世の中ボーッと生きてたい
落語には「この人、ついでに生きてるんぢやないか」といふ人物があちこちに登場する。
もしかしたらいま落語がブームといふのも、この「ついでに生きてるんぢやないか」と思はれるやうな人物をご見物が求めてゐるんぢやないか、といふ気がしないでもない。
NHKに「チコちやんに叱られる」といふ番組がある。
いきなり番組の題名からして日本語的に間違つてゐるが、そこは問はない。
この番組では、普段あたり前のこととして過ごしてゐることどもを「なぜさうなのか」と出演者たちに問ひ、正しい答へがわからないとチコちやんが「ボーッと生きてんぢやねーよ!」とキレることになつてゐる。
ボーッと生きてゐたいんだがなあ、こつちは。
世の中ついでに生きてたいんだよ。
なんでよく知りもしない相手から「ボーッと生きてんぢやねーよ!」などとキレられなければならないのか。
といふ話をしたら、あれは出演者に対してキレてゐるのであつて、ご見物は自分のこととは思はないのではないか、といふ意見を頂戴した。
なるほど、視聴者はチコちやんの側に立つて見てゐるのか。
つまり、キレる側にゐるわけだ。
高みの見物といふわけね。
当今「ボーッと生きてゐる」と非難されてしまふわけだ。
ボーッと生きてゐたいのに。
さういや落語でも昨今は与太郎の演出にいろいろあつて、「この与太さんは単に空気を読まないだけで、さういふ国(オランダとかさ)に行つて生活したら普通に暮らせるんぢやないか」といふやうな与太さんとか、噺の中でだんだんヨタではなくなつていく与太さんとかがゐて、「ああ、今の世の中、与太さんでさへヨタのままでは生きていけないのだなあ」と思ふこともある。
落語の登場人物も世につれ変はつていくのは当然とは思ひつつ、与太さんにはヨタであつてほしいなあ。
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