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Friday, 31 May 2019

気楽に芝居見物

芝居見物なんて、気楽なものでせう。
そのとほりだ。
堅苦しい芝居見物なんてまつぴら御免だ。
だが、その楽しかるべき芝居見物も、年々肩肘張つたといはうか格式張つたといはうか、堅苦しいものになつてきてゐる気がする。

はじめて歌舞伎座に行つたころは、三階席にゐると大向ふの会の人に関はらず、客席に座つてゐる人も声をかけてゐたものだつた。
しかも、間合ひをはづさない。
酔つ払ひもゐて幕間に一悶着あつたりもしたけれど、いまほど重苦しい雰囲気はなかつたものと記憶してゐる。
あのころは携帯電話やスマートフォンは普及してゐなかつたから、といふこともあるのかもしれない。

どうも、観劇マナーがうるさく云はれるやうになつたのは、携帯電話が普及してからのやうな気がしてならない。
調査したわけではない、単にさういふ気がするといふだけである。
猫も杓子も電話を常に持ち歩くやうになつて、公演中に呼び出し音が鳴る。
劇場も妨害電波などで対抗するが、入つてくる電波に対しては無力だ。
アラームもあるしね。

携帯電話やスマートフォンの電源を切れ、とうるさく云はれるやうになつてからぢやないだらうか、弁当などを買つたときにくれるビニル袋の音をたてるな、と云はれるやうになつたのは。
これもきちんと調査したわけではなく、感覚で云つてゐる。
なぜさう思ふのかといふと、昭和の終はるころには、ビニル袋の音がうるさいなどとはあまり聞いた記憶がないからだ。
考へてみたらあのころは歌舞伎座内のカレー屋とかそば屋とかで食事をしてゐたので、ビニル袋を持ち込んでゐなかつたのかもしれない。
劇場内に気軽に食事をできる施設がなくなつた→食べるものを持ち込む人が増えた→それでビニル袋の音が気になるやうになつた、といふことも考へられないでもないが、そんな話でもなからう。

そして大向ふだ。
確かに、大向ふの会の会員とおぼしき人でも、「え、なんでこんなところで声をかける?」とか「さつきからこの声の人、屋号かけ間違ひまくりなんだけど」とか「やたらとかけりやいいつてもんぢやあないんだよ」といふ人もゐる。

中村吉右衛門の「石切梶原」とかね。
梶原が名刀で手水鉢を割つたそのあとに、梶原と六郎太夫とのかけあひで「剣も剣」「切り手も切り手」といふセリフがある。
それを受けて大向ふから「役者も役者」とかけることがあつたりする。
でも、播磨屋の梶原にはそのかけ声を許す間がない。
見てゐればわかることだ。
そこで「役者も役者」とかける人は、芝居を見てゐない。声をかけることしか考へてゐない。

とはいへ、はじめて見た「石切梶原(播磨屋のではなかつた)」で、もうこれ以外ないといふ見事なタイミングと張りのある声の「役者も役者」といふ大向ふを聞いてしまつてゐるのでね。
あつてもいいとは思ふんだ。

しかし、大向ふへの風当たりは強い。
坂東玉三郎などは自身の演出する新作歌舞伎では大向ふお断りを掲げてゐる。
世の中、どんどん窮屈な方向に向かつてゐる。

思ふに、歌舞伎はもう大衆演劇ではないのだらう。
チケット代を考へてもさうだし、劇場の構へからしてさうだ。
客にしても、舶来の芝居や音楽を見聞きして育つた人が増えてゐるものと思はれる。
さういふ人々には大向ふなど奇異なものでしかないし、芝居とはまつたく関係のないカーテンコールやスタンディングオベーションのない終演はもの足りないものに感じられるのに違ひない。
さらには、日々忙しくほかにすることもたくさんあるところをわざわざ劇場まで足を運んでゐるのに、騒音を聞かされるのはたまらない、といふ意見もあるだらう。

余裕がない。
さういふことなのだと思ふ。

ぢやあ余裕があれば劇中客席でスマートフォンの呼び出し音が鳴つたりビニル袋をがさがさ云はせる客がゐたり胴間声の大向ふがのべつまくなしにかかつたりしていいのか、と云はれると、返答に窮するわけだが。

なんかこー、もーちよつと気楽に見られないものかなあ、と、ホロヴィッツの「慰め」の演奏中もはばからぬ大きなしはぶきを聞きながら思ふわけだ。

 

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Thursday, 30 May 2019

気楽にひきこもる

五月の連休のあひだは、ひきこもつてゐた。

十日のうち、四日は映画を見に出かけたので完全にひきこもつてゐたわけではない。
ただし出かけるときはひとりだつた。
ひとりで出かけてひとりで映画を見てひとりで帰つてきた。
映画は見たかつたといふこともあるけれど、出かけないのもいかんな、と思つて外に出たといふこともある。

つまり、これだけひきこもりたいと日々念じてゐるやつがれにして、十日間まつたく外に出ないのはどうよ、と思つたといふことだ。

ここにも何度も書いてゐるやうに、ひきこもりの問題といふのは、もともとはひきこもりたくない人やひきこもることは世間体や体裁が悪いと思つてゐる人がひきこもつてゐるから生じるのだと思つてゐる。
やつがれの場合は逆で、ひきこもりたいのにひきこもれないことが問題だ。

「ひきこもりは問題だ」「ひきこもりを解消しなければ」といふから、ひきこもる人も罪悪感や負担を覚えるので、もしさういふことを云はなかつたら意外とひきこもりの問題も解消するんぢやないかなあといふ気がする。

ひきこもることに罪悪感を覚えるのがいけない。
「ひきこもり? 誰にもあるでせう、そんなことは」といふ風になれば、もうちよつと気楽でゐられるんぢやないかなあ。

無論、ひきこもるといふことは大抵の場合定職につかず学校にも行かずにゐるといふことで、そこには問題はあるのかもしれないが。

かく思ふのは、自分がひきこもりたいからだよな。
ひきこもりたいんだよ。
どうしたらひきこもることができるんだらう。
このままでは一生ひきこもりにはなれない気がする。

なりたいなあ、ひきこもりに。

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Wednesday, 29 May 2019

愚図愚図するわけ

Get Things Done (以下、GTD)などが流行したせゐか、procrastination といふ英単語もまたよく見かけるやうになつた。
あるいはGTDに関する情報を追ひかけてゐると見かけるだけなのかもしれない。

procrastination とは、やらなければならないことを先延ばしにしたり後回しにしたりすることをいふ。
洗濯をはじめなければとわかつてゐながらグヅグヅしてしまふ、本を片づけてゐてつひ手にした本を読んでしまふ。
かういふことを procrastinaiton といふ。
さう理解してゐる。

procrastination はなにもやりたくないことに対してのみ発生するわけではない。

やつがれは、なにかと書くことが好きだ。
喫茶店やファミリーレストランでコーヒーなどを飲みつつ、手持ちの手帳に何ページもあれこれ書き連ねてしまふことが往々にしてある。
これが滅法楽しい。
だが、自宅や職場では滅多にさうして書くことはない。
まづ、手をつけることができない。
「あー、いま頭に浮かんだ、このことを書きたい!」と思つても、自宅だとなかなか書き出すことができない。

やつたら楽しいのにできないことに、情報カードの整理もある。
いい加減情報カードもたまつてきたので、そろそろ一度見返したい。
だが、これもまたなかなか着手できない。
カードをくるのを楽しい。
こんなことを書いてゐたのか、またまたあんなくだらないことを書いて、などと、見返すのは楽しいことだ。
なのにできない。

楽しいのに、好きなことなのに、はじめられない。
なぜなのだらうと考へて、おそらく、はじめてしまつたらいつ終はるかわからないからだらう、といふ推論にたどりついた。

部屋の片づけもさうだ。
一度手をつけたが最後、いつ終はるともしれない。
ほんの一角だけをきれいにしやうとしても、多大な時間と労力とがかかる。
また、どういふ状態になつたら終はりといふ目標も定められない。
どれくらゐ時間がかかるかわからないし、片づけてみないとなにが出てくるかわからない。
そこまでひどい状態にしてしまつた自分がいけないのだが、いまさら云つても仕方がない。
それで、日々エントロピーが増大していくのである。

書くことや情報カードの整理もおなじことだ。
いつ終はるともしれない。
どういふ状態になつたら終はりなのかも見えない。
情報カードについては、いまある全カードを見返して、分類できればそれで終はりかな、といふ気はする。
だが、そこにたどりつくまでにどれくらゐの時間がかかるのか、はかり知れない。

書くことについていふと、書いてゐると次から次へと書きたいことが出てくることがある。
やはり終はりが見えないのだ。

なるほど、仕事などは細かく達成しやすいタスクにわけてひとつづつ手がけていけばいい、とよく云ふが、それはかういふことなのかもしれない。
終了状態やそこまで達するのにかかる時間がわからないと、人はなかなか手を出せないもの、といふことだらう。
「人は」とは、主語が大きいな。
すくなくともやつがれはさうだ。

部屋の片づけや情報カードの整理、書くことといつたことは、その細かいタスクにわけることがむつかしい。
それでなかなか手がつけられないのだらう。

喫茶店などで書けるのは、終了時間が決まつてゐるからだ。
店を出なければならない時間、それが終了時間だ。
だが家にゐたらいつまでも書ける。
就寝時間まで書けるが、なにもその時間に布団に入る必要もない。
それで自宅ではなかなか書けないのだらう。

と、わかつたところで、ではそれを打開するいい案があるかといふと、これが、ないんだよなあ。
どうしたものやら。

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Tuesday, 28 May 2019

独学の限界

藤戸禎子の「華麗なるレース タッチングレース(復刻版は「タティングレース」かもしれない)」に掲載されてゐる初心者向きのドイリーをちまちま作つてゐる。

作つてどうするといふあてはまつたくない。
ドイリーつてさういふものぢやないかな。
作つたあと「かうする」といふ目的をもつてドイリーを作ることはまづない。
「これが作りたい!」といふ気持ちだけで作る。
それがドイリーだと思つてゐる。

たぶん、サイズとしても丁度いいんだな、ドイリーは。
大きすぎず、小さすぎず、しかもレースつぽい。

さう、レース編みといつたらドイリーだ。

数をこなすといふ意味では、ドイリーくらゐの大きさのものをいくつも作るのがいいやうな気もする。

今回のドイリーは小さいモチーフをいくつもつないだもので、むつかしい技術は遣はない。
本当に初心者向けだと思ふ。
なのにうまくできない。

もうちよつと気を遣つて作れよ、と思ふが、どうもうまくいかないんだよなあ。
かういふのつて習ひに行つたらうまくできるやうになつたりするのか知らん。
うまくできるコツを教へてもらへる、とか?

しかし前世紀からやつてきてこれなんだから、いまさらといふ気もするな。

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Monday, 27 May 2019

理屈抜きに好き

「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるヴェストを編んでゐる。
後ろ身頃のヨークから編み始めるもので、現在は前身頃と後ろ身頃とをつなげて編んでゐる状態だ。
前身頃はくさり編み三目の、ヨークより下の後ろ身頃はくさり編み五目のネット編みだ。
単純といへばこれほど単純極まりない模様もないのだが、これが案外楽しい。
脳内麻薬が出てくるタイプだ。
編み始めると止まらなくなる。
だから編めてゐるんだらうな。
さうでなかつたら挫折してゐる気がする。

糸もいい。
エミーグランデは編みやすいし、色がちよつと紺色がかつた灰色といふのもいい。
本には薄紫色の糸を使用してゐて、これもなかなかいい色だ。

なぜか昔からヴェストが好きである。
以前はチョッキといつたかもしれない。
いつからか「ヴェスト」が主流になつた。
ここ数年は「ジレ」なんてなことばも聞く。

なんで好きなのだらうか。

編むことを考へると、袖がないといふのがいいのだらうか。
袖つて結構たくさん編まないとできあがらないんだよね。
増し目や減らし目もあるし。
しかも二枚編まねばならない。

袖がどうかうよりも、セーターにそれほど興味がないといふ方が大きいかもしれない。
どちらかといふとカーディガンの方が好きだ。
ヴェストも前開きのものの方が好きだから、ヴェストが好きといふよりは前開きの上着が好きなのかもしれない。

……ほんとかなあ。
いろいろ理屈をつけても「なんか違ふ気がする」といふ気分になる。
なにかきつかけがあるわけではないのかもしれない。

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Friday, 24 May 2019

ひとり叫ぶ「Not the coffee machine!」

毎日行くコンヴィニエンスストアで、「いつもありがたうございます」と云はれてしまふ。
とたんに行きづらくなる。

同じやうなことをつぶやいてゐる人もゐるので、かう感じるのは自分だけではないのだらう。
スターバックスなどでも「いつものですね」と云はれると「あ、しばらく来るのよさう」とか思つてしまふ。
穂村弘も「本当はちがうんだ日記」に似たやうなことを書いてはゐなかつたか。
穂村弘が書いてゐたのは、「ひとりでも絶対カウンタ席には座りたくない」だつたかな。
自分の中では常連になることとカウンタ席に座ることとはほぼ同義なのでごつちやにしてゐるのかもしれない。

なぜ「いつもありがたうございます」だとか「いつものですね」と云はれることを避けたがるのか。
それは、「誰でもない人間」でゐたいからだ。
こどものころビートルズの「Nowhere Man」を聞いたときに「こんな感じかな」と思つたりもした。

先月の半ばまではせつせと川崎チネチッタに通つて見てゐた映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、今月頭に立川とお台場で一回づつ見て、それきりだ。
結局ディスクを買つたので家でも見た。字幕と吹き替へとを一度づつ。
その後は、たまに「ロジャーの車のお歌問答」の場面とか「フレディ三人をけなす」の場面とかのセリフをひとりで口にしてゐたりする。

セリフが好き、といふ話はここにも何度か書いてゐる。
それつてつまり、舞台なり映画なりでその役を演じてみたいといふことなんでせう、といふ意見もあらうかと思ふ。

違ふんだなー。
さうぢやない。
なにしろ「いつものですね」と云はれないやうな存在でゐたい人間なんだよ。
スポットライトを浴びて他人を演じるなんて、やりたいことから一番遠いことのひとつだ。

芝居や映画のセリフを覚えて口にする、といふのは、おそらく自分の中では教養のひとつなんだと思ふ。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」が教養になるのか、と云はれるとちよつと困るけど、「カサブランカ」だとか「風と共に去りぬ」だとかといつた映画のセリフは知つてゐるとチラと見かけた文章に遣はれてゐたりして、「ふふ」とか思つてしまふことがある。
「スターウォーズ」の「May the Force be with you.」だつてもうお約束になつてるでせう。

もともとが教養に欠ける育ちなので、勢ひエンターテインメント系の知識が教養になりがちなんだな。

さういふわけで、今日も「あのコンヴィニエンスストアに行かないとしたらどこの店に行つたらいいのか」と悩みつつ、たれ聞くことのない「Not the coffee machine!」を叫んでゐたりするわけだ。

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Thursday, 23 May 2019

マクラの話と残念な客

芝居や映画を見たり落語を聞いたりしたあとは、一応記録をつけてゐる。
 
「感想」ではなく「記録」なのは、ほんとに記録だからだ。
落語の場合、書いてゐることはほとんどマクラでなにを話したか、だ。
 
もちろん、噺の題名と噺家の名前も書く。念のため。
 
マクラの内容ばかり書くのは、「芸術つてなんなのよ」といふことがわからないからだ。
その噺のどこがいいのかとかほかの噺家とどう違ふのかとかこの噺家のなにがそんなにすぐれてゐる(あるいは逆な)のかとか。
さうした、肝心なことはまつたくわからない。
とても残念な観客なのだつた。
それでもうやめてしまはうかな、と思ふこともある。
自分よりもつと見るにふさはしい、芸術のわかる、芸の善し悪しのわかる、さういふ人が行つた方がいいのぢやあるまいか。
 
肝心なことが書けないので、勢ひマクラでなにを話したかといふことばかり書いてしまふ、といふ寸法だ。
結果、マクラなしでいきなり噺に入つた場合などはほとんどなにも書いてゐなかつたりする。
ほんとに残念な観客だ。
 
だが、これが案外おもしろいんだな。
「あー、あの噺家はこのときこんなことをマクラで話したのかー」とか「この噺家はかういふ話題をマクラでふつたらこの噺になるのか」とか「この人、またこの話題だよ」とか。
 
マクラでなにを話したかをあれこれ公開されるのはイヤだといふ噺家もゐるらしくて、あまり見かけないやうにも思ふ。
たまたま自分が見てゐる範囲では話してゐる人がゐないだけかもしれないけれど。
だからおもしろいんだらう。
時事ネタも多いから「こんなこともあつたなあ」だとか、「この時期まだこんなこと話してたのか。客に合はせてるのかもしれないけど、勉強が足りないんぢやないの?」だとか思つたりもする。
 
とはいへ、マクラを記録しやうと思つて聞きに行つてゐるわけではないので、きちんと覚えてゐるわけではない。
おぼろな記憶に頼りながら書きつけて、書いてゐるうちにあれもこれもと思ひ出すこともある。
 
誰に見せるわけでなし、自分でおもしろいんだからこれはこれでいいのかな。
 

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Wednesday, 22 May 2019

クリシェを遣はう

クリシェは遣はないやうにしませう。
世の人はさう云ふ。

クリシェには「常套句」といふ訳語が当てられてゐる。
意味としては「遣ひ古された表現」「手垢にまみれた表現」といつたところか。
音楽でもクリシェといふことばを似たやうな意味で遣ふ。

しかし、ここでぱつとクリシェの例が出てこない。
「遣ふな」と云はれてゐるからだ。
「遣ふな」と云はれて正直にしたがつてゐるとかうなる。
遣はないんだから忘れてしまふ。
そして、そんなことばがあつたこと自体も忘れられてしまふ。

もしかすると、風俗研究などで流行したものをいろいろとあさつてゐれば出てくるのかもしれない。
正式な文書などには決して出てこないし、記録としても残らない。
あつたはずなのに。
「常套句」などと云はれるくらゐだから、一時的にせよ大変に広く遣はれてゐた表現のはずなのに。

誰の書いたものだつたかは失念したが翻訳家の書いた本に、とある先輩翻訳家の話があつた。
その先輩は、本を訳すときに必ず一カ所、もう遣はれなくなつた古い表現を入れる、といふのだ。
著者はそれは翻訳家の姿勢としてまちがつてゐる、といふ。
そのとほりだと思ふ。
その遣はれなくなつた古い表現が訳語としてぴたりとはまるのだつたらかまはない。
だが、忘れられていくことばをとどめやうとして翻訳に遣ふのは間違つてゐる。
そんなやうな主張だつたと記憶してゐる。

翻訳家に限らず、小説家はともかく(時代や登場人物を描くのに必要なこともあるだらうから)、文章を書くことを生業としてゐる人はクリシェを避けるだらう。

だつたら、自分のやうな、単に好きで書いてゐるだけの人間は、むしろ積極的にクリシェを遣つてもいいのぢやあるまいか。
だつて、さういふ表現があるんだしさ。
しかも、常套句になるくらゐみんなが遣ひたがつた表現なわけでせう。
手垢にまみれた表現だからといふので遣はなくなるのは、なんとも惜しい。

さう云ひつつも、いまここで「クリシェとはこんな感じ」といふ例がすらりと出てこないといふ状態ではあるのだが。

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Tuesday, 21 May 2019

技術が自分か

「絵がうまくなりたいのか」「絵のうまい自分になりたいのか」といふ呟きが、先日TLに流れてきた。

前者ならいいけど、後者はね、といふ呟きだつた。

自分はどちらなんだらう。
「あみもの/タティングがうまくなりたい」のか。
「あみもの/タティングのうまい自分になりたい」のか。

なんとなく後者な気がするんだよなあ。
ヤバい。

ここにも何度も書いてきたやうに、これまで生きてきて自分より不器用な人間を見かけたことがない。
こどものころから親にも教師にもずつと「不器用だ」と云はれつづけてきて、自分でもさうだな、と思ふ。

あみものとタティングとは、もう長いことやつてきてゐることもあつて、人並みにはできるんぢやないかと思つてはゐるが。
問題は、周囲にあみものやタティングをする人がゐないので比較対象が存在しない。
ゆゑにできてゐると思ふことに根拠は存在しない。

「比較対象」とか云つてゐる時点でダメだ。

たぶん、うまく編めるとかうまく結べるといふことは、他人との比較ではない。
以前よりうまく編めるとか前よりうまく結べるとか、さういふことなのだと思ふ。
でも、うまく編めたりうまく結べたりしたとき、どううれしいと思ふだらうか。
「前よりうまくなつたなあ」か。
「前よりうまい自分になつたなあ」か。

やつぱり後者な気がするんだよなあ。

斯様に「不器用」と云はれつづけた経験は大きい。
事実不器用だから仕方がないのだが。
不器用な自分を受け入れられずにゐるんだなあ。
いろいろめんどくさい。

そんな中、久しぶりにはじめて作つたドイリーに用ゐたモチーフを作つてみた。

Tatted Rosetta Motif

藤戸禎子の「華麗なるレース タッチングレース」に掲載されてゐた初心者向けのドイリーだ。
モチーフはよくあるロゼッタである。
はじめてシャトル一つと糸玉一つを使つて作ることのできたタティングレースのドイリーだつた。

うーん、いま作つても今一つだ。
でも当時はもつとひどかつた。
なにしろほぼはじめてだつたしなあ。
でも前よりはうまくなつてゐる。
そしてまだまだ改善点がある。

さう前向きになれればいいのだが、なかなかむつかしいな。

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Monday, 20 May 2019

好きなものはすぐわかる

かぎ針編みのヴェストを日々ちまちまと編んでゐる。
だが、全然進んでゐるやうには見えない。
前身頃と後ろ身頃ろとをつないで編んでゐるからだ。
しかも、毎段増し目がある。
増えないよな、そりや。

しかし、毎日編んでゐればいつかはできあがる。
さう信じてちまちまちまちま編んでゐる。

ところで、今年の夏号の「毛糸だま」にブリューゲルレースの作品が掲載されてゐると耳にした。
本屋に行つたをり、ちらつと中を覗いてみた。
夏号の特集はウェディングドレスだ。
結婚式に着たり身につけたりするものが冒頭に掲載されてゐる。
花嫁用がメインだが、披露宴に出席する人用のものもいくつかある。
中でもちいさな女の子が着るドレスが可愛かつたなあ。モデルが可愛いのかもしれないが。
あと、新婦の父の着るヴェストなんかもちよつとよかつた。
絶対使はないけど、レースの指なし手袋にも編み心をそそられる。

ほかのページもざつと目を通して、「あー、これいいなあ」と思つたストールがブリューゲルレースだつた。
うむ。
好きなものはちらつと見ただけでわかるんだな。

ブリューゲルレースとは、かぎ針編みで細くテープ状のものを編んで、ところどころ脇に作つたループなどをつないでカーヴを作るのが特徴かと思ふ。
何段編んだらいくつのループをつなぐのか数へ間違ふことも多いが、なんとなく好きなレースの種類のひとつだ。

昔はブリューゲルレースだけで一冊レースの本が出てたんだがなあ。
最近とんと見かけない。

「毛糸だま」、買つてみるかなあ。

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Friday, 17 May 2019

Bullet Journal の続くわけ

公式サイトのblogで、「InstagramでLikeがつかなくなつたから Bullet Journal をやめた」といふ人の話を見かけた。
その人は人目を引くやうなすてきな Collections やレイアウトで有名だつたといふ。

Instagram などを見ると、美麗なイラストやレタリングを配したページの写真がいくつもいくつも並んでゐる。
さういふものにあこがれて、Bullet Journal をはじめる人もあらう。

自分はなぜ Bullet Journal をつづけてゐるのか。

Bullet Journal のことを調べてゐて最初に出会つたのが公式サイトだつた。

「Rapid Logging」。

まづそれに惹かれた。

書き留めることこそが大事。
それにはスピードが必要だ。
文章として書くのではなく、ひとまづは箇条書きで書き留めやう。
「Rapid Logging」とはさういふことだと理解してゐる。

公式サイトでノートの写真を見ると、実に簡素だ。
そして見やすい。
実際にはじめてみて自分の字の見苦しさに辟易はするものの、そして、基本的にはだらだらと文章を書くのが好きではあるものの(このblogを見れば一目瞭然だ)、なるほど、「Rapid Logging」とはいいものだ。

また、Future Log や Monthly Log、時に Weekly Log に書き留めておいた予定やタスクを、日々 Daily Log に落とし込むことで予実管理ができる。
タスクはわりといつ達成したのかわからないことが多い(やつがれは、ね)。
それが記録として残る。
すばらしい。

といふわけで、やつがれにとつて Bullet Journal とは「Rappid Logging」を実践するものであり、予実管理がしやすいもの、だ。
それでつづいてゐるのだらう。

色とりどりのイラストやうつくしいレタリングにもあこがれる。
でもまあ、できる範囲でいいんぢやないかと思つてゐる。
といふわけで、まづは字の練習からだらうか。

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Thursday, 16 May 2019

記録を捨てる世の中に

のどが痛い。
一昨日は血痰が出た。
鼻をかんでもティッシュペーパーが赤くならないので、のどから出た血だらう。

姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは宝玉を吐く
とか洒落てゐる場合ではないのだが、つひ。

記録を見ると、どうも一年のこの時期、連休からその後一、二週間くらゐはのどが痛いらしい。
連休に入つたとたん風邪を引いて寝込むことがあるので、そのあふりでのどもやられてしまふといふこともある。
今年は寝込むこともなく連休を迎へたから、あたたかくなつてきて油断してしまつたのかもしれない。
この時期乾燥してくるからといふのもあるかな。

血痰は別段変はつたことではなく、通常運行だ。
記録のおかげでさういふことがわかる。

時々、「いつたい自分はなぜこんなことを手帳に書き付けてゐるんだらうか」と不思議になることがある。
やめちやへばいいのに。
やめたところで困りはしないのに。
だいたいいまは、国の大事な記録でさへ廃棄しちやふ世の中だ。
#「廃棄しました」と口では云つてとつておくのがほんたうなんぢやないの、と思ふが。

しかし、やめられないのだつた。
たまに疲れきつてしまつて、「記録記録」といふ内なる声に耐へきれなくなつて、なにも書かないこともある。
でもいつのまにか再開してゐる。

長いことスケジュール帳にも予定より実績を書き込むことの方が多かつた。
以前の手帳などを見ると、著名人の訃報だとかニュースで気になつたこと、読んだ本、見た芝居、聞いた噺のことばかり書いてあつて、肝心の予定のことはあまり書き込まれてゐない。
予定を立てるのが苦手なのだ。
書いたらやらねばならないといふ強迫観念がある。
また、順序だててものごとを成し遂げていくといふことが苦手だ。

ほぼ日手帳は自分にぴつたりの手帳だつた。
ほぼ日手帳はほぼ十年間使つてゐて、基本的には日誌だつた。
予定も書き入れるけれど、主たる内容は実績だつた。

ちよつとした気の迷ひで Smythson の Panama を手に入れてスケジュール帳として使ふやうになつて、すこし意識が変はつたやうに思ふ。
あひかはらず実績も書くけれど、日々持ち歩いて備忘録のやうに「あれをしなければ、いつまでにこれを終はらせなければ」といふことを書き込むやうになつた。
さうなつてくるとほぼ日手帳はかさばるやうになつて、あまり使はなくなる。

こんな調子なら予定を立てていけるのかもしれない。
SCHOTT'S MISCELLANY DIARY が発売されなくなつて途方にくれて手帳ジプシーをしてゐたとき、Bullet Journal に出会つた。

が、それはまた別の話。

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Wednesday, 15 May 2019

能力とはコミュニケーション能力のこと

自分はとにかくダメな人間で、かんたんにまとめると、対人能力がない。
コミュニケーション能力に欠けるともいふ。

対人能力に欠ける人間は無能である。
最近自分のTLをにぎはせた話題で、みづからの無能を云ひつのるblogの話があつた。
blogを書いた人はまつたく無能ではない。
おそらく、人並みはづれて有能なはずだ。
ただ惜しむらくはコミュニケーション能力に欠けるか本来その能力を持つてゐるのに使ひ方を知らずにゐる。

世の中では、対人能力に欠ける人間は無能と見なされる。
ほかにどんなすぐれた能力があつたとしても、他人にそれとわかつてもらへなかつたらその能力を発揮しやうがない。
真偽のほどは知らないが、ゴッホが生前評価されなかつたのは画商とうまくいかなかつたからだ、といふ説がある。
著名な画家には支援者がゐたり、大きなアトリエをきりもりして大勢の弟子を抱へてゐたりするものがゐる。
さう考へるとゴッホの説もあながち誤りとはいへない気がする。

世の中には対人能力の必要ない職業など存在しない。
職についてゐなくたつて、周囲の人々とはつきあつていかなければならない。
対人能力の強化をあきらめるといふことは、なにごとも「最低限でいいよ」とあきらめることと同義だと思つてゐる。
自分は無能だと認めるといふことだ。

その場合、ほんたうに「無能だけど生きてゐていい」と思へるだらうか。
いまは死んだ方が迷惑をかけるかもしれないから生きてゐる。
そんな感じになるのではないか。

さう云ふと、「ぢやあ無能な他人は生きてゐてはいけないつていふこと?」といふ反論もあるだらう。
でも、大抵の場合世の中の人には対人能力に欠けるところがあるとは思へない。
少なくともやつがれの周囲の人はそんなことはない。
たまに大勢の中にはふりこまれたり、親戚一同で集まつたりすると、自分の気遣ひのなさ、機転のきかなさ、自己中心的な言動につくづくイヤになる。

先月のはじめ、急に思ひたつて、自己肯定感といふものを持つてみることにした。

とはいへ、いきなり持てるものでもないので、とりあへず「自分は生きてゐていいのだらうか」的な考へ方をしないやうにした。

一ヶ月ほどたつて、ちやうどゆり戻しの時期なのかもしれない。
とはいへ、やつぱり、自分はダメだなーと思ふし、かういふ人間を肯定しちやダメだらう、と思ふのだつた。

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Tuesday, 14 May 2019

質も大事

極細毛糸のスカーフは停滞してゐる。

連休前にひさしぶりにレース糸でタティングしてみたら、えらく下手になつてゐた。
毛糸でばかり結んでゐたからか知らん。

ショックだつたので、しばらくレース糸で練習ばかりしてゐる。
シャトルやボビンにあまつた糸で小さいモチーフや短いエジングを作つたりね。

以前、ここに「質より量」といふやうなことを書いた。
まさにそれを目指してゐたのだけれど、でもなにかが違ふ気がして仕方がない。

質より量は確かだけれど、やはりなにか「作品」となるものを作らないとダメなのではあるまいか。

小さいモチーフや短いエジングも作品といへばいいのかもしれないが、どうも自分ではさういふ気持ちにならない。
「練習」と思つてゐるからいけないのかもしれない。
「本番」と思つて作ればいいのかも。

とはいへ、小さいモチーフとか短いエジングはどうもサンプルといふ感じがして、あまり「本番」といふ気にはならないんだよなあ。
なにかもつと「作つた!」といふ気持ちになるやうなものを作るべきぢやらうか。

でもそろそろ極細毛糸にも戻らないと先に進まないし。

ときどき阿修羅くらゐ腕があればな、と思ふよ。

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Monday, 13 May 2019

とじはぎ考

「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるかぎ針編みのヴェストをちまちま編んでゐる。

全体をネット編みで編むもので三目のネット編みと五目のネット編みとの密度の差と、その切り替への部分がおもしろい作品だ。

後ろ身頃のヨーク部分から編み始めて、そのあと脇と前身頃をつけ足して裾まで編んでいく、といふとわかるだらうか。

現在、まだヨーク部分を編んでゐる。もう少し編んだら脇と前身頃をつけ足せるんぢやないかな。
問題は、付け足したらどんどん編み地が重たくなつていくといふことだ。

セーターなどを編むとき、後ろ身頃と前身頃と袖とを分けて編むのには意味があると思つてゐる。
編むときに編み地が重たくならないやうな工夫だ。

セーターを輪に編むと、編み進むにつれどうしても自重で編み地がのびてくる。
無論、そのころには編み地を膝の上におけるやうになつてゐるだらうから実際にはそれほどのびない。
それでも手や肩にかかる重さが気にかかるやうになる。

後ろ身頃・前身頃と分けて編めば、重さは若干軽減される。

あるいは仕事としてあみものをしてゐる場合、分業制なんてなこともあつたのかもしれない。
一人が後ろ身頃と肩袖、一人が前身頃ともう一方の袖を編む。
手が違ふから大きさが揃はないなんてなこともあるかもしれないけれど、熟練工が編めばさうでもないのかもしれない。
Elizabeth Zimmermann がお嬢さんと二人で向かひあつて一つのものを編んでゐる、なんてな写真がどこかにあつたやうにも思ふし。

しかし、さうやつてセーターをパーツに分けて編むととじ合はせなければならない。
これが苦手でなー。
それで勢ひとじはぎのない全体を一度に編む方法に走つてしまふわけだ。
今回のヴェストもそんな感じである。
もちろん、編んでみたいと思つたのが先だけど、でもその編んでみたいと思つた理由がとじはぎが少なさうだからなのではないか、といふ気もしてゐる。

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Friday, 10 May 2019

辞書を引く

辞書は信用しない。
人間の作つたものだもの、必ずやどこかに誤りがあるはずだ。

辞書を引かない人間は信用しない。
思ひ込みは誰にでもあるし、出身地のことば、または各家庭独自のことばといふものもある。
それに疑ひを持たない人物を信用できるだらうか。

自分を信用しない。
辞書は信頼できないと云ひながら辞書を引き、他人についてあれこれ云ふだなんてどうかしてゐる。

だから今日も辞書を引く。

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Thursday, 09 May 2019

寝た甲斐がない

連休中は、睡眠第一の生活を送つてゐた。

できるだけその日の内に就寝し、規則正しい生活をする。
二日ほどその日の内に布団に入れなかつた日もあつたが、それでも十二時をちよつと過ぎたくらゐには入つてゐた。
就寝時間と起床時間とは十日間のあひだ、ほぼ一定で、睡眠もきちんととれてゐたやうに思ふ。

それでものどの痛みは去らず、痰が絡んだやうな感覚がつづいた。
連休終盤はちよつとしたことでうつかり泣きさうになつたりするほどだつた。

ちよつとしたことといふのは、「ユリイカ」の橋本治特集号をぱらぱらと見てゐるときに、「歌舞伎の魅力は古怪です」といふ一文を目にしたことだ。
はらはらと涙がこぼれる、と思つた寸前で阻止したが、いまもつてなぜそんなことで泣けさうになつたのかよくわからない。

睡眠が足りてゐたら情緒は安定するものなのぢやあるまいか。
十日間ほどではこれまでの不摂生を清算することはできないといふことか。

もしかしたら、睡眠が足りてゐると、刺激に敏感になるのではあるまいか。
ちよつとしたことにも心動かされる、つまり、感受性が豊かになるのではないか。

「歌舞伎の魅力は古怪です」なんて、もういまどき云ふ人ゐないよ、橋本治くらゐだよ。
と、おそらくあのときさう思つた。
でもその橋本治はもうゐない。
それで泣きさうになつたんぢやないかなあ。

芝居や映画を見たり本を読んだりしても泣くことがない。
「いやー、昨日の芝居は泣けたなあ」と云ふとき、実際には全然泣いてゐない。
人はかういふとき泣くだらうし、たぶん、自分も人目がなかつたら泣いてゐるんぢやないかな。
さういふときに「泣ける」とか「泣けた」とか云ふ。
ほかの人だつたら泣くと思ふけど自分は泣かない、それと「泣けた」とは同義なのだ。
自分の中では。

それつて、もしかして不摂生のせゐで感受性が鈍つてゐたからなんぢやないの。

情緒の安定と感受性の鋭さとはどう関係するのかよくわからないがな。

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Wednesday, 08 May 2019

手帳探しに余念がない

Bullet Journal にふさはしいノート/手帳を探してゐる。

連休中、申し訳程度に机のまはりを片づけた。
そのとき、Bullet Journal をはじめたばかりのころのノートがでてきた。
三年前に使つてゐたものだ。
MDノートの新書サイズで、「人形劇三国志」の関羽のブックカヴァの上にMDノートの透明のカヴァをかけて使つてゐた。

ぱらぱらめくつてみると、いまよりずつといろんなことが書き込んである。
そして、不思議と見やすい。
日々の予定やタスク以外に、メモや見た芝居、聞いた落語、読んだ本のことなど、あれこれ書き付けてゐた。
まだCollection Logs のことなど知らなかつたので、手当たり次第に書いてゐた。

これが案外おもしろいんだな。
手帳といふものは、未来の自分が読んでおもしろいと思ふことを書き留めるもの、と、以前から思つてはゐるが、ちやんとさういふ手帳になつてゐる。

遣ひはじめて二週間もすると、この一冊を持つてゐるだけで妙に安心したものだつた。
必要なことは全部ここに書いてあるし全部ここに書けばいい。
いままで感じたことのない気持ちだつた。

それまでは予定はスケジュール帳、メモなど用の手帳、さらになにかあればそれ専用の手帳といふやうに、手帳やノートを複数使つてゐた。
よく「ノートは一冊にまとめなさい」などと云ふし、自分ではさうしてゐたつもりだつたけれど、気がつくとさうなつてゐた。
でも Bullet Journal なら、ほぼ「ノートは一冊にまとめ」ることができる。

MDノートのあとはシステム手帳で Bullet Journal を実践してゐた。
システム手帳、すごくいいんだけれど、左側のページには書きづらいし、かさばる。
どこにでも持ち歩くといふわけにはいかなかつた。

それで Bullet Journal に書き込むことが少なくなつていつたのかもしれない。

三年前の後半と、一昨年、去年とシステム手帳のバイブルサイズを使つてゐた。
今年はちよつと気分を変へて LEUCHTTRUM のA5サイズを使つてゐる。
いまのところ、文句なく使へてゐるが、やはりかさばる。
持ち歩くかばんの中には小さすぎてA5サイズを入れられないものもある。
といふわけで、いつでも持ち歩くといふわけにはいかないのはシステム手帳のときと同じだ。
それでやつぱり書き込みが少なくなつてゐるのだらうなあ。

三年前のMDノートを見るとさう思ふ。

あるいは、三年前は気持ちにもゆとりがあつたのかもしれない。
手帳にあれこれ書き込む気力があつたのかも。
Bullet Journal をはじめたばかりで、あれもこれも書いてみやうといふ気でゐたといふことも考へられる。

手帳は、やはりつねに携帯できるものに限るのかもしれないなあ。

といふわけで、LEUCHTTRUM はまだあと三ヶ月は使ふものと思つてゐるけれど、次の手帳探しに余念がない。

候補はいくつかある。
ロルバーンの縦長のタイプとか。
MDノートの新書サイズもいいと思ふ。
いつそLEUCHTTRUM や Moleskine のポケットサイズはどうだらう。
B6でよければLIFEのノートなどもあるし。

あるていど、ページ数もほしいんだよね。
手帳は書いてなんぼだと思つてゐる。
いいノートがあるといいんだがなあ。

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Tuesday, 07 May 2019

100円ショップのレース糸ケース

ダイソーに行つて、こんなものを見つけてきた。

ダイソーのレース糸ストッカー

レース糸を入れて保管・利用するケースだ。
似たものに Lisbeth のレース糸を入れて使ふケースがある。
これが実に遣ひ勝手がいいので、ダイソーのものも購入してみた。

Lisbeth のケースは、Lisbeth にほぼぴつたりとした大きさで、オリムパスやダルマの40番やDMCのコルドネスペシャルでも使へる。セベリアでは試したことないな、さういへば。番手によつてはセベリアは大きさから云つてムリかもしれない。

ダイソーのケースはセベリアなら使へさうだ。
残念ながらエミーグランデを入れるには小さすぎる。これでエミーグランデが入ればいふことはないのだが、さうするとケースが大きくなりすぎるのだらう。

Lisbeth のケースには、中央に突き出た部分があり、そこにレース糸をさして使ふ。
ダイソーのケースには、レース糸をさすやうな部分はなく、レース糸はただ置いて使ふ。
それでなにか違ひがあるかといふと、さして違ひはないやうに思ふ。

糸もするすると出てくるし、ちよつと大きいことを除けばいい感じだ。

ふたの上、糸を出す穴のそばにちよつとした突起がある。
使はないときはここに余分に出過ぎた糸を巻いておくものだといふ
使つてみやうとしたが、Lisbeth #40だとちよつとむつかしいかな。

大きい分、使はないときはタティングシャトルをしまつておける。いい感じだ。

ダイソーのレース糸ストッカーを使って見た

Lisbeth のケースだと、シャトルを入れる余裕はないんだよね。レース糸の玉が小さくなつてくれば話は別だけれども。

これでがんがんタティングを、と思はないでもないけれど、かぎ針編みのヴェストをはじめてしまつたからねえ。

ダイソーには書見台を買ひに行つたのだが、思わぬものを買つてしまつた。
百円ショップには毛糸もあるしなあ。
危険な場所だ。

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Monday, 06 May 2019

ゲージより楽しさを取る

この連休中、かぎ針編みのヴェスト用にゲージを取つてゐた。
編まうと思つてゐるのは「美しいかぎ針編み 春夏27 」に掲載されてゐるエミーグランデで編んだネット編みのヴェストだ。
まづは指定の2/0号で編んでみた。
……全然指定のゲージと合はないんですけど。
棒針編みだとあんなに手のゆるい自分が、かぎ針編みだとどうしてこんなにきつくなるのか。

仕方なく3/0号で編んでみたが、それでもまだきつい。
あまりゲージの関係ないものだつたらこれでよしとするのだが、ゲージにかなり左右されるデザインだと思ふんだよね。

南無三、と思ひながら4/0号で編んだところ、だいぶ指定のゲージに近づいた。

だが、編んでゐて楽しくない。
どうも4/0号だとかぎになつてゐる部分が大きすぎて、ループの中に糸を通すときにひつかかりやすいんだな。
棒針編みだと中細やときには極細を6号針で編んだところでどうといふこともないのだがなあ。
かぎ針編みにはこんな落とし穴があつたか。

なにをいつてもヴェストである。
しかもエミーグランデだ。
かなりの期間かなりの量を編まねばならない。
楽しくなかつたらつづかない。

さう判断して、2/0号針で編むことに決めた。
自分のゲージを元に目数や段数を計算しなほして編むことにした。
当初の想定よりもかなり大量に編むことになるが、まあ、自分で選んだことだから。

「もうかぎ針編みで着るものなんか編まない!」とか、半ば涙目だが、でもまあ糸の色も気に入つてゐるし(指定の色ではなくて、486といふ紺色がかつた灰色で編んでゐる)、2/0号針は好きだし、なんとか完成できるといいなあと思つてゐる。

 

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Friday, 03 May 2019

質より量の万年筆

数へられる程度の量、本やCD、DVDでいふなら棚に入る程度の数はたいしたことはないといふ。
整理できる量ではダメ、といふことだ。

なにがダメなのかはよくわからないが、それで一家をなさうといふなら、といふことだらう。
本に埋もれて暮らすなら植草甚一や草森紳一レヴェルになれ、といふことだ。
#それがどれくらゐのレヴェルなのかわからないけれど。

「質より量」といふのは最近よく耳にすることばだ。
引き合ひに出されるのはプロ野球の打者の成績だ。
打率が三割を超えると強打者と見なされる。
十回に三回ヒットが出ればいい。
三回に一度ならたいしたものだ。
その中の本塁打の数といつたらさらに少ない。
打点はまたちよつと違ふかな。
#え、羽生善治の生涯勝率?
#それは云はない約束よ。

とにかく数をこなしていく。
そのうち、いくつかは質のいいものができる。

くつ下などを何足も編んではじめて会心の出来と思へるものが一足でもあれば御の字で、毎回毎回さうとは限らない。
メビウス編みのスヌードやケープもいくつも編んで、気にいつたものはひとつだけだ。
素材がいいから、大きさがちやうどいいからといふので使つてゐるものはあるけれど、「これはよく編めた」と思ふものはいまのところひとつしかない。

万年筆に至つては、何本も買つて使つて、やつと「ああ、自分はかういふペンが好きなのだなあ」と判明した。
遅い?
うむ、我ながらさう思ふ。
でもわかつてからはそんなに増えてゐない。
その段階ですでに何十本もあるのだから、といふこともあるけれど。

万年筆については今度はインキとの相性とかさまざまあるのだが、そこまで求めてはゐない。
書きやすくて書いてゐて楽しいペンがあればそれでいい。
そこにたどりつくまでに時間と投資とが必要だつた。
つまりはさういふ云ひ訳だ。

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Thursday, 02 May 2019

4月の読書メーター

4月の読書メーター
読んだ本の数:4
読んだページ数:1500
ナイス数:23

快絶壮遊〔天狗倶楽部〕: 明治バンカラ交遊録 (ハヤカワ文庫JA)快絶壮遊〔天狗倶楽部〕: 明治バンカラ交遊録 (ハヤカワ文庫JA)感想
そういや伊藤整の「日本文壇史」も面白かった。横のつながりの面白さだろうか。カヴァ折り返しに載っている著書がこの一冊しかないのがなんとなく悲しい。この機会に横田順彌の本をもっと読みたいという人もいるだろうに。
読了日:04月12日 著者:横田 順彌
Magpie Murders: the Sunday Times bestseller crime thriller with a fiendish twist (English Edition)Magpie Murders: the Sunday Times bestseller crime thriller with a fiendish twist (English Edition)感想
メタが好きなので……。よくあるwhodunitかもしれないけれど、登場人物の書き分けがうまいのか名前だけ見て「ああ、あの人ね」とわかるのがうれしい。Amazonから勧められて読んでみたのだが、翻訳が出てるのね。そちらをお勧めしてくれればよかったのに、と思いつつ、鳥の名前とかどうしたんだろうというのはちょっと気になる。フリガナかな。
読了日:04月16日 著者:Anthony Horowitz
時間とはなんだろう 最新物理学で探る「時」の正体 (ブルーバックス)時間とはなんだろう 最新物理学で探る「時」の正体 (ブルーバックス)感想
近頃は何かを知りたいと思うと必ずといっていいほど量子論が出てくる。まずはそちらを理解してから、ということなのかもしれない。
読了日:04月24日 著者:松浦 壮
キッド・ピストルズの妄想: パンク=マザーグースの事件簿 (光文社文庫)キッド・ピストルズの妄想: パンク=マザーグースの事件簿 (光文社文庫)感想
重力、ノアの箱舟、英国庭園といういづれも気の遠くなるような世界を偏愛した人々の話三題という風に読んだ。「内省的な生活を続けてきた者にとって、人生の最高の歓びは、感情を共有できる同胞を見いだすことです(P446)」と云う「永劫の庭」の登場人物はほかの二作の登場人物には得られなかった同胞を得ることができたのに。同胞といい理解者という、それって一体どういう存在なんだろうか。妄想を共有するだけではダメなのかな。
読了日:04月26日 著者:山口 雅也

読書メーター

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あと半分しかない

十連休も早いもので折り返してしまつた。

十連休には是非がある。
経済効果などほとんどない、とか。
ないどころか悪化させるばかりだ、とか。
そもそも十連休なんて取れるわけもない職種もたくさんある、とか。
実際、街に出ると働いてゐる人がたくさんゐる。
街に出るには公共交通機関を使ふから、そこにまづ働いてゐる人がゐる。
店舗はほぼ営業中だ。

だいたい、みんな一斉に休まなくてもいいぢやないか。
そんなことをしたら行楽地はどこも混雑してどうしやうもない。
さう思ふ人も多かつたのだらう、連休初日はディズニーリゾートを訪れる客が少なかつたのだといふ。
初日はみんな行くから混んでゐるだらうといふのでとりやめた人が多かつたのではないかといふ話だ。

でもいまとなつてはもう「十連休なんていらない」とは云へない。
四月二十六日の金曜日の、あの浮かれた自分を思ふと、口が裂けてもそんなことは云へない。
あの日の自分は、間違ひなく浮かれてゐた。
自然とうきうきとした心持ちになるのをとめることができなかつた。

自分はどちらかといふとしづんだ気持ちで日々過ごしてゐる方だ。
しづんだ気持ちといつても、別段暗いといふわけではない。

世の中には、多分、気持ちの浮いてゐる人としづんでゐる人とがゐる。
ぱつきりふたつにわかれてゐるわけではなくて、どちらかといへば浮いてゐる、どちらかといへばしづんでゐる、境界線にゐて双方に振れる、そんな感じなんぢやないかと思つてゐる。

浮いてゐるのとしづんでゐるのとの違ひは、外界からの刺激への反応にあらはれるのぢやないかと思つてゐる。
外界からの刺激に敏感に反応するのが浮いてゐる方、鈍感な方がしづんでゐる方なのぢやあるまいか。
敏感・鈍感は違ふか。
影響を受けやすいか受けにくいか、かもしれない。
それでいくと自分は浮いてゐる方なんだがなあ。
ま、いいか。

その普段わりと鬱々と日を送つてゐる自分が、うきうきしてゐる。

だつてさ、十連休しやうと思つたらさ、普通だつたら有給休暇の申請をして、仕事の都合をつけて、それでやつと休めれば御の字なわけでせう。
それを、なにも云はなくても、なんの段取りもしなくても、なんの気兼ねもなく休めるわけだよ、それも十日間も。

浮かれたねぇ。

その休みももうあと五日。いや、もう四日か。
惜しまれてならない。

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Wednesday, 01 May 2019

心の地層のズレるとき

例年、連休中には寝込むことが多い。
大抵風邪をひいてしまふ。
旅行の予定を入れてゐるとさうでもないので、おそらく気持ちがゆるむのだらう。

それには兆候もある。
「五月の連休まで我慢しやう」
「五月の連休はもうすぐだ」
四月も半ばになると心の中でさう唱へながら過ごすやうになる。
これがサインだ。

休みたくて仕方がないのだ。
怠惰のゆゑだ。
だが、おそらくそれだけではない。
ほんとに休みたい、休みが必要な状態なのだ。
それを、「もうすぐ連休だから」といふので気づかないふりをし、「自分は怠け者だから」とみづからに云ひ聞かせて四月を乗り切り、連休に入ると風邪を招き入れてしまふ。

今年突然さう思つたのにはわけがある。
連休に入る一週間ほど前のことだ。
帰宅途中電車の中でクイーンの「愛といふ名の欲望(Crazy Little Thing Called Love)」を聞いてゐた。

ご機嫌な曲だ。
その時もおそらくご機嫌に聞いてゐたのだと思ふ。
それが、ギターソロがはじまつた途端、泣けてきてしまつたのだつた。

え、「愛といふ名の欲望」ですよ。
ほかの tearjerker な曲と違ふんですよ。
しかも電車の中だよ。
ことはるまでもないかもしれないが、別段ギターソロだけ泣けるといふ曲でもない。

疲れてる。
疲れてるんだ。

そこから、気をつけて生活を改めた……といけばよかつたのだが、なかなかさううまくはいかない。
ただ、このままでは絶対連休に入ると同時に寝込むことになると思つたので、できるだけみづからの機嫌をとりながら連休を迎へた。
おかげでいまのところなんとか風邪を寄せ付けることなく過ごせてゐる。

それにしても、なんで「愛といふ名の欲望」のそれもギターソロに入つたところで泣けたのか。
これといつた思ひ出がある曲ではない。
映画の泣けるところでかかるわけでもないしねえ。
長年積み重なつた地層が突然ずれたとか、さういふことなのだらう、多分。

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