ひとり叫ぶ「Not the coffee machine!」
毎日行くコンヴィニエンスストアで、「いつもありがたうございます」と云はれてしまふ。
とたんに行きづらくなる。
同じやうなことをつぶやいてゐる人もゐるので、かう感じるのは自分だけではないのだらう。
スターバックスなどでも「いつものですね」と云はれると「あ、しばらく来るのよさう」とか思つてしまふ。
穂村弘も「本当はちがうんだ日記」に似たやうなことを書いてはゐなかつたか。
穂村弘が書いてゐたのは、「ひとりでも絶対カウンタ席には座りたくない」だつたかな。
自分の中では常連になることとカウンタ席に座ることとはほぼ同義なのでごつちやにしてゐるのかもしれない。
なぜ「いつもありがたうございます」だとか「いつものですね」と云はれることを避けたがるのか。
それは、「誰でもない人間」でゐたいからだ。
こどものころビートルズの「Nowhere Man」を聞いたときに「こんな感じかな」と思つたりもした。
先月の半ばまではせつせと川崎チネチッタに通つて見てゐた映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、今月頭に立川とお台場で一回づつ見て、それきりだ。
結局ディスクを買つたので家でも見た。字幕と吹き替へとを一度づつ。
その後は、たまに「ロジャーの車のお歌問答」の場面とか「フレディ三人をけなす」の場面とかのセリフをひとりで口にしてゐたりする。
セリフが好き、といふ話はここにも何度か書いてゐる。
それつてつまり、舞台なり映画なりでその役を演じてみたいといふことなんでせう、といふ意見もあらうかと思ふ。
違ふんだなー。
さうぢやない。
なにしろ「いつものですね」と云はれないやうな存在でゐたい人間なんだよ。
スポットライトを浴びて他人を演じるなんて、やりたいことから一番遠いことのひとつだ。
芝居や映画のセリフを覚えて口にする、といふのは、おそらく自分の中では教養のひとつなんだと思ふ。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」が教養になるのか、と云はれるとちよつと困るけど、「カサブランカ」だとか「風と共に去りぬ」だとかといつた映画のセリフは知つてゐるとチラと見かけた文章に遣はれてゐたりして、「ふふ」とか思つてしまふことがある。
「スターウォーズ」の「May the Force be with you.」だつてもうお約束になつてるでせう。
もともとが教養に欠ける育ちなので、勢ひエンターテインメント系の知識が教養になりがちなんだな。
さういふわけで、今日も「あのコンヴィニエンスストアに行かないとしたらどこの店に行つたらいいのか」と悩みつつ、たれ聞くことのない「Not the coffee machine!」を叫んでゐたりするわけだ。
« マクラの話と残念な客 | Main | 理屈抜きに好き »
Comments