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Friday, 28 June 2019

Labor Camp ともいふか

疲れてゐる。
寝不足だからだ。
なぜ寝不足かといふと夜寝なくてはならない時間になると眠くないからだ。
時差ボケのやうな状態なのではないかと思ふ。
慢性的時差ボケとでも呼ばうか。

この週末はゆつくり休みたいのだがさうは問屋が卸さないやうな気もしてゐる。
やらねばならないことはたくさんある。
家のかたづけだとか家のかたづけだとか家のかたづけだとか。

世の中の人はどうしてゐるのだらう。
やつがれより眠れてゐない人はたくさんゐると思ふのだ。
さういふ人々もかうして日々不調を覚えたりしてゐるのだらうか。
ゐるのだらうなあ。
イライラしやすくなつたりだとか。
他人に対して無関心になつたりだとか。
通勤電車の車内の雰囲気が悪くても仕方ないよな、と時々思ふのはさういふわけだ。
みんな疲れてゐる。
#「みんな」はちよつと主語が大きすぎるだらうか。

疲れてゐるのに強制収容所につれて行かれる人が乗るやうなぎゆうぎゆう詰めの電車に揺られてゆく。
もしかしたらほんたうに行き先は強制収容所なのかもしれない。
本人や周囲の人が気づいてゐないだけで、職場は強制収容所なのかも。

だつたら仕事なんかやめればいいのに、と云ふのはかんたんだが現実にはむつかしい気がする。

なにしろ相手は強制収容所なのだもの。

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Thursday, 27 June 2019

ぶらりと本屋にも行けぬ

最近、目的もなくただぶらぶらしに本屋に行くことがなくなつた。

「最近」と書いたが、もう何年もしてゐないやうな気がする。
以前はよくした。
なに買ふでもなく本屋や文具屋に行つて、ぼんやりと棚と棚とのあひだを歩く。
「あ、こんなものが!」といふものがあれば買つたりもする。
衝動買ひといふのかもしれないが、それもまた楽しみのひとつであつた。

近頃はなにかほしいものがあるときにしか本屋には行かない。
行つて、目指すものに突進し、手にとつて会計したら後も見ずに帰る。

文具屋はそれでもひやかしに行くことがある気がするが、以前ほど頻繁には行かない。

買ふと決めたものだけを買ふ。
計画的でいいぢやあないか。
さうも思ふが、それだけだと殺伐とし過ぎる。
いいぢやあないか、たまにはあてどもなく本屋をさまよつても。
もしかしたら意外な本との出会ひがあるかもしれない。
さういふ出会ひつて案外いいものだ。
さういふ出会ひがないのはさみしい。
ネット通販とかだと、さういふ出会ひつてちよつとないんだよね。

そんなわけで、たまにはぶらりと本屋にでも行くか、と思ふのだが、いつしかさういふ体力がなくなつてゐることに気づく。
目的も定めずぶらぶらするには体力が必要なのだつた。
気力もだ。

かういふのつて、ちよくちよくやつてないとできなくなるんだな。

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Wednesday, 26 June 2019

PCが使へない

そろそろ新人の配属が取り沙汰される季節だ。
もう配属されてゐるところもあらう。
四月以降、二度ほど「Excelが使へない」「PCを使つたことがない」といふ話を聞いた。
いづれも別の部署の話ではある。

「Excelが使へない」といふのは、お客さんからの苦情だつたらしい。
新たに配属された若人が、どうやらMicrosoft Excelの使用に慣れてゐないといふことのやうだ。
慣れてゐないといつたつて、別段Excelで関数を使つたりマクロを書いたりするといふ仕事ではなささうだ。
おそらく、Excelで文書を作成することに慣れてゐないのだらう。

Excelで文書を作らうといふ方が間違つてゐる、と、やつがれなどは思ふが、それは置く。

噂ではあるものの、なにか文書を作らせやうとしたら、「文章はスマートフォンで打つてPCに送つてもいいですか」と訊いてきた新人もあるといふ。
スマートフォンでそんな長文が打てるのか、とも思ふが、大学を出てゐるとしたらレポートは全部スマートフォンで作成してゐたのだらうし、あれば卒業論文だつて書いたのだらう。

スマートフォンで打つとしたら、どれくらゐの長さのものが打てるだらうか。
たまにこのblogのエントリもスマートフォンで書くことがある。
さうすると明らかに文章が短くなる。
入力しづらさよりも、画面が狭すぎる気がするんだな。
このエントリはキングジムのポメラDM100で打つてゐる。
画面の大きさは似たやうなものぢやないか、といふ話もあるが、Page Up / Page Down が効くのが大きい。
スマートフォンだとフリックで移動することになると思ふが、それだと一ページ分きつかり移動するとかがむつかしいと思ふんだよね。

一番大きいのは慣れだらうけどもさ。

スマートフォンでは音声入力もしやすいからそれで文章を入力してゐるといふこともあるか。
でもなあ、だとしたら最近のPCにも音声入力はありさうな気がするんだがなあ。

いづれ職場からPCが姿を消す日がくるだらうと思つてはゐる。
でもそれはもつと遠い先のこと、自分はとつくにあの世に行つてしまつた後、と思つてゐた。

案外その日は近いのかもしれない。

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Tuesday, 25 June 2019

タティングシャトルをよくなくす

よくものをなくす人がゐる。
さうでない人にはおそらく理解できないと思ふが、さういふことはある。

Yarn Harlot aka Stephanie Pearl-McPheeはテープメジャーをよくなくすと書いてゐたやうに記憶する。
「えー、テープメジャー?」と思つてゐたら、先日テープメジャーが見つからないといふ事態に陥つた。
幸ひなことにすぐに出てきたけれど、それ以来テープメジャーといふものはなくなるものであると認識するやうになつた。
ちなみに、いつもは右側の手芸用具入れに入れてゐたのに何かのはづみで左側に入れてゐたのが敗因だつた。

自分がよくなくすものはなんだらう。
いろいろ考へてみたが、もしかするとタティングシャトルかもしれない。
クロバーの鼈甲風タティングシャトル(いまではさうは云はないのかもしれないが)は、いくつ買つたかわからないくらゐだが、どうも手元にはそれほどない気がする。

どこに消へたのだらう。
おなじクロバーの色付きのシャトルはそんなことないんだけどな。
色付きで五つセットで売られてゐるシャトルはいままで三セット買つたことがあつて、いづれも行き先はわかつてゐる。
二セットめは色が増えたから買つて、三セットめはその前に遣つてゐたシャトルの角が豪快におれてしまつたりして遣ひづらくなつたから買つた。

それと、木製のものとかちよつと特殊なタティングシャトルはなくしてはゐない。
一時なくしたかと思つて青くなつたこともあるが、ちやんと出てきた。

といふことは、クロバーの鼈甲風シャトルに限つてなくしやすいといふことだ。
なぜだらう。
タティングをしはじめたはいいものの、途中で挫折してそのまま忘却の彼方に行つてしまつたのだらうか。
多分さうなんだらうな。

鼈甲風シャトルは二つセットになつてゐて、片方に金、もう片方には銀のシールが貼つてあつて、二つ遣ひがしやすいんだよね。
あと当時出てゐた五色のシャトルは色があまり好きではなかつた。
でもシャトルを四つ一度に遣ふ作品を作つてみたくて買つた。
つまり、あまり積極的に遣ひたいタイプのシャトルぢやあないといふことだ。

さう考へると、鼈甲風シャトルは手に入れやすくて遣つてゐてもちよつと嬉しいし、そんなんでつひ買つては遣つてゐるうちにどこかに行つてしまふ、とか、さういふ感じなのかなあ。
なにしろどこかに失せるメカニズムがわからないのでどうしやうもない。

いづれにせよ、お道具はもつと大切にしなければ。

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Monday, 24 June 2019

片づけないことも大事

かぎ針編みのヴェストはあと裾を編むだけとなつた。
毎段減らし目があつて、どんどん進むやうになつた。
これまでは前身頃の前立てと前身頃後ろ身頃の裾をつづけて編んでゐたものだから一段が長くて、一日に一段編めれば上等といふ感じだつた。
それが日に何段か編めるやうになつた。

問題は、またぞろ腱鞘炎めいた症状が出てゐることだ。
くさり編みをしてゐる最中に糸をかけた左手の人差し指が動いてゐるのが原因らしい。
糸のかけ方がきつすぎるのかなあ。
でももうずつとこれでやつてきたから、いまさら変へたら編み地のやうすも変はつてしまふし。

といふので、休み休み編んでゐる。
ここまできたらもう仕上がらないこともなささうだしな。
あと五cmほど編めばいいだけだから。

ひとつ、きちんと進められてゐる理由がある。
それは、目につくところに編みかけのヴェストをおいてゐるといふことだ。
いすに座つて落ち着いたら即手の届くところにおいてゐる。
ひとたび座ればいつでも編み始めることができる。
これ、重要だと思ふんだよね。

編み終はつたらきちんと仕舞ふやうにしてゐると、目に付かなくなつて忘れてしまふことがある。
さうさう毎日編む時間がとれるわけでもないしね。ほかにしなければならないこともたくさんあるし。

でも、目の端に編みかけがあるのがわかれば、「ぢやあちよつとだけ編むか」といふことになる。
そのときにはムリでも「あとでちよつとだけ編まう」といふことも可能だ。
あまりなにもかもきれいに片づけてしまふとダメなんだよね。

といふのは片づけられない人間の云ひ訳ではあるのだが。

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Friday, 21 June 2019

「わたしを見て」とニジンスキー は云ふ

しかしまあよくぞここまで口から出まかせといはうか指先から出まかせといはうか手で書く時はペン先から出まかせが出てくるものだなあとは思ふ。

それも全部内容は「わたしを見て」であつて「わたしを見て」といふと青池保子の「イブの息子たち」のニジンスキーを思ひ出してしまふのだがなにを隠さうニジンスキーこそは「イブの息子たち」で一番好きな登場人物であつてだつたら本望と思はないでもないし結局ヴァーツラフ・ニジンスキー本人に興味を持つたのもこのニジンスキーのおかげだつたりはするのだから世の中捨てたものでもない。

千野帽子の「俳句いきなり入門」にはこの「わたしを見て」をくさした文章があつてだいたい人の云ひたいことといふのはこの「わたしを見て」に集約できてしまふものでたいしたヴァリエーションはあり得ずゆゑにそんな俳句はおもしろくないといふやうな内容だつたやうに記憶してゐてだつたらどうすればいいのかといふと自分の外にあることばを用ゐればいいといふのは漢詩の作り方の本にもあつてこの考へ方は世間的に共通のものなのだなあと思つたことがある。

ぢやあかうしてblogに書くこともおなじことで自分の外にあることを書けばいくらでも書けるはずなのだが気がつくと「わたしを見て」になつてしまつてゐてどうしたものかと思ふのだがどうにもできずにここまで来てしまつてほんたうになんといはうか自分の世界の狭さに途方に暮れつつ自己中心的といふのはかういふことなのだなあとうなだれるしかないのだつた。

だからおなじことばかり書いてしまふといふことはあるしおなじことばかり書いてもいいぢやんと森茉莉や山本夏彦の著書を読むと思ふのだがあなたどう思ひますかといふこの問ひかけは筒井康隆が以前よく用ゐてゐたものでつひ真似したくなるのは人情であり森茉莉や山本夏彦を読んでおなじことばかり書きたくなるのもこれまた人情なのである。

だいたい自分の世界が狭いのは出かけたくないからだし人と会ふのそんなに得意ではないといはうか気の合ふ人と会ふのはいいのだがこと出かけるといふことに関しては毎日出かけてゐると確実に体調をくづすことがわかつてゐてそれはもう高校生のころからさうなのでこればかりはどうにもならないし体力をつければいいと云はれてもぢやあどうすれば毎日出かけても大丈夫な体力がつくのかと問ふ相手もゐない。

高校生の時に横浜駅まで定期券を持つやうになつて入学当初は嬉しくてといふよりはせつかく定期券があるのにもつたいない気がして休みの日も出かけまくつてゐたら四月のうちに熱を出して寝込んだことがあつていま考へてみたらそれは毎日出かけてゐたことよりも新しい学校や新しい級友新しい教師に慣れてゐなかつたせゐなのではないかといふ気もするのだがそれ以来出かけることには慎重になつてゐる。

出かけるのが嫌ひなのに休みの日にしたいことは出かけることばかりだとは以前も書いたとほりで芝居見物だとか落語だとか映画だとか出かけることばかりしてゐてあまり休めた気にならないのだがこれも仕方のないことで落語と映画とはどうなるかよくわからないけれど芝居に関してはそのうち見に行かなくなるのではないかといふ気がしてゐると書くやうになつてもう十年くらゐたつてゐる気がする。

それつてほんたうに自分のしたいことなのかなとよく思ふが世の中の人はさう思つたりしないのだらうかと時々不思議になるのも道理であつてでも世の中の人はかうして自分語りをしないからなにを考へてゐるのかわからないんだよなあだつたら世の中の人が全員「わたしを見て」つてすればいいのにと思ひつつもいまはSNSなどがさういふ役割を果たしてはゐるのだらうと思はないでもないけれど若者はTwitterしないしLINE離れもはじまつてゐるといふからどうしてゐるのか定かではないと書きつつさうかInstagramかなとも頭の片隅に思ひ浮かべたりはするけれどInstagramも世間で取り沙汰されるやうになつてずいぶんたつ気がするので気の利いた若いものはもうとつくにそんなところにはゐないのではあるまいかとも思ふのだつた。

こんな感じでいつまでも書いてゐられるし書いてゐたいのだが時間が許さないのはいつものことで時間さへあれば延々とかうしてゐられるといふのは「徒然草」にあるとほり「あやし」く「ものくるほし」い気持ちになるからなのではないかといふ気がしてゐてそれつて多分脳内麻薬的ななにかが出てるつてことなんだらうなあと思ひつつ「徒然草」も「わたしを見て」な部分があるよなあなどと思ふにつけさういへば「枕草子」もだよなあなどと妄想は広がり「わたしを見て」とさうでない部分とのバランスとか「わたしを見て」と云つてゐる人間の個性とかに思ひを馳せるわけだが残念ながらやづかれにはさうしたバランス感覚に欠けるところがありさらには人間としてつまらないのでどうにもならない。


とりあへず帰宅したら「イブの息子たち」を出してきて読まう。

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Thursday, 20 June 2019

読む力と四技能

大学受験の英語について世間で取り沙汰されてゐる。
読む・書く・聞く・話すの「四技能」がどうだとか、業者テストを取り入れるの入れないのといふ話だと理解してゐるが、自分には関係がないのでよくわからない。

実は国語の試験も大変に変はらうとしてゐるらしいのだが、こちらはあまり話を聞かない。
英語が騒がれてゐるのだから国語も騒がれて然るべきだと思ふんだがなあ。
そもそも英語が喋れないのは日本語が喋れないからなのにねえ。

言語については、人はみづから読める範囲でしか聞くことも書くことも話すこともできないのだ、といふ。
これは大学受験の英語に関する言説の中で見かけた意見だ。
読める範囲でしか書けない、聞き取れる範囲でしか喋れないといふのはつとに感じてはゐた。
もつと云ふと、読めるほどには書けないし、聞き取れるほどには喋れない。
読んでわかることばでも自分で遣ふことができないものがいくらもある。

といふわけで、受験英語の「四技能」とやらはほんとに必要ですか、といふ話に進むのかもしれないが、ここはさうではない。

さうなんだよ、読める範囲、読み取れる範囲でしかことばを遣ふことができないんだよ。
といふことはさ、読むこと大事つてことなんぢやないの。

でも国語教育つて、読むことを大事とは思つてないよね、どう見ても。
いまの教育はどうだか知らないけどさ。
読書は家庭でのしつけ(といはうか)にまかせてゐるのだらうか。
我が親のやうに「本を読むより外でともだちと遊んで来い」といふやうな家で育つたらさういふ機会もないんだぞ。
どうするんだよ、そんな親ばかりだつたらさ。

とはいへ、読書が一般的になつたのはさう昔のことでもないと思ふので、一概には云へないとは思ふのだが。

できる子ははふつておいてもできるからそれでいい、といふことなのかなあ。
でも日本の教育つて、さうはは謳つてゐないと思ふんだよなあ。
教育も平等に。
さう云つてゐるやうに思はれる。

いづれにしても大学受験はもうやつがれには関係がない。
それが気になるのはどうしてなのだらうか。

少しは Bystander Effect の原因にはなりたくないと思つてゐるのかな。

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Wednesday, 19 June 2019

わけのわからない芝居の話

古典歌舞伎には荒唐無稽な話が多く、見たあと「なぜさうなる?」と納得できずに家路につくことがある。

芝居の成立年が古いから、それで現代の感覚と合はなくなつてゐるのだらうか。
それはあるだらう。

江戸時代……といつても長いからどの時点のかと問はれると答へられないし全国的にさうだつたかどうかも定かではないのだが……と現在とでは「主人公」のとらへ方からして違ふ気もする。

といふのは、「南総里見八犬伝」を読んだときに主人公は里見の殿だと書いてあつたからだ。
実を云ふと、八犬伝は最初から最後まできちんと読んだわけではないので大きなことは云へないが、でも、読んだ範囲でいふと里見の殿が主人公なのは冒頭部分だけで、八つの玉がはぢけて飛んだあとはさうとは云へないのぢやあるまいか。
そのあとしばらく主人公は信乃のやうに思へるし、現八になつたり親兵衛になつたりする。
全体の主人公が里見の殿か、と問はれても「うん」とはいへない気がするんだなあ。

また、義太夫狂言に「義経千本桜」といふ作品がある。
これも全部を見たことがあるわけではないのでものの本で読んだことだが、義経が主人公なのは近年では上演されない冒頭部分だけで、あとは知盛だつたり権太だつたり狐忠信だつたりが主人公の話がつづく。

例が二つしかなくて恐縮だが、どうも当時(といつて具体的な年代があげられなくてさらに恐縮だが)は主人公といふのは狂言廻し的な立場にある登場人物のことをさしたのではないかといふ気がする。

そこからして違ふのだから(とは推測に過ぎないが)、話の流れの好みも違つても当然かと思ふ。

だが、普段だつたら「え、なんでかうなる?」と思ふ芝居がすつかり腑に落ちることもある。

出てくる役者に古怪な味があるときだ。

さうなるともう「ああ、これはこれでいいのだ」「これはかうなくてはかなはぬかなはぬ」といふ気分になる。

「摂州合邦辻」の合邦住家の段などを見てゐると、やれ玉手御前はほんとは俊徳丸のことが好きだつたのなんだのと取り沙汰されることがある。

それは現代的な感覚でなにごとにも理屈をつけないと気の済まない客が見るからさうなるのだ。

そんな野暮なこと云ひなさんな。
そのまま浮世絵になりさうな役者で見てみるといい。
「ああ、これはかうならないといけない」「なにはどうあれ、かうなるのが正しい」と思へる。
思へない人もゐるかもしれないけども。

話にいろいろ理由をつけたくなるのは現代を生きる人間にとつては仕方のないことで、それは演じる側もさうなのだらう。
「なんでかうなる?」と疑問を抱き「きつとかうだからだらう」といふので演じてゐるから見るこちらも「さういふことか」と思ふやうになる。

でもそんな理屈は圧倒的な力でねぢ伏せてほしい。
わけわかんなくてもいいぢやん。
歌舞伎なんだからさ。

問題はいま「そのままで浮世絵になりさうな役者」がさうはゐないことだけれども、たまさか、役者の背後に雲英が見えることがある。

だから芝居見物にも行くのだらう。

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Tuesday, 18 June 2019

いつかルノワールの絵の前で

タティングはモバイルに向いてゐる。
Nina Libin も「ノマド向き」といふやうなことを書いてゐた。
糸にビーズを通してシャトルに巻き付ければ持つて出かけてタティングすることができる。
そんな内容だつたと思ふ。

Medium にも「飛行機でタティングをしてゐると「それはなに?」と声をかけられる」といふやうなことを書いてゐる人がゐる。
この人はフィラデルフィア美術館でルノワールの「タティングする少女」の絵の前でタティングシャトルを手に絵の中の少女とおなじポーズをして写真を撮つてもゐる。

ボビンレースとかだとかうはいかないよなあ。

そんなわけで、タティングはすつかりモバイル手芸となつているわけだが、ときに「それでいいのか」と思ふこともある。
家で落ち着いた状況でするべきぢやあないのか。
さうしないときちんとしたものを作れないのでは。

つねに同じ状態で落ち着いてシャトルを遣ふ。
それではじめて成り立つものではあるまいか。
目の具合だとかピコの具合だとか、一定に作るのには精神的にも安定した状態が必要だ。

とは思ふのだが、でも、さうかなあとも思ふ。
あみものにしてもタティングにしても手の動きは機械的になるものだ。
ものはあまり考へない。
むしろ考へた方が失敗する。
さういふ状況さへたもてれば、どこでしやうとあまり関係ないのではないかなあ。

そんなわけで、今日もシャトルを持ち歩いてゐる。

フィラデルフィア美術館に覗きに行つたあかつきには、ルノワールの絵の前で写真を撮つて来ることにしたい。

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Monday, 17 June 2019

なかなか仕上がらない

あひかはらず「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるネット編みのヴェストを編んでゐる。
一番目数の段を編んでゐて、あと数段は編まなければならない。しかも編んでゐるあひだにも毎段増し目がある。
これが終はつたらあとは減らし目の段に入るのですぐできあがる予定なんだが。
完成は遠いなあ。

このヴェストはエミーグランデで編むことになつてゐて、そのとほりに編んでゐる。
糸の色は本とは違ふけれど、なかなかいい色だ。

エミーグランデは着るものを編むには細すぎるなーと思つてゐたが、編んでみると案外さうでもない。
ネット編みだから興が乗ると延々と編めてしまふからかもしれない。

「美しいかぎ針編み 春夏27」には金票40番で編むヴェストとプルオーヴァも掲載されてゐる。
どちらもパイナップル模様で、とくにプルオーヴァは編んでみたい気がする。
模様がきれいなんだよね。
しかしなにを云つても40番の糸で着るものを編むものは、ちよつと、なー。
去年だつたか40番で細長いスカーフを編むのにもずいぶんと時間がかかつたもんなあ。

ヴェストを仕上げたら、「毛糸だま」に載つてゐたブリューゲルレースのストールを編みたいやうな気もするし。
いつ仕上がるかわからないけどな。

それはヴェストもさうか。

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Friday, 14 June 2019

心のゆとりはスピリチュアル

水曜日に「How to be a Gentleman」について書いた。
このとき「How to be a gentleman」でWeb検索をかけたところ、007のころのショーン・コネリーの写真がひつかかつてきた。

ステキだなあ。

実を云ふと、若いころのショーン・コネリーはちよつと苦手だ。
なんか、くどい。
さう思つてゐたしいまでもさう思つてゐる。

だが、写真のジェイムズ・ボンドは様子がよかつた。
白黒写真だつたから、よい加減に過剰さが抑へられてゐたのかもしれないとも思ふ。

ステキだと思つた理由のひとつが、なんだか余裕が感じられるから、だつた。
いつからか、映画の007には感じられなくなつたものだ。
ロジャー・ムーアのボンドには、これとはまた違つたゆとりがあつたやうに思ふ。
いつごろからだらうなあ、この余裕といふかゆとりがなくなつてきたのは。

「How to be a Gentleman」でも書いたやうに、紳士の要素のひとつに「気持ちのゆとり」がある。
もつともやつがれに足りないもの、とはそのときにも書いた。
では、心に余裕を持つにはどうすればいいか。

これをWeb検索にかけると、いきなりスピリチュアルな趣のサイトばかりひつかかつてくるのはなぜなんですかねー。
まあ、なんとなく予想はしてゐたけれど。

「紳士たるには」の検索結果はさうでもないのになあ。
「紳士たるには」の検索結果には、わりと具体的にかういふ行動をとるといいといふやうなものが並んでゐる。
「心に余裕を持つには」とかだとなぜこんなに宗教がかつたやうな内容になつてしまふんですかねー。

昨今の007に余裕が感じられないやうに、世の中、どんどん余裕やゆとりといふものがなくなつてきてゐるのだらう。
人はそこはかとなくさう感じてゐる。
でもどうすることもできない。
それで頼る先が宗教やスピリチュアルなもの、といふことなのかなあ。

心のゆとりはさういふところにしかないのだらうか。
「老後の心配は不要ですよ」と一生かかつても遣ひ切れないやうな大金を差し出されたら、不安もなくなるのではないか。
それともいきなり大金を目の当たりにしてかへつて余裕がなくなつてしまつたりするだらうか。

いづれにしても、007のときのショーン・コネリーはやつぱりいいのであつた。

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Thursday, 13 June 2019

挨拶は礼儀のうちに入らない

職場で、「挨拶なんてどうでもいいぢやん」といふ話をしてゐる人々がゐる。

声の大きい人がさう云つてゐるので、その場にいる全員がさう思つてゐるのかどうか定かではない。
いづれも仕事のよくできる人々で、「ああ、現在はさういふことになつてゐるんだな」と思ふ。

やつがれは古い人間なので、心のどこかで「Manners maketh man.」と思つてゐる。
#自分が礼儀正しいかどうかはまた別の話。
だから、「紳士になりたい」などと時代錯誤なことを考へたりもする。

幼いころから「礼儀正しいとはどういふ状態を指すのか」がわからず、他人と会ふのが不安だつた。
「無礼な人間」「礼儀をわきまへない人間」と思はれるのが怖かつたからだ。
それはいまでもかはらない。
おそらく礼儀といふものは時代によつて変はる。
その場その場でも違つてくるものだらう。
えうは臨機応変の才に欠けてゐるといふことだ。

思ふに、挨拶をすることは礼儀の一環ではないのぢやあるまいか。
挨拶をする人=礼儀正しい人ではない、といふことだ。
挨拶をすることがあたりまへになつたからではない。
挨拶をする人が少なくなつたからだ。
さして親しくもない他人から挨拶されることを厭ふ人が増えたから、といふこともあらう。
つまり、挨拶をするといふことは相手に嫌がらせをするといふことに等しい。
それは礼儀正しいとはいへないよな。

ここでもやはり自分は淘汰されるべき人間のやうだ。

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Wednesday, 12 June 2019

How to be a Gentleman

時折、紳士になりたいと思ふ。
「紳士の行動とはかうしたものだらう」と考へて実践して、無理だと思つてやめてしまふ。
そのくり返しだ。

紳士とはなにか。
品があつて(この時点でダメなのだが)、礼儀正しく、学徳があつて、他人への気配りのある人のこと、と、辞書に書いてあることをまとめるとかうなる。
昔は男の人のことを云つたのかもしれないが、いまは性別を問はないだらう。

紳士といつて思ひ浮かぶものに、スティングの「Englishman in New York」がある。
「A gentleman will walk but never run.」といふ歌詞があつて、「さうだなあ、紳士は走らないものだよなあ」と思ふ。

たとへば朝の駅だ。
通勤通学時間帯の駅には、先を急ぐ人ばかりだ。
中には猛ダッシュする人もゐる。
我先にと走る人もあれば、寝過ごしたかバスか電車が遅れたといふ風情で走る人もある。
紳士は走らない。
まづ混雑したところで走るだなんて他人への配慮が足りない。
寝過ごしたのは自分の責任だし、バスや電車が遅れたのは運が悪かつたかもつと早めの便に乗らなかつた自分のせゐだ。
そんな理由で走るだなんて、自分の矜持が許さない。

紳士といふのは、かうしたものかと思ふ。

つまり、紳士に必要なのは心の余裕だ。
気力と体力も必要かと思ふ。
電車で人に座席をゆづるにも、自分の目的地まで立ち続ける気力と体力とがいる。
たまに「日本で電車の席をゆづる人が少ないのは、乗つてゐる時間が長いからなのでは」といふ意見を見かける。
さういふことなのかもしれない。
十分くらゐで降りるのならまだしも、三十分、一時間と乗り続けることを考へると、そして昨今のやうにしよつ中運転見合はせが発生することを考へると、おいそれと座席をゆづることなどできなくなる。

そして、やつがれにもつとも足りないのが、この余裕と気力・体力なのだつた。
ムリぢやん、紳士になるの。

でもたまに「紳士になりたい」と思ふんだよなあ。
なれないからあこがれるのかもしれない。

スティングの「Englishman in New York」にはもうひとつ印象的な歌詞がある。
「Be yourself no matter what they say.」だ。

紳士たるといふことは、さういふことなのかもしれない。

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Tuesday, 11 June 2019

タティングレースをはじめたきつかけ

あみものをしたいと思つた理由は思ひ出せないが、タティングレースをしてみやうと思つたきつかけは覚えてゐる。

リカちやんやジェニーの服を編むことに夢中だつたころのことだ。
手芸店のレース編みのコーナーに行くと、出版されたばかりの藤重すみの「かわいいタッチングレース」が並んでゐた。
おそらく当時ちよつとばかり改訂されたクロバーの鼈甲風シャトルも目立つところに陳列されてゐた。

人形の服にレースをつけたい。
でも自分で編むと人形用にはごついものができてしまふ。
なにかいいものはないだらうか。

といふわけで、「かわいいタッチングレース」とタティングシャトル(当時風に云ふと「タッチングシャトル」)とを求めたのだつた。

店頭で本を見て、「これでは自分がほしいと思つてゐる人形用のレースは作れないかもしれない」と思つてはゐた。
理想のレースはもつと目のつんだものだ。
タティングレースは空間が大きい。
スカートの裾は飾れても着るものにはならない。
なつてもなにかしら下に着せる必要がある。

わかつてゐて、手を出した。

とにかく苦労したし、それなりにタティングができるやうになるには次の本である藤戸禎子の「華麗なるレース タッチングレース」を入手してからのことなのだが、こんなきつかけにしてははまつたねえ、タティングレースに。

細々といまでもつづけてゐるのだからよほど気に入つたのだらう。

なにがきつかけになるのか、わからないとはほんとのことだなあ。

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Monday, 10 June 2019

恐怖の睡眠不足

先週はほとんど編めなかつたヴェストだが、土日で少し進んだ。


先週はひどく睡眠不足だつた。

毎日就寝時間と起床時間とを記録してゐて、その結果から見ても明らかだ。

この時間に布団に入つてこの時間に起きてゐたら、そんなに眠れてゐるわけがない。


しかし、睡眠不足でも一日は回る。

時折ひどく眠たいといふこと以外に不調はない。

あるとしたら、毎朝「今日こそは早く寝やう」と思ひ、職場については「今日こそは早く寝やう」と思ひ、帰宅して「今夜こそは早く寝るぞ」と思ひ、就寝しなければならない時間になると「ま、もうちよつといいか」になつてゐること、くらゐだらうか。


寝なければならないときには眠たくない。

さういふリズムになつてしまつてゐるのだらう。

そして朝を迎へて、「今日こそはほんたうに早く寝やう」と思ふ。

そのくり返しだ。


寝不足だと自分でも気づかぬうちにやる気がそがれていくやうだ。

編めてゐないといふのがその証拠だ。

編みかけのヴェストは、すぐ手に取れるやうにいつも座るいすの脇においてゐる。

なのに編めない。

形がちよつと複雑になつてゐるので、気をつけて取らないと糸がほどけてしまふといふのが理由だつたりはするのだけれど、なに、その程度ならほどけたところで大したことはない。

また編みなほせばいい話だ。

なのに編めない。


そして、編めないことに気づかない。

こんなに即編めるやうに環境を整へてゐるのに編めない、それがチト異常だといふことに気づかないのだ。


おそろしいな、睡眠不足。


土曜日に展示会に行つて、なんとなくやる気をもらつて帰つてきて、ヴェストにとりかかつた。

毎段増し目をする上に、後ろ襟部分を編み出すことになつてゐて、一段がかなり長くなつてゐる。

襟を編み終へたら、あとは減らし目だ。

形はだいぶ見えてきてゐる。

まだ時間はかかりさうだが、この夏はもう一枚くらゐなにか編めるかもしれない。

睡眠さへ十分にとれるやうなら、ね。

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Friday, 07 June 2019

泳がなければ溺れてしまふ

先日、TVで天気予報を見てゐたら「もうすぐ梅雨入りします。非常用持出袋の中身を確認してください」と云つてゐて、ちよつとびつくりした。

え、だつて、梅雨ですよ。
台風ぢやないんだよ?
梅雨つて、そんなおほごとだつたつけか。

世の中、すつかり変はつてしまつてゐるんだな。
五月に気温摂氏三十度超の日がつづく時点で気がつけよ、といふ話もある。

こんな感じで、世の流れについていけないことが多い。

Twitterを見てゐると、時々さう思ふ。
たとへば、「人の容姿に言及してはいけない」とかね。
礼儀としてはさうだらう。
でも自分がこどものころは、他人のことをデブだのブスだのチビだのハゲだのと云つてはばからない人間がたくさんゐた。
お笑ひのネタにだつてさういふのがあつたやうに思ふ。これは記憶違ひかもしれないが。あつても自虐ネタとかね。

これつて、もう常識なんですかね。
誰でも知つてゐることなんだらうか。
どうもさう思へないのは、いまでも職場などでは陰口として聞かれることがあるからだ。

けなすだけでなく、褒める方もダメなのだといふ。
美人ですねだとか脚が長いですねとか云つてはいけない。
多分、幼い子供を見て「可愛いですね」といふのはOKだとは思ふけれど。

「人の容姿に言及してはいけない」といふのはいいことだとは思ふけれど、さうなつたんならさうなつたつて教へてくれないと、対応できないよ。

カネカなんかもそんな気分なんぢやないかな。
カネカのやつたことは、これまでずつとやつてきたことなのだらう。
いままでこれで問題がなかつたのだから、今回だつて問題はない。
そのはずだ。
でもさうぢやなかつた。

大河ドラマ「いだてん」で、杉本哲太演じる永井道明に「私は古い、淘汰されるべき人間なのでせう」といふセリフがある。
古い人間には、新しいものを取り入れることがむつかしい。
だから一線から退く。

ボブ・ディランも歌つてゐる。
「For the times they are a-changing」と。

でもその事実になかなか気づけないものなんだよ。

さうなつたら淘汰されるべきなのでせう。

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Thursday, 06 June 2019

チケットの半券に趣を

そのとき遣つてゐる手帳にチケットの半券を入れる。

チケットの半券などとつておいてどうするつもりなのか。
我ながらわからない。
なんとなく捨てられずにゐる。
最近はチケットの半券に自分の名前が印字されてゐることもあり、かんたんには捨てられなくなつてしまつたといふこともある。

以前は、チケットといへばそれなりに凝つたつくりのものだつた。
京都南座の顔見世興行のときなどは、ほかの劇場やほかの興行のときとはまたちよつと違つた趣のチケットだつた。
模様とか字体とか、さういふところに「特別な興行なんですよ」といつた雰囲気が漂つてゐたやうに記憶してゐる。

最近、QUEENの来日公演のときのチケットの半券をSNSなどで見かけることがある。
どれも工夫を凝らしたデザインのチケットで、「そりや捨てられないよね」と思ふ。

宝塚歌劇団とか、どうだつたのかなあ。

近頃ではチケットはどれを見ても似たやうなものばかりになつてしまつた。
見分けがつかない。
なぜといつて、コンヴィニエンスストアなどで印刷したものが大半を占めるからだ。
違ひはといふと、セブン−イレブンを利用したかはたまたローソンかファミリーマートかといつたところか。
さうではなくても、歌舞伎のチケットなどもどれを見てもおなじやうで趣に欠ける。

そんなところに趣を追求して、それでさらにチケット代が高くなつても悲しいが。
でも、なんかかう、もうちよつと趣があつても、と思ふんだよな。
だつて芝居とか演奏会とかつて、さういふもんでせう。

チケットもそのうち全部電子化されて手元に半券が残るといふこともなくなるのかもしれない。
それまでのちよつとした楽しみ、かな。

半券を取つておくのは、さ。

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Wednesday, 05 June 2019

出かけたくない

できればあまり出かけたくない。
家でぼんやりしてゐたい。
いまはそれが一番ぜいたくな時間の使ひ方だと思つてゐる。

働くには出かけなければならない。
といふことは、平日は毎日出かけるといふことだ。

芝居見物には出かけなければならない。
寄席や落語会も同様。
映画を見るにも映画館に行く必要がある。

買ひ物はひよつとしたら最近では通信販売でなんでも手に入るのかもしれない。
しかし、ゴミ捨てには行かねばならない。

極端な話、ヴェランダにさへ出たくない。

自分にとつて「安静日」といふのは、洗濯もせず、しても部屋干しで、ひたすら家の中でぢつとしてゐることだ。
布団の中ならいふことはない。

さうして家の中にゐることにたいして、負ひ目だとか引け目だとかを感じることはない。
さうしたいのだもの。
なにが悪い。

などと云ひつつ、先日も書いたやうに、家の中にこもりつきりではいけないのではないかと思つて、連休中ほぼ三日に一度は出かけてゐた。
こもりつきりだと躰が弱るしね。
とくに足腰が弱る。

でも足腰が弱つて困ることといつて、「出かけられなくなる」ことくらゐしか思ひつかない。

人は斯様に出かけることを絶対だと思つて暮らしてゐるものらしい。
ずつと家にゐたいやつがれにしてこれだ、とは、やはり先日も書いたとほりだ。

問題の根は深い。

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Tuesday, 04 June 2019

悪しき成果主義

かぎ針編みのヴェストをせつせと編んでゐるせゐだらうか、タティング熱は少々おさまつてゐる状況だ。

人の命は短い。
道半ばを過ぎた人間にはさらに短く感じられる。
さうしたときに、あみものもタティングレースもするといふのはどうだらうか。

ひとつにしぼるべきではないのか。
あみものかタティングレースか。
あみものにしても、棒針かかぎ針か。

なにがいいといつて、ひとつのことに時間がかけられるのがいい。
所詮短い人生だもの、あれもこれもと手を出すよりは、ひとつのことに打ち込んだ方が成果を得やすいのぢやあるまいか。
うまくもなるだらうしさ。

だがここで、「成果」について考へてしまふ。
自分はなにがしかの成果を得るためにあみものやタティングをしてゐるのだらうか。
それは、まあ、さうだらう。
作れば何かができる。
その何かが成果だ。

しかし、成果を得るためだけにあみものやタティングをしてゐるのかといふと、それもまた違ふ。
してゐて楽しいから。
だから編むしタティングもする。
さう考へると、成果を得やすいといふのは、することをひとつにしぼる理由にはならない。

でもつひ、成果でものを考へてしまふんだよなあ。
悪しき会社人の習性だ。

楽しいといふことでいふと、棒針編みには棒針編みの、かぎ針編みにはかぎ針編みの、タティングにはタティングの楽しみがある。

さう考へると、「やつぱりどれもちよこちよこやつていかうかなあ」と思つてしまふのだつた。

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Monday, 03 June 2019

ひまつぶし

時々、考へる。
自分はほんたうにあみものが好きなんだらうか。
以前ここにも書いたやうに思ふ。
あみものが、タティングが、芝居見物が、ほんたうに好きなんだらうか。

こどものころは自分は本が好きだと信じてゐた。
父親がたまに土産とともに帰宅する、そのとき一番うれしいのが本だつた。
次がおもちやで最後がお菓子だ。
「自分は本が好き」だと思つても不思議はない。
でも、実際はさうでもなかつた。

だとしたらあみものやタティングや芝居見物も、実際は好きでもなんでもないのではあるまいか。

土曜日に手にした本に、この長年の疑問に近いことが書かれてゐた。
人は、退屈に耐えられないのだ、といふ。
ゆゑに、熱中できるやうなことを探してそれを好きだと思ひ(込み)、行ふのだ、と。

まだ読み始めたばかりで結論などに至つてゐないので本の紹介は後のこととしたい。

でも、さう考へると、「自分はほんたうにあみものが好きなのだらうか」といふ問ひの答へは明らかだ。
退屈に耐えられないから編んでゐる。
それが一番近い理由の気がする。

退屈に耐えられないと考へると、唐の玄宗皇帝の晩年のあれこれも「さういふことだつたのか」と思へる。
若い頃の治世は開元の治などと呼ばれ善政をしくのだが、晩年は楊貴妃に溺れ安禄山、史思明による叛乱をまねくことになる。
世を治め、この世の春を目の当たりにして、しかし、もう自分のすることはない。
そこに楊貴妃があらはれる。

と、なにごとも自分の理解したいやうにわからうとするのが人間の性とはいへ、チト性急に過ぎるかな。

いづれにしても、自分はほんたうにあみものが好きなのか、単に退屈に耐えられず暇つぶしとして編んでゐるのか、と考へると、どうも後者のやうな気がしてならない。

「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるヴェストを編みつつ、そんなことを考へてゐる。

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Saturday, 01 June 2019

5月の読書メーター

5月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:1589
ナイス数:24

墨攻 (文春文庫)墨攻 (文春文庫)感想
「エピクテトス」にちょっと似たところがあるかなと思った。いわゆる「ストイック」なところが。この小説にしても「エピクテトス」にしても、主人公は他人からは理解不能の気持ちの悪い存在と思われたりする。人間らしい(と気持ち悪いと思う人たちの思っている)感情や言動が見られず、自分の信じるところに従っているからか。それには相応の代価を払うことになるわけだが、こういう生き方ができたらと思わないでもない。
読了日:05月01日 著者:酒見 賢一
Early Riser: A Novel (English Edition)Early Riser: A Novel (English Edition)感想
人が冬眠する世界の物語。舞台設定もおもしろいけれど、「なにが本当なの?」という話の展開にも引き込まれる。翻訳してほしい。
読了日:05月21日 著者:Jasper Fforde
時空のからくり 時間と空間はなぜ「一体不可分」なのか (ブルーバックス)時空のからくり 時間と空間はなぜ「一体不可分」なのか (ブルーバックス)感想
八っつぁん熊さんが賢すぎる。なぜ八っつぁん熊さんなのだろう。著者が落語好きなのだろうか。わかる人が「わからない人向けにわかるように書こう」とするとこうなるのかな、とも思う。再読する予定。
読了日:05月24日 著者:山田 克哉
宇宙の「果て」になにがあるのか 最新天文学が描く、時間と空間の終わり (ブルーバックス)宇宙の「果て」になにがあるのか 最新天文学が描く、時間と空間の終わり (ブルーバックス)感想
同じような内容の本を二冊ほど読んできたのでわかるような気もしつつ、やっぱりわからない。ガンダムやあしたのジョー、スターウォーズのネタをちらほらとちりばめつつ、そこはかとなく基礎研究の大切さを感じ取れたところが好感度高い。
読了日:05月29日 著者:戸谷 友則
会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語会計の世界史 イタリア、イギリス、アメリカ――500年の物語感想
なぜ会計のことがよくわからないのか、少しわかった。まず最初にプラスとマイナスという概念がなかったせい。減価償却の話のところで東芝も新たな会計処理を生み出していればよかったのに、というようなことが書いてあって、つまり減価償却は当時の常識から考えたら不適正会計だった、ということか。同じようなことはたくさんあるんだろう。わかりにくいわけだ。
読了日:05月29日 著者:田中 靖浩

読書メーター

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