ひまつぶし
時々、考へる。
自分はほんたうにあみものが好きなんだらうか。
以前ここにも書いたやうに思ふ。
あみものが、タティングが、芝居見物が、ほんたうに好きなんだらうか。
こどものころは自分は本が好きだと信じてゐた。
父親がたまに土産とともに帰宅する、そのとき一番うれしいのが本だつた。
次がおもちやで最後がお菓子だ。
「自分は本が好き」だと思つても不思議はない。
でも、実際はさうでもなかつた。
だとしたらあみものやタティングや芝居見物も、実際は好きでもなんでもないのではあるまいか。
土曜日に手にした本に、この長年の疑問に近いことが書かれてゐた。
人は、退屈に耐えられないのだ、といふ。
ゆゑに、熱中できるやうなことを探してそれを好きだと思ひ(込み)、行ふのだ、と。
まだ読み始めたばかりで結論などに至つてゐないので本の紹介は後のこととしたい。
でも、さう考へると、「自分はほんたうにあみものが好きなのだらうか」といふ問ひの答へは明らかだ。
退屈に耐えられないから編んでゐる。
それが一番近い理由の気がする。
退屈に耐えられないと考へると、唐の玄宗皇帝の晩年のあれこれも「さういふことだつたのか」と思へる。
若い頃の治世は開元の治などと呼ばれ善政をしくのだが、晩年は楊貴妃に溺れ安禄山、史思明による叛乱をまねくことになる。
世を治め、この世の春を目の当たりにして、しかし、もう自分のすることはない。
そこに楊貴妃があらはれる。
と、なにごとも自分の理解したいやうにわからうとするのが人間の性とはいへ、チト性急に過ぎるかな。
いづれにしても、自分はほんたうにあみものが好きなのか、単に退屈に耐えられず暇つぶしとして編んでゐるのか、と考へると、どうも後者のやうな気がしてならない。
「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるヴェストを編みつつ、そんなことを考へてゐる。
自分はほんたうにあみものが好きなんだらうか。
以前ここにも書いたやうに思ふ。
あみものが、タティングが、芝居見物が、ほんたうに好きなんだらうか。
こどものころは自分は本が好きだと信じてゐた。
父親がたまに土産とともに帰宅する、そのとき一番うれしいのが本だつた。
次がおもちやで最後がお菓子だ。
「自分は本が好き」だと思つても不思議はない。
でも、実際はさうでもなかつた。
だとしたらあみものやタティングや芝居見物も、実際は好きでもなんでもないのではあるまいか。
土曜日に手にした本に、この長年の疑問に近いことが書かれてゐた。
人は、退屈に耐えられないのだ、といふ。
ゆゑに、熱中できるやうなことを探してそれを好きだと思ひ(込み)、行ふのだ、と。
まだ読み始めたばかりで結論などに至つてゐないので本の紹介は後のこととしたい。
でも、さう考へると、「自分はほんたうにあみものが好きなのだらうか」といふ問ひの答へは明らかだ。
退屈に耐えられないから編んでゐる。
それが一番近い理由の気がする。
退屈に耐えられないと考へると、唐の玄宗皇帝の晩年のあれこれも「さういふことだつたのか」と思へる。
若い頃の治世は開元の治などと呼ばれ善政をしくのだが、晩年は楊貴妃に溺れ安禄山、史思明による叛乱をまねくことになる。
世を治め、この世の春を目の当たりにして、しかし、もう自分のすることはない。
そこに楊貴妃があらはれる。
と、なにごとも自分の理解したいやうにわからうとするのが人間の性とはいへ、チト性急に過ぎるかな。
いづれにしても、自分はほんたうにあみものが好きなのか、単に退屈に耐えられず暇つぶしとして編んでゐるのか、と考へると、どうも後者のやうな気がしてならない。
「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるヴェストを編みつつ、そんなことを考へてゐる。
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