悪しき成果主義
かぎ針編みのヴェストをせつせと編んでゐるせゐだらうか、タティング熱は少々おさまつてゐる状況だ。
人の命は短い。
道半ばを過ぎた人間にはさらに短く感じられる。
さうしたときに、あみものもタティングレースもするといふのはどうだらうか。
ひとつにしぼるべきではないのか。
あみものかタティングレースか。
あみものにしても、棒針かかぎ針か。
なにがいいといつて、ひとつのことに時間がかけられるのがいい。
所詮短い人生だもの、あれもこれもと手を出すよりは、ひとつのことに打ち込んだ方が成果を得やすいのぢやあるまいか。
うまくもなるだらうしさ。
だがここで、「成果」について考へてしまふ。
自分はなにがしかの成果を得るためにあみものやタティングをしてゐるのだらうか。
それは、まあ、さうだらう。
作れば何かができる。
その何かが成果だ。
しかし、成果を得るためだけにあみものやタティングをしてゐるのかといふと、それもまた違ふ。
してゐて楽しいから。
だから編むしタティングもする。
さう考へると、成果を得やすいといふのは、することをひとつにしぼる理由にはならない。
でもつひ、成果でものを考へてしまふんだよなあ。
悪しき会社人の習性だ。
楽しいといふことでいふと、棒針編みには棒針編みの、かぎ針編みにはかぎ針編みの、タティングにはタティングの楽しみがある。
さう考へると、「やつぱりどれもちよこちよこやつていかうかなあ」と思つてしまふのだつた。
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