一挙上映とbinge-watching
日曜日に新文芸坐の「仁義なき戦い」一挙上映に行つてきた。
これを binge-watching と呼べるのか。
binge-watching とは、主にTVドラマについて使はれることばのやうに思ふ。
binge-watchingとは、NetflixなりAmazon PrimeなりHuluなり、あるいはケーブルTVやディスクなどで、TVドラマを一気に何話もたてつづけに見ることだ。
これにはよい面もあるといふが、鬱や孤独感、肥満などと関係があるといふ研究結果もある。
以前、binge-watchingよりも毎日あるいは毎週一度、決まつた時間に一話だけ見るのが自分には向いてゐる、といふ旨のことをここに書いた。
その方が記憶に残るし、なにしろ「明日はどうなるんだらう」とわくわく待つあひだも楽しい。
でもそれは、家で見るTV番組の話だ。
映画館で見る映画としては、どうだらう。
試してみないことにはよくわからないが、自分の好みとしては、映画も映画館で一作品づつ見た方がいい気がしてゐる。
その方が集中して見られる気がするのだ。
とはいへ、映画館といふのは映画を見るところだ。映画を見ることに特化した場所ともいへる。
そこで見るなら、そして話がつづいてゐるのなら、何本かつづけて見ても binge-watching とはいへないのではあるまいか。
つづけて見ることで気がつくこともあるしね。
「仁義なき戦い」でいふと、「広島死闘編」では極道と県警とのあひだには取引があつて、県警のえらいさんは北村英三だ。
それが「完結編」になると県警側も取締りを強化してゐて、出てくるのは鈴木瑞穂だつたりする。
手打ち式と葬式とは異様に似てゐる、とかね。
一挙に五作品を見て、なんだかものすごくたくさん葬式の場面を見たやうな気がしてゐたけれど、考へてみたらあれは手打ち式、みたやうな場面もいくつかあつた。
手打ち式も葬式も、互ひの結束を確認しあふ場なのだらう。
「つまらん連中が上に立つたから、下の者が苦労し、流血を重ねたのである」とは、「完結編」で主人公・広能昌三が網走刑務所の中で書いた手記の中のことばとして登場する。
これも第一作からつづけて見てゐると、「なぜさうなのか」と思つてしまふ。
そして、第一作から見てくると、締めくくりのことばとしてこれほどふさはしいものもまたないなとしみじみ思ふ。
通して見ると、この映画に出てくる「上に立つ」連中の共通点は、greedy で coward だ。
ことさらにさう描いてゐるのだらうとは思ひつつ、結局生き残るのに必要なのはこの二点なのではないか、この二点のバランスなのではないかといふ気もしてくる。
それくらゐ金子信雄の演じる山守義雄も内田朝雄の演じる大久保憲一も魅力的だ。
第一作などは山守義雄の成長物語なのではないかと思ふくらゐ、話の進展にあはせて変容していくさまが見事である。
欲が深く臆病であることは人としての欠点だらう。
しかし、生き延びていくには欲が深くなければならないし、同時に臆病なほど注意深くなければならない。
おそらく、映画を見る人は、苦労して殺されていく「下の者」たちに感情移入するのだらう。
自分を中のひとりに見立てることもあるだらう。
山守義雄や大久保憲一のやうになりたいと思ふ人間は少ないのではあるまいか。
さうでもないかな。
でも実際に上に立つのはかういふ人物で、下の者の苦労など考へてもみない。
それは、会社の上下関係そのもののやうにも思はれる。
だからよけいに人は苦労の挙げ句殺されていく「下の者」に自分を重ねあはせるのぢやないかなあ。
などといふことは、一挙に見なくても感じたことではある。
ただ、映画館といふ映画を見るための場所で一挙に見たから強く感じ得たこともあると思つてゐる。
見終はつた直後はさすがに「もう一挙上映はいいや」と思つてゐたが、来年もあるのならまた行つてゐるやうな気もする。
一挙上映といへば、「人間の條件」、やらないかなあ。
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