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Wednesday, 14 August 2019

Commonplace book の効用とは

近頃、commonplace book の充実に励んでゐる。

Commonplace book は「備忘録」などと訳される。
んー、ちよつと違ふ気がするなあ。
大枠では正しいのかもしれないけれど。

理解してゐる範囲では、commonplace book とは、見聞きしたものや読んだものを書き記すものだ。
基本的には見たとほり聞いたとほり読んだとほりを書き記すものだと思つてゐるが、そこから思ひついたことを書くこともある。

書き写すのはだいたいは読んだ本からだが、Webサイトからひろつてきたものもあるし、TVを見てゐて書き留めたものもある。

「執念の先にこそ解脱がある。とらはれ、こだはつて追ひ求めていかないと、解脱は見えてこない。そんな気がするんです」

これはNHKのドキュメンタリで川本喜八郎が云つてゐたことばをうつしたものだ。
川本喜八郎の人形アニメーションをあれこれ思ひ返してみると、このことばはさらに味はひ深くなる。

「ゴールは設定するものではない。道行く途中で、行く先はおのづと定まつてくるもの」

これもTVで見た今敏のことばだ。おなじ番組ではかうも云つてゐる。

「個性は表現するその仕方にある。まづ動き出すこと」

ゴールを設定してから動き出すのではなく、まづ動き出すこと。
さういふことだと理解してゐる。

最近は、Ryan Holiday の云ふやうに、一度読んだ本は一週間くらゐ寝かせて、それから気になる箇所を書き写すやうにしてゐる。
「一週間くらゐ」のつもりが、いつのまにかものすごく時間がたつてゐることもある。
いま書き写してゐる最中のジョン・クリーズの本は二月に読み終へたものだ。
Kindleなので気になる箇所にはハイライトを設定してゐて、それを読み返すだけでもおもしろいのだが、なにしろもう記憶の彼方に行つてしまつてゐるので、結局全体を読み返すやうな形になつてしまつてゐる。
やはり寝かせるのは一週間、長くても一ヶ月くらゐが限度かと思ふ。

書き写してゐてなにかいいことがあるのか、といふと、実はあまりない。
あとで読み返すことを前提に書くので、比較的丁寧な字で書くといふことくらゐかなあ。

さう思つてゐた矢先、それだけでもないな、と思ふことがあつた。
せつせと書き写してゐると、突然、まつたく関係のないことを思ひつくことがある。
自分の中ではなにか関係があるのかもしれない。

たとへば、ジョン・クリーズの本から「イエス・キリストは人々に語るときにたとへ話を用ゐた」といふやうなことを書き写してゐたときのことだ。
なぜかここからヴィトゲンシュタインの「Wovon nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.」といふことばを思ひ出した。
一般に「語り得ぬことについては沈黙せねばならぬ」と訳される一文だ。
なんだかわからないけれどおもしろいので、この文章も書き写すことにした。
そこからなぜか「シュレディンガーの猫」が脳裡に浮かんだ。

自分の中では全部つながつてゐる。
でもうまく説明することができない。
ここをつなげられればおもしろいのになあ。

つなげられないのは己が非力なゆゑだが、でもその入り口まではたどりつくことができる。
ただ書き写すといふことが集中力を必要とするもので、なにかに集中してゐると、ふつとあらぬ考へが頭に浮かぶものだからなのではあるまいか。

たまにかういふ時間を過ごすのもいいかもしれない。

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