仏像と現実に生きた人間との違ひ
去年はTVドラマ「怪奇大作戦」放映開始五十周年だつた。
落語協会のお囃子の恩田えりは、第一話である「壁ぬけ男」の放映日に同エピソードと、「死に神の子守唄」、それと「京都買います」を見たのだと云つてゐた。ほんたうは全話見たかつたのだけれども、とことはつて。
自分だつたらなにを見るかなあ。
「京都買います」といふのは、ここでも何度か書いてゐるとほり、京都の寺々から仏像が消失するといふ事件の謎を解く、といふ話だ。
須藤美弥子といふ登場人物がゐて、いたく仏像を愛してゐる。人間よりも仏像くらゐのいきほひで愛してゐる。
なにしろ「許してください。私は仏像を愛した女なんです」とか云つちやふくらゐだ。
そんな美弥子に惹かれる牧史郎は、美弥子にあなたはどう思ふかと訊かれて、
ぼくは仏像より現実に生きた人間の方が好きかもしれない。と答へる。
現実に生きた人間と仏像との違ひとはなんだらう。
動くか動かないか?
わからないぞ。
仏像だつて夜な夜な動いてゐるかもしれない。
人の目のないところでは、なにをしてゐるものやら知れたものではない。
監視カメラを入れればわかるぢやないか?
それだつてどうだかな。
カメラには死角がある。
それでなくても相手は仏さまだ。
なにか不思議な力を持つてゐてもをかしかない。
では、人間と仏像との違ひはないのだらうか。
ある。
いくつかあると思ふ。
そのうちのひとつは、いはゆる「キャラが立つてゐるか否か」だ。
仏さま、といはうか、如来さま・菩薩さま・その他もろもろの神さま(といつていいのだらうか)は、ほんたうに「キャラが立つ」てゐる。
この如来さまはこれこれかういふお方で、かくかくしかじかの御利益があつて、みたやうな「設定」がしつかりきまつてゐる。
そして、それに反することは、まづない。
でも人間、現実に生きた人間はさうではない。
そりやあるよ、「あの人はかういふ性格で、ああいふときにはああ反応して、これにはかう」みたやうな、さういふくくりといふのはある。
でも生きた人間は必ずしもそのとほりの反応をし、そのとほりの活動をするとは限らない。
ものすごく性格が細かいのになぜか時にずぼらだつたりとか、いつもなら絶対挨拶するのに今日に限つてしないとか。
予想外の反応を返してくる。
それが現実に生きた人間だと思ふ。
そこで考へるわけだ。
「京都買います」の美弥子さんは、さういふ予想外の反応を返してくる「現実に生きた人間」に対応できなかつた人なのではないか、と。
「この仏さまはかう」「あの菩薩さまにはああいふ御利益が」みたやうな決まりにしたがつたものしか受け付けられない、そんな性格だつたのではあるまいか、と。
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