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Thursday, 31 January 2019

筆の汚れと不労所得

どうもノートを汚せない。

粗相が多いのでうつかり汚してしまふことはあるし、そもそも字が汚いので見た目に汚いといふことはある。

でもやらうと思つてもなかなかノートを汚すことができない。

自分には、「ノートとはかうあるべきもの」といふ基準があるやうだ。
無意識のうちにあるので、普段は自覚してはゐない。
でも以前ここにも書いたやうに、お気に入りのノートにお気に入りのペンで仕事のことを書き込むのはイヤ、とかいふのが基準のひとつなのではないかと思つてゐる。
お気に入りのノートにお気に入りの万年筆で仕事のことを書き込むなんて、筆の汚れだ。

仕事のことは書きたくないといふ気持ちは現在ではだいぶ緩和されてゐて、Bullet Journal にもちやんと書くやうにしてゐる。
……と書くくらゐだから、やはりどこかに抵抗があるんだな。

書いておくと、あとで「ああ、こんなこともあつたなあ」などとおもしろく見ることもできるのだが、書く時点では書きたくない。

中学生のときに「三国志演義」やそこから派生した物語などに触れ、「ああ、いいなあ、隠遁生活」などと思つたのが間違ひのもとだつた。

人に雇はれることなく、みづからの草庵でのんびり過ごす。
実際は晴耕雨読などといつて食ひ扶持くらゐは自分でなんとかしなければならなくて、「のんびり」などとは云つてゐられないのかもしれない。
さういへば陶潜の詩の解説に「こんな暮らしができるのも、中産階級の人だからだ」的なことが書いてあつて、なんだか夢を壊されたやうな気分になつたことがあつた。

さうだよね。
不労所得がなければ隠居生活なんて夢のまた夢。
わかつちやゐるんだけどねえ。

そこんとこをはき違へてゐるから幸せが遠いんだよなあ。
わかつちやゐるけどやめられない。

Wednesday, 30 January 2019

Good Company あるいは預言者の唄

はじめてクイーンの「Good Company」という歌を聞いた時、「これは自分のことだ」と思つた。
小学生の終はりか、中学生のころだつたと思ふ。

小学校に入る前に、引つ越しを三度経験した。
一度目が四歳の冬、二度目がそのほぼ四ヶ月後、三度目が六歳の時だ。
引つ越すたびに、前住んでゐたときに遊んでゐた友だちと疎遠になる。
多分、自分はかうして最後はひとりになるのだ。
「Good Company」を聞いて、さう思つた。

「Good Company」といふのは、おそらくはもうあとは墓場に行くだけの男の話である。
その男が、こどものころのことを思ひ出すところからはじまる。
パイプをくゆらしながら父親が云ふ。
「友と呼べる人々を大事にしなさい」

男は父親の云ふことに従ふが、結婚するまでのことだつた。
家庭を持つと妻との暮らしにばかり目がいつて、それまで仲良くしてゐた友だちは、ひとりまたひとりと去つていく。

そのうち男は仕事に精を出すやうになり、名声を得る。
でも最後に残つたのは his own limited companyだけ。
いつしか妻とも疎遠になつてゐた。

年を取り、父親とおなじやうにパイプをくゆらしながら、でも周りには誰もゐない。
己が人生の愚考から学んだことに思ひを馳せる。
「友と呼べる人々を大事にしなさい」

ああ、これは自分のことだ!
自分も最後はきつとかうなるのだ。
仕事は好きぢやないから会社を得るやうなこともなく、年をとつたら周りには誰もゐないんだ。
本家「預言者の唄」よりもよほど「預言者の唄」だつた。

普段、「クイーンといへば「Good Company」かな」とか呆けたことを云つてゐる、その理由はかういふことだ。

人生の最後がだいぶ近づいてきて、でも幸ひなことにまだ「No one there's to see.」といふ状況には至つてゐない。
自分はこれといつてなにもしてゐないにも関はらず、だ。
非常に恵まれてゐる。
ありがたいことである。
大事にしなさいよ。

Tuesday, 29 January 2019

体調に気をつけないとといふ予兆

手作りをする気力がないのかもしれない。

昨日は、Hell's Grannies Hat が進んでゐないと書いた。
理由は、できあがりつつある形が想定したものと違ふこと、ゆゑに編みなほすかそのまま完成させるか決めかねてゐることだとも書いた。
それはそのとほりなのだが、タティングレースのスカーフの進捗状況を見ると、理由はそればかりとはいへない気がしてゐる。

極細毛糸で作つてゐるタティングレースのスカーフは、昼休みのあいた時間を利用してゐるので、ちよこちよこと進んではゐる。
Hell's Grannies Hat のやうに停滞してはゐない。
でもここのところ進み具合があまりよろしくない。

タティングにかける時間が減つてゐるんだよなあ。
以前は文字通り寝る間も惜しんで結んでゐたし編んでゐた。
編まずに結ばずに、なんの人生ぞ、とまで思つてゐた。
それが最近はとにかく睡眠大事といふ風に変はつてしまつた。
睡眠時間もさることながら、布団に入つてゐる時間も不足してゐる。

毎日、起きて、職場に行つて、帰ってきて、食べて湯あみをして寝るだけ。
そんな味気ない暮らしをしてゐる。
いつたいなんのために生きてゐるんだらう。
つくづくさう思ふ。

昔の人はそんなことは思はなかつたんだらう。
毎日働くのがあたりまへで、自分のしたいこと・趣味などに割く時間はなくて当然だつただらう。

自分もさう思はうとするのだが、なかなかそこまで思ひ切れない。
せめて作り始めたスカーフくらゐはちやんと仕上げたいものだ。

Monday, 28 January 2019

観察する

結局、Hell's Grannies Hat は進んでゐない。

ほどいて編みなほすか、このまま最後まで編むかで悩んだままだ。

そんなわけで、外に出ると他人の帽子ばかり見てしまふ。
毛糸の帽子で多いのは、棒針編み(もしくは機械編み)のものだ。
棒針編みの帽子で多いのはスキー帽のやうなタイプではあるまいか。
頭頂部分にポンポンでもつければよりスキー帽らしくなる、そんな帽子が多いやうに思ふ。

スキー帽よりももうちよつと頭にぴつたりとくつつくビーニーのやうなものも見かけるか。
まれにベレー帽なども見かける。
いいよなあ、ベレー帽。自分用にひとつ編むかなあ。

でも、Hell's Grannies Hat で求めてゐるのはスキー帽やベレー帽のやうな形の帽子ではない。
ぐるりとつばがあつて、比較的かつちりした形の帽子を求めてゐる。

かといつて、ボルサリーノとかでもないしねえ。
歌舞伎座などに行くと、いまでもたまにボルサリーノとはいはないけれど、ああいう感じの頭頂部のちよつとへこんでつばのあるタイプの帽子をかぶつてゐる紳士を見かけることがある。

フェルト帽で、かつちりした形……

さうか、編んで、フェルト化させればいいのか?
そんなに縮絨しないように、適度にフェルト化させれば、いま編んでゐる帽子でも求めるやうな形になるかもしれない。

家にこもつて編んでばかりゐないで、出かけてあれこれ見ることも必要だなあ。

Friday, 25 January 2019

Rock Without a Cause

ロックな心を持ち合はせてゐない。

さう思つてゐたのだが、いろいろ思ひ出すうちに、「考へてみれば自分はつまらぬ反抗心のかたまりだつたな」といふことを思ひ出した。

多分、自分史上一番ロックなことは小学生のときにやつたことだ。
これはちよつと話しづらいことなので、またの機会に。

人気アイドルが愛読書だからといふので猫も杓子も読んでゐた(あるいは少なくとも「持つてゐた)「ライ麦畑でつかまえて」や、これもなんかで妙に人気があつた「アルジャーノンに花束を」は読まないと決めてゐた。
でも読まないのも癪なので仕方なく原書で読んだ。
わかるわけがない。
わかるわけがないけれど、「The Catcher in the Rye」は二度ほど読んだ。
わからないからか。

「アルジャーノンに花束を」はその後翻訳を読んだけれど、「The Cathcer in the Rye」はいまに至るまでどちらの翻訳本も読んでゐない。
内容を理解してゐないままといふことだ。

ほかにロックなできごとといふと、英語の授業のときのことか。
先生はイギリスから来た人だつた。
何年も学生の扱ひにうんざりしてゐたのだらう、ちよつとでも云ふことをきかないと「単位をやらないよ」と云ふ先生だつた。
ある時、もう我慢ならなくなつて、いつもの「単位をやらないよ」が出たときに思はず「Who cares?」と返してしまつた。
ああ、これでこの単位は落としたな、と思つた。

このとき、先生はこれから「Key Largo」を見せやうとしてゐた。
何の前触れもなかつた。
それで学生の一部が「Key Largoとはなんぞ」とぼそぼそささやきあつてゐたんだな。
なんでこの映画を見たのか、なぜ先生はこれを見せやうとしたのか、もう思ひ出せない。

確かなのは、やつがれはこの授業の単位をちやんともらへたことと、この後先生が「単位をやらないよ」とあまり云はなくなつたことだ。もしかしたらまつたく云はなくなつたかもしれない。
だから自分の中では「ロックなできごと」として認識されてゐなかつたんだな。
いい先生だつたんだ。
まあ、ちよつと話をした感じだと悪い先生ではなかつたけれど。

こんな感じでつまらないところで反抗心が燃え上がることがあつて、どうもこれまでよく生きてきたとは思へない。
なんかかう、もつと別に腹を立てることはあるだらう。
いつもさう思ふ。
さういふ腹を立てるべきところに立てず、立てなくてもいいところに立てるところがロックなのかもしれない。

Thursday, 24 January 2019

気になる教育

去年のいまごろ、「史上最悪の英語政策」を読んでゐたし、いまでもWebの記事でも教育関係のものをしばしば読んでゐる。
自分にはもう関はりのないことだし、別段教育に携はつてゐるわけでも教員免許を持つてゐるわけでもない。
なのになぜ気になるのだらう。

思へば、自分はいはゆる「ゆとり世代」の先駆けだつた。
気がつくと、時間割に「ゆとりの時間」といふ謎の教科が組み込まれてゐた。
その時間、なにをやつたかは記憶にない。
おそらく、地元の人々などとふれあひその中からいろいろ学べ、といふやうな時間だつたのだらうと推測する。
そんなことをした記憶もないが。

高校生になると、毎年数学で学習する範囲が狭くなつていつた。
ひとつ上の先輩たちが学んだことを我々はやらないといふやうなことがあつた。
多分、高校二年生では「微分・積分」をもうちよつとやるはずだつたのだと思ふ。
少なくともひとつ上やふたつ上の先輩の話だとさうだつた。
でも自分の代ではほんの最初の部分だけしかやらなかつたやうに記憶してゐる。

多分、自分より下の代もおなじやうな状況にあつたのだらう。
そして、俗に云ふ「ゆとり世代」がやつてくる。

それがどうした、といふ話もあらう。
自分もさう思つてゐる。
すくなくとも、さう思つてゐると信じてゐた。
けれども、教育関係の情報が気になる。

心のどこかで「教育は国家の礎」などと思つてゐるのかもしれないな。

あるいは、学力と財力さへあれば私学に行つてもつと自由に学べたかもしれないのに、といふ恨みもあるのかもしれない。

最近気になつてゐるのは、大学受験の英語がどうなるのか、国語もひどいことになつてゐるらしい、といふあたりだらうか。
いま目の前のWebブラウザには「How Americans Came to Distrust Science」といふ題名の記事が表示されてゐる。

自分はいつたいどこに向かつてゐるのだらう。

Wednesday, 23 January 2019

風邪の予防

講談社はブルーバックスの宣伝だらうか、最近「紅茶を飲むと風邪やインフルエンザにかからない」といふ話をよく見かける。

紅茶はインフルエンザのウィルスを殺すことがあるのらしい。

ほかに、毎朝起きたら即歯を磨くと風邪を引かないといふ話も聞く。
なんでも睡眠中に口の中に細菌やらなにやらが繁殖するのだといふ。
歯を磨くことで、細菌などをきれいにできるから風邪を引かなくなるといふのだ。

だが、毎日のやうに紅茶を飲んでゐて、かつ去年の秋から毎朝起きたら即歯を磨いてゐる身として云ふのだが、あまり信用しない方がいい。
おそらく、「風邪やインフルエンザにかからないやうに」と紅茶を飲んだり朝起きたら歯を磨いたりする人は、ほかのことにも気をつけてゐると思ふのだ。
帰宅したら手洗ひうがひをかかさない、とか。
夜更かしをしない、とか。

かくいふやつがれは、去年のいまごろ十年ぶりくらゐにインフルエンザにかかつたし、去年は十二月の中旬に風邪を引いて、それ以来ずつと喉の調子がよくない。
先月から「ボヘミアン・ラプソディ」の「Let him go〜♪」が出なくて悲しんでゐた、それがなんとかなつたのが先週くらゐのことだと思ふ。
一ヶ月近く出なかつたせゐだらう、いまも出たり出なかつたりだし、時折声がかすれる。
声がかすれるものだから、「Doing All Right」などを歌ふと出だしがいい感じでハスキーな声になるのだが、それはまた別の話である。

つまり、紅茶や起床直後の歯磨きは、風邪やインフルエンザを完全に予防してくれるわけではない、といふことだ。
なんだかあたりまへのことのやうだが、経験者は語る、だ。

風邪の予防には、十分な睡眠と必要な栄養とを取ることが一番だ。
ほかになにかといつたら帰宅後の手洗ひうがひだらう。
すくなくとも自分に関してはさうだと思ふ。

それでも紅茶は好きだから飲むし、起床直後の歯磨きも「ちよつとでも予防できたら」と思つてつづけてはゐる。
でも睡眠不足ぢやね。

どうやつたら十分な睡眠をとることができるのだらうか。
今日も模索してゐる。

Tuesday, 22 January 2019

進まないと不安になる

去年の今日は大雪で大変だつたやうだ。
「雪は降る 電車は来ない」などと呟いてゐたから相当だ。
帰り道、単騎ながら「八甲田死の行軍だな」と思ひながら歩いた記憶もある。
自分の前にこの道を人間が歩いたのは何時間前だらうといふくらゐ、雪が積もつてゐた。
足跡は皆無だつた。

こどものころ雪が降るといへば三月だつた。
大雪の影響で大停電に見舞はれたのも三月の末のことだつた。
あのころはガスストーヴがあつたので、それで暖をとつたことを覚えてゐる。富士山の方に旅行に行つてゐた伯父が自宅まで帰りつけず、我が家に泊まつたのもこの日だつた。
一月二月は思ひのほか降らなかつたやうに覚えてゐる。
六代目中村歌右衛門が亡くなつた日も雪が降つた。桜が咲いてゐて雪が降り、夜には月も出たといふ。

でもこのところ、雪といへば一月か二月といふ印象がある。
三月になるともうあたたかい。
去年一昨年はそんな感じだつたやうに思ふ。

こんな調子では、極細毛糸で作つてゐるタティングレースのスカーフも三月くらゐで頓挫するかもしれないなあ。
だんだん大きくなつてきて、そのうち膝の上に置いてタティングするやうになるからだ。
暑くなると膝の上に毛糸で作つたものが乗つてゐることに耐へられなくなるんだよなあ。

とはいつても、三月くらゐの陽気ならまだ大丈夫だらうか。
読めぬ先のことを気にしても仕方がないとは思ふものの、だつたら毎日天気予報なんぞ見はしない。
気にしても仕方がないのなら、天気予報だつて週間予報なぞ出したりはしないだらう。

気になるならせつせと作ればいい。
さうなんだけれども。
正論といふものはなぜか耳に逆らふ。
いつもといふわけではないけれど、正しいことば・正しい行ひといふのはなぜかすなほに受け入れ難い。

だからダメなのか。

スカーフがあまり大きくなつてゐないやうに見えるのでよけいに心配になるのだらう。
遅々としてゐると思へても、日々ちよこちよこ結んでゐればいづれ完成する。
不安に思ふことはないのかもしれない。

Monday, 21 January 2019

前進か撤退か

Hell's Grannies Hat は帽子部分はほぼできあがりつつある。
問題は、どうも想定してゐたのと違ふ形になりさうだといふことだ。

Hell's Grannies Hat はつばがあり、カジュアルな装ひには似合はない帽子だ。
Hell's Grannies は一様に黒くて長いワンピースのやうな服を身につけてゐる。当時は普段着だつたのかもしれないが、いまはどこからどう見てもお出かけ着だ。

ところが、できあがりつつある帽子の方はといふと、どこからどう見てもカジュアルなのである。
形は、「できるかな」ののつぽさんが被つてゐる帽子に近い気がする。
Bucket Hat といふのかもしれない。

求めてゐるのはそんなにsloppyではない帽子なんだがなあ。
かつちり編めてはゐるので、形はあとでなんとでもなるのだらうか。

帽子自体は頭頂部につづく部分をそのまま編まずにわけて編んで、あとから頭頂部とつなぎあはせた方がいいのかもしれない。
あるいは頭頂部を編んだら裏返してつづきを編み、つばを編むときにまた裏返す、とか。

手はいろいろ思ひつくのだが、問題なのは編みなほすのか否かといふ点だ。
ひとまづはこのまま完成させるか。
はたまたほどいて編みなほすか。
編みなほしたからといつて、思ひどほりにいくとはかぎらない。
編んだことがないんだから当然だ。
とにかく編み終へて、形をととのへてみたらまた違つた印象になるかもしれない、とも思ふ。

そんなわけで、あとはもうつばの端のバックこま編みを編むばかりなのだが、そこでとまつてゐる。
バック細編みは好きなので取り入れるつもりでゐるが、これもやつてみたらさらなるカジュアル化を呼ぶかもしれないなあ。

いづれにせよ、編んでみなければわからないことだ。
編むしかないか。

Friday, 18 January 2019

ウソのやうな性格

中学生のとき、学校で性格診断のやうなテストを受けた。
知能テストの一環だつたやうに思ふが定かではない。

結果には、「かうとはつきり云へないやうな複雑な性格です」といふやうな文言があつた。
さうだらう、なにしろ、質問によつては整合性の合はないやうな答へをしたからな。

わざとやつたわけではない。
正確な設問など覚えてゐるはずもないが、たとへば、「みんなと遊ぶよりひとりで本を読んでゐる方が好きである」といふ設問には「とてもあてはまる」を選び、「学級会などでは他人の意見をよく聞いて自分の意見はあまり述べない」みたやうな設問には「あてはまらない」を選ぶ。

そのときの性格診断についていへば、矛盾する答へをする人と判断したのだらう。
ひとりでゐるのが好きな人間はおとなしく、みなのゐるやうな場所でみづから意見を述べるやうなことはない。
さういふ風に判断してゐたのではないかな、と推測してゐる。

人間、そんなに単純なものではない。
ひとりで本を読んでゐる方が好きでも、学級会などでは発言する。
そんな人間はいくらもゐると思ふのだ。

ひとりでゐるのが好きな人間は集団の中では発言を控へがちである、といふのは、フィクションの中のお約束としてなら成り立つかもしれない。
フィクションでは、ひとりが好きなおとなしい性格の登場人物が、みんなと一緒にゐるときにはつきり意見を述べるやうなことをすると、「ギャップ萌え」みたやうなことを云はれたりするのかもしれない。
ギャップもなにも、現実に生きた人間とはさうしたものだ。

推理小説をくさすのに「人間が描けてゐない」といふ常套句があつた。
とくに本格推理小説と銘打つた小説に対する批評に多かつたのではあるまいか。
推理小説では謎解きとそれにまつはる仕掛けなどが重視されて登場人物の描写がお粗末になつてゐる、といふ偏見があつたのだらう。
実際、さういふ小説もあつたのかもしれないけれど、「人間が描けてゐない」が適用されがちな事象がもうひとつある。
登場人物がよく描けすぎてゐる場合だ。

登場人物があまりにも真に迫つた描かれ方をしてゐて、フィクションの枠におさまりきらない、さういふときにこの「人間が描けてゐない」が使はれる。
現実に生きた人間ならかうもあらうといふ登場人物であるにも関はらず、「人間が描けてゐない」と云はれてしまふ。
ここでいふ「人間」とは「フィクションにおける人間」なのだらう。

現実は小説よりも奇なりとはよく云はれることだけれど、それは当然で、人は小説が現実とおなじであることを求めない。
現実に起こり得ることを書いても、「ウソくさい」と云はれてしまふのが関の山だ。

どうやら中学生のときのやつがれは、ウソくさい性格の持ち主だつたやうだ。

Thursday, 17 January 2019

仏像と現実に生きた人間との違ひ

去年はTVドラマ「怪奇大作戦」放映開始五十周年だつた。
落語協会のお囃子の恩田えりは、第一話である「壁ぬけ男」の放映日に同エピソードと、「死に神の子守唄」、それと「京都買います」を見たのだと云つてゐた。ほんたうは全話見たかつたのだけれども、とことはつて。
自分だつたらなにを見るかなあ。

「京都買います」といふのは、ここでも何度か書いてゐるとほり、京都の寺々から仏像が消失するといふ事件の謎を解く、といふ話だ。
須藤美弥子といふ登場人物がゐて、いたく仏像を愛してゐる。人間よりも仏像くらゐのいきほひで愛してゐる。
なにしろ「許してください。私は仏像を愛した女なんです」とか云つちやふくらゐだ。
そんな美弥子に惹かれる牧史郎は、美弥子にあなたはどう思ふかと訊かれて、

ぼくは仏像より現実に生きた人間の方が好きかもしれない。
と答へる。

現実に生きた人間と仏像との違ひとはなんだらう。
動くか動かないか?
わからないぞ。
仏像だつて夜な夜な動いてゐるかもしれない。
人の目のないところでは、なにをしてゐるものやら知れたものではない。
監視カメラを入れればわかるぢやないか?
それだつてどうだかな。
カメラには死角がある。
それでなくても相手は仏さまだ。
なにか不思議な力を持つてゐてもをかしかない。

では、人間と仏像との違ひはないのだらうか。
ある。
いくつかあると思ふ。
そのうちのひとつは、いはゆる「キャラが立つてゐるか否か」だ。

仏さま、といはうか、如来さま・菩薩さま・その他もろもろの神さま(といつていいのだらうか)は、ほんたうに「キャラが立つ」てゐる。
この如来さまはこれこれかういふお方で、かくかくしかじかの御利益があつて、みたやうな「設定」がしつかりきまつてゐる。
そして、それに反することは、まづない。

でも人間、現実に生きた人間はさうではない。
そりやあるよ、「あの人はかういふ性格で、ああいふときにはああ反応して、これにはかう」みたやうな、さういふくくりといふのはある。
でも生きた人間は必ずしもそのとほりの反応をし、そのとほりの活動をするとは限らない。
ものすごく性格が細かいのになぜか時にずぼらだつたりとか、いつもなら絶対挨拶するのに今日に限つてしないとか。
予想外の反応を返してくる。
それが現実に生きた人間だと思ふ。

そこで考へるわけだ。
「京都買います」の美弥子さんは、さういふ予想外の反応を返してくる「現実に生きた人間」に対応できなかつた人なのではないか、と。
「この仏さまはかう」「あの菩薩さまにはああいふ御利益が」みたやうな決まりにしたがつたものしか受け付けられない、そんな性格だつたのではあるまいか、と。

Wednesday, 16 January 2019

楽器の練習

休みの日にウクレレの練習をしてゐる。

ウクレレは、だいぶ以前に職場のビンコ大会で手に入れた。
それまで、弦楽器といへば、ギターにすこし触れたくらゐだつた。
ご多分に漏れず、Fがムリで挫折した。
弓を使ふやうな弦楽器もやつたことはないし、ましてやハープだし、本邦の楽器、琴や三味線もしかりだ。
ウクレレも、まさか自分が弾くことがあらうとは思つてゐなかつた。

楽器は、それでも人並みにいろいろ経験してきた方だとは思ふ。
ピアノは小学生のうちは習つてゐた。
その後も十五年くらゐは趣味で弾いてゐた。
打楽器でいふと、小学校や中学校の合奏の時間は木琴や鉄琴が好きでよくたたかせてもらつた。
管楽器では、たて笛も好きだつた。ハーモニカも管楽器かな。
オカリナもある。
ファイフもあるな。
サキソフォンとファゴットも吹いてゐた。
さういへば金管楽器は吹いたことがない。

いまはもつぱらオタマトーンで、ほかに持つてゐるたて笛やファイフ、オカリナは自宅で吹くにはちよつと音が大きすぎ、隣近所の迷惑になりさうだから結局できずにゐる。

そこに、ひよんなことからウクレレがやつてきた。
ウクレレは、ストロークの仕方によつては音がかなり小さくなる。
しかも、小さくて弦は四本しかない。
ギターのFのやうに「押さへるのはとてもムリ」みたやうなコードはなささうだ。
これはいいといふので、手に入れた直後はちよろちよろ弾いてゐた。
といつて、牧伸二の「♪あ〜ああやんなつちやつた」がなんとかできるくらゐにしかならなかつたが。

その後、平日は弾けないのと、なにを弾けるのかよくわからぬといふのとで、放置する日が続いた。
教則本とか持つてなかつたしね。

先日、突然なにか楽器が弾きたくなつて、でもオタマトーンではない、といふ気持ちだつた。
そのとき、
「私にはウクレレがあるわ!」
などとスカーレット・オハラ気分で突然思ひ出し、ひつぱりだしてきていまに至つてゐる。

とりあへず、やはり牧伸二の練習をして、弾けさうな曲を探しだしてきて練習をはじめた。
いまは The Beatles の「Girl」がだいぶ引き語れるやうになつてきたところだ。
あともう一曲練習してゐる曲があるが、これはどうも弾けるやうになりさうもない。
いづれにしても、誰かに披露するといふこともなささうだし、家の中でひそかにこそこそ弾くばかりだらう。

今週、NHKのニュースで、78歳にしてドラムスをはじめたといふ人の話を見た。
いつはじめても遅くない。
若い人に勝てないのはあたりまへ。自分に負けたくない。
そんなやうなことを語つてゐたと思ふ。

楽器が演奏できるといふのは楽しいことだ。
全然弾けなくて、練習もうまくいかず、つらいことも多いはずなのにね。
多分、音楽が好きなんだらう。
絶対音感もなければ和音の聞き分けもできないし、ペースの維持もできなければ、歌へば音痴ではあるけれども。
好きつて、さういふ問題ぢやないんだらうな。

さて、コードは練習すれば押さへられるやうになると思ふのだが。
ストロークの方がどうもよくわからない。
一度、ウクレレ教室のやうなところに見学しに行つてみるかなあ。

Tuesday, 15 January 2019

タティングレース、見かけますか?

タティングレースを作る人は増えてゐるのだと思ふ。
だがその実感がない。
自分の周りにタティングレースをする人がほとんどゐないからだ。

書店に行けば関連書籍はたくさんある。
タティングをはじめたばかりのころは、藤戸禎子の「華麗なるレース タッチングレース」と藤重すみの「かわいいタッチングレース」くらゐしかなかつたし、普通の書店ではほとんど見かけなかつた。大手手芸店でどちらかあるかどうかといつた状態だつたやうに記憶する。

道具も増えた。
タティングシャトルは色やサイズによる選択肢が増えた。ボビンに糸を巻くタイプのシャトルもある。
ピコゲージや糊など以前は見なかつた関連商品も販売されるやうになつた。

以上の点から、タティングレースは以前にくらべて人気があるのだと見てゐる。
そのはずなのに、なぜかタティングする人をあまり見かけない。
書籍を見るに、タティングレースではアクセサリを作るのが流行してゐるやうに思ふのだが、タティングレースのアクセサリを身につけてゐる人もほとんど見ない。
去年、歌舞伎座ギャラリーで「本朝廿四孝」を見たときに、前方にタティングレースのモチーフをあしらつたピアスをしてゐる人を見かけた。それくらゐしか記憶にない。

自分がタティングレースが好きなので、書店での書籍の数たとか道具の種類だとかをつひ気にしてしまふから、それでなんとなくタティングレースに人気があるやうに見えてしまふのだらうか。
そんな気もする。
あみものをしない人にはレースの見分けなどつかないだらう。
レース織りか、ボビンレースかニードルレースか、棒針で編んだレースかかぎ針で編んだレースか、それともタティングレース?
「そんな違ひがあるの?」といふ人も多からう。

あるいは、単に、自分から「実はタティングレースが好きで」などと云はないし、考へてみたらタティングで作つたものなど身につけたりはしないので、それで周囲にタティングレース好きが集まつてこないだけなのだらうか。
うーん、Twitterのアイコンはタティングレースなんだけどなあ。

Twitterといへば、自分のTimeLineでは大絶賛されてゐるものも、世の中ではとんと耳にしない、なんぞといふものもある。
さういふことなのかなあ。

Monday, 14 January 2019

最初から適正な量の毛糸を買はないと

Hell's Grannies Hat は、つばの部分まできた。
まだ増やし始めたばかりなので完成にはもうしばらくかかる見込み。

金曜日に不足分の毛糸を買ひに行つた。
不足分はクイーン・アニーの黒一玉だ。
さうです。まんまとほかの糸も買つてきてしまつたのです。

セール中だつたので、パピーのハスキーと Opal のソックヤーン Loewe を求めてしまつた。
パピーのハスキーは Twitter の TimeLine でしばしば見かけてゐて、気になつてゐる糸だつた。
一玉でなにかできさう、と思つて買つてしまつたんだよなあ。
Loewe も同様。
一玉使ひきりでどうにかなりさうと思つて買つてしまつた。

なんでかう計画性がないかな、と思ふ。
衝動買ひはいかんよね。
衝動買ひの結果、毛糸がどうにもならないことになつてゐることはもう学んだはずなのに。
そもそも毛糸にも申し訳ない、とは以前も書いた。
しかも帽子もろくろく編めてゐない状態だといふのに、だ。

でも編みたいものはいくらもあるんだよな。
手持ちの毛糸で編めよ、といふ話だが、それはいづれするつもりでゐる。
問題は目の前に新しい毛糸が並んだときのことだ。

さう考へると、やはり最初に買ふときに適正な数の毛糸を買つておく、といふのがいいのかもしれない。
うつかり不足分を買ひに行つて、誘惑に身を晒すよりはそれがよからう。

それにしてもモンティ・パイソンはいいな。
Hell's Grannies Hat を編む気をもりあげるためにしばしば見返してゐると、Ravelry ができたばかりのころを思ひ出す。
Ravelry にはモンティ・パイソンのコミュニティがあつて、あのころ「パイソンズで編めるのはテリー・ジョーンズ」とか、「どのスケッチで編んでゐる」とか、「スペイン宗教裁判のときはキャロル・クリーヴランド(お誕生日だつたとか? めでたい)がかぎ針編みをしてゐる」とか、もりあがつたんだよなあ。
編む人間は見るところが一緒なんだな。

Friday, 11 January 2019

世の中ボーッと生きてたい

落語には「この人、ついでに生きてるんぢやないか」といふ人物があちこちに登場する。
もしかしたらいま落語がブームといふのも、この「ついでに生きてるんぢやないか」と思はれるやうな人物をご見物が求めてゐるんぢやないか、といふ気がしないでもない。

NHKに「チコちやんに叱られる」といふ番組がある。
いきなり番組の題名からして日本語的に間違つてゐるが、そこは問はない。
この番組では、普段あたり前のこととして過ごしてゐることどもを「なぜさうなのか」と出演者たちに問ひ、正しい答へがわからないとチコちやんが「ボーッと生きてんぢやねーよ!」とキレることになつてゐる。

ボーッと生きてゐたいんだがなあ、こつちは。
世の中ついでに生きてたいんだよ。
なんでよく知りもしない相手から「ボーッと生きてんぢやねーよ!」などとキレられなければならないのか。

といふ話をしたら、あれは出演者に対してキレてゐるのであつて、ご見物は自分のこととは思はないのではないか、といふ意見を頂戴した。
なるほど、視聴者はチコちやんの側に立つて見てゐるのか。
つまり、キレる側にゐるわけだ。
高みの見物といふわけね。

当今「ボーッと生きてゐる」と非難されてしまふわけだ。
ボーッと生きてゐたいのに。

さういや落語でも昨今は与太郎の演出にいろいろあつて、「この与太さんは単に空気を読まないだけで、さういふ国(オランダとかさ)に行つて生活したら普通に暮らせるんぢやないか」といふやうな与太さんとか、噺の中でだんだんヨタではなくなつていく与太さんとかがゐて、「ああ、今の世の中、与太さんでさへヨタのままでは生きていけないのだなあ」と思ふこともある。

落語の登場人物も世につれ変はつていくのは当然とは思ひつつ、与太さんにはヨタであつてほしいなあ。

Thursday, 10 January 2019

その日のうちに就寝

休みが明けてからも、「その日のうちに寝る」を毎日目標に掲げてゐるのだが、まだ守れた試しがない。
そもそもムリなのではないかといふ気もする。
ここでも何度か書いたとほり、夕食を削るくらゐのことをしないと、その日のうちには就寝できさうにない。

眠るのは嫌ひではない。
布団は気持ちがいいと思ふ。
朝、できることならこのまま布団から出たくないと、つねづね思ふ。

どうしてこの朝の気持ちが夜まで持続しないのだらう。
なぜ寝なければならない時間になると「もうちよつと起きてゐたい」と思ふのか。
夜になつたら「ちやつちやと布団に入らう」と思へればいいのに。

日中、したいことができてゐないのが問題なのかな、とも思ふ。
起きてゐる時間の大半は職場で過ごしてゐて、自由がきかない。
職場への行き来にかかる時間もバカにならない。
この時間を有意義に過ごさうと、本を読んだり音楽を聞いたりしてゐるが、それにはちよつと時間が足りない気がする。

突きつめていくと、「自分はなにがしたいのだらうか」といふところにたどりついてしまつて、二進も三進もいかなくなつてしまふ。

おそらく、これといつてしたいことはないのだ。
ないのだけれど、なにかしたい気がする。
それこそ、あみものだとかタティングだとか、したいことはたくさんある。
ぢやあそれをしたら満足できる?
「今日はたくさん編んだ」「今日はモチーフをたくさんつなげた」
それで眠る気になるだらうか。
実のところ、編み出すと、「もつと編みたい」「もつともつと」と思つてしまつて、それはそれで眠れない。

困つたものだ。

一応、帰宅後なにをして過ごしてゐるかといふ記録は取つてゐる。
それを見返してムダを省けばいい。

だが、夜家で過ごす時間くらゐ、ムダなことをしてもいいぢやあないか。
さうも思ふ。

かくして今夜もその日のうちには就寝できないのだらう。
吁嗟。

Wednesday, 09 January 2019

腹ふくれて もの捨てられず

「おぼしきこと云はぬは腹ふくるるわざなれば」とは徒然草にある一節だ。

さうなんだよなあ。
腹のふくれるやうな云ひたくても云へないこと、云ひたくても云ひだせないことつて、結局他人に見せるやうなものではないんだよなあ。

さうしたことどもは、ひとまづ手帳等に書き出して、それでおさめるやうにしてゐる。
破り捨てはしないけれど、いづれゴミとなるものだ。
さう考へると、なぜいま捨てない、といふ気にもなるけれど、捨てるのであればそれこそチラシの裏に書く。そして資源ゴミの日にでも捨ててしまふ。
とりあへず手帳に書き留めるのは、「あー、またおなじことで腹ふくれてるよ」などとあとで見返すためだ。

我が家はなにしろものを大事にしない家で、といはうか、不要なものはなんでも捨ててしまふ家で、わづかにやつがれがなぜかさういふ性格ではないのだが、実はさういふ血も我が家には流れてゐて、たまたま自分だけがその血を受け継いでしまつたのらしい。
どうして自分だけ、と思ふが、生まれついてのものだから仕方がない。

さうしておなじ血を受け継いだはずなのにバンバン不要なものを捨てられる家族を見てゐると、「この人たちには、「おぼしきことを云はずに腹ふくるる」気持ちなんてわかんないんだらうな」といふ気がしてくる。
不要なものを迷ひなく捨てられることとおぼしきことはなんでも云つてしまふこととが連携してゐるとは限らない。
でも、なんとなく、ものに執着しない方が、すつきり生きてゐるやうに見えるんだよなあ。
うらやましい。

自分がものに執着するのは、薄情の裏返しだから、これまた仕方がないといへば仕方がない。
とりあへずお気に入りの万年筆にまかせてお気に入りの手帳におぼしきことを書き散らすことは、世の中にこんなに楽しいことがあるだらうかと思ふくらゐ楽しいんだから、悩むことはないな、とも思ふ。

Tuesday, 08 January 2019

中途半端

極細毛糸のタティングレースのスカーフは、一週間にモチーフ二枚つなげたらいいところかなといつた感じだ。
何枚つないだら求める長さになるかもわかつてゐない。
毛糸だし、途中でやめたらなににもならないと思つてはゐる。
綿のレース糸で作つてゐたら、ドイリーとかランナーとかになるんだけどなあ。
毛糸は、フェルト化したらなにかに使へるかな。

あみものの方で Hell's Grannies Hat を編んでゐて、帽子の飾りがほしいので、タティングレースでもなにか作るつもりでゐるのだが。
スカーフはちよつと脇において、エジングでも作らうかなあ。気分転換にいいかもしれない。

モンティ・パイソンを見ると、Hell's Grannies の帽子には色とりどりの花が飾られてゐて、結構華やかだ。
最初はスイートピーめいた色のバラのモチーフをかぎ針編みで作るつもりでゐたけれど、生憎と「これ!」といふ糸が見つからない。
花は綿の糸で編むといふ手もあるか。

タティングでは立体的なモチーフを作るつもりはない。
リボン代はりのエジングとか、ちよつとした平面のモチーフを作るつもりでゐる。

かうして考へてゐるときはとても楽しいんだけれどもねえ。
帽子の方もなかなか編み進まない。毛糸も買ひ足す必要があるし、はかどらないな。

なにもかも中途半端だからいけないのだらうか。
やはりタティングでは極細毛糸のスカーフに注力する方がいいかな。

Monday, 07 January 2019

Hell's Grannie Hat はじめました

仕事納めの日、帰りに毛糸を買つてきて Pepperpot Hat を編み始めた。

Hell's Grannies Hat in Progress

Pepperpot Hatと呼び習はしてゐるが、実は Hell's Grannies Hat の方がより焦点が絞れてゐるかもしれない。
この休みにモンティ・パイソンを見直してゐたら、Hell's Grannies がかぶつてゐる帽子がほぼおなじやうな形の帽子だからだ。

Pepperpot といふともうちよつと範囲が広くて、帽子もさまざまだし、なかにはスカーフで紙を覆つてゐる人もゐる。
そんなわけで、Hell's Grannies Hat に名前を変へやうかと思つてゐる。

Hell's Grannies、いいよね。
年取つたらああなりたい、かもしれない。
映画「アンド・ナウ」には出てこないが、オリジナルのTVシリーズの方には「うちのバアちやん、一日に二十玉の毛糸をかぎ針で編むんだよ(をかしいよ)」つてなセリフが出てきたりするし。

毛糸はパピーのクイーン・アニーの黒、針は6/0号で編んでいる。
帽子は輪にして六目で編み始めて増やしてゐる。
頭頂部は毎段増やして一周百三十二目まで。
そのあとは百三十二目のまま四十一段まで編んだ。

やうすを見ながら編んでゐるのでなかなか進まない。
また黒い糸といふのが編みづらい。
クイーン・アニーくらゐの太さなのでなんとかなつてゐるが、細かつたらどうにもならないな。

毛糸は二玉買つてきたが、どうやら足りない模様だ。早々に買ひ足しにいかねばならぬだらう。
買ひ足しに行く算段がたたないが、そのあひだに帽子の飾りでも編みはじめるかな。
Hell's Grannies Hat には花の飾りがつきものだからね。

Friday, 04 January 2019

LEUCHTTRUM で Bullet Journal

一月一日からLEUCHTTRUMのA5サイズで Bullet Journal をはじめてみた。

それまでは二年半ほどバイブルサイズのシステム手帳を Bullet Journal として使つてゐた。
システム手帳の前には新書サイズのノートを使つてゐて、これが Bullet Journal のはじめだつた。

Bullet Journal がいいなと思つたのは、一冊ですべて完結するところだ。
新書サイズのノートではじめたときにさう思つた。
このノートを一冊持つてゐれば、予定表もメモもなにもかも書き込み確認することができる。
ちよつとした万能感だつた。

Bullet Journal 公式は綴じノートを推奨してゐたが、システム手帳でもいけるのではないかと思ひ、新書サイズのノートを使ひ終へたときにシステム手帳に切り替へた。
システム手帳にした理由は、綴じノートの場合ノートの終はりと月の変はり目がうまいことあはないと新しいノートへの移行が手間だから、だ。
あと五日で今月も終はるといふときに綴じノートが終はつてしまつて次のノートにうつる場合、その月のMonthly Logはどうするのか、とかね。
五日分だけ書き写す?

また、Collection Logsを一年単位でまとめる場合もシステム手帳は便利だ。
Collection Logsはシステム手帳の一番前や一番後にまとめておいて、必要に応じてリフィルを足し、一年の終はりにINDEXに書き込めばいいからだ。

かくして便利にシステム手帳を使つてゐて、また綴じノートに戻つてきたのは、「ここら辺で一度基本に戻つてみやうか」と思つたからだ。
公式が綴じノートを推奨するにはなにか理由があるはずだ。
A5サイズにしたのは、ポケットサイズでは小さすぎると思つたからだ。

使ひはじめて四日、正直云ふと、A5サイズはチト大きすぎる。
机の上に広げると場所をとるし、かばんに入れるにもかばんを選ぶ。
買ふときにいま使つてゐるかばんに入ることを確認したつもりだつたが、ちよつと無理なかばんもある。

手帳といふのは常に持ちあるけて常に書き込め、常に確認できることに意味がある。
Smythson の Panama のスケジュール帳を使つてゐたときにつくづくさう思つた。
実をいふとバイブルサイズのシステム手帳もいつも持ち歩いてゐるわけではなかつた。
微妙にかさばるからだ。
それで綴じ手帳にしてみたのだけれども、これは誤算だつたな。

LEUCHTTRUMにはA5より一回り小さいサイズもあるといふのだが、店頭で見かけたことがない。
そちらの方が自分にはあつてゐるんぢやないかなあ。

とりあへず、この一冊は使ひ切る所存だが、次のノートをどうするかその間に考へてみるつもりだ。

Thursday, 03 January 2019

PHSとわたくし

主に使つてゐる通信用携帯端末はiPhoneだが、通話に使用してゐるのはPHSだ。
Y!mobileのストラップフォン、通称フリスクフォンである。
「フリスク」フォンと呼ばれる所以は、端末の大きさがフリスクの箱とほぼおなじだからだ。

なぜPHSなのか。
人に話すときは、東日本大震災での体験を語ることにしてゐる。
あのとき、docomoもauもSoftbankもつながらなかつたけれど、PHSだけは通じた。
さう話すと納得してもらへる。

でも、ほんたうの理由は違ふ。
フリスクフォンが好きだから。
それにつきる。

手のひらに収まるサイズ、ゆゑになくしてしまひさうな不安、機能は通話と電子メールのみといふ潔さ、なによりずつと使つてきた電話番号であるといふこと。

はじめての携帯端末は、テガッキーだつた。
かつてこのblogにも書いてゐる。
使用中断もあつたし最後は充電できなくなつてしまつたが、サービス終了まで使ひつづけた。

テガッキーのなにがいいといつて、通話のできないところだ。
テガッキーとはその名の通り、手で書いた文字や絵がそのまま電子メールで送れる端末だつた。
スタイラスがついてゐて、画面に描いたものがそのまま絵になつた。
フリスクフォンよりは大きいけれど、それでも手のひらサイズだ。
実際は手書き文字や絵を送るよりは普通に文章を打つてメールを送受信してゐた。
メールの時間指定送信サービスもあつて、便利だつた。
さういへば着信音に横浜ベイスターズ(当時)の選手の応援歌とか入れてて、うつかり職場でマナーモードにするのを忘れてしまつていろいろバレてしまつたのも懐かしい思ひ出だ。
あのころは携帯電話にしても自分で着信音を入力することができたんだよね。

その後、新たな客先で勤務することになるにあたり、Air"Hにきりかへた。
通話もできるやうになつたけれど、通話機能はほとんど使つてゐなかつたと思ふ。
独自のWebブラウザがついてゐて、休み時間に囲碁や将棋のタイトル戦の盤面を見たりしたものだつた。
依田紀基と張栩との対局で、まるで作り碁のやうな終局図を見たのがこのころだ。
それも、二局、三局とさういふことがあつたと記憶してゐる。
世の中にはこんなにうつくしい終局図もあるのだなあ。
Air"Hのことを考へるとき、思ひ出すのはそのことだ。
この端末は契約終了後も長いこと目覚まし時計として使つてゐた。
なぜか「東京行進曲」がアラームになつてゐて、毎朝ダンサーの涙雨とともに目覚めたものだつた。

Air"HのあとはW-ZERO3だ。
QWERTY配列のキーボード付きのいまでいふスマートフォンのやうな端末だつた。
このころ、それまでより写真を撮るやうになつたやうに記憶してゐる。
キーボードは親指のみで打つてゐた。
それでも結構打ててゐたやうに思ふ。
ただ筐体がたはむやうな感覚があるのがちよつと不安だつた。

W-ZERO3[es]に機種交換して、通話はしやすい形になつたけれど、文字はちよつと打ちにくくなつたなーと思つてゐた。
この先どうしやうと思つてゐるときにストラップフォンが発表されて、でも電子メールが使へないのは困るなあと思つてゐたら、電子メール機能を追加したストラップフォンIIが発売されて、一も二もなくとびついて現在に至る。

PHSのサービスは2020年で終はるといふ。
でも、「これ!」といふ端末がない。
結局Y!mobileでiPhoneといふことになるのかなあ。
それもなんだか味気ない。
それに、なにかあつたときの連絡用として機能するのだらうか、といふ心配もある。

「これ!」といふ端末さへあればこんなに悩むこともないのだけれどねえ。

Wednesday, 02 January 2019

作品第一主義

今年はなにかを鑑賞する際、作品のみに限つて感想を述べることにしたい。
作品とは芝居や書籍、映画や落語、音楽、絵画などを考へてゐる。

鑑賞の仕方にもいろいろある。
たとへば作品作成の裏側を知る、とか。
作者・演者の背景、生ひ立ちなどを考慮に入れる、とか。

さういふこともできるけれど、まづは作品を丹念に鑑賞して、そこから得られる情報のみから語る。
そこが基本だと思ふし、そこをおろそかにしてはならない。

基本的にやつがれは基本がなつてゐない。
きちんと習得したものがないからだ。
いまかうして打つてゐるキーボード入力だとて基本がなつてゐない。
あみものもタティングレースも「基礎つてなんだらう」状態だ。
もうやめてしまつて久しいけれど、ピアノもその他の楽器もすべてさうだ。

この年になつて基本だの基礎だの、なにを云つてゐるのか、と、我ながら思ふ。

でも、作品についてのみ語れば、それを知つてゐる人とは話ができる。
作品の背景だとか作者・演者の生ひ立ちだとかは知らなければ話にならない。

無論、作成秘話だとか作者・演者の人柄だとかを知つてゐた方がおもしろく鑑賞できるといふことはあるとは思ふ。
でもそれは基本を抑へてからでも遅くない。

余分な情報を排除して、とにかく作品と対峙する。
今年はさうしてゆきたい。

もう知つてゐるものについては仕方がないけどね。

Tuesday, 01 January 2019

糸の運命

年末にDMC コルドネ・スペシャル40番のecruを買つてしまつた。

Pepperpot Hat につける飾りをタティングレースで作るつもりで買つたのだが、どう考へても我が家には飾りを作るに十分な、否、十分過ぎるほどレース糸がある。
もうこれ以上は必要ない。
しかし買つてしまつた。
これには理由がある。

先月、HandyHands からメールが来た。
その中に、「今後DMCはコルドネ・スペシャルやスペシャル・ダンテルを作らないことにする」といふやうなことが書かれてゐた。
え、マヂ?
コルドネ・スペシャルやスペシャル・ダンテルが廃番?

と思つてゐたら、続報があつて、廃番にはしないしDMCはこれからも作り続けるけれども米国には輸出しない、といふ話だつたのらしい。
これで一安心、と思つたら間違ひだ。
日本への輸出についてはまつたく言及されてゐないからだ。
どうしやうもなくなつたら本国に行く、といふ手もないわけぢやないが、どうなんですかね、フランス。落ち着くのかな、政情。
フランスぢやなくてもいいのか。フランスからDMCの糸を輸入してゐる国に行けばいい。
或はネット通販で取り扱つてゐる店から買ふか。

そんなにDMCの糸がいいのか。
いい。
とくに80番くらゐになるとスペシャル・ダンテルを超える結びやすさの糸はちよつとないと思ふ。
レース編みをはじめたばかりのころ、国産のレース糸は褪色するけれどもDMCの糸はしないといふ話を聞いたこともあるな。
これについては後に「褪色上等」と思ふやうになつたのであまり重視はしてゐない。
重視はしてゐないけれど、DMCの糸を使ふメリットであることは間違ひない。

廃番になると、入手しても使へないんだよね。
だつて手持ちのこの糸がなくなつたらもう手に入らないんだもの。
畢竟使へなくなつてしまふ。

だが、使はない糸といふのはなんなのか。
糸として生まれてきて、使はれることなく、ひよつとするとゴミとなつてしまふかもしれない。
そんなのは可哀想に過ぎる。
だつたら使つて、とも思ふのだが、ドイリーやなにかにしてもやはりゴミとなつてしまふかもしれない運命は変はらない。

糸に生まれてきた己の不幸を呪ふがいい。
さうとしかいへない。
だつたら我が家においで。
仲間はたくさんゐる。
廃番になつてなどゐないけれども使へてゐない糸もたくさんある。

……などといつてゐてはいけないのだつた。
今年も例年とおなじく「手持ちの糸を使ふ」ことを心がけていくつもりなのだもの。
なかなか実現できてゐないがなー。

12月の読書メーター

12月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:1325
ナイス数:10

悪徳の栄え〈下〉 (河出文庫)悪徳の栄え〈下〉 (河出文庫)感想
世の中にはそんなにうつくしい人々がごろごろいるものなのだろうか。こういう趣味を持っていると集まって来るのかはたまた富と権力にものを云わせるのか。だってジュリエットだって相当うつくしいわけでしょう? そう考えると一切は「夢だ夢だ」ということなのかもしれない。
読了日:12月05日 著者:マルキ・ド サド,マルキ・ド・サド
元祖水玉本舗その2元祖水玉本舗その2感想
記憶の薄れているものもないわけじゃないが、ほぼ全部覚えている。そんなにゲームに親しんだわけじゃないから知らないゲームばかりなんだけど、雑誌で知識を補いつつこの連載を読んでいたんだろう。「年を取ってもワンフェスとかに行ってそうな気がする」という旨のことを書いていて、いま読むとなんとも云えない気分だ。
読了日:12月09日 著者:水玉螢之丞
Reading the OED: One Man, One Year, 21,730 PagesReading the OED: One Man, One Year, 21,730 Pages感想
どんな情熱がこんなことをさせたのかと思いながら読んでみたが、さほど情熱を感じることはなく、そういや情熱(passion)は受け身(passive)と同義語だったな、などと思う。なにかをやりとげようと思ったら情熱よりもなにか自発的なものが必要なのかもしれない。
読了日:12月22日 著者:Ammon Shea
理系のための「実戦英語力」習得法 最速でネイティブの感覚が身につく (ブルーバックス)理系のための「実戦英語力」習得法 最速でネイティブの感覚が身につく (ブルーバックス)感想
ここに書かれているような英語力が必要な人ってどれくらいいるんだろう。自分は理系ではないし、考えてみたら英語ができなくても全然困らない生活を送っている。この本にも書いてあるけれど、ほんとうに必要にならないと身につかないし、ほんとうに必要になったら身につくのだろう。でもとりあえず英英辞典を引っ張り出してくるつもり。
読了日:12月26日 著者:志村 史夫
オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題: 「あなたは自分を利口だと思いますか?」 (河出文庫)オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題: 「あなたは自分を利口だと思いますか?」 (河出文庫)感想
「巧言令色鮮なし仁」は通用しない。口から出まかせも無理のようだ。脳内に取り入れた知識を如何に関連付けられるか、それも速く確実に、という感じなのかなあ。こういうのって幼い頃から訓練しないと無理じゃない? 親や家庭に負うところが大きくない? だから解説にも「公立学校に通う生徒のことも考えて」なんて書いてあるのかな。
読了日:12月31日 著者:ジョン ファーンドン

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