積極的に諦める
近頃、ストア派的な話を読むことが多い。
世の中全体ではどうだか知らないが、たまたまWeb検索などして出会ふ言説がストア派がらみだつたりする。
ストア派がどういふものなのか、よくわからない。
知つてゐることといつたら、ストイックといふことばはストア派からきてゐる、といふくらゐか。
したがつて、なんか禁欲的な、規律正しい感じの考へ方をする人々のことなんではないかと思つてゐる。
実際に見かける内容はといふと、こんな感じだ。
「世の中の出来事や他人の行動を変へることはできない。
変へられるのは、さうしたものごとへの自身の反応・対応である」
ヲノサトルの「おもしろくなつてきたぜ」といふのも、ストア派的といへやう。
大事な顧客との打ち合はせに向かふ際、電車が止まつてしまつた。
運転再開の見込みは立たない。
電車の止まつたことを怒つてみたり嘆いてみたりしてもはじまらない。
こんなとき、「おもしろくなつてきたぜ」と肚裡でつぶやいてみる。
自分を取り巻くことがらへの反応をみづから変へてみるとはかういふことだらう。
自分は世の中のことや他人の言動にふりまはされやすい。
自分の思ふとほりにならないとすぐに苛立つてしまふ。
自己中心的だからだが、さういふときに一歩引いて「おもしろくなつてきたぜ」と云へたら、ちよつとは世界が違つて見えてきたりはしないだらうか。
酒見賢一に「エピクテトス」といふ短編がある。
エピクテトスとはストア派の哲人で、小説の中では世の流れに逆らはない人物である。
だからといつて、自身の考へがないといふわけではない。
自身の哲学を貫くことで、世の流れに逆らふことがない。
小説にはかうある。
「エピクテトスは優れて積極的な諦めを説く人であった。しかも諦めは単なる諦めを越えて、自由を得るための諦めである」
世界や他人を自分の思ふとほりにしやうとしても無駄なことだ。
さうしたことは「諦め」て、自分が自分らしくあればいい。
さういふことなのかな、と思ふ。
自由はその先にあるのだらう。
幸ひ、諦めることは得意だ。
諦めは悪いけれどもね。
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