迷走狂言立て
最近の歌舞伎は、大手出版社のやうだなと思ふことがある。
売れなくても古典や名著と呼ばれる本を出版しつづける一方で、泡沫のやうな売れ筋の本も刷つてゐる。
売れる本のおかげで古典や名著がなんとか生き延びてゐる。
そんな感じだ。
新たな試みをしなければ客は入らない。
なにか派手な仕掛けをしないと客は喜ばない。
そのとほりだらう。
明治以降、どこかの時点で確立された見取り狂言の形式である「一幕目は時代物、中幕、二幕目は世話物」といふ江戸歌舞伎の流れを汲む狂言立てはもう通用しない。
この狂言立てにはいい点がいくつかあつて、そのうち一番いいなと思つてゐるのが、「昼の一幕目の時代物と夜の二幕目の世話物は若手で、昼の二幕目の世話物と夜の一幕目の時代物は幹部で見られる」といふことだ。
客は時分の花の舞台と円熟の舞台と、両方を楽しむことができる。
見る方にとつてもよければ、演じる方にだつていいはずだ。
若い役者に活躍の場があるといふことだからだ。
おそらく、この狂言立てが定着したのは、さういふ利点があつたからなのではないかと思つてゐる。
昨今は、実験をしてゐるのかもしれないが、かういふ狂言立てがくづれてきてしまつた。
もうこれでは客が入らない。
さういふことなのかもしれない。
若手の活躍の場といつて、一月の浅草公会堂はつづいてゐて、それぞれが勉強会を開いたりしてもゐる。
八月歌舞伎座の納涼歌舞伎が当初の役割を失つてしまつたことは惜しまれる。
でもさう思つてゐるのは自分だけで、大勢はいまの納涼歌舞伎の方がいいし、昔人気があつただけのつまらない(かどうかは人によるとは思へども)演目などはかからなくなつてもいいといふ向きなのかもしれない。
今月は歌舞伎を見てゐない。
連休に御園座と歌舞伎座とに行く予定だつたのだが、台風十九号のせゐで行けなかつた。
御園座は上演はしたといふが、新幹線が運転見合せでは如何ともし難い。
これを機会に段々見なくなるのだらうか。
さて。
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