映画とせりふ
ジョン・クリーズの著書 Professor at Large に、脚本家であるウィリアム(ビル)・ゴールドマンとの対談が掲載されてゐる。
ゴールドマンは「明日に向かって撃て」等の脚本を手がけた人物だ。
対談で、ゴールドマンは、「映画(で大切なの)は対話(dialogue)ではない」と云つてゐる。
「対話」と書いたが「せりふ」と云つてもいいだらう。
映画で大切なのは一にも二にもスターで、如何にスターを生かす作品にするかが重要なのだと云ふ。
なるほどな、と思ふ一方で、やはり映画にはせりふ、それも名せりふを求めてしまふ。
以前ここにも「どーしても「三十郎。もうすぐ四十郎」といふせりふを使ひたくて、一度使つたことがある」、といふ話を書いた。
ほかにも使つてみたいせりふはいくらもある。
ゴールドマンが言及したレット・バトラーのせりふなんかもそのひとつだ。
でも使ふ場面が思ひ浮かばない。
冬になると鍋の準備の最中に鱈をかかげて「わたしにはタラがあるわ!」といふのはやるんだけど、この冬は鱈に出会つてゐない。
「カサブランカ」の「Play it, Sam.」などは使ふことはまづないので、家でひとりでイルザとサムとのやりとりを再現したりしてしまふ。
うつかり「As Time Goes By」を最後まで歌つてしまつてリックの出番がなくなることもしばしばだ。
使はなくても「黄昏」といへばキャサリン・ヘップバーンが認知症のはじまつた(役の)ヘンリー・フォンダに云ふんだよね、「You're my knight in shining armor.」つてと思つたり、「アラバマ物語」といへば「Miss Jean Louise, stand up. Your father's passing.」にはいつも泣かされると思つたりする。
きつかけは全部せりふだ。
キャサリン・ヘップバーンはスターだが、「アラバマ物語」でそのせりふを口にするのはスターではないし、云はれる方もスターになる前に俳優をやめてしまつた人物だ。
おそらく、ゴールドマンは商業的な成功について述べてゐたのだと思ふ。
さもなければ、業界で脚本家として生きていくには、といふ話だつたのだらう。
ときどき、自分の好きなことばだけで生きていけたらどんなにいいだらうと思ふ。
好きなことばとは、誰かのことばだ。
映画や芝居のせりふ、小説やまんが、詩からの引用、さうした他人のことばだけで生きていけたら。
でも実際はかうして他人のすばらしいことばとは似ても似つかないことばをつらねてしまふのだつた。
他人のことばだけで生きていくには教養が不可欠だからね。
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