わかつちやゐるけどやめられない
なにかを決定するといふことができない。
などと云ひつつ、まづ「なにかを決定するといふことができない」といふ文章ひとつ打つにもさう打たうと決定してから打つてゐるわけだから、まつたくできないわけではない。
それはわかつてゐるが、でもやはり、決断をせまられると躊躇してしまふ。
食事につれて行かれるとしやう。
「どこで食べたい?」と訊かれても「どこでも」と答へてしまふし、店が決まつて中に入り「何が食べたい?」と訊かれても即答できない。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」の人気のためか最近はクイーンの逸話などがあちこちで語られるその中に、ブライアン・メイの決められないエピソードといふのがある。
「コーヒーにするか紅茶にするか二十分悩んだ」といふのがそれだ。
ブライアン・メイが決められなかつたのは、飲み物を用意してくれる人に配慮してのことだといふ。
どちらにしたら相手の手間を省くことができるのか悩んでゐるうちに二十分たつてしまつた、と聞き及ぶ。
自分の場合はさうではない。
相手に配慮するがゆゑに決められない、などといふ心配りが原因ではない。
決断すると責任が生じる。
それがゆゑに決めかねてしまふのである。
思へば、これまでとにかく責任から逃れやうとしてきた。
無意識のうちにさうしてゐる。
さういふ意味では自分はとにかくスキゾで、すべてのものから逃げたい。
庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」だつたかその続篇だつたかに、主人公のお兄さん(だつたと思ふ)が、とにかく逃げろ、なにもかもから全速力で逃げろ、と云つてゐた、といふ話が出てくる。
主人公である薫くんは「でも逃げきれなかつたらどうなるんだらう」と考へてゐたやうな気がする。
自分がさう疑問に思つたのかもしれない。
逃げて逃げて逃げて、でも逃げ切れなかつたらどうなるのか。
かへつて責任は重たくなるのではあるまいか。
最初のうちにこなしておけばかるく済んだ責任も、逃げてゐるうちにどんどん、それこそ雪だるま式に重たくなつてゆくのぢやあるまいか。
さう思ひつつも、つひ逃げてしまふ。
どこで食べるかなにを食べるかなんて些末なことぢやあないか、といふこともある。
それで死ぬわけぢやないし、なぜ決断を迫られなければならないのか。
そんな細かいことで、有限であると云はれてゐる決断力を消費することはない。
さうして人に迷惑をかけるわけだ。
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