半分死んだ人 Wanna-be
山本夏彦はみづからの著書に「半分死んだ人」といふ題名をつけやうとして編集者から反対されたといふ。
その題名では関西では売れないだらう、といふのだ。
それで上方の人といふのは「死」を厭ふのだなあと知つた。
「死んでいるかしら」といふエッセイを書いたのは柴田元幸。
あの先生、自分が死んでゐることに気づいてないんぢやないの、みたやうな内容だつたと思ふ。
それはまた別のエッセイだつたか知らん。
かういふ「半分死んだ人」とか「死んでゐるかしら」といふやうな、あまり生き生きしたところのないやうな人(といつたら失礼だらうか)を好きになる傾向がある。
なんとなく影の薄い人。
生気に乏しい人。
声もあまり大きくはなく、ぼそぼそ喋る感じで、身振り手振りも小さい人。
もつといふと、仙人のやうな人。
さういふ人を好きになりがちだ。
いつからだらうと考へて、昔からさうなのかもしれないとも思ふ。
多分、アニメやドラマを見てゐて主人公を好きにならないのもさういふところなんだらうな、といふ気もする。
半分死んだやうな人は主人公にはならないからだ。
半分死んだ人のどこがいいのかといふと、生気に乏しい感じ、だらうなあ、やつぱり。
おしつけがましい感じが少ないし、がつがつしたところも見受けられないし(実際のところはがつがつしてゐるのかもしれないけれど)、さういふところが好ましいのだらう。
欲があまり感じられないところもいいのかもしれない。
もちろんその実欲まみれだつたりはするのかもしれないけれど。
自分自身が半分死んだ人のやうになりたいんだらうな。
欲薄く生気の乏しい感じの人間に。
残念ながら正反対の人間なのでよけいにあこがれが強いのだらう。
あこがれるより、さうならうとした方が建設的だよなあ。
いまさらだけど。
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