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Thursday, 28 February 2019

「甘い生活」の悲しみ

デルタの万年筆ドルチェ・ヴィータのインキがたうとうなくなつてしまつた。

デルタ純正のブルーを入れてゐたのだが、インキ壷は空である。
デルタよ、なぜ廃業してしまつたのか……

デルタのブルーは、明るい。
ナポリの海の色、といふ話も聞くが、行つたこがないのでわからない。
黒いキャップに鮮やかなオレンジのモザイクのやうなボディ、金属部分は銀色のペンから流れ出るのに最適な色だつた。

限定発売のペンには特別に作られたインキがついてくることがある。
本邦ではセーラー、パイロット、プラチナ(五十音順)と、各社からさまざまな色のインキが発売されてゐる。
海外ブランドも然り。
ナガサワ文具センターのやうに大々的ではなくても各文房具店で独自のインキを発売してゐたりもする。

さう、世の中は万年筆用のインキであふれてゐる。
吁嗟、だといふのに、なぜデルタのブルーはないのか。
天は我を見放したか。

と、大げさに嘆いてゐるのには理由がある。
万年筆といふものは基本的に一度インキを入れたらそれ以外のインキを入れてはならないからだ。
色が変はると成分が変はる、したがつてそこで妙な化学反応が起きてペンに損害を与へる可能性がある。
そんなわけで、気に入つてゐるペンは特に一度入れたインキ以外のものは入れないことにしてゐる。
ゆゑにインキも慎重に選ぶ。
できうる限り純正。
さもなくばこの先も長く販売されるだらうやうなもの。
だからドルチェ・ヴィータには純正のブルーを入れた。

もちろん、純正のインキを入れたからといつて問題がないわけではない。
長く生産されてゐるあひだに、どう見てもある時点から成分が変はつてゐるんぢやあるまいかといふインキもないわけではない。
また、純正でも廃番になることもある。
そして、デルタのやうに会社ごと廃業することもある。

また、インキは長く保存しておくものではない。
沈殿物が生じるなどインキの状態が変はつてしまふことがあるからだ。
すなはち、買ひためておくといふことができない。
どうしたらいいんですかね。

いづれにしても、ドルチェ・ヴィータは可能な限りきれいに洗浄して別のインキを入れるしかない。
そして、その候補が見つからずにゐる。
できればデルタのブルーに近い色、と思つてゐるのだが、なかなか「これ!」といふ色が見つからない。
どうしたものかのう。

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Wednesday, 27 February 2019

できないことは教へない教育 または できることを伸ばす教育

Prodigal Tongue といふ本に、英米における教育の違ひについて述べた箇所がある。

この本自体は、英語と米語との相違点を記した書だ。
著者は米国生まれ米国育ちで米国で教職についたあと、英国に渡つて暮らしてゐるといふ。

本によると、米国の学校ではどの生徒にも達意の文章を書けるやう教育するといふ。
一方、英国ではさういふ教育は行はない。
「書ける子は本など読むうちに自然と書けるやうになるから」といふのがその理由なのださうな。

この話をすると(やつがれの話し方もまづいのかもしれないが)、相手は英国式教育に反感を持つやうだ。
できない生徒もあるていどはできるやう教育を受けさせるのが本筋だらう、といふのである。

でも、さうなのだらうか。
本のこのくだりを読んでゐて思ひ出したのは、チャーチルの逸話だ。
チャーチルはラテン語がとにかく苦手で、ある時先生に「きみは英語が得意だから英語でがんばりなさい」と云はれたといふ。
その先生のことばどほりに英語に打ち込んで、文章家として知られるやうになる。

短所は切り捨てて長所を伸ばす、そんな教育もありだと思つたわけだ。

文章は、みんながみんな書けるやうになるとはかぎらないんぢやないかといふ気がしてゐる。
職場などで受け取る電子メールのうち、達意のものはほとんどない。
なにを云つてゐるのかわからないものも一通や二通ではない。
おそらくは生まれてこの方日本語を聞き、喋り、読み、書いてきた人々ばかりだと思はれる。
それでも書けない。
文章を書くといふことは、むつかしいことなのだ。

おなじことは絵を描くことや、プログラミングにもいへる。
世の中の六割の人はプログラミングに向かないといふ調査結果もあるといふ。
有名な大学の情報関連の学部やそのゼミにおいても、プログラミングを理解できない学生が毎年一定数ゐるといふ。

さういふものなんぢやないかなあ。

できないことをやめるのは妙手かと思ふ。
ただそれも、ちやんとできること好きなことを猛烈にやれば、の話だらう。
それとも人間、なんにもできなくてもいいのかな。
なんだかそんな気もしてきた。

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Tuesday, 26 February 2019

タティングとあみものとは違ふ

あひかはらず極細毛糸でタティングレースのスカーフを作つてゐる。

人間が保守的にできてゐて、こどものころから好きだつたものしか好きではない。
例外は将棋だけ。
しかもいい年になつてから好きになつたから指せない。
NHK杯などをTVで見るだけ。

ずつとさう思つてきたのだが。

考へてみたら、タティングも而立に手が届くやうになつてから知つたし覚えたものだつたことに最近になつて気がついた。
どうもタティングはあみものの一環と思つてきたのらしい。

レースといふことでいへば棒針編みでもかぎ針編みでもできるし、書店に行けば「手芸」の棚に関連書籍がまとめて置かれてゐることも多いので、一環といへば一環だ。

でも、タティングとあみものとではやつてゐることがまるで違ふ。
そんな気がする。

あみものは棒針にしてもかぎ針にしても糸で作つた輪の中に針をさし入れ、向かう側から糸をすくつて輪に通し、新たな輪を作る。
これをくりかへすことで編み地ができあがる。

タティングレースは、芯糸に別の糸を結びつけてレース地を作る。

道具も違ふ。
あみものは基本的には針と呼ばれる道具を使ふ。
タティングにも針を使ふニードルタティングが存在するが、一般的なのはシャトルを使ふ技法だらう。
針は糸の太さにあはせて選ぶ必要があるが、シャトルに巻けさへすればどんな太さの糸でもひとつのシャトルでこなすことができる。

違ふ。
あみものとタティングとは違ふ。

なーんだ、将棋以外にもちやんといい年になつてから好きになつたものはあるんぢやん。
ちよつとほつとするのはなぜだらう。

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Monday, 25 February 2019

It's Strange But It's True

Hell's Grannies Hat の土台は編み終はつた。

Hell's Grannies Hat

思つたよりも想定通りの形に編めた。
写真はまだ整形前で、表目を表にしてゐる。
整形したあかつきには、裏目の方を表にするつもりだ。

形については、縁の編み方がよかつたのだと思ふ。
細編み六目で編み始めて、頭頂部と縁とは一段に六目づつ増やす分散増目にする予定だつた。
頭頂部はその通りに編んだ。
縁は、一カ所だけ一段に十二目増やし目することにした。
一番端がちよつと波打つてはゐるものの、全体の形はかうしたいと思つてゐたものになつた。

次回編むときがあつたら、頭頂部とその先とは分けて編むつもりでゐる。
頭頂部は輪に編んで、そこから先は縦長に編んだものの長辺を頭頂部の端に編みつけるかかがりつけるかするといいやうに思ふ。
縁をそのままつづけて編むか、または輪に編むかは考へる必要があるな。

土台ができたので、早速飾り部分も編み始めた。

Hell's Grannies Hat

飾りはアイリッシュ・クロシェの薔薇やその葉をぐるつと輪になるやうに編むつもりだ。
とりはづしできるやうにする予定である。
ほんたうはモデルとおなじやうに色とりどりの花にするつもりだつたが、思つたやうな毛糸が見あたらなかつたので、暗めの生成にしてみた。

Hell's Grannies といふのは、「空飛ぶモンティ・パイソン」に出てくるおばあさんのギャング団だ。
大変凶悪かつ極悪で、暴走族さへ恐れをなす存在である。
このおばあさんたちがかぶつてゐる帽子がこんな感じの黒くて縁にたくさん花を飾つたやうなものなのだつた。

ずーつと編みたい編みたいと思つてゐたのだが、なかなか機会がなく、そのままになつてゐた。
後押ししてくれたのはモンティ・パイソンではなく、クイーンだつたりする。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」で「I Want to Break Free」のPVをそのままそつくり真似た場面がある。
それを見てなつかしくなつて実物の方のPVを見返した。
このPVは、どちらかといふと「Coronation」のパロディよりもフレディ・マーキュリーによるニジンスキー・リスペクトな場面の方が気になつてゐた。
でもあらためて見直してみると、女装の場面も悪くない。
特におばあさんだからといふのでこれまで見過ごしてゐたけれど、ジョン・ディーコンの薄い唇の形がとてもいい気がする。
かぶつてる帽子も Hell's Grannies のものによく似てゐるし。

といふわけで、やつと長年の野望に手を着けることになつた。

この先、アイリッシュ・クロシェの花や葉を編むのにまた時間がかかるが、ここまで来たら完成させるしかあるまい。
どうせ自分でかぶるわけではないのだし。

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Friday, 22 February 2019

情報カードとスキゾ

5×3の情報カードでPoICを試してゐる。
一昨年の十一月にはじめて、もう一年三ヶ月ほどたつ。

「PoICを」と書いたが、本家のものとは変はつてきてはゐる。
日誌的なものはほとんど書かないし、ToDo管理には使つてゐない。

千枚を超えるところまでは数へてゐたが、いまはもう何枚あるかわからない。
そろそろ整理をしなければと思ひつつなかなかできずにゐる。

整理とはPoICでいふところの「再生産する」にあたるかと思ふ。
書きためたカードを集めて分類し、内容をまとめる。
分類したカードは「お役御免」といふことになる。
かうして、カード全体の新陳代謝をはからうといふのだらうと理解してゐる。

ところがこの「再生産する」のがなかなかむつかしい。
PoICのWikiでは「再生産」の途中までで四時間かかつていると書かれてゐる。
普段生活してゐると、四時間のまとまつた時間をとることはできない。
少しづつやるにしても二時間くらゐ連続した時間がほしいところだ。

このやり方はいはゆるスキゾとかノマドとかには向かない。
ひとところに腰を落ち着けて作業するいはゆるパラノの人向きだ。

移動こそさほどしないもののやつがれは、持ち歩けないものは身につかないタイプのノマドといはうかスキゾといはうか、だ。
ピアノがダメだつたのは、ピアノは自力で持ち運べないからだと思ふ。
きつとハープもダメだらう。
週末家にゐる日だけしか弾かないけれどウクレレがつづいてゐるのは持ち運びやすい楽器だからだ。
PCも持ち歩かないくせにノート型が好きだ。
手芸にしても、あみものやタティングレースは外に持ち出して実施することが容易だ。

さう考へると、やはり情報カードは自分には向かないやうな気がしてくる。

ただ、カード自体は持ち歩きやすいことこのうへない。
持ち歩いて、ぱつと書き留めやすい。
それで増えてしまつたわけだけれど、これをまとめることができない。
もうちよつと偏執狂の気があればよかつたのにな。

どこかできちんと時間を取つてカードの「再生産」をしやう。
さうは思ふのだが、考へてみたらスキゾな人間の書くカードにまとめられるやうな要素があるとはチト思へない。
どうしたものかなあ。

でもやつぱり便利だから使つてしまふのだけれども。

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Thursday, 21 February 2019

忘れるため 忘れないため

過去のいやなできごとや不快な気分などを文章にして書き出すと気分がすつきりする。

さういふ話を聞く。
James W. Pennebakerもそんなやうなことを書いてゐる。
さういふものだと思つていろいろ書いてみるのだが、どうもすつきりしない。
書けば書くほどかへつてそのときのことを思ひ出してしまふ気がする。

書き方が悪いのだらうか。
すべて正直に書くのがいい、といふ。
できるかぎり正直に書いて、でもまだダメだ。

先日、ジョン・クリーズの「Professor at Large」といふ本を読んだ、とここにも書いた。
この本の中で、クリーズは自身の母親との関係について話してゐる。
母親との関係は、すばらしいとは云ひがたいものだつたらしい。
クリーズの母は、よくノートなどに文章を書き付けてゐたとも書いてある。
「母は、不安な気持ちなどの記憶を定着させるために書いてゐた」
といふやうなクリーズの証言がある。

なるほどなあ。
書けば書くほど記憶に定着するやうな書き方をしてゐるのだらう、やつがれは。
それで忘れられないのだ。

しかし、忘れるための書き方と覚えてゐるための書き方は、なにが違ふんだらう。

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Wednesday, 20 February 2019

お友だちになりたいとかモブになりたいとか

映画「ボヘミアン・ラプソディ」がなぜ人気があるのかといふ話はもう出尽くした感がある。
屋上屋を架するのを承知で少し書いてみたい。

映画「ボヘミアン・ラプソディ」が人気を集めてゐる理由、それは、観客に「お友だちになりたい」といふ気持ちを抱かせるに足る魅力が登場人物たちにあるからだ。

野田昌宏が「スペースオペラの書き方」で書いてゐた。
読者に「お友だちになりたい」と思はせるやうな登場人物を創造すること、と。
さう書きながら、野田昌宏が例にあげてゐるのが柴田錬三郎の「われら九人の戦鬼」といふところに注目したい。
「われら九人の戦鬼」に限らず、柴錬の描く登場人物に「お友だちになりたい」などと思ふやうな人がゐるだらうか。
眠狂四郎? ご冗談を。
岡つ引きどぶ? 狂四郎よりはマシ?
多門夜八郎? ないない。

しかし、「われら九人の戦鬼」の登場人物には、どこかいはく云ひがたい魅力がある。
「この人、この先どうなつちやふの?」とか「あの人はあのままなの?」とか、気になつて読み続けてしまふ。
それは登場人物の魅力といふよりは物語のうまさなのかもしれない。
でも、読んでゐて気になるのは「この人の行く末」であつて、「物語のつづき」ではない。

つまり、読んでゐてどうしてもその身の上、行く末の気になるやうな、さうしたことが他人事とは思はれないやうな登場人物を作れ、と、野田昌宏はさう云つてゐるのだと解釈してゐる。

最近サウンドトラックの「Doin' All Right」を聞いてゐるとなんだか泣きたいやうな気持ちになつてくる。

なんだらう、この、若くてキラキラした感じ。
「Everything before them, nothing before them」みたやうなさ、と書かうとして、どうしても「them」とは書けない。
引用元が「we had everything before us, we had nothing before us,」だからだらうか。
それもあるだらう。
でもそれだけぢやない。
ここはやはり「Everything before us, nothing before us.」なんだな。

このあたり、映画の中のあちらと映画の外のこちらとが同期してゐるんだと思ふ。
「Doin' All Right」は主人公がまだ海のものとも山のものともつかぬ状況、映画のはじまつたばかりのころに流れる曲だ。
若くて才能と野心とはあつて、でもまだなにものでもない。
気になる。
この先、どうなつていくのか。

Twitter でこの映画やクイーン関連のハッシュタグをながめてゐても思ふ。
「かくかくしかじかな状態の登場人物(あるいはそのモデル)たちをかたはらから見つめるモブになりたい」といふやうなつぶやきがいくつもある。
モブとは、「直接関はりあひはないかもしれないがおなじ空気を吸つてゐる存在」といふことだらう。
直接関はりあひはないけれど、なにかのきつかけで関はりが生じるかもしれない。
さういふ存在になりたいと思はせるやうなところが映画「ボヘミアン・ラプソディ」の登場人物たちにはある。

最近、「あの映画は自分のゐる世界とは違う、いはゆる平行宇宙にある世界の話なのではないか」と思ふこともある。
それぞれの俳優がモデルとなる人物を忠実にうつしてゐて、そつくりであるがゆゑに相違点も目立つから、といふこともないとはいへない。
でも、どちらかといふと、あの映画の中で描かれてゐることはあの映画の世界の中では真実なのだと思へるからなんぢやあるまいか。
たとへ事実と違つてゐても。

さういふところが人気につながつてゐるのだらう。

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Tuesday, 19 February 2019

云ひ訳の多い人生を歩んで参りました

ジョン・クリーズの Professor at Large といふ本を読んだ。

ジョン・クリーズは、モンティ・パイソンの一員である。
モンティ・パイソンは本邦では「空飛ぶモンティ・パイソン」といふ題名で放映されてゐた喜劇番組だ。本国英国では60年代の終はりから70年代のはじめに放映されてゐた。
ジョン・クリーズ自身はピアス・ブロスナンの007シリーズやハリー・ポッターの映画にも出演してゐる。

Professor-at-Large といふのは米国コーネル大学の制度で、著名人を呼び、決められた期間決められた回数講義をしてもらふといふものだ。
この本は、ジョン・クリーズのコーネル大学での講義録になつてゐる。

中で、creative になるには、といふ話を何度かしてゐる。
creative になるには、まづ時間的にも空間的にもゆつたりとすることが必要だ、といふ。
のんびりできる空間でひとりになり、リラックスすること。
そして、つねにユーモアとともにあれ。

創造性を高めるには、といふ話ではよくあるアドヴァイスだ。
よくあるアドヴァイスなのだが、なぜか腑に落ちた。
多分、アドヴァイスの最後にもある「ユーモア」をもつて語られてゐたからだらう。

ふりかへつてみれば、自分にはゆつたりした空間ものんびりした時間もない。
空間の方はかたづけられない自分のせゐだが、時間の方はさうとはいへない。
それとも時間も自分のせゐだらうか。
仕事をやめたらどうにかなる?
やめたらどうやつて暮らしていく?

といふのは云ひ訳で、やつぱり自分のせゐなんだらう。

最近睡眠が絶望的に足りてゐないので、目に入るものに即反応してしまふ。
先日もWebサイトで見かけたビーズをたつぷり使つたタティングレース作品を見て「自分も作りたい」などと考へてしまつた。
そんな時間、どこにもないのに。
だいたいビーズタティングをするには、ビーズを選び、そのビーズにあつた糸を選ぶ必要がある。あるいはその逆か。
どんなものを作るかも考へなくてはいけない。が、これは作りたいものがあるのであまり気にしてゐない。

いづれにしても、ゆつたりした空間とのんびりした時間。
それにリラックスすることとユーモア。

自分にないものばかりだ。
ないものねだりはしないに限るが、さて。

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Monday, 18 February 2019

パピーのハスキーで編むスヌード 完成

パピーのハスキーで編むスヌードを編み終はつた。

パピーのハスキーで編むスヌード

パピーのハスキーは毛と化繊とが1:1の混紡糸で、編んでゐると自動的に模様ができる毛糸だ。
一玉100gで、編みでがあつていい。
糸を結んで継いだ箇所がないわけではないが、結び目が極々小さいので裏表のあるものなら気にならないのではないかと思ふ。
少なくとも今回編んだスヌードでは気にならない。

編み地はとてもなめらかで、ちくちくしない。
パピーの話では、毛と化繊とをうまく混紡してさういふ風にしてゐるのだといふ。
首回りのものを編みたくなるなあ。
スヌードがさうといへばさうだけれども。

パピーの糸ではクイーンアニーとかブリティッシュエロイカ、シェットランドなど昔ながらの毛糸が好きだ。
でもハスキーもいいな。
さういやこの秋冬はまだノールビンドニングをしてゐない。
ミュルティコなんかノールビンドニングに向いてゐるのぢやあるまいか。

などと考へてしまふのは、かつて最寄りの手芸店がパピーの毛糸を扱つてゐたからだ。
閉店して久しい。
書店もさうだが、手芸店もどんどんなくなつてゐる。
なんとかしたいがこれ以上毛糸を増やすことはならない。

さて。

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Friday, 15 February 2019

好きなら知つてて当然?

昨日のエントリでクイーンの「All Dead, All Dead」についてちよつと書いた。

昨日のエントリでは、歌から読みとれることしか書いてゐない。
最後にちよつとだけ、「いま聞くと早逝したフレディ・マーキュリーのことを思つて泣けるといふ話もある」とは書いて、それだけだ。

ご多分にもれず、この歌にはほかにももつと付帯情報がある。
死を悼まれてゐるもののモデルのことや作者の生ひ立ちを絡めたらさらに妄想が広がる。
四十周年記念ディスクが発売されたときに公開された未公開音源もさうだ。

さうしたことは全部排除した。
なぜといつて、「好きであること=知識があること」といふ図式に疑問を抱いてゐるからだ。

好きになつたら知りたい。
もつと情報を得たい。
自然な欲求である。

それに付随して「好きなら知つてゐるべき」だとか「好きなら知つてゐて当然」だとかいふ意見もある。
ゆゑに好きな対象のことをよく知らないといふことが許されない状況になつてゐる。
でも、ほんたうにさうなのだらうか。
ほんたうに、好きなら知つてゐなければならないのだらうか。
ただ好き、単純に好きといふのではダメ?

作家だとか画家だとか音楽家が好きといふのなら、その人の作品が好き、それを鑑賞するのが好き、それで十分ではあるまいか。

好きな作品について語るなら、まづはその作品を深く鑑賞し、そこから読みとれることだけを語るやうにする。
さうすると、その作品しか知らない人ともコミュニケーションがとれる。
もしかしたら相手はさらなる情報を持つてゐたりするかもしれない。
そこで教へられてさらに知識を深める。
それができるのは、共通の土台としての作品があるからだ。
そこをおろそかにしたらなにも生じない。

そのせゐだらう、「SLAMDUNK」が好きと公言する人が越野宏明を知らないといふと「え、だつて好きなんでせう、「SLAMDUNK」?」とか云つてしまふのだが、それはまんがを読んでゐればわかる情報だからだ。
しかし、ほんたうはそれさへもどうよ、といふ話だ。
好きだつたら作品全体、全作品を好きでなければならないかといふと、決してそんなことはない。

と書きながら、「SLAMDUNK」が好きと公言する人が木暮公延のことを「小暮公延」と書いてゐたらちよつとその愛を疑つてしまふけれど。

つまりは、斯様に自分には「好きであること=知識があること」が躰に染み着いてしまつてゐるといふことだ。

十一月に映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見てからといふもの、このblogにもクイーンのこといろいろと書いてきた。
書いてはきたけれども、実のところ、自分はそんなにクイーンのことは好きではないと思つてゐる。
だつてほとんど知らないものクイーンのことなんて。
さすがに最近はTwitterなどで流れてくる情報からいろいろ知るやうにはなつてはゐる。
でも、なんていふのかな、好きな曲を聞けるだけで十分。
場合によつては映像もいらない。
音楽だけでいい。
それでも好きと云つていいだらうか。

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Thursday, 14 February 2019

Queen's Tearjerkers

昨日のエントリで泣き崩れる曲のことについてちよつと書いた。

云はれてみればクイーンの曲で知られてゐるものにはいはゆるtearjerkerはあまりない気がする。
だからといつて、まつたくないわけではない。

といふわけで、アルバム「News of the World」から「All Dead, All Dead」と「Spread Your Wings」の並びといふ話をちよこつとだけした。

11月に映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見て以降、久しぶりにクイーンのアルバムをあれこれ聞いてゐると、レコードだつた時代のアルバムはシャッフルできないな、と感じる。

たとへば「A Night at the Opera」の「You're My Best Friend」と「'39」の並び。
どちらの「you」もおなじ人だつたらと思ふと、切なさがはてしない。

この世で一番大切な人、かけがへのない「you」のために死にゆく土地に代はる新天地を探しに行く、「you」にはもう二度と会へないとわかつてゐながら、とか思ふと、時間に隔てられた戀といふのは最後に残された禁断の戀であることだなあとしみじみしてしまふ。

といつて、「All Dead, All Dead」と「Spread Your Wings」とにはさういふつながりを見てゐるわけではない。
単純に「続けて来るなよ(/_;)」といふ並びといふだけだ。

「All Dead, All Dead」は、しかし、フランクリン・プランナーを使ひこなしてゐるやうな人、「七つの習慣」に傾倒してゐるやうな人には響かない歌かとは思ふ。
いまでも忘れられない。はじめて「フランクリン・プランナー」の紹介パンフレットを読んだときのことだ。
そこにはフランクリン・プランナーを使ひこなしてゐて、おそらくは「七つの習慣」のセミナーにも出たことのあるだらう人の体験談が並んでゐた。
そのうちのひとつに、お子さんを亡くした人の談話があつた。

お子さんが不治の病であると宣告されて、その人は「七つの習慣」にしたがつてみづからの予定を立て、それを実行した。
お子さんとはできうるかぎり一緒に過ごした。
おかげで亡くなつたいまも後悔の念はまつたくない。
自分にできることを尽くしたからだ。

そんな内容だつたと記憶してゐる。

かういふ人には「All Dead, All Dead」はおそらくささらない。
この歌は親しい人・愛する人を失つたのちに抱く戸惑ふやうな互ひに相反するやうな想ひの浮かぶやうすを歌つたものだからだ。

歌の最初は、出会ひだ。
互ひに楽しく過ごした日々を歌ふ。
でも相手は死んでしまつた。
なぜ自分は生きてゐるんだらう。
まだあの歌声は聞こえるのに。
あのころに戻りたい。
いまでも思ひ出す相手と過ごした日々。
もつとたくさんしてあげられることもあつたのに。
でも悲しんではゐられない。
いづれ誰にでもおとづれることだから。
でも、もちろん、相手が死んだだなんて、信じてはゐないんだ。

と、だいぶ意訳したが、おほざつぱにはこんな内容だ。
楽しい日々を思ひ出しながら相手のゐない悲しみにくれ、その一方で「死は誰にでもおとづれるものだから悲しんでゐちやいけない」といひつつも相手の死を完全には受け入れられずにゐる。

「もつとたくさんしてあげられることもあつたのに」の部分は、本来は相手に許しを求める内容だ。自分はまだこどもだつたから、と。
おそらく、歌の主人公はまだ幼かつたから、死んだ相手にいろいろひどいこともしたのだらう。
いま思へばあんなことするんぢやなかつた。
もつとあんなこともこんなこともしてあげられたのに。
ごめんね。
さういふ気持ちなのだと思ふ。

この歌はいま聞くと早逝したフレディ・マーキュリーのことを思つて泣けるといふ話もある。
今回は、はじめて聞いたときのことを思ひ出しながら書いてみた。

長くなつてしまつたので「Spread Your Wings」についてはまた機会があつたら。

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Wednesday, 13 February 2019

全米やそこに捨ておけ泣かぬなら

私を泣き崩れさせた曲がひとつでもあつただらうか
といふのは、河出書房新社から2003年に出版された文藝別冊「クイーン 伝説のチャンピオン」に掲載されてゐる記事に出てくるデイヴィッド・ボウイのセリフと記憶してゐる。 前後関係がよくわからなかつたので誰が何に対して云つたのか覚えてゐないが、おそらく誰かがボウイの曲に対して云つたか、ボウイあるいは誰かがクイーンの曲に対して云つたものだと思はれる。

「泣き崩れさせる」作品ね。
さういふ作品がbestといふ考へ方はある。
映画の賞などを見てゐても、笑へて楽しい映画よりは泣けて深刻な映画が受賞するやうに思ふ。
橋本治の訃報のあとも、まぢめな批評や小説のことばかりがTwitterのTimeLineには流れてきて、(一見)ふまぢめなもの、楽しいもの、笑へるものはほとんど流れてこなかつた。
「アストロモモンガ」とか云つてゐたのはやつがれだけだつたやうな気がする。少なくともわがTLでは、ね。

「全米が泣いた」といふ慣用句がある。
万民を泣かせるやうな映画・小説・曲・whateverといふのは存在するのだらう。
人間の普遍的な感情につよく働きかけるものがある作品はさうなのだと思ふ。

その一方で、ある作品を見て笑ふか怒るか泣くかといふのは、個人の資質に関はる部分も大きい。全米は泣かなくとも「全俺」は泣く。
あるいは、ある時は泣けなくても別の時には泣ける。

前掲のムックの記事には、クイーンの曲でも「Love of My Life」とか「The Show Must Go On」とかあるけれど、といつたやうな文章があつた。
「The Show Must Go On」が泣けるのは、しかし、泣ける要因は歌の外にある。歌詞がどうとか曲調がかうだとかといふこともあるかもしれないけれど、この曲が泣けるといふときに人が口にする理由はそこにはない。
「Love of My Life」、かー。感傷的ではあるけれど、tearjerkerかといはれると、個人的にはさうは思はない。

それぢやあお前にはクイーンの曲で泣ける曲はないのか、といはれると、三曲ほどある。
いつも泣くわけではないし、中にはほかの人は泣かないかもしれないものもあるけれど、ある。

といふわけで、なにが泣けるのかといふと、「Radio Ga Ga」、それと「News of the World」の「All Dead, All Dead」と「Spread Your Wings」の並びに泣ける。

「Radio Ga Ga」が泣けるのは、単純に自分と一致するところが多いからだ。
歌ではteenageとなつてゐるけれど、自分の場合は十代のころ、深夜の友はラジオだけだつた。
喘息の発作を起こして眠れないとき、親を起こしたところで発作のおさまるでなし、ひとりで起きて薬を飲み、電気は消してラジオだけつけて、薬の効くのを待つてゐた。
親を起こさないのは、治らないからだけぢやない。
発作が長引くとだんだん相手がイライラしてくるのがわかるからだ。
さうやつて、親の顔色ばかりうかがつてゐた自分を「Radio Ga Ga」を聞いてゐると思ひ出す。
そのころはなんとも思つてゐなかつたけれど、いま思ふとなんてことだらうと思ふ。

結局、ある作品にどう心を動かされるかは個人の資質によるところが大きい。

といふわけで、ほかの二曲についてはまたの機会があれば。

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Tuesday, 12 February 2019

狂気とタティング

以前は、どこに行くにもタティング用具を持ち歩いてゐたことがあつた。
その前はあみもの道具だつた。
時間があいたら編む。
駅で電車を待つあひだ、ベンチに座れたら編む。
座れなくてもまはりに人がゐなかつたら立つたまま編む。
医者で役所で病院で、いくらでも待ち時間はある。

Stephanie Pearl-McFee aka Yarn Harlot が、さういふ待ち時間に正気を保つために編む、みたようなことを書いてゐたと記憶する。
もちろん、好きだから編むわけだけれども、銀行などで待つあひだ、いつ呼ばれるのかもいつ終はるのかもわからない不安な状況を乗り切るために編む。
あみものなんて気が長い人のすること、といふのはものの一端しか見てゐない。
気が短いから編むのだ。
タティングもまた然り。

あみもの道具がタティング道具になると、荷物がぐつと小さくなつた。
あみものほど周囲の状況を気にしなくてもできるのもいい。
本邦では電車の中ではあみものをしてはいけないことになつてゐるといふからね。
あみものがダメなら数独で使ふペンもダメだらうと思ふのだが、ペンで他人の目を突いたことのある人はゐないらしくて禁止されてゐない。
理不尽である。

それでしばらくは外出時の待ち時間にタティングをするやうになつた。

近頃持ち歩くかばんが小さくなり、しかし荷物はそれほど減つてゐない。
なにが減らせるかと考へたときに、タティング道具が二番手くらゐに候補になつた。
そんなわけで、いまはほとんどタティング用具は持ち歩いてゐない。
現在作つてゐるものがスカーフといふチト大きいものだからといふのもある。
なにかもつと小さいもの、モチーフだとか栞だとかならいいのかもしれない。

以前は大きいものを作つてゐるときには持ち歩き用の小さなものも同時進行で作つてゐた。

いまはその余裕がないのかもしれない。
或は「The Dark Side of the Moon」に足を踏み入れてしまつたか。

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Monday, 11 February 2019

パピーのハスキーで編むスヌード

Hell's Grannies Hat は進まないが、別なものを編み始めてしまつた。

Neck warmer in Progress

パピーのハスキーで編むスヌードである。
「ヨーロッパの手編み」に出てゐる作品を参考に、編み始めにガーター編みを入れてみた。
本では全体をメリヤス編みで編んで、上下は自然とくるんと丸まるやうに作る。
メリヤス編みで自然に丸まるのはなかなかいいと思ふのだが、実際に編んでみるとあまり自分の好みにあはないことが多い。
本で見るといいのになあ。

そんなわけで、編み始めにガーター編みを入れてみたが、ガーター編みとメリヤス編みとの境で折れ曲がつてしまふ。
整形するときに気をつければなんとかなるだらう。多分。

こんなことなら編み終はりは本の通りメリヤス編みにしやうかな。
どうせ丸まるのなら、Iコードを編みつけてもいいとは思ふ。
ただIコードにすると使用する毛糸の量の見積もりがむつかしい。
結局メリヤス編みにするやうな気がする。

ハスキーは毛と化繊が一対一の糸だ。
とてもなめらかで手触りもよい。
本では七号針が指定されてゐるが、手がゆるいので六号で編んでゐる。
針はクロバーの匠で、最初のうちは糸と相性がよくないかと思つたが、単に編み始めは編みづらいといふだけの話だつたやうだ。

先週あたりは突然あたたかい日がやつてきて、このまま毛糸で編んだものなどは必要なくなるのかと思つたところにこの寒さだ。
早く編んで使ひたいがどうなることやら。

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Friday, 08 February 2019

大河ドラマを見逃したら

今年は大河ドラマを見てゐる。

前半の主役を演じる中村勘九郎も後半の阿部サダヲもどちらも好きだ。
志ん生の配役がチト気に入らないけれど、若い頃は森山未來が演じてゐるし、しかもその師匠には松尾スズキが配されてゐる。

そんなわけで、これまでのところは見てゐる。
でもTVを見る習慣を失つて久しいので、最初の三分くらゐがいつも欠けてしまふ。
最初の三分くらゐは先週のあらすじだつたりすることもあるから、いいか。

ところがここに問題がもちあがつた。
日曜日のこの時間帯に家にゐないと「いだてん」は見られないのだ。
なにをあたりまへのことを、と思はれるかもしれないが、由々しき事態である。

録画機が壊れたままなのがいけない。
でも、この録画機には八代目松本幸四郎の鬼平とか丹波哲郎の鬼平とか萬屋錦之介の鬼平とかTVドラマ版の座頭市とか、salvageしたい番組がたくさん入つてゐる。
ダメもとで修理したい。
だが、修理をするといふことは、修理をしてくれる人を家に招くといふことだ。
つまり、その時間帯、家にゐなければならない。
ここのハードルが高くて、なあ。

大河ドラマといへば、連続ドラマだ。
かういふ作品の場合、途中一話くらゐは抜けても大丈夫といふ回を所々にもうけるものだ。

ディケンズの「二都物語」でいふと、"The Fellow of Delicacy"は読まなくても大勢には影響しない。
"The Fellow of No Delicacy"は読まないと話が通じなくなるけれど、「No」のない方はまあ、読まなくても大丈夫。

「三銃士」でいふと、「銃士の内訳」かな。
この章も読まなくても物語がわからなくなるといふことはない。
読めば、アトスは寡黙な酒飲みで、ポルトスは見栄坊の贅沢好きで、アラミスは秘密主義の色男といふことがわかる。
でもそれはこの章を読まずとも全体を読んでゐればおのづと知れることだ。
連載小説にはさういふ回があるものだ。

小説がさうなのだから、ドラマだつてさうあつてしかるべきだらう。
つまり、「いだてん」も一話くらゐ抜けたところでわからなくなるやうな作りにはなつてゐないはずだ。

問題は、見なかつた回が"The Fellow of Delicay"ではなく"The Fellow of No Delicacy"だつたらどうしやう、といふことだ。

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Thursday, 07 February 2019

予備知識なしの「映画刀剣乱舞」鑑賞

昨日、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の登場人物の登場順と名前の判明する順について書いたのには訳がある。

「映画刀剣乱舞」を見たからだ。

「刀剣乱舞」については、ほとんど知らずに行つた。
知つてゐたことは、刀剣を擬人化したゲーム、といふことくらゐだ。
映画については、堀内正美が出演してゐることも知つてはゐた。
ほかのことについてはまつたく知らない。
なにしろ見に行つて、「槍もゐるのか!」と驚いたほどである。
ミュージカルと芝居とそれぞれあるといふことも、それぞれで配役が違ふといふことも、知らなかつた。

映画には刀剣の擬人化である「刀剣男子」と呼ばれる登場人物が十人弱登場する。
親切なことに、ひとりひとり名前と刀剣としての種類である大太刀だとか脇差だとか短剣だとかが文字として表示される。

が、なにしろ十人近くゐるし、名前が出てくるのもわりと一瞬だし、覚えられないよ、と見てゐて思つた。
それでも見てゐるとお互ひに名前を呼び合ふので通称のやうなものは覚える。
わからないのは種類だ。
見てゐると、種類によつて戦ひ方が違ふのではないかといふことに気がつく。
槍は足下も攻撃する、とか。
短剣は接近戦で身の軽いところを見せてくれる、とか。
種類は覚えられなかつた山姥切は居合なんぢやないか、とか。

ところが、この戦ふ場面もめまぐるしくカットが変はるので、確認しきれない。
誰が出て種類はなんなのかくらゐは覚えてくるのだつたかもしれないなあ、と反省してもあとのまつりだ。

誰が誰だかあまりよくわからない状況で、それでは映画はつまらなかつたのか、といふと、ちやんと楽しく見ることができた。

本能寺の変にまつはる話だから、そこに出てくる歴史上の人物はだいたいわかるし、どういふ展開なのかもわかる。
それをうまくアレンジしてあつて、「え、それつてどうなるの?」と興味を引かれる作りになつてゐる。

また、信長役はちよつとセリフ力(ちから)が足りないなーといふところがあるものの、秀吉役が懐の深いところを見せてゐて、おもしろい。

あとはやつぱり堀内正美ですか。
最高ですね。
よくぞ配役してくれた、と感謝の念しかない。

そんなわけで、映画といふものは登場人物の名前や出自のやうなものがわからなくても、案外楽しめるものなのだなあと思つた。
それが昨日のエントリにつながるわけだ。

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Wednesday, 06 February 2019

登場順と名前の出てくる順

映画「ボヘミアン・ラプソディ」で主要登場人物の登場順と名前の判明する順番を考へてみた。

登場順はこんな感じかと思ふ。

  1. フレディ
  2. ロジャー
  3. ブライアン
  4. メアリ
  5. ジョン
以下省略。
では名前が出てくる順番はどうか。
まづセリフとして出てくる順番はかうだ。
  1. フレディ(もとはファルーク) @バルサラ家の夕食の場
  2. ジョン・ディーコン @初登場の初LIVEの場
  3. フレディ・バルサラ @ジョンとおなじ
  4. ロジャー @ジョンとフレディとおなじ
  5. ブライアン @車が故障したmiddle of nowhereの場
  6. メアリ @バルサラ家でのフレディの誕生会の場
  7. フレディ・マーキュリー @メアリのちよつと後
  8. ブライアン・メイ @フレディのソロ騒動の場
字幕だとかう。
  1. フレディ(もとはファルーク) @セリフとおなじ
  2. ジョン・ディーコン @セリフとおなじ
  3. フレディ・バルサラ @セリフとおなじ
  4. ロジャー @セリフとおなじ
  5. メアリ @セリフとおなじ
  6. フレディ・マーキュリー @セリフとおなじ
  7. ブライアン @ロックフィールドの宿で部屋割りの場
  8. ブライアン・メイ @セリフとおなじ
記憶に頼つてゐるので、間違ひがあつたらご教示願ひたい。

登場の比較的早いブライアンの名前がわかるのは、映画もすこし進んでからだ。
セリフでは初アルバム録音のちよい手前、車が故障したときのことだ。
タイヤと格闘してゐるジョンに「時計と逆の方向に回すんぢやないかな?」的なことを指摘すると、ジョンから「ありがたう、ブライアン。代はつてくれてもいいんだよ?」といふ旨のことを云はれる、ここではじめて名前が出てくる。
字幕ではロックフィールドに着いた直後だ。ポール・プレンターが部屋割りを伝へるときに「ブライアン」と字幕に出てくる。
それまでは「名無しののっぽさん」または「名無しのギターの人」のままだ。
ロジャーにいたつては、最後まで名字が出てこない。

映画ではじめてクイーンを知る人は、これで大丈夫なのだらうか。
チト不安になる。
でも、大丈夫なんだらうな。
多分、映画を見るときに登場人物を名前で判断しないんぢやあるまいか。
映像があるのだから、見てわかる。
名前はあとからついてくる。
場合によつては名前がなくてもなんとかなる。

これが外見がよく似た四人だとか、しかもバンドぢやなくて合唱団でこれといつた楽器も手にしてゐないとか、さういふことだつたらもつと早くに名前が出てくるのかもしれない。

外見は全然似てないしね。
バンドだから担当する楽器もあるし。
それでいいぢやない。
さういふ感じなのぢやあるまいか。
そこらへんのことはすべて折り込み済みでこの映画は作られてゐる
そんな気がする。

登場人物の名前はさほど重要視されてゐないやうに見えるものの、「フレディ・マーキュリー」といふ名前だけはかなり意識して登場させてゐるやうに見受けられる。
といふ話はまた機会があつたら。

[追記}名前の登場順を修正 2019/2/14

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Tuesday, 05 February 2019

タティングと左手の中指

左手の中指の腱鞘炎がタティングに及ぼした影響は、ほとんどない。

タティングは左手に糸をかけ、タティングシャトルをくぐらせることで糸を結ぶ。
このとき、左手の中指を動かして糸をたはませて結び目を作る。
したがつて、左中指が痛くなつたときに、「このままタティングはできなくなるのではあるまいか」と不安になつた。
腱鞘炎の所以はタティングではないかと疑つたくらゐだ。

だがどうもさうではないやうだつた。
かぎ針でレース編みをするときには痛い中指も、タティングのときはさうでもない。
タティングをする時は思つたほど左手の中指を動かしてゐないやうだ。やつがれは、ね。
少なくとも腱鞘炎の痛みが出やすい指を曲げるやうな動作は少ないらしい。

それで結び目がうまく芯糸にうつらなくて失敗することがあるのかな。
さうも思つたが、さうさう起こることでもない。
頻発するならそのせゐだらうが、気になるほどしよつ中発生するわけではない。

そんなわけで、去年のいまごろ、当時は原因不明の左中指痛を覚えるやうになつたころも、「最悪、かぎ針でレース編みをするのはあきらめても、タティングレースがあるか」と思つてゐた。

ところで、左手に糸をかける際、糸がゆるまぬやうに小指に一巻きするのだが。
薬指にもさらに一巻きする方法もある。
一度やつてみてうまくいかなかつた。
薬指にも巻いてたら中指をもうちよつと動かす必要がありさうだ。
いまとなつては小指に一巻きするだけでよかつたのかもしれない。

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Monday, 04 February 2019

よくなってきた腱鞘炎

編めてゐない。
ちよつと由々しき事態だ。
このままだと今月末には風邪などひいて寝込んでゐるかもしれない。
三連休で立てなほせればよいのだが。

編めてはゐないが、どうやら左手の中指の腱鞘炎はよくなつてきたやうだ。
去年のいまごろ、左手の中指を曲げたときに違和感があり、思ひつ切り曲げてみたら指の中で配線がごちやごちやになるやうな激痛を感じた。
そのうちなほるだらうと思つてゐたがなほらず、今度は脚も歩行に支障が出るほど痛くなつたので、医者に行つたらそれくらゐの痛みで医者なんて、と鼻で笑はれて帰つてきた。

六月頃おなじ診療所で別の医者に診てもらつたときに指はまだ痛いといふ話をしたら、腱鞘炎だと診断されたのだつた。
塗り薬を処方されたがたいしてよくはならなかつた。
これでなほらなかつたら痛い注射を何度か打ち、それでもよくならなかつたら手術だが、それでもよくはならないかもしれないし再発するかもしれないと云はれてゐた。
そんなこと云はれたら、医者には行かないよなあ。

といふわけで、ずつと左手で拳を作れずにゐた。
なにが不便といつて、缶のプルトップを開けられないことだ。
右利きなのになぜか缶のプルトップは左手で開けてきた。
腱鞘炎になつてよくよく缶詰についてゐるプルトップの開け方を見たら、右手で開ける絵がついてゐる。
え、プルトップつて、利き手で開けるの?
以降、ぎこちなくも右手で開けるようにしてゐる。
不器用の理由がわかつたやうな気がした。

ぎゆつと握るとまだ指が痛いこともあるが、なんともないことも増えてきた。
まちつと我慢したらなほるかもしれない。

左手の中指は、かぎ針編みをしてゐるときによく使ふ。
ほかの人はさうでもないのかもしれないが、自分はよく使ふ。
とくにレース糸とレース針とでレース編みなぞをすると使ふやうだ。
そんなわけで、エミーグランデで編んでゐたアイリッシュクロシェのスカーフは編みかけになつたままだ。
このまま放置してしまふかもしれない。
完成させるには勢ひが大切だつたりするんだよなあ。
時間をおいても完成させることもあるけれども。

そんなわけで、とにかく編めてゐない。
パピーのハスキーを手に入れたので、ネックウォーマでも編んでみるかなあ。
Hell's Grannies Hat はちよつと脇においておくとして。

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Saturday, 02 February 2019

1月の読書メーター

1月の読書メーター
読んだ本の数:7
読んだページ数:1525
ナイス数:33

メモの魔力 The Magic of Memos (NewsPicks Book)メモの魔力 The Magic of Memos (NewsPicks Book)感想
熱は高温のところから低温のところに伝わる。故に情熱(enthusiasm、だろうか)のある人からそれほどでもない人に伝わる、とある。そういう感じで自分のメモへの情熱がほかの人にも伝わるといい、というところに興味を惹かれた。
読了日:01月14日 著者:前田 裕二
にぎやかな未来 (角川文庫)にぎやかな未来 (角川文庫)感想
普段は「他人を羨んではいけない」「己の力ではどうしようもないことを呪ってはならない」などと自分を律しようとしているけれど、でも、どうしようもないことってあるよね、と、筒井康隆を読むと思う。突然筒井康隆が読みたくなって手に取った。星新一の解説もおもしろい。
読了日:01月16日 著者:筒井 康隆
辞書をよむ (平凡社新書)辞書をよむ (平凡社新書)感想
かつて知らないことばをノートに書き付けて辞書を引いて意味を付け足していたことがある。辞書ってそんなところから生まれたのかと感慨深く読む。自分が辞書に惹かれるわけは「過去の方向へのひろがり」にあるのかもしれないな。
読了日:01月18日 著者:今野 真二
呼吸の極意 (ブルーバックス)呼吸の極意 (ブルーバックス)感想
昔から呼吸には苦労していて、腹式呼吸は覚えたけれど、どうも日々息を吐くことがうまくできていない気がしている。吸気大事というこの本はちょうどよかったともいえるけれど、いままでうまくできなかったものがうまくできるかどうかは謎。
読了日:01月18日 著者:永田 晟
赤江瀑の「平成」歌舞伎入門 (学研新書)赤江瀑の「平成」歌舞伎入門 (学研新書)感想
時代が変われば人も変わるし人が変われば歌舞伎も変わる。江戸時代の歌舞伎といまの歌舞伎とは違うし、おそらく終戦直後の歌舞伎といまのそれとも違うだろう。変化についていけるかどうかだな、個人的には。ほんとうは書きたいことがあるだろうにズバリ書けない歯痒さのようなものを感じるのは深読みのし過ぎだろうか。襲名ラッシュの所以もちょっとわかった気がする。
読了日:01月21日 著者:赤江 瀑
Foundation (The Foundation Series)Foundation (The Foundation Series)感想
クルーグマンが経済学を選んだ理由が心理歴史学だったと聞いて再読したいと思っていた。
忘却とは忘れ去ることなりで、「こんなにおもしろかったっけか」と思いながら読む。続きが楽しみ。
読了日:01月29日 著者:Isaac Asimov
世の中ついでに生きてたい (河出文庫)世の中ついでに生きてたい (河出文庫)感想
やっぱり高座が一番おもしろいかなと思いつつも息子の名前は木村忠吾からつけたとか初代播磨屋の俊寛が好きで役者になりたいと思ったとか云われるとなんだか嬉しくなってしまう。山藤章二が云っていたと書いてあるように志ん朝はどちらかというと先代文楽に近いところがあるように思うが、直接習ったことはないというのもこの本で読んだ。勘九郎時代の十八世勘三郎との父について芸についての話が好きだ。
読了日:01月30日 著者:古今亭 志ん朝

読書メーター

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Friday, 01 February 2019

一ヶ月目の LEUCHTTRUM1917

LEUCHTTRUM1917 で Bullet Journal をはじめて一ヶ月がたつた。
二月の Monthly Log を作り、今日の Daily Log を書いたところだ。

LEUCHTTRUM1917 には Bullet Journal 向けのノートもある。
最初はそれにしやうかと思つたが、「これ」と思ふ色の表紙がなかつたのであきらめた。

ここにも何度か書いたやうに、A5サイズといふのはチト大きすぎる。
かばんに入らないことがある。
手帳は常に持ち歩いてナンボと思つてゐるので、この点は不満だ。

LECHTTRUM1917 にもB6サイズがあればなあ。
あつたらそれを Bullet Journal として使ふのに。

しかし、ないものねだりをしてゐても仕方がない。
次の手帳用にB6サイズのノートを探してみるつもりでゐる。

大きさ以外にはいまのところ不満はない。
かばんにさへ入れば問題ないのだ。
問題は、現在やつがれの使つてゐるかばんには大きすぎるノートだといふだけなのである。
職場でも自宅でも即取り出せる位置においてゐるし、即書き込めるやうになつてゐる。

ノンブルはあらかじめ打つてあるので、いちいち書き込まなくていい。
使ふ前はたいした問題ではあるまい、と思つてゐた。
それまで使つてきた手帳やノートにはすべて手でページ数を書き込んでゐたからだ。
でもこの一手間がないとこんなに楽かと思ふ。
番号のふり間違へもないしね。

ペンを選ばないのがいい、とは以前も書いた。
手持ちのペンで書いてもインキの裏抜けやにぢみはないやうに思ふ。
書いてゐてストレスがないというのはいいやね。

あと、心なしか丁寧に書くやうになつたやうな気がする。
それまでも「Bullet Journal は記録でもあるのだから」といふのでできるだけ読みやすい字で書くやう心がけてゐた。
心がけてゐたつもりで、所詮自分の書く文字だからなんだかものすごいことになつてゐることも多々ある。
それが、すこしマシになつたやうな気がする。
それまでは方眼用紙を使つてゐたが、今回はドット方眼で、それが書きやすさの違ひかな、といふ気もする。
気分の問題かもしれない。

あとは、何月まで使ふことができるかな、といふところか。
次はB6サイズで、なんぞと書いたけれど、そのころにはまた「やつぱり LECHTTRUM1917で」と思つてゐるかもしれない。

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