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Wednesday, 19 June 2019

わけのわからない芝居の話

古典歌舞伎には荒唐無稽な話が多く、見たあと「なぜさうなる?」と納得できずに家路につくことがある。

芝居の成立年が古いから、それで現代の感覚と合はなくなつてゐるのだらうか。
それはあるだらう。

江戸時代……といつても長いからどの時点のかと問はれると答へられないし全国的にさうだつたかどうかも定かではないのだが……と現在とでは「主人公」のとらへ方からして違ふ気もする。

といふのは、「南総里見八犬伝」を読んだときに主人公は里見の殿だと書いてあつたからだ。
実を云ふと、八犬伝は最初から最後まできちんと読んだわけではないので大きなことは云へないが、でも、読んだ範囲でいふと里見の殿が主人公なのは冒頭部分だけで、八つの玉がはぢけて飛んだあとはさうとは云へないのぢやあるまいか。
そのあとしばらく主人公は信乃のやうに思へるし、現八になつたり親兵衛になつたりする。
全体の主人公が里見の殿か、と問はれても「うん」とはいへない気がするんだなあ。

また、義太夫狂言に「義経千本桜」といふ作品がある。
これも全部を見たことがあるわけではないのでものの本で読んだことだが、義経が主人公なのは近年では上演されない冒頭部分だけで、あとは知盛だつたり権太だつたり狐忠信だつたりが主人公の話がつづく。

例が二つしかなくて恐縮だが、どうも当時(といつて具体的な年代があげられなくてさらに恐縮だが)は主人公といふのは狂言廻し的な立場にある登場人物のことをさしたのではないかといふ気がする。

そこからして違ふのだから(とは推測に過ぎないが)、話の流れの好みも違つても当然かと思ふ。

だが、普段だつたら「え、なんでかうなる?」と思ふ芝居がすつかり腑に落ちることもある。

出てくる役者に古怪な味があるときだ。

さうなるともう「ああ、これはこれでいいのだ」「これはかうなくてはかなはぬかなはぬ」といふ気分になる。

「摂州合邦辻」の合邦住家の段などを見てゐると、やれ玉手御前はほんとは俊徳丸のことが好きだつたのなんだのと取り沙汰されることがある。

それは現代的な感覚でなにごとにも理屈をつけないと気の済まない客が見るからさうなるのだ。

そんな野暮なこと云ひなさんな。
そのまま浮世絵になりさうな役者で見てみるといい。
「ああ、これはかうならないといけない」「なにはどうあれ、かうなるのが正しい」と思へる。
思へない人もゐるかもしれないけども。

話にいろいろ理由をつけたくなるのは現代を生きる人間にとつては仕方のないことで、それは演じる側もさうなのだらう。
「なんでかうなる?」と疑問を抱き「きつとかうだからだらう」といふので演じてゐるから見るこちらも「さういふことか」と思ふやうになる。

でもそんな理屈は圧倒的な力でねぢ伏せてほしい。
わけわかんなくてもいいぢやん。
歌舞伎なんだからさ。

問題はいま「そのままで浮世絵になりさうな役者」がさうはゐないことだけれども、たまさか、役者の背後に雲英が見えることがある。

だから芝居見物にも行くのだらう。

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