寝た甲斐がない
連休中は、睡眠第一の生活を送つてゐた。
できるだけその日の内に就寝し、規則正しい生活をする。
二日ほどその日の内に布団に入れなかつた日もあつたが、それでも十二時をちよつと過ぎたくらゐには入つてゐた。
就寝時間と起床時間とは十日間のあひだ、ほぼ一定で、睡眠もきちんととれてゐたやうに思ふ。
それでものどの痛みは去らず、痰が絡んだやうな感覚がつづいた。
連休終盤はちよつとしたことでうつかり泣きさうになつたりするほどだつた。
ちよつとしたことといふのは、「ユリイカ」の橋本治特集号をぱらぱらと見てゐるときに、「歌舞伎の魅力は古怪です」といふ一文を目にしたことだ。
はらはらと涙がこぼれる、と思つた寸前で阻止したが、いまもつてなぜそんなことで泣けさうになつたのかよくわからない。
睡眠が足りてゐたら情緒は安定するものなのぢやあるまいか。
十日間ほどではこれまでの不摂生を清算することはできないといふことか。
もしかしたら、睡眠が足りてゐると、刺激に敏感になるのではあるまいか。
ちよつとしたことにも心動かされる、つまり、感受性が豊かになるのではないか。
「歌舞伎の魅力は古怪です」なんて、もういまどき云ふ人ゐないよ、橋本治くらゐだよ。
と、おそらくあのときさう思つた。
でもその橋本治はもうゐない。
それで泣きさうになつたんぢやないかなあ。
芝居や映画を見たり本を読んだりしても泣くことがない。
「いやー、昨日の芝居は泣けたなあ」と云ふとき、実際には全然泣いてゐない。
人はかういふとき泣くだらうし、たぶん、自分も人目がなかつたら泣いてゐるんぢやないかな。
さういふときに「泣ける」とか「泣けた」とか云ふ。
ほかの人だつたら泣くと思ふけど自分は泣かない、それと「泣けた」とは同義なのだ。
自分の中では。
それつて、もしかして不摂生のせゐで感受性が鈍つてゐたからなんぢやないの。
情緒の安定と感受性の鋭さとはどう関係するのかよくわからないがな。
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