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Wednesday, 10 April 2019

情報更新と歌舞伎の匂ひ

ケーシー高峰が亡くなつたといふ。
少し前には萩原健一の訃報があつた。
時代の変はり目にはある一時代を担つてきたやうな人々が亡くなる、と書いてゐた橋本治も一月に点鬼簿にその名を連ねてゐる。

あと少しすると元号が平成から令和に変はる。
時代の変はり目といへばそのとほりなのだらう。
そして、やつがれは情報を更新できずにゐる。

もうあの役者もこの役者もゐなくなつてしまつた。
あんな味のある役者はもう出てくるまいなあ。
出てきたとしても自分が生きてゐるあひだのことではあるまい。

つひつひさう考へてしまふ。

でもそれつて、単に「情報が更新されてゐない」つてだけなんぢやないの、と見ることもできる。

芝居を見るたびに思ふ。
もう「歌舞伎の匂ひ」のする役者はゐなくなつてしまつた、と。
澤村宗十郎が、自分の中では最後だらうか。
「ああ、歌舞伎だなあ」と思つたのは、四年前の六月に見た「新薄雪物語」は冒頭の播磨屋と松嶋屋との競演だが、あれは二人だつた。
一人だけで、出てくるだけで、「ああ、歌舞伎だなあ」と思ふやうな役者は、紀伊国屋を最後に見たことがない。

さう思つてゐたのだが。

先月、国立劇場の小劇場で見た中村梅枝の小町・墨染桜の精は、出てくるだけで歌舞伎だつた。

梅枝には以前からさういふところがあつて、去年の六月のコクーン歌舞伎「切られの与三」でも「ひとりだけ歌舞伎」と云はれたりしてゐたやうに思ふ。
ただコクーン歌舞伎の梅枝は、おそらくはさういふ演出だつたのであつて、コクーン歌舞伎だもの、もつと歌舞伎でない行き方もあつたと思ふのだ。

でも先月は違つた。
説明しやうがないのだが、歌舞伎だつた。
やつがれの思ふ歌舞伎といふものを体現してゐた。
演目と役もよかつたのだと思ふ。
「積恋雪関扉」などといふ、わけのわからない、歌舞伎以外でどう上演したらいいのか戸惑ふやうな芝居。
雪の中、どう考へても「そんな恰好では来られるはずがない」といふ赤姫の出で立ちの小野小町。
桜の木の虚からぼんやりとあらはれる、この世のものではない墨染桜の精。
それを梅枝が演じると、なんともいへない、「ああ、歌舞伎だ」としか呼べないやうな匂ひが立ちのぼるのだつた。

これまで見てきた「関扉」では、墨染桜の精にはどこか中村歌右衛門を思はせるやうなところがあつた。
もしかしたら歌右衛門振りだとか(六世)歌右衛門型といふのがあるのかもしれない。
さうも思つてゐた。
だが、梅枝の墨染桜の精には大成駒を思ひ出させるやうな点がほぼなかつた。
思ふに、古怪さを出さうとすると、歌右衛門に近寄つてゆく、歌右衛門をうつさざるを得ない、そんなところがあるのぢやあるまいか。
梅枝の墨染桜の精は、歌右衛門によせて行かなくても十分古怪だつた。
単に、これまで見てきたものは成駒屋の役者が演じたり大成駒に習つた役者が演じてきたといふだけなのかもしれないけれど。
歌右衛門ぢやないやり方もあるんだ。
さう思つた。

これまで中村梅枝はうまい役者だとは思つてゐた。
それはおそらく衆目の認めるところだと思ふ。
「でも、それだけだよね」といふ向きもある。
また、先月の小町・墨染桜の精についても、いまだしのところがあるよね、といふ話もある。

だけど、見ちやつたんだな。
なんかもう、「これが歌舞伎だよ」としか云へない、おそらくはいまほかにさういふ空気をまとつたものの一人もゐない、さうした雰囲気が梅枝から醸し出されることがある、といふことを。
いつもいつもさうだといふわけではないけれど。

うーん、情報の更新の話をするつもりで、梅枝のことばかり書いてしまつた。
情報の更新についてはまた機会があつたら。

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