楽しく芝居見物
一昨日芝居見物納めをして、なんとなくではあるが、自分なりに芝居を楽しく見られるやうになつてきたかな、といふ気がしてゐる。
この年になつて、だ。
いままでなにをやつてゐたんだかね、ほんたうに。
自分の場合は、ある役者だけよくてもダメで、芝居全体のバランスがとれてゐて、なにもなにも適材適所であるのがよい芝居だ。
さういふ芝居はなかなかないので、畢竟「今日の芝居はいまひとつだなあ」といふことになりがちである。
そこで、また違ふ見方をする。
「伽羅先代萩」であれば、「竹の間」と「対決」、「金殿」と「刃傷」が対になつてゐる、だとか。
「本朝廿四孝」でいへば横蔵と慈悲蔵の物語と八重垣姫と濡衣の物語との対比であるとか。
あるいは鶴屋南北のなんでもかでも伏線(といふほどのものでもなかつたりはするが)を回収していくさまであるとか。
さういふところに注目して見ると、これが結構おもしろい。
多分、江戸時代の人はさういふ見方はしなかつたんではないかといふ気がしてゐる。
いつからか、歌舞伎を見る人は外国人の目で見るやうになつた、といふやうなことが云はれることがある。
なにか目新しいもの、なじみのないもの、縁遠いものとして歌舞伎を見るといふことだらう。
自分も明らかにさういふ目で歌舞伎を見てゐる。
一時はそれではいけないんぢやないかと思つてゐたけれど、なんかもう、楽しければそれでいいかなと思つてゐる。
江戸時代の人はさう見なかつたかしれないが、「竹の間」と「対決」、「金殿」と「刃傷」とが対になつてゐるのは芝居を見ればわかるし、南北の伏線回収もさう。
作る方はわかつて作つてゐたに決まつてゐる。
それを鑑賞するのだから、間違つてはゐないはずだ。
役者に着目しないと、勢ひかういふ分析的な見方になつてしまふ。
どうもかういふ見方は世間になじまないのらしい。
「分析的」と書いたけれど、自分ではさう思つてはゐない。
見たまま感じたままを語るとかうなるだけだ。
役者にこだはらないので、誰が出ても楽しめる、と云ひたいところだが、これがなぜかさうはいかないのだなあ。
そこらへんが「分析的」になりきれない所以だと思つてゐる。
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