居場所がない
今月は大阪松竹座に片岡仁左衛門の碇知盛を見に行つてあちらの友人と会ふし、来月は旅に出るつもりだし、九月には中村吉右衛門の松王丸があつて中村歌六の松浦侯があつて、十月は落語会に行くし、十一月もおそらくなんかあるし、十二月はこれで最後といふ噂の柳亭市馬のお歌の会があつて、一月にはさいたまに行く。
そこまでは生きなければ。
さう思ふ。
さうは思ひつつ、時折投げやりになつてしまふのはなぜなのだらうか。
思へば去年の十月末にポール・マッカートニーを聞きに行つたときなどもそんな感じだつた。
東京ドームまで来てゐるのである。
中に入つて、あとは開演を待つばかり。
なのに心が晴れない。
「どうして自分はこんなところにゐるかなあ」などと埒もないことを考へてしまふ。
もつといへば三年前、京都に顔見世を見に行つたときなどは、行きの新幹線の中でどうにも気持ちが沈み、歌舞練場に向かふバスの中では、もうほとんど泣きさうだつたくらゐだ。
だつたら行くなよ、といふ話なのだが、実際に見聞きするとこれが「いろいろあつたけれど、来てよかつたなあ」になる。
どういふことなのだらうか。
I don't belong here.
さう思つてしまふのだ。
ぢやあどこに blong してるんだよ、といふと、さういふ場所がないことに気づく。
自分の居場所がないんだな。
探してもゐないけれども。
だつてどこにもないかもしれないぢやん。
たまに自分の居場所ではないところに行くのはいいかもしれないけれど、常から自分の居場所でないところにゐるのに、なぜわざわざさらに遠いところ、それも物理的にも心理的にも遠いところに行かねばならないのか。
ぢやあ行くなよ。
次からは行くのをよさう。
と、毎回おなじことを考へてゐる。
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