お友だちになりたいとかモブになりたいとか
映画「ボヘミアン・ラプソディ」がなぜ人気があるのかといふ話はもう出尽くした感がある。
屋上屋を架するのを承知で少し書いてみたい。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」が人気を集めてゐる理由、それは、観客に「お友だちになりたい」といふ気持ちを抱かせるに足る魅力が登場人物たちにあるからだ。
野田昌宏が「スペースオペラの書き方」で書いてゐた。
読者に「お友だちになりたい」と思はせるやうな登場人物を創造すること、と。
さう書きながら、野田昌宏が例にあげてゐるのが柴田錬三郎の「われら九人の戦鬼」といふところに注目したい。
「われら九人の戦鬼」に限らず、柴錬の描く登場人物に「お友だちになりたい」などと思ふやうな人がゐるだらうか。
眠狂四郎? ご冗談を。
岡つ引きどぶ? 狂四郎よりはマシ?
多門夜八郎? ないない。
しかし、「われら九人の戦鬼」の登場人物には、どこかいはく云ひがたい魅力がある。
「この人、この先どうなつちやふの?」とか「あの人はあのままなの?」とか、気になつて読み続けてしまふ。
それは登場人物の魅力といふよりは物語のうまさなのかもしれない。
でも、読んでゐて気になるのは「この人の行く末」であつて、「物語のつづき」ではない。
つまり、読んでゐてどうしてもその身の上、行く末の気になるやうな、さうしたことが他人事とは思はれないやうな登場人物を作れ、と、野田昌宏はさう云つてゐるのだと解釈してゐる。
最近サウンドトラックの「Doin' All Right」を聞いてゐるとなんだか泣きたいやうな気持ちになつてくる。
なんだらう、この、若くてキラキラした感じ。
「Everything before them, nothing before them」みたやうなさ、と書かうとして、どうしても「them」とは書けない。
引用元が「we had everything before us, we had nothing before us,」だからだらうか。
それもあるだらう。
でもそれだけぢやない。
ここはやはり「Everything before us, nothing before us.」なんだな。
このあたり、映画の中のあちらと映画の外のこちらとが同期してゐるんだと思ふ。
「Doin' All Right」は主人公がまだ海のものとも山のものともつかぬ状況、映画のはじまつたばかりのころに流れる曲だ。
若くて才能と野心とはあつて、でもまだなにものでもない。
気になる。
この先、どうなつていくのか。
Twitter でこの映画やクイーン関連のハッシュタグをながめてゐても思ふ。
「かくかくしかじかな状態の登場人物(あるいはそのモデル)たちをかたはらから見つめるモブになりたい」といふやうなつぶやきがいくつもある。
モブとは、「直接関はりあひはないかもしれないがおなじ空気を吸つてゐる存在」といふことだらう。
直接関はりあひはないけれど、なにかのきつかけで関はりが生じるかもしれない。
さういふ存在になりたいと思はせるやうなところが映画「ボヘミアン・ラプソディ」の登場人物たちにはある。
最近、「あの映画は自分のゐる世界とは違う、いはゆる平行宇宙にある世界の話なのではないか」と思ふこともある。
それぞれの俳優がモデルとなる人物を忠実にうつしてゐて、そつくりであるがゆゑに相違点も目立つから、といふこともないとはいへない。
でも、どちらかといふと、あの映画の中で描かれてゐることはあの映画の世界の中では真実なのだと思へるからなんぢやあるまいか。
たとへ事実と違つてゐても。
さういふところが人気につながつてゐるのだらう。
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