ウソのやうな性格
中学生のとき、学校で性格診断のやうなテストを受けた。
知能テストの一環だつたやうに思ふが定かではない。
結果には、「かうとはつきり云へないやうな複雑な性格です」といふやうな文言があつた。
さうだらう、なにしろ、質問によつては整合性の合はないやうな答へをしたからな。
わざとやつたわけではない。
正確な設問など覚えてゐるはずもないが、たとへば、「みんなと遊ぶよりひとりで本を読んでゐる方が好きである」といふ設問には「とてもあてはまる」を選び、「学級会などでは他人の意見をよく聞いて自分の意見はあまり述べない」みたやうな設問には「あてはまらない」を選ぶ。
そのときの性格診断についていへば、矛盾する答へをする人と判断したのだらう。
ひとりでゐるのが好きな人間はおとなしく、みなのゐるやうな場所でみづから意見を述べるやうなことはない。
さういふ風に判断してゐたのではないかな、と推測してゐる。
人間、そんなに単純なものではない。
ひとりで本を読んでゐる方が好きでも、学級会などでは発言する。
そんな人間はいくらもゐると思ふのだ。
ひとりでゐるのが好きな人間は集団の中では発言を控へがちである、といふのは、フィクションの中のお約束としてなら成り立つかもしれない。
フィクションでは、ひとりが好きなおとなしい性格の登場人物が、みんなと一緒にゐるときにはつきり意見を述べるやうなことをすると、「ギャップ萌え」みたやうなことを云はれたりするのかもしれない。
ギャップもなにも、現実に生きた人間とはさうしたものだ。
推理小説をくさすのに「人間が描けてゐない」といふ常套句があつた。
とくに本格推理小説と銘打つた小説に対する批評に多かつたのではあるまいか。
推理小説では謎解きとそれにまつはる仕掛けなどが重視されて登場人物の描写がお粗末になつてゐる、といふ偏見があつたのだらう。
実際、さういふ小説もあつたのかもしれないけれど、「人間が描けてゐない」が適用されがちな事象がもうひとつある。
登場人物がよく描けすぎてゐる場合だ。
登場人物があまりにも真に迫つた描かれ方をしてゐて、フィクションの枠におさまりきらない、さういふときにこの「人間が描けてゐない」が使はれる。
現実に生きた人間ならかうもあらうといふ登場人物であるにも関はらず、「人間が描けてゐない」と云はれてしまふ。
ここでいふ「人間」とは「フィクションにおける人間」なのだらう。
現実は小説よりも奇なりとはよく云はれることだけれど、それは当然で、人は小説が現実とおなじであることを求めない。
現実に起こり得ることを書いても、「ウソくさい」と云はれてしまふのが関の山だ。
どうやら中学生のときのやつがれは、ウソくさい性格の持ち主だつたやうだ。
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