具象 vs. 抽象
Hell's Grannies Hat 用の花飾りをちまちま編んでゐる。
パピーのNew 4Plyと2/0号針とでアイリッシュクロシェットの薔薇と葉とを編んでゐる。
あみものにしてもタティングレースにしても具象的なものを作るのはあまり好きではない。
刺繍も幾何学模様を刺すスウェーデン刺繍は一時随分刺したものだけれども、写実的な図案を刺す気にはならない。
アイリッシュクロシェットがギリギリ許容範囲かな。
上に「薔薇」と書いたけれど、さう書かなかつたら写真に写つてゐるのはただの花だらう。
葉はそれといはなくても葉に見えはするが、なんの葉だかは知れない。
そのくらゐの「なんだかわからなさ」が好ましい。
絵を描くのが苦手だからかもしれない。
学校で描かされる絵は具象的なものばかりだ。
もしかすると抽象画を描いてもいいのかもしれない。
でも、隣の席の子の顔を描きなさいとか云はれたら、抽象画にはしづらい。
それに、幼稚園や小学校のはじめのうちは抽象画の存在を知らなかつた。
当時はさう思はなくても描くものはなにもかも抽象的だつた、といふ話もある。
絵の世界では、抽象画を描くにもまづは具象絵画をきちんと描けてから、といふ話もあるのかもしれない。
小学生のころ家族でピカソ展に行つたことがある。
我が家は教養とは無縁の家だつたので、家族で展覧会に行つたのはこれが最初で最後だ。
このとき、父が「ピカソつて絵がうまかつたんだなあ」と何度も云つてゐたことが忘れられない。
いはゆるヘタウマ絵のまんが家も投稿時代やデヴュー当時はメチャクチャうまい絵を描いてゐることがある。
幼少期に描いた絵が抽象的でも、それはさうしか描けないからだ。
さうでないものを描けてはじめて抽象画といへる。
絵の世界はさうしたものかと思ふ。
しかし手芸の世界はさうではない。
おそらくさうではないと思ふ。
あみもので本物と見紛ふやうなものを編めなくても、「おそらくこれは花」「なんの植物かわからないけれども葉つぱ」といふものは編める。
などと云ひわけしながらでないと編めないといふのもなんだな。
ほんたうは葉はいらないかとも思つたけれど、なんとなくにぎやかしに編んでみた。
並べてみて不要だと思つたら抜くつもりでゐる。
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