトルを使つてゐた。

tatting shuttles

はじめてのシャトルがクロバーの鼈甲調タティングシャトルだつた。
ずいぶんと使つたし、使ひやすいとも思つてゐた。

その後、さまざまなシャトルを買つては使ひ、ボビンに糸を巻くタイプでかぎ針のついたシャトルが一番使ひ勝手がいいな、と思つてきた。

最近ではAerlitやクロバーのボビンタイプのシャトルなど入手しやすいシャトルも増えて、さうしたものばかり使つてゐた。

だが、やはりクロバーの角付きタティングシャトルは使ひやすい。
最初に何度も使つたからだらうなとも思ふが、大きさがほどよく手の動きが最小限で済むのがいいのではあるまいか。
手に取つたときの感触もいい。

以前、糸を巻いたタティングシャトルをかるく握るとなんとなく幸せな気持ちになる、と書いたことがある。
そのときのシャトルはクロバーの角付きシャトルをイメージしてゐた。

今後はクロバーの角付きシャトルを主に使ふかなあ。
さう思つてゐた矢先、である。

GR-8 Tatting Shuttle を使つてみたらこはいかに。

GR8 Tatting Shuttle

うーん、使ひやすい。
黒檀でできてゐて、手持ちのプラスチックのボビンに合はせて作つてもらつたものだ。
記録を見ると、、2004年に依頼したとあるから、15年は使つてゐることになる。
みづからの手足のやうに、とはいかないが、そりや使ひ慣れるよね。

といふわけで、GR-8 Tatting Shuttle ではシャトル一つで作るモチーフを作つてはつなげてゐる。
なにになるかは定かではない。

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9月の読書メーター

9月の読書メーター
読んだ本の数:2
読んだページ数:589
ナイス数:14

マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)感想
「才気走ってしゃれた言辞といったものから手を引いたこと」と書いてあるわりには「どこが?」と思う。原文がそうなら仕方がないし、「あくまでも原文を尊重して訳した」というのならやはり仕方がないけれど。
読了日:09月12日 著者:M. アウレリウス
数学する人生 (新潮文庫)数学する人生 (新潮文庫)感想
現在では「ギリシャは東洋の永遠の敵である。しかしまたしても心がひかれる。」という芥川龍之介のことばにうなづく人も少なくなってきているのではあるまいかと思いつつ読む。岡潔は日本のことなら「ああ、あのことか」とわかると云ったけれど、そう思う人も少なくなってきているのではないかという気がしてならない。しかしてギリシャはやはり永遠の敵なのかもしれない、とか益体もないことを考えてしまった。不明にして岡潔のことははじめて知った。著書に触れてみたい。
読了日:09月20日 著者:岡 潔

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