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Wednesday, 12 December 2018

人は変態と呼ぶだらう

昨日呟いたことに「ブラームスの交響曲第四番第二楽章にあるクラリネットとオーボエとのかけあひが男女のよびかけあひにたとへられるのが納得できない」といふ旨のものがある。

クラリネットから呼びかけてオーボエが答へ、さらにクラリネットが声をかけてまたオーボエが応へる。
そんなフレーズだ。

これね、楽器から楽器への呼びかけでいいと思ふんですよ。
うつくしいぢやあないですか、楽器と楽器とのinteraction。
クラリネットもオーボエもドイツ語でいへば女性名詞で、そこに男の入る余地はない。
それでいいと思ふんだけどなあ。

といふことをずつと考へてゐるのだが、これを人に理解してもらへるやうに語る術をやつがれは持たない。
わかる人だけわかればいい。
結局さういふことになつてしまふ。

先日、「元祖水玉本舗その2」といふ本を読んでゐたら水玉螢之丞が

どーしてノンケ(オイ[汗マーク])の人つーのはみんな、人形が「人間」になりたがってるって思うかなあ、ナットクいかないなあ[汗マーク]
と書いてゐて、「そのとほりなんだよなあ」と思つた。

確かに、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーや飯田市川本喜八郎人形美術館に行つては、「ちよつとは動いてくれてもいいのよ」と思つたりはするよ。
するけれども、別に人間になつてほしいわけではない。
飯田の美術館は展示室の中が一定時間無人だと照明が消へるしかけがある。人形を保護するためだ。
かういふ時に展示室の中に入ると、中は真つ暗でしばらくして照明がつく。
一歩中に足を踏み入れる瞬間まで、人形たちはこそこそ話でもしてゐたのぢやあるまいか。
場合によつては宴の最中だつたりしたのかも。
さういふ錯覚にとらはれることがある。
ほかにもさう云つてゐた人がゐるので、どうやらやつがれだけのことではないらしい。

人形は生きてゐる。
でも人間になりたいなんぞとは思つてゐない。
もしかしたら思つてゐる人形もゐるかもしれないけれども。
そしてこちらも別に人間になつてほしいとは思はない。
なりたいのなら構はないけれども。

話がずれてきてしまつただらうか。

以前、使ひなれたフライパンがダメになつてゐるのになかなか捨てられない、といふ話を書いた。
それと似た話だと思つてゐる。
歯ブラシとかお箸にしてもさうなのだけれども、日々使つてゐて、とくに自分が世話になつたと思ふものといふのはなかなか捨てられない。
捨てられないといふよりは、捨てていいのか、といふ気持ちになつてしまふ。
だつてこんなにお世話になつたのに。
毎日汚い歯を磨いてくれて、毎日ご飯を食べさせてくれて、そんな相手を捨てられるだらうか。

まあ、捨ててるわけですけれども。

針供養などといふのもさういふところから生まれたものだと思つてゐる。
毎日毎日働いてくれて、あれもこれも縫つてくれて、ありがたう。
さういふ気持ちが供養するといふ行為につながる。

さう書きながら、やつがれほどものを大切に扱はない人間もまたゐないので、この矛盾はどうしたものだらうと思ふのだけれども。

楽器、とくに持ち運び可能な楽器を使つてゐると、不用意に楽器をなにかにぶつけてしまつたときに思はず「痛いっ」と口走つてしまふ。
多分、楽器を演奏する人は多かれ少なかれさうなのではないかと思ふ。
もしかしたら自分の周りだけのことなのか知らん。
楽器をぶつけたら壊れてゐないかどうかの心配しかしない、といふ向きの方が多いのかもしれない。

楽器といふのは日々練習するものであるし、自分の手足または口の延長にあたるものだと思ふ。
加へてやつがれの場合は「こんな下手くそにつきあつてくれてありがたう」とも思つてしまふ。
まあ、「なんでそんなに機嫌悪いんだよ」と思ふことの方が多いけどもさ。自分の腕を棚に上げて。

さう考へると、無生物にならなににでも愛着を抱くといふわけでもないんだな。
世話になつてゐると感謝を抱く一方で、うまく扱へない自分への苛立ちを転嫁する。
そんなものに対して愛着を抱いてしまふのかもしれない。
万年筆がさうだもんな。
万年筆はその日によつて、気温や湿度、気圧などの微妙な差で書き味が変はつてくる。
どんな紙に書くかにもよる。
こちらの体調や気分にもよるところもあるだらう。
気がつかないうちにインキが切れてゐることに苛立つこともある。気に入つて使つてゐても、だ。むしろ気に入つて使つてゐるペンに対する方が苛立ちは強いかもしれない。
そしてもうこれがなくては、と思つてゐるわりに大事にしない。
でも好きだし、日々使ひたいと思つてゐる。
矛盾は承知で、さうなのだつた。

ところで、昨今映画「ボヘミアン・ラプソディ」が興行成績を伸ばしてゐて、歌の方も20世紀の楽曲としては再生回数第一位になつたと聞いた。
歌の「ボヘミアン・ラプソディ」で好きなのは最後のピアノとギターとのかけあひで、ここが聞きたいがためにその前の5分30秒ばかりを聞くことになる。
ピアノがlamentとでも呼びたいやうなすきとほつた旋律を奏で、そこにギターが呼応する。
きつと、ギターは(ギタリストは、ではない)、目で合図を送つてゐるのだ。
#ギターの目がどこにあるのか、とか訊かないこと。
「うつくしい旋律。こちらも弾いていいですか」と。
ピアノは(同上)若干気を持たせる感じで、でも「いいですとも。喜んで」とやはり目で答へる。
二つの楽器は一緒に歌ひ、ピアノ、次にギターの泣きたくなるほどやはらかな音で最後の歌詞を迎へる。
そして銅鑼の音。
Perfect.

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