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Tuesday, 30 April 2019

タティングレースの栞など

栞を作つた。

Tatted Bookmarks

左側の二つは過去に作つたものだ。
右側の栞はここ二週間くらゐで作つた。
手が遅くなつてゐるし、下手にもなつてゐる。

Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる Anniversary は、おそらくおなじ本に載つてゐる Black Magic といふ栞を作つたところあまりにも下手だつたので、似たやうなデザインでもうちよつとかんたんなものを作つてみたのだつたと記憶してゐる。

この中ではおそらく Kersti Anear のデザインした Floral Bookmark が一番タティングしてゐたころに作つたものなんぢやないかなあ。
それでこの程度の出来か、と云はれたら、はいその通りです、としか云へないわけだが。

最近作つたのは、こちらに作り方がある。
以前も「リハビリに栞を、と思つたが、タティングシャトル二つ遣ひの上スプリットリングがあるものを選んだ時点で誤りだつた」といふやうなことを呟いてゐる。
学ばないなー。
この栞と Floral Bookmark とはもういくつ作つたかわからない。
好きなんだらうな、多分。
作りやすいといふこともある。
作りやすい、といふよりは、作りやすさう、かな。
さう思つて作りはじめていつも「しまつた」と思ふからだ。
学ばないなー。

糸は Lisbeth #40 の Col.139 FRUIT FIZZ。
確か神戸のドヰ手芸で購入したと思ふ。
ドヰ手芸はとにかくものが多く、しかも見やすく並んでゐるといふのが圧巻で、行くとなにか買はずにはゐられない。
あれだけ商品が並んでゐて、かつ整然としてゐる、といふことにまづ圧倒されるんだよね。
ドヰ手芸での最初の買物はWeb通販で、対応がものすごく速いことに驚いたものだつたが、はじめて行つた時これだけ大量の商品をきちんときれいに見やすく陳列してゐるお店だもの、それも当然か、と思つたものだつた。
店舗が移転してから行つてゐないなあ。
行きたいなあ。
でもこれ以上糸を増やしてはいけないのだつた。

いつものことだけれども。

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Monday, 29 April 2019

Swatch考

ゲージを取るために swatch を編んでゐる。

Swatch

あまりゲージを問はないものを編むことが多い。
そもそもゲージとはそれほど精確なものではない。
編んでゐるうちに手は変はつていくし、さうでなくても長いものを編んでゐると自重で編み地が伸びるのを止めることはむつかしい。

ゲージを取るときに気をつけることは、リラックスして編むことだといふ。
ゲージを取つて、いざ編み始めると次第に編むことに慣れていつてゲージが変はるからといふのが理由だ。

ゲージを編んだときの swatch を取つておくことも重要らしい。
時々編んでゐるものと swatch とを比べて、ちやんと swatch 通り編めてゐるか確認するためだ。

さうなのか。
世の中の人はさうやつて編んでゐるのか。
ゲージは取るけど見比べながら編んだことはないなあ。
だいたい最初に編んだ swatch を信じてしまふ。

Swatch を編まうと考へるからいけないのかもしれない。
Elizabeth Zimmermann は、セーターを輪に編む場合、swatch として帽子を編むといいと書いてゐる。
なるほど、帽子ならそのままかぶるだらうし、swatch を編むといふ緊張感からは解放されるのかもしれない。
平たく編むならマフラーといつたところだらうが、それだとマフラーを編んだだけで満足してしまひさうだな。

一度だけセーターを輪で編んだことがある。
たた&たた夫さんのところのリブ編みのセーターを、黒い糸で編んであとで綴じ合はせるのでは目がつらいと思つて、輪に編むことにした。
このときは帽子は編まなかつた。
二目ゴム編みだから、平たく編んでも輪で編んでもそれほどゲージは変はるまいと思つたからだ。

平たく編むときと輪に編むときとの違ひはなにかといふと、表と裏とで編む目が変はるか否かといふことだらう。
平たく編む場合、メリヤス編みなら表を編む時はメリヤス編み、裏を編むときは裏メリヤス編みを編む。
輪に編む場合はずつとメリヤス編みだ。
とくに左手に糸をかけて編む人は、メリヤス編みと裏メリヤス編みとで微妙に違ひが出てくる。
これがゲージに影響する。

でもゴム編みならね。
一列一列の目に違ひは出るだらうけど、全体で考へたらおなじになるんぢやあるまいか。

いづれにしても、リブ編みなんだから多少誤差が出たところで問題ない。
ああ、やつぱりゲージのあまり関係ないものばかり編んでゐるなあ。

今回はヴェストになるはずで、それもそれなりにきちんとサイズ合はせをする必要がある。
ゲージは必要だ。
そんなわけで swatch を編んでゐるのだけれども、どう見ても段々手がきつくなつてきてゐる。
これはもうかうなるものと考へて計算しながら編むしかないか。

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Friday, 26 April 2019

Morning Pages と朝の手習ひ

morning pages といふのは、Julia Cameron の The Artisit's Way といふ本に紹介されてゐる、創造力を高めるための手法のひとつだ。

朝起きて即、A4の紙三ページになにごとか手で書き付ける。
しかるに morning pages といふ。
誰にも見られてはいけないし、自分自身でも読み返してはいけない。八週間たつたら読み返してもいいけれど、それまでは絶対ダメ。

書くことはなんでもいい。書くことがなければ「なにも書くことがない」と延々三ページ書いてもいい。
朝起きて即といふところと、誰にも見られてはならないといふことで、本音を書くことができる、いはゆる brain dump になる、といふ。

創作の助けになるといふのは、つまり文章を書く類の創作以外にも有効だといふことだ。
絵描きでも作曲でも演奏でも、なんでもいい。
多分、あみものやタティングレースにも効くことだらう。

残念ながらやつがれは、朝起きて即書いてはゐない。
三ページ書いてはゐるけれども、Moleskine のポケットサイズに三ページにしてゐる。
でも少なくとも午前中のうちに三ページ、なにがしか書き付けてゐる。
見返してもゐないし、もちろん人には見せてゐない。見せても読めないんぢやないかな、ものすごい勢ひで書いてゐるから字が滅茶苦茶なのだ。

創作の助けになつてゐるかどうかはともかく、これつて、本邦には古くからある習慣に似てゐるよな、と思ふ。

新井白石は幼いころ毎日昼のうちに三千字、夜は一千字の手習ひをしてゐたといふ。
冬は日が短いので、昼の三千字は朝早くから起きて書いたとのことだ。

手習ひに限らず、そろばんの練習なども朝早くからするといふ話も聞くし、部活動にはいはゆる朝練といふものがあるし、なにかしら朝早くから起きて修練に励むといふことが昔からある。

ヨーロッパなどでも教会での早朝のつとめといふのがあるのではないかと思ふから、さういふの、あるのかな。
朝早く起きて手習ひの練習、とか。

morning pages はそれに近い。
朝起きてすぐの頭がぼーつとした状態のところで集中して三ページなにごとか書き付ける。
ちよつとした瞑想のやうなものなんぢやないかなあ。

いまのところ、morning pages の成果が出てゐない気がするのでなんともいへないけれど、さう思ふともうちよつとつづけてみやうかなといふ気になる。

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Thursday, 25 April 2019

寝たいし好きなこともしたい

近頃あまり書けてゐない。

毎日 Bullet Journal のエントリ(とでもいふのだらうか)は書いてゐるし、morning pages は三月からつづけてゐる。
でもなんとなく、「書けてないなー」と思ふのだつた。

ひとつには、情報カードに書かない日があつたりすることが原因かもしれない。
また、「なんでも手帳」と呼んでゐる手帳(現在は Smythson の Panama)への書き込みができてゐないからかもしれない。

書けてゐない理由は、とにかく睡眠時間重視だからだ。
家に帰つて、情報カードや「なんでも手帳」に「あんなことも書かう、こんなことも書かう」と手元においてはみるものの、夕食や入浴、その他自分でやると決めてゐることをすると、もうなにかを書く時間がないのだつた。

かうして日々過ぎていくのかな。

十分な睡眠が重要であることはわかつてゐるつもりだ。
でもなー、自分の好きなことのひとつもできずになんの人生、と思ふことも確かだ。

帰宅すると疲れきつてしまつて、用事を早めにすませやうといふことができないといふこともある。
これも睡眠が足りてゐないからさうなるのかなあ、といふ気もする。

もつと寝たいがさうすると書いてゐる時間がない。
このジレンマよ。

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Wednesday, 24 April 2019

世の中わからぬことばかり

世の中はわからないことだらけだ。

すこしでもわかりたいと思つて本など読んでみると、ますますわからなくなる。
まづはブルーバックスなどを手に取つてみるのだが、なににつけ量子論が出てくる。
お手上げだ。
1kgの基準や時間や宇宙について知りたかつたはずなのに、量子論でつまづく。
もう世の中のことはわからないままなんだな。

量子論が出てこないやうなことでもわからないことは多い。
とくにわからないと思ふのが経済だ。
「経済と経済学とは違ふ」などといはれるとますますわからない。

授業で習つた経済学は、しごく単純だつた。
リンゴとバナナとがあつたとする。
リンゴが一つ100円でバナナが一本50円ならバナナの方が売れる、といふ。
人間は必ず合理的に行動する。
需要と供給とはバランスがとれてしかるべきもの。
それが経済学だつた。

でも、世の中さうはなつてゐない。
やつがれはリンゴは好きだがバナナは嫌ひだ。
たとへリンゴがバナナの倍の額であつてもリンゴを選ぶ。
授業では、「きみの考へは聞いてゐない」と云はれた。
事実なのにな。

そこでつまづいてしまつて、結局経済学はわからぬままにここまできてしまつた。

実際のところ、人間は必ずしも合理的に行動するものではなく、非合理な行動もかなりとる、といふことで行動経済学なんてな学問もある。

この世は経済学の理論のとほりには動いてゐないんぢやあるまいか。
よくわかんないけどさ。
需要と供給とはほんとにバランスがとれてゐるんだらうか。
独占を禁じながら段々寡占になつていくのはなぜか。
エントロピーは増大するものなんぢやないの?

謎は尽きない。

よくわからないくせに「もう資本主義とか云つてる場合ぢやないんぢやないの?」とも思ふ。
その肝心の「資本主義」もよくわからない。

以前、「なにかを知りたいと思つたら、まづ専門書を読む。それから入門書を読むと、「ああ、あれはこういふことだつたのか」と思ふことが多いし、理解も進む」といふ話を聞いたことがある。

経済学についても入門書ではなくていきなり専門書とかを読んで、しかる後に入門書を読んだらすこしはわかるやうにはなるだらうか。
でもそれにはなにを読めばいいんだらう。
「国富論」までさかのぼつてみるべき?

わからないといふことは、どこから手を着けたものやらわからない、といふことでもあるんだなあ。

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Tuesday, 23 April 2019

なんの因果でタティングレース

タティングレースは、それでもちよこちよこやつてゐる。

昨日は、全然編めてゐないといふ話を書いた。
タティングはといふと、先週栞を作り始めたところだ。
極細毛糸で作つてゐるスカーフは小休止といつたところ。
これは編めないのと似てゐる気がする。
おそらく、大きいものを手がけるだけの気力がないのだ。

そこで、栞、といふことなのだらう。

小さいものだしこれまで何度も作つたものなのだけれども、遅々として進まない。
やつぱり気力が落ちてゐるんだらうなあ。
でもなにか作らずにはゐられない。
因果な性分だ。

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Monday, 22 April 2019

ヤバいあみもの

編まなくても生きていけるんだな。
さう思ふ。

先週はまつたくと云つていいほど編まなかつた。
ドタバタしてゐたから、といふのはそのとほり。
最近、眠れないとほんとにダメで、平日にイヴェントがあるとその分就寝時間が遅くなるのでまるで頭が働かないし躰も動かなくなつてしまふ。

週末は歌舞伎座の昼夜通しの芝居見物と法事とで過ぎて行つてしまつた。

やる気も著しく落ちて、それであみものをする気もなくなつてしまつた。
さういふことなのだと思ふ。

かういふ状態はヤバい。
ほんとは「ヤバい」などといふことばはあまり使ひたくないが、さう思ふ。
なぜといつて、趣味のあれこれさへやる気がなくなつてしまつてゐる状態をヤバいと云はずしてなんと云はう。

このまま、あみものをやめちやふのかな。
かういふ状態がつづくとさう思ふ。
数だけは多い我が家の毛糸をどうしやう。
毛糸は寄付するなどの手だてもあるが、編み針はさうもいくまい。

連休に入れば、それなりに睡眠不足も解消されてすこしは編む気にもなるかな。

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Friday, 19 April 2019

ダメな理由

もしかしたらダメなのは自分ではないのではないだらうか。

気がつくと「自分はダメだなあ」と思つてゐる。
これはよくあることのやうで、ひとりごとやひとりで考へることの七割は自分についての negative なことだといふ話を聞いた。
つまり、脳内では大抵自分のことをダメだと思つてゐるといふことだ。

さはさりながら、世の中、「自己肯定感を持て」といふ。
ここにも何度か書いたやうに、「自己肯定感」といふものをはじめて知つたのはここ四、五年のことだ。
Twitter で知つた。
それまで人間は誰でも「自分はなんてダメなんだらう」と思つて生きてゐるものだと思つてゐた。
まあ、上記の統計からいくとそれはあながち間違ひでもないのかもしれない。

でも、さうではないのだといふ。
世の中には自身のことをダメだと思つたりしない人がゐる、「自分は生きてゐるだけですばらしい存在」だとか、そんなことを思つてゐる人がゐる。
知らなかつたよ。
と、思はず歌ひ出したいくらゐの衝撃を受けた。

その後、その「自己肯定感」とやらを持たうとしてみては挫折して、「もういいや、そんなものなくても今まで生きてきたんだし」と思ふやうになつた、とは、これまたここにも以前書いたやうに思ふ。

昨日、ふと気がついた。
もしかして、自分がダメな理由の大半は、睡眠不足のせゐではあるまいか。

考へてみたら、やる気がないのも気が利かないのも碌にものを云ひ返せないのも、もとをただせば睡眠不足で気力がなくなり頭が回つてゐないせゐなのぢやあるまいか。
普段から十分睡眠を取つてゐたら、もつとやる気も出るし気も頭も回るやうになるのぢやないだらうか。

無論、睡眠不足の状態をよしとしてしまつてゐるのは自分なわけだが。

でも好きで睡眠不足な状態に陥つてゐるわけではない。
通勤にかかる時間と働く時間とから家を出る時間と帰りつく時間とを割り出すと、もうこれ以上はどうしやうもない状態になつてゐるのだ。
自分の力でどうにかしやうとしたら、転職するしかない。
そして、いまさら転職なんぞできるわけもない。

そんなわけで、いままでになく自己肯定感があがつてゐる。
その前の状況から見て、ではあるけれども。

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Thursday, 18 April 2019

十連休には不善を為さう

今月末からはじまる十連休のあひだ、落語会に一度行くくらゐで、あとはまるで予定がない。
「午前十時からの映画祭」が今年で最後といふ話なので、連休中に見たい映画かあつたら行くかなあ、といふのと、あとは髪を切りに行きたいなあといふのとがある。

十連休なのに、だ。
十連休なのに、落語会の関係者や映画館に働く人々、床屋や美容院は休みではない。
あー、床屋や美容院はもしかしたら休みだつたりするかも?
でも、おそらく開店してゐるところもあるのぢやないか。

ATMも稼働するといふ話だつた。
十連休のあひだはキャッシュレスを推進するのではなかつたか?
もしかしたら改元でシステムがをかしくなつてクレジットカードが使へなくなる可能性を考へてゐるのか。
でもそれだつたらATMだつておなじことだしねえ。
キャッシュレスを推進するあまり、消費を控へる人が増えることをおそれてゐるのだらうか。
実際、十連休は出かけないし買ひものもできるだけしないつもりでゐる。

なんだかんだいつて無駄に時間を過ごしてしまふのだらうな。
家の片づけもちよつとはしやうと思つてゐるけれど、だらだら過ごしてしまひさうな気がする。
古来、小人閑居して不善を為すといふとほりだ。
でもまあ、家の中にゐてする不善ならたいしたことはあるまい。

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Wednesday, 17 April 2019

やる気のない「ファシリテータ」

ファシリテータといひ、ファシリテーションといふ。
なにか、もつといい訳語はなかつたのだらうか。

個人的な理解では、以下の通りだ。
ファシリテータとは議事進行役で、打ち合はせなどの話し合ひの場を円滑に取り持つ役割の人を指す。
ファシリテーションとは議事を円滑に運ぶための技術だ。

とても大切なもののやうに思へる。
小学校の学級会に取り込んだらどうかとさへ思ふ。
小学生のうちからファシリテーションのなんたるかを身につけたら、とても役に立つのではあるまいか。

でも、世の中さうはならない。
その理由のひとつが、「ファシリテータ」といひ「ファシリテーション」といふ、この長たらしい名前だ。
これが漢字二つくらゐで音でも四つくらゐの単語に翻訳されてゐたらどうだらう。
もつと広まつたのぢやないか。
それこそ、小学校でも取り入れられるくらゐのものになつてゐただらうに、と残念でならない。

いつたい本邦に「ファシリテータ」なり「ファシリテーション」なりといふ概念を最初に持ち込んだのは誰なのだらう。
なぜもつと適切な日本語に訳して持ち込まなかつたのか。
せつかく持ち込んでおいて、ひどい話だ。
幕末から明治にかけて、economyを経済と訳し、philosophyを哲学と訳した、それがいいかどうかはともかくとして、人工に膾炙するやうなことばに訳した先人たちに、なぜ学ばなかつたのか。

もつといへば、なぜ「ファシリテータ」や「ファシリテーション」を適切な日本語に訳せるだけの日本語力のある人が持ち込めなかつたのか。
悔やんでも悔やみきれない。

訳せばいいといふ話でもないのがvulnerabilityの「脆弱性」だ。
やる気が感じられない。
ことの重大性を伝へきれてゐない。
それを考へると「ファシリテータ」「ファシリテーション」も仕方がないのだらうか。

やたらと打ち合はせだミーティングだで日が暮れていく、予定通りに打ち合はせを終はらせることのできない状況はこの先もつづくといふことだな。

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Tuesday, 16 April 2019

栞大好き

タティングレースにおける栞は、あみものにおけるくつ下と似てゐるのかもしれない。

あみものにおけるくつ下とは、こものだがいろいろ楽しめる、といふことだ。
ただ編むだけではなく、はぐ必要があつたり増減目があつたりする。
メリヤス編みだけで編むこともできるし、複雑な模様を使ふこともできる。

タティングレースにおける栞も同様だ。
極々かんたんなリングだけを連ねたものでも栞になるし、スプリットリングやモックリングを使つたちよつと複雑なエジングでも栞になる。
シャトルに巻いた糸だけで作れる栞もあれば、シャトルを四つ使ふやうな栞もある。
エジングだけでなく、モチーフを作つてタッセルを足してもいいし細いブリッジをつなげてもいい。
二色遣ひも楽しいし、セルティックタティングの栞なども趣深い。

あみものにおけるくつ下もタティングレースにおける栞も、なにか新しいことをちよつと試してみたいときに向いてゐるのだ。

くつ下も何足も編んだし、栞もいくつも作つた。
どちらもそのうちいくらかは使つたし、残りはまつたく手つかずのままだ。
栞は人にあげたものもある。
贈り物の彩りに加へるのにちやうどいい大きさだからだ。

おなじ栞を色違ひや糸の太さ違ひでいくつも作つておくのもおもしろいかと思ふ。

さうか。栞か。
作るかな。

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Monday, 15 April 2019

オリジナルのデザインとは

あみものをするといふと、「手先が器用だ」と思はれることがある。
実際のところ、世の中に自分ほど不器用な人間がゐるとは思へないし、見たこともない。
家庭科の成績はいつも努力点だつた。
この話はここでも何度も書いてゐる。

でもあみものはできるぢやありませんか、といふ向きもあらう。
できる、と云ひ切つていいものか悩むが、多分、人並みにはできる。
なぜといつて、編み物には時間をかけてきたからだ。
時間をかけられるなんてすごいぢやないですか、と世の人は云ふかもしれない。
だけど、好きなんだもの、そりや時間はかけられるし、かけてゐるといふ意識も普段はない。
時折、「ああ、あみものとか、時間をかければ誰でもできるやうになることしかできないのだなあ」と暗澹たる気持ちになる。

これで、自分で編むもののデザインでもできれば話はまた別だ。
無論、編み図も編み方もなにもないところから編んで仕上げることもないわけぢやない。
この糸にはこんな模様が向いてゐるな、とか、糸から連想して編むこともある。

でもそれは、これまでたくさん編んできたからできることだ。
あの時編んだあのマフラー、あの時編んだあのくつ下、その模様や技術をちよつと借りて来やう。
さうして編んだものもいくらもある。

それつて、デザインしたといへるんだらうか。

あみものの世界では、伝統的な模様についてはそれを使つてデザインしてもオリジナルのデザインと認められるやうに思ふ。
かぎ針編みでいへば方眼編みを使つてデザインしたところで、盗作だとかパクリだとか云はれることはない。
だから、多分やつがれが「あれとこれとを組み合はせてこんなものを編まう」と思つて編んだものは、オリジナルのデザインなのだらう。
よほど似たところ、相手の工夫したところなどがない限り、オリジナルで通るはずだ。

でもどうなんだらう。

著作権は創造性を殺すね。

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Friday, 12 April 2019

呂蒙実ハ呂蒙

NHKで放映されてゐた「人形劇三国志」に出てくる呂蒙は、悪そのものだつた。

「人形劇三国志」は大筋は「三国志演義」を元にしつつ、オリジナルな設定・登場人物も多く見られる番組である。

ここに登場する呂蒙の性格や言動などは、かなりのところオリジナルといつていいだらう。
自分で目を通した狭い範囲の三国志もので呂蒙がこんなに悪い人物であることはないと思ふ。

どんなに悪いのかといふと、領民をとらへておいて「降参したら領民は許してやる」と関羽に約束しておきながら、ひとたび関羽が投降すると領民を殺してしまふ、といふやうなことを平気でやる。

カシラは目の玉が左右に動く種類のもので、目の玉が左右どちらか片方に寄ると如何にも狡猾そうな表情になつて、それはそれは悪人面に見えたものだつた。

Wikipedia など見ると、この呂蒙の設定については田中芳樹が批判した、などと書いてある。

あらためて「人形劇三国志」の「関羽の死」の回などを見てみると、確かに呂蒙はあくまでも「悪人」といつた作りになつてゐる。
しかし、その悪人つぷりがいつそ清々しい。
さうも思へた。
ここまで徹底的に悪だと、見てゐて気持ちがいい。
この話は以前もここに書いたやうに思ふ。

呂蒙の人形は飯田市川本喜八郎人形美術館に展示されることがある。
はじめて見に行つたとき、この呂蒙の人形にひどく驚いたものだつた。
呂蒙は、ちよつと高いところに立つてやや斜め上を見上げてゐた。
空を見上げてゐるやうにも見えるせゐだらうか、その表情は希望に満ちた武人、それもみづから策もたてるやうな頭のよい武人に見えた。
これから呉の国をもり立てて行かう。
前途は有望だ。
人形劇に出てゐたときとは感じたことのない風情だつた。

呂蒙にこんな表情ができるなんて。
人形劇の呂蒙に、こんな颯爽とした印象を覚えるなんて。
当時、いたく感銘を受けたことを覚えてゐる。

これもここに何度か書いてゐることに、文楽の人形遣ひだつた吉田文雀が「人形には「実ハ」がなければいけません」といふ旨のことを云つてゐたことがある。
川本喜八郎との対談の中でのことばだ。

文楽や歌舞伎には「見顕し」と呼ばれるものがあつて、たとへば「義経千本桜」の渡海屋銀平は実は壇ノ浦で「見るべきほどのことは見つ」といつて海に沈んだはずの平知盛の世を忍ぶ仮の姿である。
かういふとき、配役表やチラシなどには「渡海屋銀平実ハ平知盛」と書かれる。
世を忍ぶ仮の姿で登場して途中で正体を明かす登場人物が文楽や芝居にはたくさん登場する。

でも文雀が云つてゐるのは、おそらくさういふことではない。
真意はわからないけれど、やつがれなりに解釈してゐるのは、かういふことだ。

現在、国立文楽劇場で「仮名手本忠臣蔵」がかかつてゐる。
ここに加古川本蔵といふ登場人物がゐる。
史実の梶川与惣兵衛をモデルにした人物といはれてゐて、「仮名手本忠臣蔵」では重要人物として描かれてゐる。
今月登場する加古川本蔵は、お主のためには賄を贈ることも厭はない、世知に長けた人物だ。
そのお主はといふと、直情径行の正義漢で賄賂なんて大嫌ひときてゐるから、本蔵はお主のことはそれなりにあしらつて、賄賂を贈ることなどおくびにも出さない。
家では娘にはちよつと甘い、厳格な主人である。

この本蔵が、実はどんなことを心に秘めてゐたかといふことは、今年十一月ごろおなじ国立文楽劇場で明らかになるのではないかと思ふ。
文雀の云つてゐる「実ハ」はこれに近いのではないかと思つてゐる。

あるいは今月の歌舞伎座でかかつてゐる「新版歌祭文」は「野崎村」のお光だ。
お光は田舎娘だ。
大阪で奉公してゐる久松を心から好いてゐて、突然結婚できることになりうきうきしてゐる。
父にも母にも孝行な娘でもある。

その久松の奉公先の娘であるお染がたづねてくると、お光はけんもほろろに追ひ返す。
ところが、お染と久松とが互ひに愛し合つてゐて、お染のおなかにこどもがゐることを知ると、お光はある決心をするのだつた。
ここから先のお光はこれまでのお光からは考へられないやうな行動をとる。
これもまた「実ハ」なのではあるまいか。

TVに出てゐたときの呂蒙と、飯田で見た呂蒙と、どちらがほんものでどちらが「実ハ」なのか。
それはわからない。
でも、重要人物ではあるとはいへ、さほど登場回数の多いともいへない人形にも、かうして「実ハ」といふ姿がある。
「人形劇三国志」がおもしろかつたのは、かういふところにも理由があるのではあるまいか。

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Thursday, 11 April 2019

今そこにある Hammer to Fall

クイーンのアルバム「The Works」が世に出た年、国境の町にゐた。一年ほどそこで暮らした。

国境の町は基地の町でもあつた。
自衛隊がゐて、米軍がゐて、西独軍がゐた。
小さな町ではあつたけれど、一朝ことがあつたときには真つ先に核爆弾が飛んでくる場所のひとつだと云はれてゐた。

当時、「Hammer to Fall」はキューバ危機云々といつたノスタルジアではなく、今ここにある現実だつた。

もちろん、町の人もやつがれも、毎日楽しく暮らしてゐた。
人間、自分には流れ弾は当たらないと思つてゐる。基本的に楽観的にできてゐるのだ。

でも、思ふ。
どんなに叫んだところで、自分の声などどこにも届きはしないのだ、と。
わかつてゐても叫んでしまふのだ、と。

ほんとになんのために戦つてゐるんだらうね。

といふのが、「Hammer to Fall」を聞いたときの印象で、それはいまもあまり変はつてゐない。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」の応援上映会に行くと、きまつてこの歌詞のくだりでなんともいへない気分になるからだ。
映画自体ももう最終盤でもりあがつてゐるところだからといふこともある。

あれからもう一世代以上の時が流れてゐるといふのに自分の声はどこにも届かないし、それでもやつぱり叫んでしまふし、なんのために戦つてゐるのかわからないのも全然変はつてゐない。
そのことに思ひ至つては、「成長しないなー、自分は」と、自嘲してしまふのに違ひない。

いまでもロシアの核爆弾のひとつはあの町を標的にしてゐるのだらう。

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Wednesday, 10 April 2019

情報更新と歌舞伎の匂ひ

ケーシー高峰が亡くなつたといふ。
少し前には萩原健一の訃報があつた。
時代の変はり目にはある一時代を担つてきたやうな人々が亡くなる、と書いてゐた橋本治も一月に点鬼簿にその名を連ねてゐる。

あと少しすると元号が平成から令和に変はる。
時代の変はり目といへばそのとほりなのだらう。
そして、やつがれは情報を更新できずにゐる。

もうあの役者もこの役者もゐなくなつてしまつた。
あんな味のある役者はもう出てくるまいなあ。
出てきたとしても自分が生きてゐるあひだのことではあるまい。

つひつひさう考へてしまふ。

でもそれつて、単に「情報が更新されてゐない」つてだけなんぢやないの、と見ることもできる。

芝居を見るたびに思ふ。
もう「歌舞伎の匂ひ」のする役者はゐなくなつてしまつた、と。
澤村宗十郎が、自分の中では最後だらうか。
「ああ、歌舞伎だなあ」と思つたのは、四年前の六月に見た「新薄雪物語」は冒頭の播磨屋と松嶋屋との競演だが、あれは二人だつた。
一人だけで、出てくるだけで、「ああ、歌舞伎だなあ」と思ふやうな役者は、紀伊国屋を最後に見たことがない。

さう思つてゐたのだが。

先月、国立劇場の小劇場で見た中村梅枝の小町・墨染桜の精は、出てくるだけで歌舞伎だつた。

梅枝には以前からさういふところがあつて、去年の六月のコクーン歌舞伎「切られの与三」でも「ひとりだけ歌舞伎」と云はれたりしてゐたやうに思ふ。
ただコクーン歌舞伎の梅枝は、おそらくはさういふ演出だつたのであつて、コクーン歌舞伎だもの、もつと歌舞伎でない行き方もあつたと思ふのだ。

でも先月は違つた。
説明しやうがないのだが、歌舞伎だつた。
やつがれの思ふ歌舞伎といふものを体現してゐた。
演目と役もよかつたのだと思ふ。
「積恋雪関扉」などといふ、わけのわからない、歌舞伎以外でどう上演したらいいのか戸惑ふやうな芝居。
雪の中、どう考へても「そんな恰好では来られるはずがない」といふ赤姫の出で立ちの小野小町。
桜の木の虚からぼんやりとあらはれる、この世のものではない墨染桜の精。
それを梅枝が演じると、なんともいへない、「ああ、歌舞伎だ」としか呼べないやうな匂ひが立ちのぼるのだつた。

これまで見てきた「関扉」では、墨染桜の精にはどこか中村歌右衛門を思はせるやうなところがあつた。
もしかしたら歌右衛門振りだとか(六世)歌右衛門型といふのがあるのかもしれない。
さうも思つてゐた。
だが、梅枝の墨染桜の精には大成駒を思ひ出させるやうな点がほぼなかつた。
思ふに、古怪さを出さうとすると、歌右衛門に近寄つてゆく、歌右衛門をうつさざるを得ない、そんなところがあるのぢやあるまいか。
梅枝の墨染桜の精は、歌右衛門によせて行かなくても十分古怪だつた。
単に、これまで見てきたものは成駒屋の役者が演じたり大成駒に習つた役者が演じてきたといふだけなのかもしれないけれど。
歌右衛門ぢやないやり方もあるんだ。
さう思つた。

これまで中村梅枝はうまい役者だとは思つてゐた。
それはおそらく衆目の認めるところだと思ふ。
「でも、それだけだよね」といふ向きもある。
また、先月の小町・墨染桜の精についても、いまだしのところがあるよね、といふ話もある。

だけど、見ちやつたんだな。
なんかもう、「これが歌舞伎だよ」としか云へない、おそらくはいまほかにさういふ空気をまとつたものの一人もゐない、さうした雰囲気が梅枝から醸し出されることがある、といふことを。
いつもいつもさうだといふわけではないけれど。

うーん、情報の更新の話をするつもりで、梅枝のことばかり書いてしまつた。
情報の更新についてはまた機会があつたら。

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Tuesday, 09 April 2019

タティングレースでウェアもの

タティングレースでウェアものを作らうと思つたこともある。

太い糸で大きく作れるモチーフをつなげたらできるのではないか、と思つて、な。
実際、タティングレースのヴェストのやうなものはたまに見かけるし、ヴェストは好きだ。

タティングレースで作らうと思つたら、四角形や六角形のモチーフをつなぐんだらう。
以前、Burda で細いエジングをつないだやうなヴェストを見たことがある。これはちよつとすてきだつた。

10番手の糸で作つたら、案外作れるものなのかも。
だつて実際にタティングレースのウェアものを着てゐる人がゐるのだし。

でも作らうとしたことはない。
第一に、作つたあと、手入れに困るだらうと思ふからだ。
10番手の糸で作つたとしても、タティングレースは繊細なものだ。
乱暴に扱ふことはできないし、洗濯にも細心の注意が必要だらう。
それは、ちよつとやつがれにはムリなのではあるまいか。

第二に、作つてゐる途中で飽きてしまふ可能性が高いからだ。
飽きないやうな工夫をする必要があるだらう。
そしてその工夫を考へつかない。

第三に、この糸で作りたいと思ふ糸がないからだ。
タティングレースでウェアものを作るとしたら、どんなに細くてもエミーグランデくらゐだらうと思ふ。
エミーグランデでウェアものを作るのだつたらタティングレースよりもかぎ針編みを選びたい。

斯様に、考へてはゐるのだ、タティングレースでウェアものを作ることを。
そのうちなんかの表紙で気がをかしくなつて作つてゐるかもしれないな。

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Monday, 08 April 2019

編めたり編めなかったり

八年ほど前、自分で着られるものを編むやうになつた。
編めることに気がついたのだ。
それまで、自分にはセーターだのカーディガンだのは編めないと思思ひ込んでゐた。

たまたま手に取つた編み物の本に掲載されてゐたとじはぎのほとんどないヴェストが気に入つた。
これなら編めるかもしれない。
とりあへず、着られるやうな形にはなつた。

なんだ、編めるんぢやん。

といふわけで。次にやはりとじはぎのほとんどないかぎ針編みのカーディガンを編んでみた。
これは北欧旅行に持つて行つた。

「毛糸だま」に掲載されてゐた Fan & Feather 模様のヴェストも編んだ。これもとじはぎはあまりなかつたやうに記憶する。

時間をかければできる。
途中ではふり出さなければできる。
とじはぎがなけれぱいける。

次に、たた&たた夫さんの黒いリブタートルセーターを編んだ。
指定の糸は手に入らなかつたので、パピーのグランメリノで編んだ。
黒い糸でとじはぎはつらいので、ぐるぐる輪に編んだ。
これもできた。

その後編んでゐないのは、ひとつにはウェアものはしまふ場所に苦労するから、といふのがある。
かさばるんだよね、セーターとかカーディガンとか。
もうひとつの理由は、編んでゐる時間を捻出するのがむつかしくなつたから、だ。

でも、なんとなく、自分で着るものを編みたい。
またヴェストが好きでねえ、といふのはまた別の話かな。

ゲージを取るところからはじめるやうなのだが、今週中にできるかな。

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Friday, 05 April 2019

なんでもありの測量野帳

測量野帳を使ひはじめた。
4/2に使ひはじめて、毎日楽しく使つてゐる。
手に持つだけでなんとなくしあわせな気分だ。

使つてゐるのは通常の深緑色の表紙のものではなく、青い表紙でモモンガの絵のついたものだ。
どうやら十年前にコクヨと「BE-PAL」、村上康成の共同企画として発売されたものらしい。

さうか。この測量野帳(以下、野帳)は十年ものか。

ちなみに中身は通常の野帳でいふところの「SKETCHBOOK」とおなじ方眼罫である。

十年もはふつてあつたくらゐだから、入手したはいいものの使ひ道に困つてゐたことは間違ひはない。
当時は、MOLESKINEを使つてゐたころだと思ふ。
一冊にほぼ二百ページの容量といふのがあたりまへだつた。
野帳は八十ページだ。
ちよつと少ない。
とくにここ三年ばかり Bullet Journal を使ふやうになつて、一冊のページ数が多い方がいい。

そんなわけでたまに手持ちの野帳を確認しながらも使へずに来た。

突然使ひはじめた理由は、ひとつ。

なにを書いても/描いてもいいぢやん。

これに尽きる。

火曜日から使ひはじめた野帳には、王維や于武陵、魏武の詩が書き付けてあつたり、手ばかりまたは足ばかりゼンタングルかなにかのやうに埋め尽くしたページがあつたり、「Hammer to Fall」の「What the hell we fighting for」といふ一句が書きなぐつてあつたりする。
つまりは、とにかく滅茶苦茶な状態になつてゐる。
#お見せできないのが残念です。

そして、野帳が手放せない。
かたい表紙に薄くて持ち歩きやすい大きさ。
いつたいなぜいままで使はずにおいてゐたのか。
我ながら不思議でならない。

その一方でかういふ機会を待つてゐたのかもしれないな、とも思ふ。

これまでにも、先に書いた Moleskine とか Panama とかを「なんでも帳」として使つてきたしいまでも使つてゐるけれど、そこには文字しか書かれてゐない。
Moleskine のときはごくまれに図のやうなものを描くこともあるけれど、Panama では皆無だ。
それでいいし、自分にはそれが向いてゐると思つてゐたし事実さうなのだと思ふ。
でも単なる落書きのやうなものもしたかつたのだなあ。

野帳。
使ひはじめてみてよかつた。

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Thursday, 04 April 2019

片づけられない

来る五月の十連休は出かける予定はない。

そこで、今度こそ片づけでもしやうかな、と思ひたつた。
片づけ、すなはち、家の中の掃除である。
いらないものを捨てて残つたものを整頓する。
その時間にあてやうといふのだ。

これは、ちよつと長い休みに入るときにはいつも考へることだ。
部屋の片づけをする、とか、もつと範囲をしぼつて机周りの片づけをする、とか。
さう書いておけばなにかしらちよこつとはする。
しかし、片づけをする前とした後とで劇的に違ふかといふと、さういふことは一度たりともない。

思ふに、片づけた後かうなつてゐるべき姿といふのを思ひ描かないのがいけないのではあるまいか。
かういふ状態になつたら片づけ終了といふ目標が見あたらないから、それで片づけたんだかなんなんだかわからないといふ状態になつてしまふのかもしれない。

だが。
これまた思ふのだが、なぜ片づかないかといふと、まづ片づけるためのスペースがないからだ。
捨てるにせよ、一旦はどこかにものを置く場所が必要だ。
「これはゴミだ」と決めたからといつて、即その場から消滅するわけではない。
ゴミの日まで、とつておかなければならない。
そのためのスペースがそもそもない。

また、ゴミは分別しなければならない。
「これはゴミだ」と思ふものがあつたとしやう。
それは燃やすゴミなのか? それとも燃えないゴミなのか? あるいは再生利用するゴミ? はたまた小さい金属? もしかしたら通常のゴミの日には出してはいけないものなのかも?
さうやつて、一々判断しなければならないし、ものによつて仕分けていかなければならない。
これがとにかくめんどくさい。

我が家は新聞を取つてゐない。
たまに「また取らうかな」と思ふこともあるが、新聞の取り扱ひのめんどくささ、捨てるときの難儀を思ふととてもとても取る気にはならない。
新聞をゴミに出すときのめんどくささを思へば、「ああ、新聞を取るのやめて、ほんたうによかつたなあ」としみじみ思ふ。

さういふ人間に、まづゴミか否かの判断、さらには何ゴミなのかの分別をもとめるのは、ムリといふものだ。

さうやつて片づけを後回しにしてきたツケはもう十分払つてゐると思ふ。

が、これではいけない。
たまにさう思ふ。
いまがその時だ。
なぜいま十連休に入らないのだらう。

四月二十七日になつたときには、ここに書いたやうなことはすべて忘れてゐるに違ひない。

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Wednesday, 03 April 2019

「ユビキタス・キャプチャー」はいづこ

「ユビキタス・キャプチャー」といふことばはまだ使はれてゐるのだらうか。

「ユビキタス・キャプチャー」とは、「いつでもどこでも記録をとること」と理解してゐる。
だいたい今世紀になつたばかりのころやつがれの耳に入つてきたやうに記憶してゐる。
そのころ Moleskine が出回りはじめて、「いつでもどこでも Moleskine とペンとを持ち歩いてなんでもかんでも記録しやう」といふやうな本も出版されてゐたやうに思ふ。

また、iPhone などのスマートフォンで記録をとることが容易になりつつあつたのでさうした指南も次第に増えていつた。
Evernote なんてのもできたし。

それで、さうしたことはいまどうなつてゐるのだらうか。
ちよつと気になつてゐる。

「ユビキタス・キャプチャー」でWeb検索をかけると、最初のページに表示されるもののうち一番新しいのは2017年のものらしい。
「ユビキタス・キャプチャー」といふことばはまだ死語ではないのかな。
単に自分の周りでは聞かないだけで。

多分、ことばはなくなつても、「ユビキタス・キャプチャー」の意味するところのことをつづけてゐる人はたくさんゐるのだらう。
「いつでもどこでも記録をと」つてゐる人はいくらでもゐる……のだらうと思ふが、さういふ人もあまり見かけない気がしてゐる。
それは「ユビキタス・キャプチャー」といふことが云はれてゐたころもさうだつたし、その前からさうだつたやうにも思ふ。

たとへば職場の打ち合わせだ。
チーム・ミーティングの類でメモをとつてゐる人がやつがれの周囲にはゐない。
とつてゐるやうに見える人もゐる。ノートPCを携へてくる人々だ。
しかし、彼らがノートPCでなにをしてゐるのやら、しかとしたことはわからない。
記録ではないかもしれない。単に内職をしてゐるのかも? あるいはWeb逍遥でもしてゐるのかもしれない。

電車の中でも同様だ。
車中の客は寝てゐるかスマートフォンを使用してゐるかのどちらかだ。
ペンを持つてゐる人も見かけるが、どうやら数独の類をしてゐる人ばかりのやうに見受けられる。
記録をとつてゐる人もゐるのかもしれない。
ただこちらがそれと気づかぬだけで。

だつて Twitter を見ればいくらでもメモ好きな人がゐるぢやあないか。
Web検索をかけてもさう。
本屋に行けばメモの重要性や出力すること、アウトプットの大切さを訴へる書籍が平積みになつてゐる。

しかし、時々思ふのだ。
Webで目立つ、書籍として出版されるといふことは、実践してゐる人が少ないからなのではないか、と。

即ち、やつぱり、世の中に「ユビキタス・キャプチャー」あるいはそれに近いやうなことをしてゐる人はそんなにたくさんはゐないのではないか、と。

つまりは、やつたもの勝ち?

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Tuesday, 02 April 2019

アイドルはタティング

タティングをしに出勤してゐる。

仕事としてタティングをしてゐるわけではない。
昼休みのあいた時間にせつせとタティングシャトルを使つてゐるだけだ。
家ではあみものをしてゐる。
さうやつて、あれもこれもなんとかやらうとしてゐる。

客先で働いてゐたときにお客さまでおもしろいことを云ふ人があつた。
社内に自分の「アイドル」を作つておく、といふのだ。
いまどきのことばにすると「推し」かもしれない。
「アイドル」または「推し」に会ふために出勤する。
職場に行けば「アイドル」に会へる。
さう思ふと、心憂く出勤もまた楽しくなる。
さう云ふのだつた。

なるほどなあ。
なにか楽しいことがあれば、ちよつと行きたくないくらゐの職場なら少しは心軽く出勤できるかもしれない。

といふわけで、タティングである。
実を云ふと、タティングは家でもできないことはない。
道具はあるし糸もある。
職場よりも環境はととのつてゐる。
実際、二週間前にもやつてゐた。あみものはちよつとサボつて。
といふのは、あみものはちよつと煮詰まりつつあるからなんだな。
アイリッシュ・クロシェの薔薇をいくつもいくつも編んでゐるけれど、いつたいいくつ編めば終はるのか、自分でも定かではない。
とりあへず、薔薇を飾る帽子の方を先に整形した方がいいかもしれない。

だからこそ、あみものをする必要がある。
タティングは職場で。

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Monday, 01 April 2019

2/0号のかぎ針

あたたかい日も増えてきたが、アイリッシュ・クロシェなら毛糸を編んでゐても気にはならない。
その一方で、エミー・グランデを買つてしまつた。
「美しいかぎ針編み 春夏27」に掲載されてゐるヴェストを編むつもりでゐる。

アイリッシュ・クロシェで使用してゐるかぎ針は2/0号で、本で指定されてゐる針も2/0号だ。
どうも2/0号といふのは昔から好きなサイズの針であるやうだ。

6/0号も好きだ。パピーのクイーンアニーを編むのに最適だと思つてゐる。
いま使用してゐる6/0号は自分で買つたかぎ針の中では一番古いもので、クロバー製で柄の部分が木製の針だ。
その後、編みやすいかぎ針はいくらも出たけれど、結局この木製の柄が一番使ひやすい。
当時、ほかのサイズも買つておくのだつたなと思ふが、まさかそんなに早く市場に出回らなくなるは思つてもみなかつたし、学校に通つてゐる身分では手元不如意でもあつた。

現在使つてゐる2/0号はアミュレットで、柄は緑色だ。
アイリッシュ・クロシェはパピーのNew4Plyで編んでゐる。
かぎ針のときは手がきつくなりがちなので3/0号でもいいかと思つたが、しつかりしたものを編みたかつたので2/0号にした。

棒針だとくつ下を編むなら0号かな。中細毛糸を使ふ場合には。
ぢやあ0号が好きかといふとさうでもなくて、4号、5号、6号くらゐが好きだ。
7号、8号になるとちよつと太いかなといふ気がする。
もちろん、編む糸にもよるのだけれど、結局使う糸といふのは好きな針のサイズに合ふことが多いやうに思ふ。
つまりは、まあ、さういふことなのだらう。

エミーグランデと2/0号なら手がきつくてもそれなりに余裕のある生地になりさうだ。
ヴェストを編むつもりはいいけれど、いつ編み始めることができるかが問題だ。
その前にまづゲージを取る必要があるしな。

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3月の読書メーター

3月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1417
ナイス数:30

飛ぶ教室 (新潮文庫)飛ぶ教室 (新潮文庫)感想
こどものころのことを忘れずにいるのは時につらいけれど、多分、それも含めての「けっして忘れないこと! 約束してくれるかな? (P20)」なのだろう。ほかの訳書より読みやすい。
読了日:03月06日 著者:エーリヒ ケストナー
The Artist's Way: 25th Anniversary Edition (English Edition)The Artist's Way: 25th Anniversary Edition (English Edition)感想
ないことになっている創造的な自分を取り戻しましょう、という内容。なにが自分の創造性(というと大げさだなあ。「何かを作りたいという気持ち」とでもいおうか)を阻んでいるのかを探っていく過程はつらいかもしれない。morning pagesはいいのだが、artist dateとは具体的にどういうものなのかがよくわからない。Web検索をかけると「こういうことをするといい」というのがたくさん出てくるけれど、そういうことでいいのかな。
読了日:03月14日 著者:Julia Cameron
批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)感想
「ましてや、たんに印象や直観のみに頼って作品を解釈するのは、貧しい読み方だと言わねばならない。」(pii)。うわー、耳が痛い。いろいろな切り口があるということだなと理解した。「透明な批評」というのが興味深かった。気に入った作品に対しては「透明な批評」(というのはおこがましいが)が多い気がする。
読了日:03月19日 著者:廣野 由美子
The Great Gatsby (English Edition)The Great Gatsby (English Edition)感想
昔読んだときは推理小説のような読み方をしたように記憶している。今回もやっぱりそういう読み方をしてしまったものの、「これって、語り手が自分のいいように解釈した話なのでは?」と思うこともしばしば。なんかもっと違う受け取り方があるようにも感じた。Amazonから勧められて読んでみた。そういうのも悪くない。
読了日:03月21日 著者:F. Scott Fitzgerald
「怪奇大作戦」の挑戦「怪奇大作戦」の挑戦感想
「マイティジャック」や「ウルトラセブン」の状況を絡めつつ「怪奇大作戦」を制作前の段階から各話、番組終了後までを関係者の談話や手帳などから語った本。資料からの推論に著者の経験が十二分に生かされていて大変興味深い。それを考えると「狂鬼人間」に関する記述も読みたかったなあ、とないものねだりをしてしまうのも宜なるかな。
読了日:03月27日 著者:白石 雅彦
思いつきで世界は進む (ちくま新書)思いつきで世界は進む (ちくま新書)感想
橋本治に「私は映画なんか見ませんが(P32)」とか云われるとなんだかつらい。「恥を知れ!」とか「モラルの問題」とか、結局そこに行き着くのだろうか。橋本治を読むと「人と違ってもいいんだ」と心強く思ったものだけれども、それは「人は自分とは違う」ということなのだなあと今更ながらに思う。
読了日:03月29日 著者:橋本 治

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