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Wednesday, 31 July 2019

歌舞伎が好きなわけ

長いこと、「なんで歌舞伎が好きなんだらう」と考へてゐた。

そのまへに、なぜ自分は歌舞伎を見に行くのだらうか。

はじまりはかんたんだ。
坂東玉三郎を見たかつたからである。
たぶん、最初は写真か何かで見た。
世の中にはこんなにうつくしい人がゐる。
見てみたい。
実に単純な動機だ。

親に「歌舞伎を見に行きたい」と云つたら、「自分で稼げるやうになつてから行きなさい」と云はれた、といふ話はここにも何度か書いてゐる。

稼げるやうになつてはじめて見た歌舞伎は、「どうしてこんなところで終はるの?」と「なんでこんなところから始まるの?」といふ、はてな尽くしの芝居だつた。

でもその後も見に行つてゐる。
たぶん、自分は歌舞伎が好きだ。
なぜなのだらう。

親につれて行つてもらへなくてどうしたのかといふと、あるとき音楽室の資料室に歌舞伎の本があるのを知り、音楽の先生に頼んで貸してもらふことにした。

この本は、写真が中心のムックのやうな本だつた。
表紙はいろんな役者のいろんな役の写真をコラージュにしたやうなもので、開いて最初のページが玉三郎の藤娘だつたと思ふ。

この本を見て覚えた役者が中村歌右衛門と實川延若だつた、といふのが、「なぜ歌舞伎が好きなのか」の答へのやうな気がしてゐる。

異形のもの。
この世ならざるもの。
バケモノ。

ことばは悪いが、この二人にはさうした印象を覚えた。
それはそれは強い印象を受けた。

とくに歌右衛門が福助時代の中村梅玉と踊つてゐる「鴛鴦襖聞睦」の写真のおそろしかつたこと。
福助はともかく、歌右衛門の鴛鴦の精は幽霊だつた。
バケモノ。
いま見てもさう思ふ。
「京鹿子娘道成寺」の道行の写真も、花道から鐘を見込んだところの凄まじさといつたらなかつた。
この世のいきものぢやあないよ、あれは。

延若で記憶に残るのは「積恋雪関扉」の関兵衛実ハ黒主の写真だ。
ぶつ返りを段階を追つて撮つた写真が並んでゐて、最後は鉞に足をかけて決まつた場面だつた。
いい姿だつたなあ。
古怪。
当時はそんなことばは知らなかつたが、後に「ああ、古怪といふのはあの延若の黒主のやうなのを云ふのだ」としみじみ思つた。

肝心の玉三郎も、そのとき気に入つたのは「与話情浮名横櫛」は「源氏店」の湯上がりの場面の写真だつた。
洗ひ髪でまみえを落として微笑んでゐる、いま見たら「かういふもの」と思へるけれど、当時はちよつと「えっ」と思ふやうな写真で、でもなんともいへずいい写真だつた。

だから歌舞伎が好きになつたんだな、と思ふ。

三島由紀夫のいふ「歌舞伎といふのはくさやの干物のやうなもの」、橋本治のいふ「歌舞伎の魅力は古怪です」といふ、さういふところが、自分が歌舞伎が好きな所以なのだらう、とは以前も書いた。

それはもう、実際に歌舞伎を見る前からきまつてゐて、だつて最初に覚えた役者が成駒屋に河内屋なのだもの。

そして、おそらくこの後はだんだん見に行かなくなるんだらうな、とときどき思ふ。

その理由もまたおなじなのだつた。

Tuesday, 30 July 2019

究極のDIY

先日、Twitter の TimeLine に「気に入つた服がないから自分で服を仕立てる人」についてのつぶやきが流れてきた。
14才のころからしてゐるさうで、18〜19世紀くらゐの衣装を参考にしてゐるといふ。

橋本治も自分の着たい服がないからといふのであみものをはじめたと書いてゐた気がする。
GジヤンだかGパン(当時ですから)に和服にあるやうな桜の刺繍をして、生地が伸びなくなつて実際に身につけることはできなかつた、といふ話もどこかで読んだ。

気に入つたものがないから自分で作る、といふのは、しかし、手先の器用な人の発想だらう。
なにしろ生まれてこの方自分より不器用な人間を見たことがないといふ不器用な人間なので、なかなかさういふ発想には至らない。

あみものやタティング、糸紡ぎでは、道具が手に入らないから自分で作るといふ人がゐる。

人形用のミニチュアセーターが編みたくて、でもそんなに細い編み針はないので、ぬひぐるみを縫ふときの長い針の先端を紙やすりなどでちよつと丸めて作る、だとか。

洗濯ばさみをそのままタティングシャトルに使ふといふ人もゐるが、シャトルもうまいこと自分で作る、とか。

スピンドルは自作する、だとか。

結局、手芸といふものは、もともと手先の器用な人がするものなのだと思ふ。
手先が器用で、アイディアの浮かぶ人、とでもいはうか。
この道具は不便だからちよつとなほしてみる、あるいは自分で作つてみる。
こんなものがあつたら便利さうだから作る。
さういふ人が楽しむものなのだらう。

タティングシャトルも、市販のものは先がとがり過ぎてゐるから、やはり紙やすりなどでちよつと調整するといふ人もゐる。

さう考へると、自分はあみものやタティングをしてゐていいものなのだらうか、とひとしきり悩んでしまふわけだ。

Monday, 29 July 2019

毛糸を処分する

毛糸の処分をはじめた。
先週書いたとほり、イガが増えてゐるからだ。

さういや蝶は一頭二頭と数へると聞いたけれど、蛾はどうなんだらう。
とりあへず、この週末二頭退治した。
でもまだ一頭ゐる。

退治しても退治してもゐるといふことは、やはりヤバいのだらう。
時折ひらりと一頭ゐる、といふくらゐではあるものの。

処分したのは虫除けの薬の効きの悪さうなところにある毛糸だ。
どこだよ、といふ話だが、本体は編み終はつてあまつたけれど処分しきれずにゐた毛糸、とかだ。
これが案外あちこちにある。
ものによつては編みかけのままなので、編み針を抜いてから処分するやうだ。

幼虫がゐるかどうかは確認してゐない。
したい?
したくないねえ。

虫除けの薬については一応確認してみた。
五月に変へたばかりだからまだ大丈夫のはずだ。
はずだけど、ちよつと増やしてみたりした。

そんな感じで、全然編む気にならない。
もうこのまま手持ちの毛糸は全部処分してしまはうか。
さう思つたりもする。

一応、編みたいものはあるんだけどねえ。

Friday, 26 July 2019

伊達とか粋とか意味のなさ

佐藤亜紀の「スウィングしなけりゃ意味がない」を文庫版で読んだ。

ナチス政権下のドイツに「スウィング・ボーイズ」とか「スウィング・ユーゲント」などと呼ばれてゐた人々が実在した、その人々をモデルにした話ださうな。
ナチスはジャズを禁じ、それに反抗してパーティを開いてはジャズを演奏し歌ひ踊つてゐた人々だといふ。

主人公はハンブルクの裕福な家に生まれ育つた少年で、そのため兵役につかずに済むだらうと思つてゐる。
父親の力でなんとかなる、と。
政治的な信条はなく、ただ、今の政権はいけてない、ダサい、といふので反抗してゐる。
その反抗も表だつたものではない。

このご時世だから、読んでゐる最中は「なにもせずにはふつておくとひどい目に遭ふんだな」と思つてゐた。
ヒトラーはヤバい、このままでは国はダメになる、最終的にはやつぱり兵隊にとられるかもしれない。
さう思ひつつ、主人公たちはなにもしない。
まだこどもだからともいへるが、その親たちもなにもしない。

主人公の両親はジャズはもちろん、ハリウッド映画なども好んでゐる。
母親は自身をジンジャー・ロジャーズに似てゐると思つてゐるし、父親はそんな母親相手にだんだん重たくなつていく躰でフレッド・アステアを意識したやうに踊る。
主人公の名はエドゥアルドといふが、家では英米風に「エディ」と呼ばれてゐる。

でも、政権を倒さうとはしない。
したやうすもない。
ヒトラーの台頭を許したのは人々の無関心だつた、といふ説がある。
読んでゐて、なるほど、と思ふ。

ただ、心意気だけはある。
主人公の両親がどう思つてゐたかはわからないが、すくなくとも主人公とその仲間とは「だつてかつこよくないから」と思つてゐたからなのではないかと思つてゐる。

すなはち、美意識が勝つてゐるのだ。
政治的な信条を持たなくても、己の美と思ふところ、様子がいいと思ふところに合致しないものには服従しない。
伊達といひ、粋といふ。
さうしたものが心の支へになりうる。
最後の砦になりうる。
だからといつてヒトラーを防げはしなかつたのだが、それでもなほ。

さういふ話なのではないかと、ふりかへつて思ふ。

Thursday, 25 July 2019

Rollbahn で Bullet Journal

日曜日からロルバーンのLサイズで Bullet Journal をはじめた。
いい感じである。

RollbahnのLサイズはB6サイズに近く、これならいつも使つてゐるどのかばんに入る。

透明の袋が5つついてゐて、ものによつて整理できるのもいい。袋の前後にはかたい厚紙もあつて、なにか入つてゐても筆記に支障がないやうになつてゐるのもいい。

紙はちよつとつるつとしてゐて書きやすい。
ぺんてるのブラマンで書いたときのペン先のすべりがとてもいいので気に入つてゐる。
万年筆で書いても書きやすいし、裏ぬけやにぢみもいまのところない。

方眼用紙だから Bullet Journal にも向いてゐる。
さういや何ページあるのか数へてゐないけれど、ページ数もかなりありさうでそこもいい。
ざつと数へたところ百四十ページはありさうだ。

ちよつと困るのはやはり栞がない点と、あと紙が少しめくりづらいことだ。
紙については使ひこんだらあるいはめくりやすくなるのかもしれない。
いまのところ、栞代はりに付箋を貼つたりダガーのブックマークをつけたりしてゐる。

Rollbahnは毎年スケジュール帳を出してゐる。
最初にカレンダ形式の予定表が一年分+αついてゐて、あとはほぼ普通のRollbahnと一緒といふ手帳だ。
前々からこのスケジュール帳が Bullet Journal に向いてゐるんぢやないかと思つてゐた。
カレンダ部分を Future Log に使つたらいいんぢやないかな、とか。

今回使つてみてよささうだつたら、来年は Rollbahnのスケジュール帳を買つてみやうかと思つてゐる。

Wednesday, 24 July 2019

Weつて誰? Youは? Theyは?

Queenの「We Will Rock You」と「We Are the Champions」とはアルバム「News of the World」につづけて入つてゐる。
A面(時代ですな)の第一曲目が「We Will Rock You」で二曲目が「We Are the Champions」。
したがつて「We Will Rock You」が流れると自然と「We Are the Champions」も歌つてしまふといふことがよくある。

でも「News of the World」で好きなのはその後の「Sheer Heart Attack」「All Dead, All Dead」「Spread Your Wings」のコンボなんだなあ。

「We Will Rock You」と「We Are the Champions」とは、それほど好きではないのだつた。
無論、嫌ひといふわけでもない。
歌へるし。
町中を歩いてゐて流れてきたらうれしいし。
ただ、なんとなく違和感が拭へない。

だつて、「we」つて誰よつて、思ふでせう。

「We Will Rock You」はまだいい。
「you」がゐるからだ。
「we」がゐたら「you」がゐる。
おそらく「they」もゐるだらう。
ごく自然なことだ。

問題は「We Are the Champions」だ。
「we」つて誰なのよ。
「you」は? 「they」は?
「you」や「they」はlosersなの?

気になる。
昔、「気になつて夜も眠れない」と云ふ漫才があつた。
まさにそんな感じだ。

「we」と云つたとき、そこには「you」や「they」が存在する。
だから安易に「we」とはいへない。
そこで境界線を引いてしまふからだ。
ここからここまでは「we」、ここから先は「you」や「they」。
どうもさういふ気がしてならない。

「We Are the Champions」は二番の歌詞に「you」が出てきて、どうやら歌の主人公である「I」をなにかと支援してくれた相手であることがわかる。たぶん複数ゐる。
で、その「I」と「you」とで「we」なのだらう、といふのがやつがれの解釈だ。

ぢやあ「we」ぢやない「you」は? はたまた「they」は?
さう考へると、「We Are the Champions」つて、なんだかこー、排他的な歌に聞こえてきてしまふのだつた。

大勢の中の一員になることに不安を覚えるたちだから、さう思つてしまふのかもしれないな。
普通は「we」の中の一員になれたら安心するものなのだらう。
それで「We Are the Champions」は広く受け入れられてゐるんぢやないかと愚考するのだが、あなたどう思ひますか。

Tuesday, 23 July 2019

明日はどつちだ

Bullet Journal として使ふロルバーンにタティングレースの栞をつけやうと思つて作りはじめてゐたのだが、先にロルバーンを使ふことになつてしまつた。

よくあることだ。

しかも作りかけの栞に大きな間違ひを発見してしまひ、ちよつと気を取りなほすのに時間がかかつてゐる。
このまま栞なしでいくかも?
いくかもしれない。

考へてみたら、本を買つたときに書店でもらつた紙の栞でも全然問題ないのだ。
書いてゐるときにちよつと脇によけておく必要があるくらゐで、そこだけ気をつければいい。

だつたらこれまでに作つたタティングレースの栞もたくさんある。
それを使へばいい話だ。
さうなんだけどさー。
やつぱり作りたくなつてしまふのが人情といふものだ。

人情といふもののはずなのだが。
失敗がかなり堪へてゐる。
ほどくつもりはない。
それをやつてゐたらますますやる気が失はれることだらう。

栞の明日はどつちだ。

ロルバーンを使つてみたところ、やはりなにかしら栞になるやうなものが必要な気がしてゐる。
やはり作るか。

それともすでにできてゐるものを使ふかなあ。

Monday, 22 July 2019

不徳のなすところ

たうとう出た。
イガ。
衣蛾と書く。

以前から一匹ほどふらふらしてゐるのは見てゐた。
できるかぎり退治て来たが、ここに来て増えてゐる。
……さうか。どこかに喰はれてゐる繊維があるのか。

だが、どこだかはわからない。
五月に衣替へをした際、虫除けも新しく入れ替えた。
基本的には衣替へのときに虫除けの状況を確認して取り替へるやうにしてゐる。

でも、ゐる。
どこかにゐる。

この機会に毛や糸を処分するか。
さう考へないこともない。

だが、どうやら消費税率があがるのは確かなことのやうだ。
つまり、これまでよりも毛や糸の購入を控へねばならぬ、といふことだ。
いまでも十分控へてゐると思つてゐるのになあ。

イガもなあ、繁殖する時期といふのがあればいいのだが。
年に数回するといふので、常にゐるといふことなのだらう。
ゐない時期に餌になりさうなものを片づけやうと思ふとチトむつかしさうだ。

それもこれもやつがれの不徳のなすところだ。

仕方がないのでアヤシさうなところから手を着けていくしかないか。

Friday, 19 July 2019

なつかしの洋楽メロディー

洋楽を聞き始めたころ、FMラジオ局でしばしば「洋楽オールタイムベスト100」とか「ベスト50」といふ長尺の番組が放送されてゐた。

いはば、洋楽のなつかしのメロディーだ。

第一位は「レット・イット・ビー」か「イエスタデイ」で、第三位は「ヘイ・ジュード」、第四位は「ホテル・カリフォルニア」とか場合によつては「ヘルプ!」とかといふ、出来レースなのかと思はれるやうな結果だつたが、考へてみたら聞く層がおなじなんだらうから結果もおなじになるのも道理だつたのかもしれない。

聞き始めたばかりだから、なにもかも新鮮だつた。
これのおかげで一番最初に「これがローリング・ストーンズの曲」といふことで聞いたのが「悲しみのアンジー」だつたりする、といふこともあるのだが。
なんで「サティスファクション」とか「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」とか「ペイント・イット・ブラック」とかぢやなかつたんだらう、とは思ふがなー。
さういふ層は聞いてなかつたのだらうか。

アバの前身のビョルン&ベニーの「木枯らしの少女」とかホリーズの「バスストップ」、アニマルズの「朝日のあたる家」……
「天国への階段」は途中までしか流れなかつたやうに覚えてゐるし、「ボヘミアン・ラプソディ」もさうだつたやうな気がする。

さうさう、当時クイーンを聞くやうになつて、ちやうど「ザ・ゲーム」と「フラッシュ・ゴードン」のあひだくらゐのことで、なのに「キラー・クイーン」とか「ボヘミアン・ラプソディ」の方が親しみを覚えるのはかういふ「洋楽オールタイムベスト100」とかいふ番組の影響なのだつた。

レッド・ツェペリンだのクイーンだのは、どちらかといふとかういふベスト番組ではあまりかからなくて、自分で探して聞くしかなかつたと思つてゐたけれど、労せずして聞けてもゐたんだな。

エルヴィス・プレスリーはほぼ一曲もなかつたり、50年代から60年代にかけてのアメリカン・ポップスもそんなになかつたやうな気がする。ポール・アンカとかニール・セダカとかね。それはそれでまた別の番組で聞いてゐた。

あれは、どういふ番組だつたんだらうなあ、といまになつて思ふ。
聴取者から好きな曲を募集して順位をつけてゐたのだらうとは思ふけれど。
なのに、ストーンズが「悲しみのアンジー」つて、どういふことなのか。

いまもかういふ番組はあるのかな。
あるとして、どんな曲が選ばれるのだらう。
当時、ビリー・ジョエルはまだかういふ番組にでるには新しすぎた感じだつた。
マイケル・ジャクソンはソロになるかどうかといふ時期だつた気がする。
マドンナはまだ登場してゐない。

いまだつたらどんな曲が選ばれるのかなあ。

知らない曲ばかりなんだらうな。

Thursday, 18 July 2019

「都市の空気は自由にする」?

「Ferne Reisen machen weise.」とは Rollbahn の手帳の表紙に書かれてゐる四つの文章の一つだ。
「遠方に旅することで賢くなる」とでもいはうか。
直訳だと「遠方への旅は賢くする」だらうかな。
「Stadtluft macht frei.」が「都市の空気は自由にする」になるのとおなじ理屈だ。

遠方への旅といふ場合、どれくらゐ離れてゐれば「遠方」といふのだらう。
三連休の土日と大阪・京都に行つてきたのだが、それは遠方にあたるのか。
最近ご無沙汰してゐるが、飯田は遠方か。大阪や京都に行くときより時間がかかるんだから、遠方な気がしてならない。

そして、行つて、賢くなつてゐるだらうか。
どうもそんな気はしない。
なぜだらう。
遠方ではないからか。
あるいはそもそも旅ではないからか。

賢くならうと思つたら、それなりに準備をしたり心得ておかなければならないことがあるといふことなのだらうか。
でもそれだと machen はをかしかないだらうか。
「都市の空気は自由にする」と云つたとき、人もまた自由にするためになにかしてゐるのだらうか。

うーん、してゐる、のかもしれないなあ。

Wednesday, 17 July 2019

読まない人々

今朝、「あさイチ」を見てゐたら衝撃的なことがあつた。

人は麦茶の箱に書いてある麦茶の作り方を読まない、といふのだ。
しかも、インスタントラーメンの袋に書いてある作り方も読まないといふ。

もちろん、「あさイチ」でさう証言してゐたのは、麦茶のおいしい入れ方を習つた一般の人(を演じるどこぞの劇団員といふ可能性もある)と、ゲストで来てゐたとおぼしき二人の三人だけだ。
でも、すくなくとも、書いてあるのに読まない人がゐる、といふことだ。

最近はスマートフォンを使ふのにも長々しい使用許諾書のやうなものを読まねばならない。

EUの一般データ保護規則(GDPR)に併せて、変更になつた利用許諾書を読むのが面倒くさくてポケモンGo!もどうぶつの森ポケットキャンプもやめてしまつたやつがれのやうな人間は少数派なのかもしれない。
それともみんな、あれを全部読んで理解してゐるのだらうか。
できないのはやつがれだけ?
さうなのかもしれない。

世の中には文字が書いてあると読まずにはゐられないといふ人もゐるのになあ。
展覧会などに行くと展示物はろくろく見もせずに題名と作者とちよつとした説明文を読んですませてしまふ人も多いしなあ。

この違ひはどこからやつてくるのだらうか。

Tuesday, 16 July 2019

Bullet Journal とタティングレース

三年前に Bullet Journal をはじめた。
最初はミドリのMDノートの新書サイズを使つてゐた。
次にバイブルサイズのシステム手帳を二年半くらゐ使つた。
今年の一月からLEUCHTTRUM1917のA5サイズを使つてゐて現在に至る。
そろそろページも尽きかけてゐて、次のノートに移るころだ。
次はロルバーンのB6サイズ相当のノートと決めてゐる。

ロルバーンのB6サイズにする理由は、A5サイズの手帳は持ち歩くのに不便だからだ。
手帳は常に持ち歩きたい。
A5だとかばんにうまくおさまらならいことがある。
でもあるていどの大きさはほしい。
さう考へるとB6サイズが妥協点な気がしてゐる。
ほんとは Moleskine のポケットサイズくらゐがいいんだけど、Bullet Journal に使ふにはちよつと小さい気がするんだよね。
測量野帳も気に入つてゐるけれど、こちらはページ数が少ない。

といふわけで、ロルバーンにすることにしたのだが、ここにひとつ問題がある。
ロルバーンには栞がついてゐない。

MDノートには一本だが栞がついてゐた。
システム手帳は財力さへあれば好きなだけ栞用のリフィルを足すことができる。
LEUCHTTRUM1917には二本栞がついてゐる。
ロルバーンにはない。

さてどうしたものか、といつたときに思ひつくのが「さうだ、タティングレースの栞を作らう」なのは、まあ誰でも予想のつくことかと思ふ。

問題は、ロルバーンに固定された栞ではないといふことだ。
ページを開ければ栞は手帳からはなれた場所におく必要がある。
これだとなくしてしまふのではあるまいか。
なくしたらまた作ればいい?
ごもつともではある。

ロルバーンはスパイラル綴じのノートだ。
ピコをスバイラルに通すやうにしたらどうだらう。
さうしたら栞を固定できるのでは?

といふわけで、その路線でひとつかふたつ作つてみやうと思つてゐる。
どの栞にしやうかなあ。

と、考へてゐるときが一番楽しい。

Monday, 15 July 2019

文明の利器を投入したはいいものの

先週の水曜日、思ひたつてデスクライトを買つてきた。
蛍光灯が取り付けられなかつたからだ。
このまま暗い中暮らしていくのもなんだし、と思つてな。

一応、売場でできるだけ明るいものをと選んで買つてきた。
でも自信はなかつた。
だつて売場がもう十分明るいんだもの。
その中で明るいといつたつてたかが知れてゐるだらう。
さう思つて家に帰つて早速点灯してみたらこはいかに。

明るい!
まばゆい!
文明の利器!

これならすこしばかり離れた場所でもちよつとしたことができさうだ。
もちろんこれまであきらめてゐたあみものもできる。

と、喜んでゐたのだが。

結局、先週もなにも編んでゐない。
この三連休は関西方面に遊びに行つてゐたしな。
あと少しで編み終はるといふのに。

この「あと少し」といふのが難物なのはいつものことだ。
とりあへず、もうすこし気持ちが落ち着いてきたら再開するつもりだ。
蛍光灯の取り付けも、もうすこし落ち着いたら再度挑戦するつもりでゐる。

なんでこんなに気持ちがざはざはしてゐるのかな。

いつものことではあるけれど。

Friday, 12 July 2019

帰属意識と占ひ

干支や星座、四柱推命に血液型、占ひにもいろいろあるけれど、「あたつてる!」と思つたものはひとつもない。

動物占ひ(ある意味、四柱推命占ひ)だとやつがれは緑のチータで、緑のチータといふのは「超ポジディヴ」なのださうである。
「超ポジディヴ」?
やつがれが?
とは以前も書いた。

こちらは占ひではないが、MBTI (Myers-Briggs Type Indicator)といふ性格診断もアヤシい。
出てくる結果を見てもほぼ自分にあてはまるものはない。
本来は資格のある人間でないと診断はできないのらしいが、さういふ問題でもない気がする。
これも、「あたつてる!」「全部あてはまる!」といふ意見が多くてびつくりする。

たぶん、まつたくあたつてゐない人やほとんどあたつてゐない人はわざわざ「あたつてない」とか「ほとんどあてはまらない」などと声を上げたりしないのだらう。

まあ、MBTIもいまではまつたくあてにならない性格診断とばつさり切り捨てられてゐるやうだが。

ふしぎなのは、「あたつてる!」「全部あてはまる!」みたような人がゐる一方で、やつがれのやうに「あたつてない」「全然違ふ」と思ふ人がゐる、といふことだ。
……ふしぎでもなんでもないか。
世の中さうしたものか。

でも、どこからさういふ違ひが生まれてくるのだらう。
なぜ自分は「あたつてる!」と思はないのか。
自分のことを理解してゐないから?
それはありうる気がする。
では占ひや性格診断で「あたつてる!」と思ふ人は自分のことをよく理解してゐるのだらうか。
自分の性格を理解してゐたら、わざわざ占ひや性格診断に頼らなくてもいいのでは?

この違ひは、帰属意識の高いか否かにあるのではないかといふ気がしてゐる。
たぶん、普通の人は帰属意識が強いのだ。
どこか何かに所属したいと思つてゐる。
やつがれにはそれがない。
できればどこにも所属したくない。

ゆゑのことなのではないかと思ふが如何に、だな。

Thursday, 11 July 2019

淘汰されるべきCD人間の怪

先月、「アナと世界の終わり」といふ映画を見た。
ゾンビとミュージカルとの組み合はせといふのに心惹かれたといふわけではなく、予告篇を見てエラ・ハント演じる主役とサラ・スワイヤー演じる登場人物に心惹かれたからだ。

何度か書いてゐるやうに、怖いものは苦手だ。
ゾンビ映画もいままでひとつも見たことはない。
「アナと世界の終わり」にはゾンビ映画からの引用が各所にあるらしい。
見てないからわかんないんだよなー。
ちよつと悔しい。

見に行つて、もうゾンビはいいやと思つたけれど、でも映画自体はおもしろかつた。
ゾンビが出てないんだつたらもう一度見たい。
ゾンビ映画だからおもしろいんだろうとも思ふけれどもね。
おそらくゾンビ映画の文法で作られた映画だものね。
ゾンビ映画のお約束といふものがあつて成り立つてゐる映画だと思ふ。
そこに唐突に(でない場合もあるけれど)歌や踊りが入る。
歌がまたよくてね。

それで、「サウンドトラックを買はう!」と思ひたつたはいいが、今日日CDといふものはないのだつた。
Web検索をかけても出てくるのはダウンロードの案内ばかり。
HMVかタワーレコードにでも行けばありさうな気がしないでもないが、空振りしさうな予感もある。

iTunesを使つてゐると、一度は音楽をダウンロードして買つてみることもあるだらう。
ご多分にもれずやつがれも何度か買つたことがある。
CDまるごとはちよつとなー、といふ場合でも気に入つてゐる曲だけ買ふこともできるし、なにしろCDといふものが増えないし、いいな、と思つたものだつた。

そのはずが、気がつくと、またCDを買つてゐる。
最近だと持つてゐなかつたクイーンのCDは実店舗に行つて買つてきたものが多い。
実店舗でなくてもネット通販でCDを買つてゐる。
MP3などを買つてダウンロードしたものはひとつもない。

なぜだらうか。
ものが増えなくていいと思つてゐたはずなのに。

ひとつには、もともとCDで持つてゐたものが何枚かあつたから、といふことがあるだらう。
それでなにも考へずにCDを買つてしまつた。

また、CDにはライナーノートがついてくる。
そんなに熱心に読むわけではないが、といふのはライナーノートには「ライナーノート文体」とでもいふべき書き方があつてこれがそんなに好きなわけではないからだが、でもまあ、ダウンロードしてきてもついてはこない。

LPレコードのころと比べたら多少迫力は失せたものの、ジャケットもある。
MP3ダウンロードでもジャケットの画像を入手できることはあるが、CDでいふ表だけで裏もといふことはあまりない。

あとは、まあ、やはり時代に乗り遅れてゐるからだらうな。
淘汰されるべき人間、といふわけだ。

そんなわけで「アナと世界の終わり」のサウンドトラックはどうしやうかなあと思つてゐる。
ダウンロードするかな。

いい歌が多いんですよ。

Wednesday, 10 July 2019

居場所がない

今月は大阪松竹座に片岡仁左衛門の碇知盛を見に行つてあちらの友人と会ふし、来月は旅に出るつもりだし、九月には中村吉右衛門の松王丸があつて中村歌六の松浦侯があつて、十月は落語会に行くし、十一月もおそらくなんかあるし、十二月はこれで最後といふ噂の柳亭市馬のお歌の会があつて、一月にはさいたまに行く。

そこまでは生きなければ。
さう思ふ。

さうは思ひつつ、時折投げやりになつてしまふのはなぜなのだらうか。

思へば去年の十月末にポール・マッカートニーを聞きに行つたときなどもそんな感じだつた。
東京ドームまで来てゐるのである。
中に入つて、あとは開演を待つばかり。
なのに心が晴れない。
「どうして自分はこんなところにゐるかなあ」などと埒もないことを考へてしまふ。

もつといへば三年前、京都に顔見世を見に行つたときなどは、行きの新幹線の中でどうにも気持ちが沈み、歌舞練場に向かふバスの中では、もうほとんど泣きさうだつたくらゐだ。

だつたら行くなよ、といふ話なのだが、実際に見聞きするとこれが「いろいろあつたけれど、来てよかつたなあ」になる。

どういふことなのだらうか。

I don't belong here.

さう思つてしまふのだ。
ぢやあどこに blong してるんだよ、といふと、さういふ場所がないことに気づく。

自分の居場所がないんだな。
探してもゐないけれども。
だつてどこにもないかもしれないぢやん。

たまに自分の居場所ではないところに行くのはいいかもしれないけれど、常から自分の居場所でないところにゐるのに、なぜわざわざさらに遠いところ、それも物理的にも心理的にも遠いところに行かねばならないのか。

ぢやあ行くなよ。
次からは行くのをよさう。

と、毎回おなじことを考へてゐる。

Tuesday, 09 July 2019

縄を結んで文字にはしたのに

糸や縄を結ぶことは太古の昔からあつて、結縄文字や結縄数字なんてなものもあつて、日本にもあつたといふのは歴史の授業でちよこつと出てきたりする話だ。


手芸でいふとマクラメが糸を結んで作るもので、本邦ではプラントハンガーやベルトなど縄に近いやうな太い糸を結んで作るものがよく知られてゐるけれど、北方民族博物館などにいくと、40番手やひよつとするともつと細いやうなレース糸で作られたマクラメ作品が展示されてゐたりする。
マクラメは、ヨーロッパに渡つたものはアラビアにはじまつたとされてゐる。
また、中南米でも独自の発展をしたものもある。ミサンガなんかはそれなんではあるまいか。
タティングレースも古代エジプトにまでさかのぼれるとWikipediaにはある。

なんで日本では発展しなかつたんだらうかな。
結んで字や数字にするところまで来ながら、なぜその先には進まなかつたのだらう。
日本ではレース編みといふものも発展しなかった。
似たやうなものでいふと、漁に使ふ網くらゐだらうか。
網を作つたのなら、その先に行つてもいいのに。結縄文字・結縄数字はわりと同時多発的といはうか、伝播したわけではないけれど異なる地域で似たやうなことが行はれてゐたやうだといふのに。

刺繍は発展したのになあ。
てなことは、すでに誰かが研究してゐるやうにも思ふ。

機会があつたら探つてみるか。

 

Monday, 08 July 2019

平日は編めない

平日にあみものができなくなつてしまつた。
この週末、蛍光灯が取り付けられなかつたからだ。

蛍光灯が切れたのは先週の日曜の夜のことだ。
夜のことだつたのでどうしやうもなく、先週一週間は暗い中で過ごした。
土曜日に思ひ切つて、蛍光灯を取りはづしてみた。

一大事だつたなあ。
まづ蛍光灯のカヴァがはづれない。
一度あきらめて脚立から降り、気を取りなほして力業でカヴァをはづした。
いま思へば、蛍光灯をはづすのが一番楽だつた。
最初は戸惑つたが、回してみたら回り、端子が見えてはづせることが見てとれたからだ。

ここで求める蛍光灯の型がわかつたので、買ひに行つた。
帰りついて早速取りつけやうとした。
やつてもやつても蛍光灯の端子が入つていかない。
四本あるうちの二本をなんとか取りつけられたときには、帰宅から四十分はたつてゐた。

気をとりなして三本目に挑戦したが、どんなにやつても入らない。
夕暮れも近づき、だんだん暗くなつてきたのでその日はもうあきらめた。
よくよく見ると取りつけられたと思つた二本もうまく入つてゐないやうな気がする。

翌朝起きて確認したら、やはり取りつけられたと思つてゐた二本ともきちんと取りつけられてはゐなかつた。
このままでは地震でもあつたら落ちてきてしまふと思ひ、とにかくこの二本をはづすことを最優先にした。

うーん、はづすのはうまくいくんだよなあ。
はづしたうちの一本を取り付けやうとして、うまくいかない。
Web検索をかけたところ、先に片方の端子をはめておいてからもう片方の端子をはめる、と書いてあつたのでそのとほりにやつてみたのだがうまくいかない。
そりやさうだ。ななめになるんだもの、うまくはまるわけがない。
でも自己流でやつてみてはまらないものだから、藁をもつかむつもりでやつてみたんだよね。

いろいろやつてみて、どうやら脚立に乗つた状態で両手を上にあげなければうまくできないといふことに気づいてあきらめた。
脚立に乗るときは片手は必ず脚立の枠をつかむやうにしてゐる。
#あ、ステップ式折りたたみ脚立なので。
さうでないと足下がぐらつくし、あぶない。

カヴァはもつとムリだつた。

といふわけで、蛍光灯の取りつけはあきらめてしまつた。
Web検索をかけると「かんたん」「カンタン」「こんな簡単な事」といふ文言が次から次へと出てくる。

そんな誰にでもできるやうなかんたんなことができないだなんて……

そんなわけで、夜は暗いままだ。
あみものはできない。
土日にするしかないか。

もちろん、この土日は蛍光灯騒動ですべてつぶれてしまつた。

Friday, 05 July 2019

蛍光灯が切れてゐる

日曜の夜から蛍光灯が切れてゐる。

もつと明るい時間に切れてくれてゐたら少なくともどんな蛍光灯を買つてくればいいかを確認できたものを。
そんなの、朝起きて確認すればいいぢやん、といふ話もあるが、今週は毎朝雨や曇りで暗くてやはりちよつと怖かつた。

それに、もう切れさうとわかりつつ蛍光灯をはふつておいたのは、なにを隠さう脚立に乗るのが怖いからだ。
落ちるでせう、脚立に乗つたら。

まあ、落ちないこともある。
といふか、いままで生きてきて落ちたことはない。
しかし、だ。
まづ蛍光灯を覆つてゐるカヴァをはづして、虫だらけだつたりしたら、「ぎやつ!」とか云つて足を踏み外さないとも限らない。
さうでなくてもカヴァを手に一度は脚立から降りなければならない。
そしてまた脚立に乗つて蛍光灯をはづさねばならない。

一大事だ。

だいたい自分のバランス感覚に自信がないからかういふことになる。
倒れさうになるだらうと予想がつくあたりがダメなのだ。
それで、時折まばたきするやうな蛍光灯を眺めつつ「もつてくれよ」と祈つてゐたわけである。
そんな祈りが届くわけもないのだが。

そんなわけで今週はずつと夜は暗いままだつた。
料理はできないし、本を読むことも字を書くこともできない。
それでもラジオ講座だけはなんとか聞いてきたけれど、復習ができない。
MacbookやiPhoneを使つてゐても電気がつかないとひどく目が疲れる。

といふわけで、なんと、今週はいつもより就寝時間が早かつた。
布団に入つたからといつて即眠れるわけではないけれど、それでもいつもより眠れてゐたのぢやあるまいか。

蛍光灯が切れてゐてもいいことはある。
週末、新しい蛍光灯を買ひに行つて電気がつくようになつたら、また夜更かしの日々が戻つてくるのだらうか。

悩むな。

Thursday, 04 July 2019

ちやんと考へてる?

なぜ書くのか。
ぱつと思ひつく理由は「考へたくないから」だ。

ジョージ・オーウェルは人々の文章の書けなくなることに不安を抱き、こんなことばを残してゐる。
「みんながきちんと書けなくなつたらきちんと考へることができなくなる。きちんと考へられなくなつたら、誰かが代はりに考へるやうになる」

オーウェルは、まともな文章が書けなくなつたらまともに考へることができなくなる、すなはち書けるといふことがまづ大事、と云つてゐる。

しかし、自分は考へながら書いてゐるだらうか。
なにも考へてなくない?
だつて考へながら書いてゐたらこんな速度で書けはしないと思ふんだよね。

以前、囲碁や将棋の棋士の対局中の脳の働きを調べたところ、序盤のあひだはほとんど考へてゐないといふ結果が出たことがある。
序盤は定跡がつづくので、棋士にとつては慣れたものであり、一々考へなくても打てるし指せるといふ説明があつたやうに思ふ。
序盤に関してはいまはまた状況が変はつてきてゐと思ふが、えうは、対局中の棋士はいつでも考へてゐるわけではないといふことだ。
ダニエル・カーネマン云ふところの「システム1」を使つてゐる時間帯もある、ともいへる。

「システム1」「システム2」とはカーネマン云ふところの人の二つの思考モードだ。
「システム1」は直感的なものでほとんど考へずに経験則などから判断する思考で、「システム2」は反対に意識していろいろ考へるとき用の思考、とでもいはうか。

たとえば、通勤通学だ。
毎日通ひ慣れた道を行くのに、一々「まづ靴をはいて玄関を出て」とか「右に曲がつたら左に曲がつて」とか「何番線からどこゆきの電車に乗つてどこで降りる」などと一々考へて歩きはしない。
ほとんど自動的に職場や教室までたどりつくはずだ。
ここではほぼ「システム1」のみを使つてゐる。

だが駅に着いたらいきなり電車が止まつてゐたらどうだらう。
止まつた原因や復旧の見込み、人の流れなどからどうすれば一番早く目的地に着くか考へる必要が出てくる。
ここで使ふのが「システム2」だ。

人は一々「システム2」を使つて考へることはない。
「システム1」を使ふのも悪いばかりではなく、生きていくには必要なことだといふ。
そりやさうだ。一々考へなければ外出もできないやうでは生きてはゆかれまい。

で、ものを書いてゐるときはこの「システム1」を使つてゐる気がするんだな、少なくとも自分の場合は。
いまこの瞬間だつてものすごい勢ひでキーボードを打つてゐる。
一々考へながら打つてゐたらこの速さにはならない。
つまり、自分は考へてゐないことになる。

んー、だからダメなのかな?
考へながら書かないからダメなのかも?

さう思ひつつ、書くときは書くだけで、考へることはその他の時間帯にやつてゐるのではないかといふ気もしてゐる。

やはり考へてはゐるのかな。

Wednesday, 03 July 2019

ケの海外旅行

去年のいまごろ、「あなたに最適な海外旅行のタイプは?」みたようなYes/Noで答へてゆく占ひ的のものをやつてみた。

結果は、「日常生活の延長のやうな旅行が向いてゐます」と出た。

旅行とは、とくに海外旅行といふものは、非日常を求めていくものなのではあるまいか。
日常の延長のやうな海外旅行でなにが楽しい。

とはいへ、結果を見て「うむ」とは思つたのだつた。
どうもハレといふものが苦手だ。
冠婚葬祭的の催しが苦手なのはめんどくさいといふこともあるけれど、ケの場ではないといふことが一番大きい。
ハレにはハレの決まりがある。
それをよく知らないから不安になるのだ。

さらにハレにはハレの衣装がある。
普段着慣れないものを身につけて、さらにはよく知らないしきたりの中にはふりだされる。
イヤでせう。
お祭りも苦手だ。
にぎやかなのが苦手といふこともあるけれど、あれもやはりハレだからだらう。

旅行の中では海外旅行は群を抜いてハレつぽい。
そもそも空港からしてハレだ。
しかも搭乗の一時間とか二時間とか前から待機してゐないといけない。
持ち慣れぬパスポートを持ち、着替へだのなんだのを詰め込んだ普段は使はぬスーツケースやらバックパックやらを手に持ち物検査だの身体検査だのを受ける。
税関を一歩出たらそこは日本ではないといふ。
うわー、すごくハレだ。

それがケに近い日常の延長にあるやうなものなら、こんなやつがれでも行けるのではあるまいか。

どういふのがケに近い海外旅行なのか、全然ピンとこないけれども。

Tuesday, 02 July 2019

商売・売買

藤戸禎子と盛本知子の合同タティングレース展示会に行つたときのことだ。
時折レース作品を指さして「これほしいんですけどおいくらくらゐするものでせう」などと訊ねる客がゐる。
するとおそらく盛本知子だと思ふが、「お売りしてはゐないんですよ。母は「是非ご自身でお作りになつて」と云ふんです」といふ旨のことを答へてゐた。

さう。
おそらくそれが正しい。
手芸作品といふものは、売るものではないのだ。
なぜといつて、こちらが提示した額を相手が「諾」と云ふことはなかなかないだらうからだ。

金額を提示されたら客は云ふだらう。
「そんなにお高いの」と。

Twitterにたまにこんなつぶやきが流れてくる。
自分で作つたものをネット上で売つてゐると、「原価はこれこれなんだからこの売値は高すぎる」などと文句をつけてくる客がゐる、と。

価値のわからない人間には売れない。
価値がわかるがとうかネット上で判断するのはむつかしい。
フリーマーケットなどでもおなじやうな会話が交はされてゐるのだらうなあといふ気もする。

以前、リカちやんサイズの服を編んで売つたことがある。
はじめて売りに行つたとき、お隣の人に「それぢやあ安すぎる」と云はれた。
お隣の人はリカちやんやジェニーサイズの服をもう長いこと売つてゐるヴェテランで、固定客もかなり多かつた。
お隣の商品もさほど高いといふ感じではなかつたが、「安すぎると周りも迷惑」といふことはわかつた気がする。

その後、もう一度売りに行つて、それつきりになつてゐる。
たまにスーパードルフィーサイズの一点ものを自分の家にゐる子のためだけに作るのがせいぜいな感じだ。
タティングレースのドイリーなど作つて頭にかぶせたりするといい感じだつたりするんだよね。

たぶん、自分は自分の作つたものを売るのに向いてゐない。
そんなにいいものができるわけぢやないし。
商売つて、なんかむつかしい気がする。

それは逃げではないのか、とも思ふが、君子危ふきに近寄らず、とも云ふのだつた。

Monday, 01 July 2019

6月の読書メーター

6月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:2390
ナイス数:45

暗号解読(上) (新潮文庫)暗号解読(上) (新潮文庫)感想
どんなに最強と思われる暗号を作り出しても運用する人間のちょっとした行動の積み重ねで破られてしまう。国や軍、家族に恨みを抱く人間の裏切り(裏切る方から見たら裏切りでもなんでもない、裏切られたのは自分の方なんだろうが)のことなんて、裏切られる方は想像することさえないんだろう。
読了日:06月06日 著者:サイモン シン
暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)暗号解読 下巻 (新潮文庫 シ 37-3)感想
考古学的なヒエログリフや線文字Bの解読、公開鍵暗号のくだりには広い意味での集合知のようなものを感じる。付録の「暗号に挑戦」もとても興味深い。古代中国の暗号とかないのかなぁ。
読了日:06月16日 著者:サイモン シン
資治通鑑 (ちくま学芸文庫)資治通鑑 (ちくま学芸文庫)感想
ところどころ解説には納得行かないところがあるし、抜粋というのがもの足りなくはあるものの、読めることが嬉しい。人間は一様ではない。「史記」よりも痛切にそれをかんじる。もっと若いうちに読めればよかったなと思う。
読了日:06月18日 著者:司馬 光
暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)感想
こういうことを考えたかったんだなあ。前書きに出てきたおじさんと女学生とは「暇と退屈」をもてあましているというよりは他人に認められたかったんじゃないかと思うけれど、それも「暇と退屈」をまぎらす方法の一つではあるのだろうか。あとがきに出てきた大学生の例も面白い。パーティに退屈するというのがわからない学生とわかる学生とか。「暇と退屈」について自分なりに考えてみたい。
読了日:06月24日 著者:國分 功一郎
Ottoman Odyssey: Travels through a Lost Empire: Shortlisted for the Stanford Dolman Travel Book of the Year Award (English Edition)Ottoman Odyssey: Travels through a Lost Empire: Shortlisted for the Stanford Dolman Travel Book of the Year Award (English Edition)感想
オスマン・トルコだった国々をジャーナリストの著書が訪れる。アルメニアにあるトルコによる大虐殺を伝える博物館を訪れて、著者はショックを受ける。トルコで聞いていた話とはまるで違うからだ。トルコでは大したことのないこととして伝えられているという。著者の母はトルコ人で、著者は子供の頃母方の祖母とキプロス島で過ごしていたことがあるという。祖母はキプロス島にいるギリシャ人と仲良くしていて教会に行く相手に自分の無事も祈ってくれと頼み、自分がモスクに行く時は相手の分も祈ったという。でも何かで喧嘩するとひどく罵ったとも。
読了日:06月26日 著者:Alev Scott
読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術感想
最後のオチがいいんだよ、と云われて本屋で確認した。なるほどと思ったが、買って読んでみた。大阪出身で早大卒、電通の社員になれるような人ならね、と思ってしまう部分がある。「自分の内面を語る」人の文章はつまらないという。これはあちらこちらで云われていること。でも書きたいと思う人の書きたいことって、自分の内面なのではないだろうか。そして、おそらく書いていて面白いと思うのも自分の内面についてだろう。さらには多分読んでも面白い。そういう文章は他人には読まれないということなんだろうな。
読了日:06月30日 著者:田中 泰延

読書メーター

気持ちのゆるみが編みに出る

先週は平日も全然編めてゐない。
土曜日、出かける前にちよつと編んだくらゐだ。
なぜ編めないのかとここでもさんざん書いてきた。

好きな人はちよつとした時間でも編むといふ。
群よう子のあみものの本には、玄関先で三分でも編むといふ人が登場する。
わかる。編みたいときといふのはさういふものだ。
そして、おそらくあみものが好きな人といふのはいつでもさういふ状況なのだらう。

出先でちよつと待ち時間ができてしまつた。
編みたい。
ファミリーレストランで頼んだ料理がなかなかでてこない。
編みたい。
電車が止まつてしまつた。
編みたい。

かつてはさういふこともあつた。
たまたま定期券の切り替へが学生の多い時期とあたつてしまひ、みどりの窓口に延々と並んだことがある。
当時ははじめて北欧に行つたときに買つてきた毛糸を編んでゐていつも持ち歩いてゐた。
みどりの窓口で待つてゐるあひだに編んだ。
引き返し編みでくるくる旋回するマフラーを編んでゐた。
くるくる回るから編んでも編んでもそれほど長くはならない。
ずいぶん編めたものだつた。

以前も書いたやうに、アンカーのレース糸で鍋敷きを編んでゐるとき、たまたま赤坂駅で待ち合はせをすることがあり、相手がちよつと遅れてきたのでせつせと編んでゐたことがある。
色を三色使つてゐて持ち出すのもちよつとなと思ふくらゐかさばつたが、気にせずに編んだ。

今回のかぎ針編みのヴェストもそんな感じだつたんだけどなあ。
編めてゐた。
毎日帰宅後編んでゐた。
それが編めなくなつたのは、あと少しで終はるといふことと、やはり先週はちよつと忙しかつたのだらう。

ではあらためて今週は編むぞ、と思つてゐた矢先に蛍光灯が切れてしまつた。
夕べのことだから、交換もできてゐない。

かぎ針編みのヴェストの明日はどつちだ。

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