片づけられない
来る五月の十連休は出かける予定はない。
そこで、今度こそ片づけでもしやうかな、と思ひたつた。
片づけ、すなはち、家の中の掃除である。
いらないものを捨てて残つたものを整頓する。
その時間にあてやうといふのだ。
これは、ちよつと長い休みに入るときにはいつも考へることだ。
部屋の片づけをする、とか、もつと範囲をしぼつて机周りの片づけをする、とか。
さう書いておけばなにかしらちよこつとはする。
しかし、片づけをする前とした後とで劇的に違ふかといふと、さういふことは一度たりともない。
思ふに、片づけた後かうなつてゐるべき姿といふのを思ひ描かないのがいけないのではあるまいか。
かういふ状態になつたら片づけ終了といふ目標が見あたらないから、それで片づけたんだかなんなんだかわからないといふ状態になつてしまふのかもしれない。
だが。
これまた思ふのだが、なぜ片づかないかといふと、まづ片づけるためのスペースがないからだ。
捨てるにせよ、一旦はどこかにものを置く場所が必要だ。
「これはゴミだ」と決めたからといつて、即その場から消滅するわけではない。
ゴミの日まで、とつておかなければならない。
そのためのスペースがそもそもない。
また、ゴミは分別しなければならない。
「これはゴミだ」と思ふものがあつたとしやう。
それは燃やすゴミなのか? それとも燃えないゴミなのか? あるいは再生利用するゴミ? はたまた小さい金属? もしかしたら通常のゴミの日には出してはいけないものなのかも?
さうやつて、一々判断しなければならないし、ものによつて仕分けていかなければならない。
これがとにかくめんどくさい。
我が家は新聞を取つてゐない。
たまに「また取らうかな」と思ふこともあるが、新聞の取り扱ひのめんどくささ、捨てるときの難儀を思ふととてもとても取る気にはならない。
新聞をゴミに出すときのめんどくささを思へば、「ああ、新聞を取るのやめて、ほんたうによかつたなあ」としみじみ思ふ。
さういふ人間に、まづゴミか否かの判断、さらには何ゴミなのかの分別をもとめるのは、ムリといふものだ。
さうやつて片づけを後回しにしてきたツケはもう十分払つてゐると思ふ。
が、これではいけない。
たまにさう思ふ。
いまがその時だ。
なぜいま十連休に入らないのだらう。
四月二十七日になつたときには、ここに書いたやうなことはすべて忘れてゐるに違ひない。
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