いつかルノワールの絵の前で
タティングはモバイルに向いてゐる。
Nina Libin も「ノマド向き」といふやうなことを書いてゐた。
糸にビーズを通してシャトルに巻き付ければ持つて出かけてタティングすることができる。
そんな内容だつたと思ふ。
Medium にも「飛行機でタティングをしてゐると「それはなに?」と声をかけられる」といふやうなことを書いてゐる人がゐる。
この人はフィラデルフィア美術館でルノワールの「タティングする少女」の絵の前でタティングシャトルを手に絵の中の少女とおなじポーズをして写真を撮つてもゐる。
ボビンレースとかだとかうはいかないよなあ。
そんなわけで、タティングはすつかりモバイル手芸となつているわけだが、ときに「それでいいのか」と思ふこともある。
家で落ち着いた状況でするべきぢやあないのか。
さうしないときちんとしたものを作れないのでは。
つねに同じ状態で落ち着いてシャトルを遣ふ。
それではじめて成り立つものではあるまいか。
目の具合だとかピコの具合だとか、一定に作るのには精神的にも安定した状態が必要だ。
とは思ふのだが、でも、さうかなあとも思ふ。
あみものにしてもタティングにしても手の動きは機械的になるものだ。
ものはあまり考へない。
むしろ考へた方が失敗する。
さういふ状況さへたもてれば、どこでしやうとあまり関係ないのではないかなあ。
そんなわけで、今日もシャトルを持ち歩いてゐる。
フィラデルフィア美術館に覗きに行つたあかつきには、ルノワールの絵の前で写真を撮つて来ることにしたい。
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