記録を捨てる世の中に
のどが痛い。
一昨日は血痰が出た。
鼻をかんでもティッシュペーパーが赤くならないので、のどから出た血だらう。
姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉を吐くとか洒落てゐる場合ではないのだが、つひ。
記録を見ると、どうも一年のこの時期、連休からその後一、二週間くらゐはのどが痛いらしい。
連休に入つたとたん風邪を引いて寝込むことがあるので、そのあふりでのどもやられてしまふといふこともある。
今年は寝込むこともなく連休を迎へたから、あたたかくなつてきて油断してしまつたのかもしれない。
この時期乾燥してくるからといふのもあるかな。
血痰は別段変はつたことではなく、通常運行だ。
記録のおかげでさういふことがわかる。
時々、「いつたい自分はなぜこんなことを手帳に書き付けてゐるんだらうか」と不思議になることがある。
やめちやへばいいのに。
やめたところで困りはしないのに。
だいたいいまは、国の大事な記録でさへ廃棄しちやふ世の中だ。
#「廃棄しました」と口では云つてとつておくのがほんたうなんぢやないの、と思ふが。
しかし、やめられないのだつた。
たまに疲れきつてしまつて、「記録記録」といふ内なる声に耐へきれなくなつて、なにも書かないこともある。
でもいつのまにか再開してゐる。
長いことスケジュール帳にも予定より実績を書き込むことの方が多かつた。
以前の手帳などを見ると、著名人の訃報だとかニュースで気になつたこと、読んだ本、見た芝居、聞いた噺のことばかり書いてあつて、肝心の予定のことはあまり書き込まれてゐない。
予定を立てるのが苦手なのだ。
書いたらやらねばならないといふ強迫観念がある。
また、順序だててものごとを成し遂げていくといふことが苦手だ。
ほぼ日手帳は自分にぴつたりの手帳だつた。
ほぼ日手帳はほぼ十年間使つてゐて、基本的には日誌だつた。
予定も書き入れるけれど、主たる内容は実績だつた。
ちよつとした気の迷ひで Smythson の Panama を手に入れてスケジュール帳として使ふやうになつて、すこし意識が変はつたやうに思ふ。
あひかはらず実績も書くけれど、日々持ち歩いて備忘録のやうに「あれをしなければ、いつまでにこれを終はらせなければ」といふことを書き込むやうになつた。
さうなつてくるとほぼ日手帳はかさばるやうになつて、あまり使はなくなる。
こんな調子なら予定を立てていけるのかもしれない。
SCHOTT'S MISCELLANY DIARY が発売されなくなつて途方にくれて手帳ジプシーをしてゐたとき、Bullet Journal に出会つた。
が、それはまた別の話。
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