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Friday, 29 March 2019

情報カードとサンクコスト

ここにも何度か書いてゐるやうに、自分には情報カードは向いてゐないのではないかと思つてゐる。
書くのはいい。
問題は書いた後のことだ。
見返してゐる時間がとれない。
レヴューできないといふことだ。

手帳に書くことも考へたけれど、今度は時系列にしか並ばない。

理想を云ふと、情報カードに書いておいて、見返したときに必要さうなことは手帳に書き写したい。
それができないんだなあ。

でもいまのところ、情報カードは使ひつづけるつもりでゐる。
ここまで使つてきたしね。
それは、サンクコストになりはしないかと思ふ一方で、書き留めてきた情報はサンクコストにはならないのではないかといふ気もする。

実際のところ、古い情報は役に立たないといふ意見もある。
だから情報カードなども過去に書いたことでも新たに書いて古いカードは廃棄するといふ。
だが、ある時点で抱いたある感想、ある思ひつき、その時だから思ひつたいこと、考へたことは、捨てられないのぢやあるまいか。
時や場所と結びついた情報は、その時にしか手に入らないものだ。
それをサンクコストと切り捨てることは、やつがれにはできない。
少なくともいまのところは。

Thursday, 28 March 2019

心の内なる辞書

今野真二の「辞書をよむ」に、辞書といふのはもともとは(少なくとも本邦では)個人の書き抜きだつた、といふやうなことが書いてある。
書物を読んで気に入つた箇所、不明点などを心覚えとして書き出したものが現在の辞書に発展した。

さう考へると、辞書といふのは本来とても個人的なものだつたやうだ。

物理的な書き抜きがあれば、実体のない書き抜きもあらう。
人にはそれぞれに「自分の内なる辞書」があるやうに思ふ。
妙な話、「延々と」と書くところを「永遠と」と書いてしまふ人は、その内なる辞書に「延々と」といふ語彙がないのだらう。
くどくて恐縮だが「学びを得る」「気づきを得る」というて平気な人々の内なる辞書にはさうした云ひ回しが存在してゐるのに相違ない。

各人が各人の辞書にしたがつて喋り、書く。
さうしても、ことばの意味には共通認識があるから、受け取る側が混乱することはない。
それでも、人によつて微妙にことばの意味がことなつてくることは確かだらう。

新しいことばを内なる辞書に追加するか否かも個人によつてさまざまだ。
流行語や新語を即内なる辞書に取り入れて使へる人と使へない人もゐる。
Aといふことばなら即受け入れることができるけれど、Bといふことばはムリ、といつたフィルタは人によつて千差万別のやうに思はれる。
そのフィルタも人によつてさまざまだらう。

しみじみ趣深いしおもしろいと思ふ一方で、ゆゑに生じる齟齬に苦しめられることもある。
その齟齬すらも「おもしろい」と思へばいいのかもしれない。

Wednesday, 27 March 2019

映画「ボヘミアン・ラプソディ 」の応援上映に行く

結局、いまだに映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行つてゐる。
応援上映会に行くことにしてゐる。

「ボヘミアン・ラプソディ 」の応援上映会では、基本的には字幕として歌詞の出てくる場面では一緒に歌つてもよく、コスプレもありだつたりする。
通常の上映では歌詞の字幕は表示されないが、応援上映会のときは表示されるやうになつてゐる。
その他、迷惑にならない程度に声をかけてもいいことになつてゐたり、LIVE AIDの場面では立ち上がつてもよかつたり、映画館によつてはライヴ場面だつたら立つてもいいことになつてゐたりもする。

応援上映会といふのは以前からあつて、「マッドマックス 怒りのフューリーロード」だとか「ベイビー・ドライバー」のときは行きたいと思つてゐたのだが、日程が合はず果たせなかつた。

はじめて応援上映会に行つたのは、11/20のことだつたと思ふ。
このときは誰も歌つてゐる人がゐないやうな感じだつた。
次にフレディ・マーキュリーの命日である11/24の応援上映会に行つた。
この回は日程も日程だけにかなりもりあがつてゐたし、チケットをとるのも大変だつた記憶がある。
一旦はこれで映画を見るのをやめやうと思つてゐたのが、IMAXだとかDOLBY ATOMOSだとかScreen Xだとかいろいろな上映形式が気になつてまた見始めたのが十二月の下旬のことだ。

応援上映会には一月以降、行くやうになつた。
ところは川崎チネチッタである。
川崎チネチッタではLIVE ZOUNDといふサウンドシステムを有してゐて、適切な調整をして上映してゐる。
現在では「Synchronized Miami-Wembley Version」と題して、LIVE AIDでのマイアミ・ビーチの行動に合はせて音が変はるやうになつてゐて、より臨場感を覚えることができるやうになつてゐる、とのことだ。

ほかの映画の応援上映会がどうなつてゐるのかはよくわからないが、「ボヘミアン・ラプソディ」に関して云ふと、ほぼライヴのやうに感じる。
川崎チネチッタの応援上映会ではライヴの場面ではスタンディングOKだからといふのも大きい。映画を見に行つてゐるのか、演奏を聞きに行つてゐるのか、曖昧なところがある。

とにかく、20世紀FOXのファンファーレからすごい。
パーカッションの音からして重厚で、腹にずんと来る。
つづくギターの音も違ふ。最後の方の「ばびゅん」としか表現できないやうな音などはまるでスーパーマンのやうなものが飛んでいきそうな勢ひだ。

で、この音が時によつて違ふ。
座る位置によるのかもしれないし、客の入り加減にもよるのかもしれない。
あるいは時々微妙な調整が入つてゐるのかもしれない。

これまでも何度か通つた映画はあつたけれど、そのときによつてこんなに音が違ふやうに感じる映画はなかつた。

客の反応も毎回違ふ。
いつもよりノリがよかつたり、声援が多かつたり、立つ人が多かつたり、そのときによつてさまざまだ。
これもまたおもしろい。

妙な話、「今日の演奏は速いね」「今日はゆつくりだね」といふこともある。
これは確かブライアン・メイが云つてゐたことだと記憶する。
フレディの映像に合はせて演奏する、その時に、おなじ映像と一緒に弾いてゐるはずなのに今日のフレディはちよつと速いとかゆつくりだとか、さう感じることがある、と。
「ああ、かういふ感覚かー」と、何度か通ふうちに悟つた。
実際に速かつたり遅かつたり、あるいはさう感じたりするのはこちらのはずだ。でも、なんか、違ふんだよね。
「まさにライヴ」といふのはさういふところだ。何度も通ふその訳もここにある。

と云ひたいところだが、理由は実はほかにもある。それはまたの機会があれば。
 

Tuesday, 26 March 2019

タティング道具入れとしてのがま口

濱野のがま口、ナティカFを新調した。
以前は紺色といはうかネイヴィーといはうか暗い青だつたが、今度はロイヤルブルーとかロンドンブルーと呼ばれる明るい青にした。
かばんの中で見つけやすいからだ。

濱野のがま口

最初に「がま口、いいなあ」と思つたのは濱野のナティカFだつたやうに思ふ。
銀座の大和屋で見かけて、手に取つてみたところ、なぜか気に入つた。
そのときは財布に大きく絵のついてゐるものしかなくてあきらめて、後に楽天の大和屋サイトから購入したやうに記憶してゐる。

最初は財布として使つてゐた。
がま口部分とは別に下にファスナーがついてゐて、開くとがま口を開いたときとは別の袋が開く仕掛けになつてゐる。
がま口側に小銭、ファスナー側にお札といつた入れ分けができるやうになつてゐるのが、まづ気に入つた。
そのためか、がま口の財布としては少し大きめな気もするが、使ひ勝手はいいので気にならない。

その後、財布を別途新調してナティカFは使はなくなつた。
このとき、ナティカFにタティング用の道具を入れて持ち歩くことを考へついた。
がま口側にシャトルや糸を巻いたボビン、ファスナー側にクロススティッチ針や糸切りを入れてみた。
がま口側にはちいさな内袋がついてゐて、マジックスレッド用の糸を入れておくのにちやうどいい。

濱野のがま口

もともと使つてゐた財布はいい感じに光沢も出て、くつたりとしてよく手になじんでゐる。
今度の財布もそれくらゐ使ひたいものだ。

Monday, 25 March 2019

「美しいかぎ針編み」の罠

「美しいかぎ針編み 春夏27」を買つてしまつた。

買つた理由は、もちろん編みたい作品が掲載されてゐたからだ。
それともう一つ、40番レース糸を用ゐたウェアものが載つてゐたから、といふこともある。

40番レース糸でヴェストだとかプルオーヴァだとか、気が狂つてるんぢやないの?
さうも思ふ。
でもちよつと編んでみたいといふ気がすることも確かだ。

「美しいかぎ針編み」に掲載されてゐる作品はヴェストとフレンチスリーヴのやうな趣のプルオーヴァの二点だ。
どちらもパイナップル編みを配してゐて、とても編み心をそそられる。
だが、40番だ。
ムリ。
ムリだよね、編むのは。

といふわけで、エミーグランデで編むヴェストなど編んでみやうかといふ気になつてしまつた。
エミーグランデだつてウェアものともなれば、ひねもす時間をかけて編んでもなかなかできあがらない。
でも40番に比べたら、と思つてしまつたんだな。

しまつた。これは罠だつたのか。

Friday, 22 March 2019

座りつぱなしとポモドーロテクニック

一時間座りつぱなしだと二十二分間寿命が縮む。
二時間縮むといふ話もある。

人により寿命は異なり、それを割り出す方法はないと思つてゐる。
したがつて、「二十二分縮む」だとか「二時間縮む」と聞いても「さういふこともあるだらうが、結果として自分にはなにが原因だつたのかわかるまい」とも思ふ。

ポモドーロテクニックといふものがある。
二十五分間作業をして五分間休む。
四回目には三十分休む。
さういふ働き方をするものだ。

このポモドーロテクニックを試してみたことがある。
感想は、「五分間の休みになにをしていいかわからない」「職場で三十五分間の休みをとるのはちよつと無理」といふことだ。

自分の座席に座つてゐてナンボといふ仕事をしてゐるとかうなる。
五分間の休みにただぼーつと座つてゐるだけでは、あまり休息したことにはならない。
もつと積極的に休みをとりたいが、それもままならぬ職場環境にゐる。

五分でもそれだ。
三十五分ならなほさらではあるまいか。

ポモドーロテクニックでは、仕事にとりかかる前に二十五分間で終はるやう作業を分ける必要があるといふ話もある。
分割作業も二十五分間で実施するのだらうか。
悩みはつきない。

いづれにしても、職場の人の理解がないとポモドーロテクニックを実施することはむつかしい。
それに、芝居でも見に行けば一幕一時間半、ときには二時間座りつぱなしといふことはいくらもある。
劇場や映画館では座席と座席とのあひだにある仕切に腕を置くことは基本的には許されない。
片方の座席の人が肘を載せたらもう片方の人は載せられなくなつてしまふ。
あれは肘掛けではなく、あくまでも仕切といふだけの存在のはずだ。

しかし、あの間仕切りに肘をかける客は後を絶たない。
どうも、長時間正しい姿勢で座つてゐるだけの体力がないやうに見受けられる。
座ることにも慣れが必要といふことだ。
それを考へると、「ただ座つてゐるだけ」とバカにしてもゐられない。

とはいへ、やつぱり座りつぱなしは躰によくないだらうな、とは思ふ。
なのでいまは仕事中は一時間に一度は座席を離れるやうにしてゐる。
根拠はない。
敢て云ふと、さうしないと座りつづけてしまふから、かな。

Thursday, 21 March 2019

わかつちやゐるけどやめられない

なにかを決定するといふことができない。

などと云ひつつ、まづ「なにかを決定するといふことができない」といふ文章ひとつ打つにもさう打たうと決定してから打つてゐるわけだから、まつたくできないわけではない。

それはわかつてゐるが、でもやはり、決断をせまられると躊躇してしまふ。

食事につれて行かれるとしやう。

「どこで食べたい?」と訊かれても「どこでも」と答へてしまふし、店が決まつて中に入り「何が食べたい?」と訊かれても即答できない。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」の人気のためか最近はクイーンの逸話などがあちこちで語られるその中に、ブライアン・メイの決められないエピソードといふのがある。

「コーヒーにするか紅茶にするか二十分悩んだ」といふのがそれだ。

ブライアン・メイが決められなかつたのは、飲み物を用意してくれる人に配慮してのことだといふ。

どちらにしたら相手の手間を省くことができるのか悩んでゐるうちに二十分たつてしまつた、と聞き及ぶ。

自分の場合はさうではない。

相手に配慮するがゆゑに決められない、などといふ心配りが原因ではない。

決断すると責任が生じる。

それがゆゑに決めかねてしまふのである。

思へば、これまでとにかく責任から逃れやうとしてきた。

無意識のうちにさうしてゐる。

さういふ意味では自分はとにかくスキゾで、すべてのものから逃げたい。

庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」だつたかその続篇だつたかに、主人公のお兄さん(だつたと思ふ)が、とにかく逃げろ、なにもかもから全速力で逃げろ、と云つてゐた、といふ話が出てくる。

主人公である薫くんは「でも逃げきれなかつたらどうなるんだらう」と考へてゐたやうな気がする。

自分がさう疑問に思つたのかもしれない。

逃げて逃げて逃げて、でも逃げ切れなかつたらどうなるのか。

かへつて責任は重たくなるのではあるまいか。

最初のうちにこなしておけばかるく済んだ責任も、逃げてゐるうちにどんどん、それこそ雪だるま式に重たくなつてゆくのぢやあるまいか。

さう思ひつつも、つひ逃げてしまふ。

どこで食べるかなにを食べるかなんて些末なことぢやあないか、といふこともある。

それで死ぬわけぢやないし、なぜ決断を迫られなければならないのか。

そんな細かいことで、有限であると云はれてゐる決断力を消費することはない。

さうして人に迷惑をかけるわけだ。

Wednesday, 20 March 2019

自意識過剰の「エリーゼのために」

ピアノを習つてゐたころ、「エリーゼのために」を練習しに行つて、先生に云はれたことがある。

「有名な曲を弾いてるんですつて感じがする」、と。

それがどうしても抜けなくて、その後さらふこともなく結局「エリーゼのために」は仕上げることができなかつた。

このことは今でもずつと尾を引いてゐる。

自意識過剰だつたのだらう。
また、いま思ふと承認欲求のかたまりだつたのではないかとも思ふ。

自分は世に知られた名曲を弾いてゐる。
その名曲を弾いてゐる自分を見てほしい。
さうひけらかしてゐるやうだつたのではないか。

いまとなつてはわからないけれど。

ピアノに限らず、なんにしてもそんな感じだ。
如何に「うまく」こなすか。
否、如何に「うまく」こなしてゐるやうに見せかけるか。
さうしたことに腐心してしまふ。

なんのために「うまく」こなすのだらう。
自分のためではない。
「「うまく」こなしてゐると他人に認められたいから」だ。
いやらしい。
いやしい根性だ。

それを捨て去るにはどうすればいいのか。
自分のために「うまく」できるやうにすればいいのかもしれない。
たとへば字にしてもさうだ。
自分が見て「読みやすい」とか「形が好き」と思ふやうな字が書ければそれでよしとする。
かうして書いてゐるblogの記事も、自分が読んで楽しいと思へばそれでいい。

わかつてはゐるんだけどな。

「エリーゼのために」に関しては、その後弾くと喜んでくれる人がゐて、すこしだけ和解した気分になれた。
「エリーゼのために」とね。

Tuesday, 19 March 2019

糸が足りない

なんだかひどくのびのびとした気分になつて、思はずタティングで栞を作りはじめてしまつた。

Mary Konior の「Tatting With Visual Patterns」から大きい十字架の栞に着手した。

のびのびとした気分だからだらうか、なんだか楽しく作れるぢやあないか。

楽しく作れはするものの、目が揃はないし、リングの大きさもまちまちで、ちよこちよこ気分をそがれながらも、あと少しといふところまできた。

のこりクローバー1と2/3といふところで、シャトルに巻いた糸がなくなつてしまつた。

どうしたものだらう。

シャトルに糸を足して完成させるか。

それとも目も不揃ひでリングの大きさもさまざまなものなど、途中でやめてしまふか。

やめちやはうかな。

さう思ひつつも、完成させることに意義があるとも思ふ。

なぜやめてしまはうかと思ふかといふと、糸を接ぐのがめんどくさいからだな。

実際はスティッチを作りながら糸端を始末していくのだからそんなに手間ではない。

どちらかといふと、残りどれくらゐ糸が必要かといふ方が問題かもしれない。

あまりシャトルに糸を巻きすぎても残ると始末に困る。

といふのはすべて云ひ訳で、えうはもうやりたくないのかもしれない。

完成させることがめんどくさいといふか。

といふことは、やらなければ、といふことだな。

Monday, 18 March 2019

どこの誰かは知らないけれど

昨日「いだてん」を見ながらアイリッシュ・クロシェットの薔薇のモチーフをちよこちよこと編んでゐた。
不思議だよねえ。
くるくる編んでゐるだけで花の形(薔薇の形とはまたチト違ふのだが)になるつて。
これ、考へた人、天才だよね。

だがその天才の名前は残つてゐない。
あるいは残つてゐるのかもしれないが、やつがれは知らない。
知らないけれど編んでゐる。

酒見賢一が「泣き虫弱虫諸葛孔明」で書いてゐる。
ほんたうに偉大な発明といふのは、その発明者の名前が知られてゐないものである、といふやうなことを。

さうかもしれない。
船を発明した人の名前をやつがれは知らないし、織物を発明した人も同様だ。
糸を紡ぐなんて誰が考へ出したのだらう。
調理したらおいしくものが食べられるといふことも、誰か見つけた人がゐるはずだ。

名前は知らないけれど、その発明・技術は脈々と受け継がれてゐる。
なかには途絶へてしまつたものもあるだらう。
いままさに途絶へんとしてゐるものもある。
あみものとかタティングレースとか、さうした「いままさに途絶へんとしてゐる」といふやうな状況に陥らないやうにつづけてゐるのかもしれないなあ。

などと書きつつ、普段はそんな大仰なことはまつたく考へてゐなくて、楽しいから編んでゐる。
楽しくなくなつたら編まないだらう。

Hell's Grannies Hat はあひかはらず整形はできてゐない。
いつそのこと水通しして形を整へたらそのまましばらく放置しておかうか、と思ふくらゐだ。
それが一番いいかなあ。

Friday, 15 March 2019

「怪奇大作戦」最終回から五十年

先週の土曜日が「怪奇大作戦」の最終回「ゆきおんな」の放映から五十年の日だつた。

三年前は「ウルトラマン」、一昨年は「ウルトラセブン」放映五十周年といふことで、あちこちでもりあがつてゐたやうに思ふのだが、去年の「怪奇大作戦」五十周年はあまりもりあがつてゐなかつたやうな気がする。

八月にポプリホール鶴川でセレクト上映会があつたくらゐなんぢやあるまいか。
単に情報不足で知らなかつただけなのかなあ。
それは残念だ。

落語では三年前は「ウルトラ落語」、一昨年は「ウルトラセブン落語」があつたが、去年は「怪奇大作戦落語」はなかつた。
もしかしたらどこかの落語会で誰かが「怪奇大作戦」的な噺をかけたかもしれないが、自分が行けた限りなく狭い範囲ではなかつた。

去年はなぜか「ウルトラセブン落語」がまたあつて、その席でお囃子の恩田えりが「怪奇大作戦」好きといふことで「恐怖の町」を弾いてくれた。
落語界には柳家小はだといふウルトラ好きな(ゆゑにまことに前途有望な)前座がゐて、この落語会の太鼓などはすべて小はだがたたいてゐたのだが、「恐怖の町」のときだけは柳家喬太郎が代はつてたたき、とてもノリノリだつたことを覚えてゐる。

この落語会は「怪奇大作戦」放映開始五十周年の翌日だつたかで、恩田えりが五十周年記念のその日に家で「怪奇大作戦」を見た、といふ話をしてくれた。
ほんとは全話見たいけれど時間もないので第一話である「壁ぬけ男」と「京都買います」とを見た、とその場では話してくれた。
「死神の子守唄」も見たとあとで知つた。

うーん、なんで「怪奇大作戦」五十周年イヴェントはないのでせうね。
リメイク作品だつてあるくらゐの番組なのに。

と思つてゐたら、つひ先日「怪奇大作戦の挑戦」といふ書籍が発売されたのだといふ。
まだ実物を見てゐないが、もちろん求めるつもりだ。
求めるつもりだが……表紙からしてちよつと怖いよね。「呪いの壷」の統三さん。まあ「狂鬼人間」の大村千吉よりはマシだけれども。

さう、怖いから「怪奇大作戦」は全話を見てはゐないのだ。残念ながら。
だつて「壁ぬけ男」がすでに怖いもの。キング・アラジン。
「青い血の女」とかも絶対無理。まづ無理。
さう云ひながらちよこちよこ見てもゐるわけだけどさ。

でもなんとなくこー、不条理な話が好きな所以は「ミステリーゾーン(Twilight Zone、ですな)」とか「怪奇大作戦」のせゐなのではないかといふ気がするのだつた。
恐がりなのにねえ。

Thursday, 14 March 2019

通し観劇をやめたい

歌舞伎座での歌舞伎公演は大抵の場合一日二部制で、昼の部と夜の部とがあり、それぞれ異なる演目を上演する。
昼の部は十一時からだいたい十五時半くらゐまで、夜の部は十六時半から二十時半、ときに二十一時過ぎまでといつたところか。

一日に昼の部と夜の部とを通してみることを「通し」と俗に云ふ。

この「通し」をやめたい、と常々思つてきた。
なぜといつて、まづ体力がもたない。
かならずどこかで睡魔に負けてしまふ。

受け取る能力にも限界がある。
先日、国立劇場の小劇場で芝居を見てきた。
演目は「元禄忠臣蔵」から「御浜御殿綱豊卿」と、「積恋雪関扉」の二つだ。
見た後、感想めいたことを手帳に書き留めてゐたところ、いつもより書けることに気づく。

たまたま今、さういふ時期なのかもしれない。
バイオリズムのやうなもので、書ける書けないにも波がある。
今は書ける状態の時、といふことは考へられる。

でも、それだけぢやないな。
多分、無理なく吸収できる演目立てだつたのだ。
どちらも一時間半前後はかかる長い演目ではあるものの、見るのは二点だけだ。
無理がない。
見終はつて劇場の外に出たあとも、反芻する余裕がある。

これが通しだつたりすると、吸収するだけで一苦労だ。
ひとつひとつ咀嚼する余裕はない。
昼の部で三つ夜の部でも三つの芝居を見たりすると、結局一番印象に残つた芝居しか記憶になかつたりすることもしばしばだ。

それはそれでいいのかもしれない、とも思ふ。
自分の心の琴線に触れた芝居だけを覚えてゐればいいではないか。
それはさうなのだが、それにしたつて印象は薄くなる。
日々の疲れがとれてゐない中での芝居見物ともなればなほさらだ。

そんなわけで、できれば「今日は昼の部、来週は夜の部」といつたやうに見られればいいのだが。
実際はなかなか時間もなくてさうはいかないんだよなあ。
それやると土日は芝居の予定だけで全部埋まつてしまふしね。

読書などもおなじやうなものなのかもしれない。

Wednesday, 13 March 2019

早く寝たい

毎朝、今夜こそは早く寝やうと思ふ。
帰宅して食事をすると、早くも眠たい。
いま眠れたら、と思ふが、さうもいかない。
夕食の片づけがあるし、入浴もしなければならない。
することはたくさんある。

さうして過ごしてゐるうちに、眠気はなくなつてしまふ。
あれもしたい。
これもしたい。
かくして睡眠時間が遅くなる。
布団に入つても即眠りにつけるわけではない。
かくして朝を迎へ、今夜こそは早く寝やうと思ふ。
負のループである。

早めの就寝が実行できない理由に、「布団に入つたところで眠れるとは限らない」といふことがある。
寝付きの問題もあるし、夜中に目が覚めてしまふといふ問題もある。
せつかく早めに布団に入つてもいつまでも寝付けなかつたり、夜中に何度も目が覚めてしまつては眠つたことにはならない。
さう考へると、早く就寝したところでなにもいいことはないこともあるよな、と思つてしまふ。
ここらへんの問題が解決したら早めの就寝をもうちよつと心がけるやうになると思ふんだよなあ。

八時間睡眠などと誰が決めたのだらう。
そんなことを云はれるものだから、眠れないことに過敏になり、ひどく寝穢くなつてゐる気がする。
電車が遅れやうものなら「自分の睡眠を邪魔するとは!」と思つてしまふ。
なんとかしてもつと寝たいものなのだが。

Tuesday, 12 March 2019

貴金属とは縁がない

東日本大震災の後ほどなくして、我が家にも「貴金属買ひ取ります」的な押し売りの人が来た。
「買ひ取ります」なんだから押し「売り」は妙か。
押し買ひ?

買ひ取ります、と云はれて、はたと思ひ至ることがあつた。
我が家には貴金属がない。

もしかすると、家族のものはあるかもしれない。
だがやつがれのもので貴金属はない。
あるとして、10金がちよこつとだけ盛りつけられた指輪があるのみだ。
あ、あと万年筆のペン先ね。これは何本かある。20金もあつた気がする。

そういへばスターリングシルヴァーのタティングシャトルもあるが、これはこの後手に入れたものだつたと記憶する。

18金のネックレスとか冠婚葬祭用真珠のなんとかとか、ましてや人の知る宝石のついたペンダントだの指輪だのはない。
イヤリングは耳たぶにかさぶたができるのでほとんどしない。

さうか。
我が家には貴金属はないのか。
すくなくともやつがれの所有するものはない。

押し買ひの人には正直にさう告げた。
ほんたうだと思つてくれたかどうかは知らないが、押し買ひの人は帰つて行つた。

アクセサリを身につけるといふ習慣がない。
だから貴金属もないのだらう。
身につける習慣があつたら、買ふだらう。
あるいはもらへることもあるかもしれない。

タティングレースでも、ビーズなどあしらつてアクセサリのやうなものを作ることがある。
だが、作つても使ふことはない。
ビーズタティングで作るアクセサリはどこか華やかなところがある。
華やかすぎる、ともいへる。

作るのは楽しいから作るけれど、使ふことはない。
自分の使ひたいやうなものを作ればいいのかもしれない、とも思ふ。
それがなかなかなくてねえ。

ま、ビーズタティングのアクセサリを作つたところで、貴金属を所有してゐないことにかはりはない。
ビーズはただのガラスビーズが好きだしね。

Monday, 11 March 2019

連続編みモチーフにしないわけ

Hell's Grannies Hat 用の花飾りはぼちぼち進んでゐる。

いまはアイリッシュクロシェットの花ばかり編んでゐる。
花びらが二段のものと三段のものとをそのときのの気分で作る。

アイリッシュクロシェットに限らず、モチーフを作りためてつなぎあはせる手法のあみものは、これまであまり作つたことがない。
作りはじめても途中で挫折することが多い。
途中で挫折すると、ものがモチーフだけにほどいた糸もたいした長さにはならない。
それで困つてしまつて、「もうモチーフつなぎはやめる」と思ふこともしばしばだ。

世の中には連続編みモチーフといふものもある。
カスパリー編みとも呼ばれてゐて、おそらく「カスパリー編み」と称すると著作権だか特許だかにふれるのだと聞いた覚えがある。
それで「連続編みモチーフ」といふ、何をするかわかりやすい名前で呼ばれることもあるのだらう。

仕組みはそれほどむつかしくはない。
円形のモチーフを一列つなげたいとしやう。
最初のモチーフを半分だけ編む。次のモチーフも半分だけ編む。それを編みたいだけ繰り返して、最後のモチーフは全部編み、戻りながらほかのモチーフを円として完成させていく。
何段にもつなげたい場合は、円の四分の一とか三分の一とか、適切な位置まで編んで次のモチーフにうつるをくり返し、戻りながらひとつひとつのモチーフを完成させていく。

仕組みはかんたんだが、どの位置まで編んで次のモチーフにうつるかを考へるのがちよつと手間だ。
それで結局モチーフをひとつひとつ編むことになるのだつた。

モチーフつなぎは苦手だ。
つなぐのがいけない。
編みながらつないでいければいいのだが、あとから針を使つてつなぐやうなのは完成できた試しが多分ない。
しかし、編みながらつなげていく場合、モチーフ編みのよさが生かされないことも考へられる。

モチーフ編みのよさといつて、ちよつとあいた時間に小さいものを編みためておける、といふことがあるからだ。

この、「ちよつとあいた時間に小さいものを編みためることができる」ことのよさを今回、しみじみ感じてゐる。
平日などはたいして編んでゐる余裕はない。
エアポケットのやうにふつとあいた時間に、ちまちまとモチーフを編む。
場合よつては完成させることもできる。
これがいまのやつがれの状況にぴつたりとはまつた。
それで、これまで苦手としてきたアイリッシュクロシェットのモチーフも編みためることができてゐる。

あとはどうつなぐかだなあ。
それと、帽子を編んだものの、時間のあるときに天気の悪いことがつづいたので、まだ整形できてゐない。
これも早くしなければ。

Friday, 08 March 2019

笑ふカタカナ

カタカナで書くことばをあまり使はずにこれまでやつてきた。
手帳の書き込みなどを見ても、カタカナ用語はかなり少ない。一ページまるまる出てこないこともある。固有名詞ですら出てこないといふことだ。

学校に通つてゐた時分には意識してカタカナことばを書かないやうにしてゐたこともあつた。
最近はさうでもない。どちらかといふと、できるだけ使ふやうにしてゐる。たとへば「駄目」や「だめ」ではなく「ダメ」と書くやうにするとか、「ごみ」も「ゴミ」と書くとか。
その方があとで読み返しやすいこともあるし、単純に書きやすいこともある。

なぜカタカナことばを用ゐたくないのか。
ひとつには、軽佻浮薄だと思ふからだ。

いまはそれほどではないけれど、過去にはさう思つてゐた。
先日も「「学びを得る」はなぜ「学べる」「学ぶことができる」と云へないのか」と書いたやうに、カタカナことばを使ふ前にほかにふさはしい表現がないかどうか、確認してから書く……と云ひたいところだが、さうではなささうだ。
そんなことをいちいち考へてゐたら「なんでも書く手帳」になにか書き出すことはできない。
文章の流れ、思考の流れがとぎれるからだ。
つまり、普段から考へるときにカタカナことばで考へてゐないといふことだらう。
「文章の流れ、思考の流れ」と考へて、「テキストのフロー、思考のフロー」とは考へない、といふことだ。多分。

もうひとつ、カタカナことばといふよりは、カタカナに感じてゐることが原因だらうと思つてゐることがある。
こどものころから、カタカナといふのは笑つてゐるやうに見える文字だつた。
いまはだいぶその感覚も薄れてきたが、なにかの拍子にカタカナを見ると「この字、笑つてる」と思ふことがある。
漢字やひらがなには特になにか感じることはない。

いまWeb検索をかけてみたところ、カタカナを見て笑つてゐると思ふ例はあまりないやうだ。
「ははは」と表記するより「ハハハ」と表記する方がより笑つてゐるやうに見える、といふ話はあるやうだが、それ以上のものは残念ながらやつがれには見つけられなかつた。

さうか、人にはカタカナは笑つてゐるやうには見えないのか。
あるいは見える人もゐるけれども、やつがれ同様「カタカナが笑つてゐるやうに見えるのはあたりまへ」と思つてゐて、他人に伝へたことがないだけなのかもしれない。

おそらく、カタカナことばが軽薄に見える理由は、この「カタカナは笑つてゐるやうに見えるから」といふのが大きいんぢやないかとも思ふ。

そんなわけで、最近はカタカナも書くやうにしてゐる、といふ話もある。
見たらちよつと心楽しくなるからだ。

Thursday, 07 March 2019

エラそーな嘘つき

こどものころから「エラそー」だと云はれてきた。
自分では自分が「エラそー」なことはわからない。
なにがいけないのか。
どうすれば「エラそー」と思はれずに済むのか。

でもある日、問題は解決した。
以前、ここにも書いたやうに思ふ。
アニメの「ケロロ軍曹」のエンディングで云つてゐた。

偉い人の反対はエラそーな人
と。

なるほど、やつがれが「エラそー」なのは偉い人ではないからだ。
なんだか腑に落ちた。
きつと、偉くもないのに偉い人のやうにふるまつてゐるのだらう。
だから「エラそー」と云はれるのだ。
いいぢやん、偉くないんだからさ。

「世界一「考えさせられる」入試問題」にはかうある。

利口になる道への最大の障害は、利口ぶることである。
と。

なにごとも「そのつもりになる」といふのが一番いけない。
知りもしないのに知つたかぶるとか。
知つてゐるのに知らないふりをするとか。
えうは「正直になれ」「素直になれ」といふことなのだらうが。

それがむつかしいんだよなあ。
タキシーの運転手や美容師に訊かれたことに、つひ、事実とは違ふことを答へてしまふことがある。
「順番を待つあひだ何を読んでゐたんですか?」に「「韓非子」です」と正直に答へられなかつたのは、そのあとの説明がめんどくささうだつたからだけれども。
知らないことを知つたかぶり、知つてゐることをさも知らないかのやうに相手の云ふことにおどろいてみせる。
すべては会話を穏便に済ませやうとしてのことなのだが、「なぜ自分はほんたうのことが云へないのだらう」と毎回思ふ。
そして、できるだけタキシーや床屋・美容院などを避けるやうになつてしまふ。

今度こそウソはつくまいと思ひつつ、やつぱりほんとのことを云へずにゐる。
「相手に合はせる」といふことを間違へてゐるんだらうとは思ふが、どうにもならない。

相手が運転手や美容師でなくても、「好きな役者は誰ですか」といふ質問には正直に答へられない。
いまは相手の納得するやうな答へを用意してゐるが、それもなにか違ふ気がしてゐる。
そもそも「好き」つて何よ、といふ根源的なところにたどり着いてしまふので、自分の中でもきちんと答へは出てゐない。
出すのが怖いといふ話もある。
これが「好きな噺家」だと「まだゐません」と正直に答へることができるんだけどな。
いま探してゐる最中だからほんとのことだ。

かくしていつまでも「エラそー」なままなのだつた。

Wednesday, 06 March 2019

嫌ひなことばは伝はらない

嫌ひなことばは使ひたくない。
人情だ。
どうしても使はなければならない場合はどうするか。
他人が口に出したことばであれば、「誰某さんが云つたやうに」などと云つて、なるべくそのことばは自分からは云はないやうにする。
書く場合は、「いはゆる」とか「俗に云ふ」と前置きしてかぎかつこでかこつて書く。

以前も書いたやうに思ふし、何度も呟いてもゐるが「学びを得る」とか「気づきを得る」といふことばが嫌ひだ。
なぜ「学べる」「学ぶことができる」「気づける」「気づくことができる」と云へないのだらう。

「ら抜き」「さ入れ」に関しては自分は使はないものの、使ひたくなる気持ちもわからなくはないので最近は気にしない。
などと云ひつつ、歌舞伎役者が記者会見やインタヴューなどで平然と使つてゐると、「ことばに関はる仕事をしてゐるプロフェッショナルのはずなのに」と、つひ思つてしまふ。
かういふ役者は「自分はことばに関はる仕事をしてゐる」といふ意識がないのかもしれない。
それはそれでさういふものなのだと思つてゐる。
さういふ人々も現代に生きてゐるのだから、現代に流行る云ひまはしをするのも道理、とも思ふ。

「卑猥」といふことばは使ふことがあれば使ふが、カタカナでは絶対に書かない。
手帳に記すときも漢字で書く。
書くことがあれば、だけれども。

自分に嫌ひなことばがあるといふことは他人にもあるといふことだ。
他人の嫌ひなことばや表現をやつがれが使つてゐることもあるだらう。
世の中、お互ひ様だ。

でもやつぱりどうしても使ひたくないことばといふのはある。
「いはゆる」付きでかぎかつこでくくつても使ひたくない。
以前はひとつだけだつたが、最近もうひとつ増えた。

どちらも外来語である名詞の最初の二音に「い」を加へて形容詞として使はれてゐることばである。
もしかすると新しい方はもともとの英語では形容詞形の方の単語を持つてきたものかもしれない。

他人が使ふのは気にならない。
「学びを得る」や「気づきを得る」のやうに「この人にことば遣ひのことをとやかく云はれたくない」などと思ふこともない。
ただ、とにかくイヤなのだ。
音の響きもイヤなら、字面もイヤだ。

先日、とある人物のとある動きについて言及することがあつて、「それつて×××つてことでせう?」とこの絶対使ひたくないことばで云はれてしまつて、一瞬うろたへてしまつた。
さうぢやないんだよなー。
さうぢやないから別のことばで云つてるんぢやん。

でも絶対使はないと決めてゐる大嫌ひなことばは、口にも出せないし書けもしないから他人には伝はらないのだつた。

Tuesday, 05 March 2019

春は絹穴糸

あたたかくなつてはきたものの、指先は荒れたままだ。
このままでは絹糸を扱ふことはできない。

絹糸はちよつとした指のかさつきも許さない。
ひつかかつては細く糸がほつれてしまふ。
指先の荒れた状態では、すなはち冬のあひだは、絹穴糸を使つたタティングはできない。

絹穴糸もずいぶんと持つてゐる。
ずいぶんと、と書いたが、おなじ色はあつても二巻づつくらゐで、大きなものを作るには足りない。
大きなものを作らうと思つたら、複数の色を使用する必要がある。
そして、さういふ色のとりあはせを考へて糸を買つてはゐない。

以前は京都に行くたびに都羽根の絹穴糸を買つてゐた。
次回行くときまでに前に買つた糸を使ふかといふと、まつたく使つてゐないこともしばしばだつた。

佐賀錦も買つたなあ。
黒を二巻と、紫がかつた水色を一巻。
佐賀錦はそれだけだ。
すでに絹穴糸の在庫を抱へた状態で買つたからだ。

指先の荒れてゐない時期、すなはちこれから先のあたたかくて湿気の多い時期には絹穴糸を使つたタティングをすればいい。
以前もそんなやうなことを書いたやうな気がするが、実践してはゐない。

あたたかくなつてきたら毛糸でタティングするのもつらくなるだらうし、ここは絹穴糸を使つてなにか作つてみることにするか。
と、書いたところでやらないのは火を見るより明らかなのだが。

ところで、今年の「美しいかぎ針編み 春夏」号には、40番レース糸で編むウェアものが掲載されてゐる。
40番でウェアものなんて、ひねもすではないかと思ふのだが、もしかしたら今年の流行は細い糸でウェアものなのかも?
だとしたらタティングレースでもさういふことになつたりしないだらうか。
しないかな。

もちろん、ウェアものに絹穴糸なんぞは使はないけれどもね。

Monday, 04 March 2019

具象 vs. 抽象

Hell's Grannies Hat 用の花飾りをちまちま編んでゐる。

Irish Crochet

パピーのNew 4Plyと2/0号針とでアイリッシュクロシェットの薔薇と葉とを編んでゐる。
あみものにしてもタティングレースにしても具象的なものを作るのはあまり好きではない。
刺繍も幾何学模様を刺すスウェーデン刺繍は一時随分刺したものだけれども、写実的な図案を刺す気にはならない。

アイリッシュクロシェットがギリギリ許容範囲かな。
上に「薔薇」と書いたけれど、さう書かなかつたら写真に写つてゐるのはただの花だらう。
葉はそれといはなくても葉に見えはするが、なんの葉だかは知れない。
そのくらゐの「なんだかわからなさ」が好ましい。

絵を描くのが苦手だからかもしれない。
学校で描かされる絵は具象的なものばかりだ。
もしかすると抽象画を描いてもいいのかもしれない。
でも、隣の席の子の顔を描きなさいとか云はれたら、抽象画にはしづらい。
それに、幼稚園や小学校のはじめのうちは抽象画の存在を知らなかつた。
当時はさう思はなくても描くものはなにもかも抽象的だつた、といふ話もある。

絵の世界では、抽象画を描くにもまづは具象絵画をきちんと描けてから、といふ話もあるのかもしれない。
小学生のころ家族でピカソ展に行つたことがある。
我が家は教養とは無縁の家だつたので、家族で展覧会に行つたのはこれが最初で最後だ。
このとき、父が「ピカソつて絵がうまかつたんだなあ」と何度も云つてゐたことが忘れられない。
いはゆるヘタウマ絵のまんが家も投稿時代やデヴュー当時はメチャクチャうまい絵を描いてゐることがある。
幼少期に描いた絵が抽象的でも、それはさうしか描けないからだ。
さうでないものを描けてはじめて抽象画といへる。
絵の世界はさうしたものかと思ふ。

しかし手芸の世界はさうではない。
おそらくさうではないと思ふ。
あみもので本物と見紛ふやうなものを編めなくても、「おそらくこれは花」「なんの植物かわからないけれども葉つぱ」といふものは編める。

などと云ひわけしながらでないと編めないといふのもなんだな。

ほんたうは葉はいらないかとも思つたけれど、なんとなくにぎやかしに編んでみた。
並べてみて不要だと思つたら抜くつもりでゐる。

Friday, 01 March 2019

映画とせりふ

ジョン・クリーズの著書 Professor at Large に、脚本家であるウィリアム(ビル)・ゴールドマンとの対談が掲載されてゐる。
ゴールドマンは「明日に向かって撃て」等の脚本を手がけた人物だ。

対談で、ゴールドマンは、「映画(で大切なの)は対話(dialogue)ではない」と云つてゐる。
「対話」と書いたが「せりふ」と云つてもいいだらう。
映画で大切なのは一にも二にもスターで、如何にスターを生かす作品にするかが重要なのだと云ふ。
なるほどな、と思ふ一方で、やはり映画にはせりふ、それも名せりふを求めてしまふ。

以前ここにも「どーしても「三十郎。もうすぐ四十郎」といふせりふを使ひたくて、一度使つたことがある」、といふ話を書いた。
ほかにも使つてみたいせりふはいくらもある。

ゴールドマンが言及したレット・バトラーのせりふなんかもそのひとつだ。
でも使ふ場面が思ひ浮かばない。

冬になると鍋の準備の最中に鱈をかかげて「わたしにはタラがあるわ!」といふのはやるんだけど、この冬は鱈に出会つてゐない。

「カサブランカ」の「Play it, Sam.」などは使ふことはまづないので、家でひとりでイルザとサムとのやりとりを再現したりしてしまふ。
うつかり「As Time Goes By」を最後まで歌つてしまつてリックの出番がなくなることもしばしばだ。

使はなくても「黄昏」といへばキャサリン・ヘップバーンが認知症のはじまつた(役の)ヘンリー・フォンダに云ふんだよね、「You're my knight in shining armor.」つてと思つたり、「アラバマ物語」といへば「Miss Jean Louise, stand up. Your father's passing.」にはいつも泣かされると思つたりする。

きつかけは全部せりふだ。
キャサリン・ヘップバーンはスターだが、「アラバマ物語」でそのせりふを口にするのはスターではないし、云はれる方もスターになる前に俳優をやめてしまつた人物だ。

おそらく、ゴールドマンは商業的な成功について述べてゐたのだと思ふ。
さもなければ、業界で脚本家として生きていくには、といふ話だつたのだらう。

ときどき、自分の好きなことばだけで生きていけたらどんなにいいだらうと思ふ。
好きなことばとは、誰かのことばだ。
映画や芝居のせりふ、小説やまんが、詩からの引用、さうした他人のことばだけで生きていけたら。

でも実際はかうして他人のすばらしいことばとは似ても似つかないことばをつらねてしまふのだつた。
他人のことばだけで生きていくには教養が不可欠だからね。

2月の読書メーター

2月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1984
ナイス数:20

シネマほらセットシネマほらセット感想
架空の映画館で上映される架空の映画の紹介文。映画は架空だが俳優・監督・その他スタッフはみな実在の人物ばかり。想像しては思わず吹き出しそうになること一度ならず。アンソニー・パーキンス亡き後の「サイコ」をピーター・フォンダが演じて寅さん風になったり、オードリー・ヘップバーンの映画を滝沢秀明でリメイクしたり。それでいて著者があとがきで書いているように映画批判にもなっている。
読了日:02月01日 著者:橋本 治
現代暗号入門 いかにして秘密は守られるのか (ブルーバックス)現代暗号入門 いかにして秘密は守られるのか (ブルーバックス)感想
なぜ人が「素数、素数」とたくさんそうに云うのか、その一端がわかった気がする。
読了日:02月04日 著者:神永 正博
Professor at Large: The Cornell Years (English Edition)Professor at Large: The Cornell Years (English Edition)感想
creative であるには時間的にも空間的にもゆったりとした状況を作ること、リラックスしてユーモアを忘れないこと。同じことを述べた本も多いけれども、今まで読んだ中では一番納得できた気がする。同調圧力というのはどこにでもあるものなのだなあとも思った。宗教・心理学・映画に関する話が特に興味深い。コーネル大学での講義録という形で読みやすい。
読了日:02月16日 著者:John Cleese
キッド・ピストルズの冒瀆 パンク=マザーグースの事件簿 (光文社文庫)キッド・ピストルズの冒瀆 パンク=マザーグースの事件簿 (光文社文庫)感想
その昔NHK教育ラジオの「基礎英語」で毎週土曜日にマザー・グースを一編づつ紹介していた。そこだけ熱心に聞いていたのはミステリと少女まんががあったからだ。そこで得たものは、この本の巻末エッセイにあるようなナンセンスと狂気だったのかもしれない。あの時、ちゃんと聞いておいてよかった。だってこのおもしろい本をさらにおもしろく楽しむことができるのだから。
読了日:02月21日 著者:山口 雅也
論語 増補版 (講談社学術文庫)論語 増補版 (講談社学術文庫)感想
自分が儒教的教えだと思っていることとは違うことを云っているところがどうしても目につく。「ベンチがアホやから野球でけへん」に近いようなこととか。君主がダメだったらさっさと野に下れと云っているわけだが、それって、お勤めしてなくても暮らしていけないとできないわけで、なかなかむつかしい。
読了日:02月24日 著者:加地 伸行
音律と音階の科学 新装版 ドレミ…はどのように生まれたか (ブルーバックス)音律と音階の科学 新装版 ドレミ…はどのように生まれたか (ブルーバックス)感想
気の迷いから楽典を読んでいて、ちょうどよい機会だと思いこの本も手に取ってみた。並行して読むのにいい本だと思う。自分が中学生のときは授業でコード進行を習わなかったように思うのだが、忘れているだけなのだろうか。当時芸能雑誌の付録だった歌の本を見てコード進行というものを朧げに知ったくらいだった。あの時この本があればもっと理解も進んだろうに。
読了日:02月28日 著者:小方 厚

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