心の内なる辞書
今野真二の「辞書をよむ」に、辞書といふのはもともとは(少なくとも本邦では)個人の書き抜きだつた、といふやうなことが書いてある。
書物を読んで気に入つた箇所、不明点などを心覚えとして書き出したものが現在の辞書に発展した。
さう考へると、辞書といふのは本来とても個人的なものだつたやうだ。
物理的な書き抜きがあれば、実体のない書き抜きもあらう。
人にはそれぞれに「自分の内なる辞書」があるやうに思ふ。
妙な話、「延々と」と書くところを「永遠と」と書いてしまふ人は、その内なる辞書に「延々と」といふ語彙がないのだらう。
くどくて恐縮だが「学びを得る」「気づきを得る」というて平気な人々の内なる辞書にはさうした云ひ回しが存在してゐるのに相違ない。
各人が各人の辞書にしたがつて喋り、書く。
さうしても、ことばの意味には共通認識があるから、受け取る側が混乱することはない。
それでも、人によつて微妙にことばの意味がことなつてくることは確かだらう。
新しいことばを内なる辞書に追加するか否かも個人によつてさまざまだ。
流行語や新語を即内なる辞書に取り入れて使へる人と使へない人もゐる。
Aといふことばなら即受け入れることができるけれど、Bといふことばはムリ、といつたフィルタは人によつて千差万別のやうに思はれる。
そのフィルタも人によつてさまざまだらう。
しみじみ趣深いしおもしろいと思ふ一方で、ゆゑに生じる齟齬に苦しめられることもある。
その齟齬すらも「おもしろい」と思へばいいのかもしれない。
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