« November 2018 | Main | January 2019 »

Monday, 31 December 2018

2018年 あみもの模様

今年はあまり編めなかつた。
年の頭にベルント・ケストナーのミトンを三対、それとヨガソックス一足、ボスニアン・クロシェのショートスヌード一つ、指なしミトンを一対、それとLacy Baktus(マフラー)が一つ。
以上。

仕事納めの日に、やつと Pepperpot Hat を編むための毛糸を買つてきた。
せつせと編んでゐる、といひたいところだが、その後思はぬ外出の予定などできてこちらもあまり進んでゐない。
できあがつてもかぶることはないので、のんびりいくか、といつたところだ。

来年はとりあへず Pepperpot Hat のつづきを編む。
帽子部分ができたら飾りもあるしね。
あとは袖なし羽織を気負はずに編む。
そんなところかなあ。

最近は毛糸の価格も高くてなかなか購入に踏み切れない。
手元にいくらも毛糸はあるので、編むものに困ることはあるまい。
問題は編みたいものを編む毛糸がないことがある、といふことだな。
Pepperpot Hat がまさにそれだ。

この年末年始も早寝早起きの規則正しい生活を心がけつつ、ちよこちよこ編んで行く所存だ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 28 December 2018

楽しく芝居見物

一昨日芝居見物納めをして、なんとなくではあるが、自分なりに芝居を楽しく見られるやうになつてきたかな、といふ気がしてゐる。
この年になつて、だ。
いままでなにをやつてゐたんだかね、ほんたうに。

自分の場合は、ある役者だけよくてもダメで、芝居全体のバランスがとれてゐて、なにもなにも適材適所であるのがよい芝居だ。
さういふ芝居はなかなかないので、畢竟「今日の芝居はいまひとつだなあ」といふことになりがちである。

そこで、また違ふ見方をする。
「伽羅先代萩」であれば、「竹の間」と「対決」、「金殿」と「刃傷」が対になつてゐる、だとか。
「本朝廿四孝」でいへば横蔵と慈悲蔵の物語と八重垣姫と濡衣の物語との対比であるとか。
あるいは鶴屋南北のなんでもかでも伏線(といふほどのものでもなかつたりはするが)を回収していくさまであるとか。
さういふところに注目して見ると、これが結構おもしろい。

多分、江戸時代の人はさういふ見方はしなかつたんではないかといふ気がしてゐる。
いつからか、歌舞伎を見る人は外国人の目で見るやうになつた、といふやうなことが云はれることがある。
なにか目新しいもの、なじみのないもの、縁遠いものとして歌舞伎を見るといふことだらう。

自分も明らかにさういふ目で歌舞伎を見てゐる。
一時はそれではいけないんぢやないかと思つてゐたけれど、なんかもう、楽しければそれでいいかなと思つてゐる。

江戸時代の人はさう見なかつたかしれないが、「竹の間」と「対決」、「金殿」と「刃傷」とが対になつてゐるのは芝居を見ればわかるし、南北の伏線回収もさう。
作る方はわかつて作つてゐたに決まつてゐる。
それを鑑賞するのだから、間違つてはゐないはずだ。

役者に着目しないと、勢ひかういふ分析的な見方になつてしまふ。
どうもかういふ見方は世間になじまないのらしい。
「分析的」と書いたけれど、自分ではさう思つてはゐない。
見たまま感じたままを語るとかうなるだけだ。

役者にこだはらないので、誰が出ても楽しめる、と云ひたいところだが、これがなぜかさうはいかないのだなあ。
そこらへんが「分析的」になりきれない所以だと思つてゐる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, 27 December 2018

映画ボヘミアン・ラプソディ フレディが遅刻するときしないとき

映画「ボヘミアン・ラプソディ」で、フレディ・マーキュリーが時間通りに約束の場所にゐる場面が二つある。

一つは、バンドのメンバがそろつて一年後、バス停でほかの三人を待つてゐる場面。
字幕にフレディのセリフとして「遅いぞ」と出るので、三人が遅刻してきたことがわかる。

もう一つは、フレディがソロ活動を終へて、気まづく別れたバンドにまた戻りたい、といふ場面。
フレディは約束の場所であらうジム・"マイアミ"・ビーチのオフィスで三人が来るのを待つ。

この二つの場面の共通点は、バンド(QUEEN)自体の先行きが不明であることと大きな転機となるイヴェントが待つてゐるといふことだ。

メンバがそろつて一年後の場面では、ライヴなどのチケットは売れてゐるといふやうなセリフがあるから、それなりにうまくいつてゐるのだらうが、この先どうしていかうかといふ点になるとよくわからない。
ライヴに向かはうとする車が突然 middle of nowhere で故障してしまふことがその時点でのバンドの状態を暗示してゐるやうに思はれる。

そこで、フレディは提案する。
車(ジョン・ディーコンのものだが)を売つて、得た金でレコードを作らう、と。
ジョンは車を手放し、バンドはライヴやギグをひとまづ停止して、アルバム作りにいそしむ。
それがやがてEMIとの契約につながることになる。

フレディがQUEENに戻りたいといふ場面では、今後QUEENが存続していくのかどうか定かではない。
フレディ抜きでつづいていく可能性もあるが、このまま解散といふ流れも自然な気がする状態だ。
でも結局フレディは戻ることになり、バンドは各人のクレジットを廃してQUEEN名義にすることにし、LIVE AIDに参加することを決める。

フレディが遅刻してこない場面は、かうして対になつてゐる。
バンドとしての今後の行方を決め、それが大きな転機になる、といふ点で。

それぢやあ遅れてくる方はどうなのか。
映画の中でフレディが遅れてくる場面は四つある。
ジョン・リードとのはじめての会合の場面。
レイ・フォスターのオフィスを訪問する場面。
なかなか姿を現さないフレディにイライラしたブライアン・メイがフレディを待たずにみづからのアイディアを実現しやうとするスタジオでの場面。
新しいことをはじめやうとするジョンと「それつてディスコだらう」と反対するロジャー・テイラーとのスタジオでの場面。

いづれの場面も、後にQUEENとして特筆すべきヒット曲が登場/誕生する場面につながる。

ジョン・リードとの会合のあとは、TVで「Killer Queen」を披露する場面につながる。
レイ・フォスターを訪問したあとは「ボヘミアン・ラプソディ/オペラ座の夜」を作成する。
ブライアンのアイディアは「We Will Rock You」になる。
ジョンの曲「Another One Bites the Dust」は全米一位に輝くことになる。

後につづく内容は共通するものの、ではもとの場面の共通点はなんだらうとずつと考へてゐる。

「We Will Rock You」のころも若干あやしいが、「Another One Bites the Dust」のころになるとフレディのやうすはだいぶあやしい。
バンドとしての結束もしかりだ。
でも、遅刻して来ることができる、といふことは、フレディの中にまだ「ここ(QUEEN)は大丈夫だ」といふ意識があるのではないか、といふ気がする。
バンドとしての体をなしてゐる、まだ自分の居場所として機能してゐる、といふことのやうに思はれる。

それはほかのメンバもおなじで、ゆゑに新曲、それも「QUEENといつたらこの歌」といはれるやうな曲の誕生につながるのだらう。

フレディが遅刻してくる場面も、かうして共通点を持つてゐる。
さう考へると、映画を見る目がまた変はつてきて、「ま一度見たい」といふことになつてしまふのだつた。

沼とはよく云つたものだなあ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 26 December 2018

2018 今年買つた万年筆 helico の sucre

今年は、kakuno ばかり四本買つた。
ナガサワ文具センターオリジナルのkakunoを極細と細字と一本づつ。
東急ハンズオリジナルのkakunoの紫とペパーミントグリーンを一本づつ。

それとパイロットのペン習字用万年筆の透明軸の青とピンクを一本づつ。

計六本で終はるはずだつたのだが、さうは問屋がおろさなかつた。

といふわけで、今年買つた万年筆、helicoのsucreである。

helico sucre

ラムレーズンといふものを求めた。
インキは手元にあつたファーバー・カステルのヴァイオレットブルーを入れて使つてゐる。

一目惚れのペンだつた。
アクリル樹脂を削りだして作られた軸のうつくしさに惚れ惚れする。
もつと透けた印象の軸もあつてそちらにも心を引かれたのだが、なんとなくこの軸を選んだ。

ペンは判子くらゐのサイズで、書くときはキャップを尻軸にさして使ふ。このときにキャップをねぢり入れる。ここがちよつと手間だが、慣れればどうといふことはない。

キャップをさして使へば長さにも不足はないし、適度な太さがあつて握りやすい。
最初、インキとの相性があはないかとも思つたが、現在はすらすらと書けてゐる。

なにを云つても、見てゐるだけで幸せな気分になるペンだ。

キャップを閉じて手のひらにのせたときの感触もいい。

可愛いつて正義だよなあ。

helico sucre

helicoではオーダーを受け付けてゐたけれど、最近では大変な人気なのでそれもままならないらしい。
ペンに関するイヴェントに参加してゐることもあるので行つてみたいがなかなか日程があはなくてなー。

いまはラムレーズン一本で大変満足してゐるけれど、消費税の上がる前にかけこみでもう一本くらゐ増えてゐるかもしれない。
でも人気があるから入手困難かもなぁ。

helico sucre

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Tuesday, 25 December 2018

2018年のタティング状況

今年はタティングレースではドイリーを作つた。

ドイリー一枚でなにを大層な、といふ向きもあるかもしれないが、もう長いことドイリーを作つたことがない。個人的にちよつとした快挙だ。

今回作つたのは、藤戸禎子デザインのドイリーだ。
復刊された本に掲載されてゐるものである。
長いこと、このタイプのドイリーやモチーフは作れないと思つてゐた。
このタイプといふのは、ブリッジのみで花びらを作るモチーフのことだ。
一段目は六スティッチ、二段目は八スティッチなどとスティッチの数を増やしながらばらの花に見立てた花びらを作つていく。
はじめておなじやうなモチーフを作つたときに、このブリッジがうまく作れなくてなー。
どうも段と段とのあひだが空きすぎてしまつたり、反対につまりすぎてしまつたり、有り体にいつてうつくしくないものができてしまつた。

自分にはかういふモチーフは作れないのだと思ひ込んで幾星霜。
今年、なんの気なしに作りはじめてみたらこはいかに。
そんなにものすごくきれいといふわけではないけれど、作れてるぢやん?
もしかしたらこのドイリーを作ることができるのでは。
といふので、ドイリーを完成できたのだつた。

タティングをはじめてもうずいぶんたつが、それでもいまだにかういふことつてあるんだな。
「これは無理だ」とあきらめてゐたことでも、やつてみるとできることもあるのかもしれない。

ほかにもモチーフをたくさん作つた。
一時、タティング熱に浮かされてゐたんだな。
いまはひたすら極細毛糸でスカーフを作つてゐる最中だ。
来年もそんな感じだらう。
来年は、Pepperpot帽子につけるエジングも作りたいと思つてゐる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Monday, 24 December 2018

流行り廃り

あみものにも流行り廃りといふものがある。
ファッション業界にあはせてといふこともあるし、単にあみものが世間にひろまつてゐるやうに感じることとその人気が衰退してしまつたやうすとを感じることもある。

世間にひろまつてゐるなあと思ふのは、本屋の店頭にあみものの本がふんだんにある状態のときだ。
かぎ針編み・棒針編み・両方、こもの・着るもの・あみぐるみ。
初心者向けに基礎的な技法を説明した本や「三日でかんたん」といつた惹句の躍る本も出回る。
マニアックな本は、ブームのあとにくる。
あとでなくてもブーム終盤。
リヴァーシブルアフガンのやうなpatentに守られてゐたやうな編み方が別の名前を得て本になつて並ぶ。
何年か前なら「英語で編まう」といふ本もマニアックな本に入るだらうか。

自分の中でも流行り廃りはある。
一時、メビウス編みばかりしてゐたことがある。
くつ下ばかり編んでゐた時期もあつた。
あのころ、Socknitterの存在を知り、自分もさうなりたいと思つた。

かぎ針編みをすればかぎ針編みばかりしてしまふこともあるし、棒針編みもしかり。
そして行き着く先は、やはりちよつとばかりマニアックな方向だ。
メビウス編みでいへば、輪の片方をせばめもう片方を広げた形で、そこにFan and Feather模様を配して分散減目と分散蔵目をうまいこともぐりこませた。
くつ下はそれほどマニアックな方向にはいかなかつた気がするが、いま見ると「もうこんなの絶対編まないよな」と思ふやうなものもある。

そして興味を失ふ。
興味を失ふといふのは妙かもしれないが、なにか別なものもを編んでもいいかな、といふ気持ちになる。

ほんたうに極めたいと思つたら、道はその先にありさうな気がする。
その先、マニアックなものの先だ。
だがどうしてもその関を超えられない。
それでいつまでもかうしてゐるのだらう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 21 December 2018

あの子にとつても好きだと云ひたい それにはワインをたらふく飲まなきや

冷静になつて考へてみると、Queenのことはそんなにものすごく好きといふわけではない。
#でもいまは冷静ぢやない。

最近は映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見て浮かれてゐるけれど、もともと自分は「LPにしか入つてゐない歌でも歌へるものがある」程度にQueenが好きである。

これがどれくらゐなのかといふと、たとへば兄弟とおなじ部屋で暮らしてゐた場合、相手がQueenを熱烈に好きで日々LPなどを部屋で聞いてゐたとする。
自分はそんなに好きなわけぢやないけど毎日のやうにくり返し聞くから覚えてしまふ。
当然LPにしか入つてゐない歌も知つてるし歌へてしまつたりもする。

こんな感じだと思ふ。

この例と違ふ点があるとしたら、やつがれは自発的に聞いてゐた、といふところくらゐか。

Queenを知つた当時、とにかくミーハー的なものが好きではなかつた。
ワイドショーが好むやうなゴシップ、私生活のあれこれといつた話題は敬して遠ざけてきた。
したがつて、Queenについても、さうした情報はほとんど知らない。
周囲に話をする相手もゐなかつたしね。

いまはみづからもミーハーめいた言動をするし、ミーハーなものを厭ひはしない。
さう思つてゐたのだが、いま往時の「MUSIC LIFE」の記事を読んだりすると、「ああ、やつぱりかういふ取り上げ方は好きぢやないなあ」と思つてしまふ。
三つ子の魂百までもとはよく云つたものだ。

そんなわけで、Queenの誰が好きとかどんな逸話が好きとか、さういふ話はできないのだつた。
できるとしたら誰のどの曲が好きだとか好きな曲のどこが好きかといふ話くらゐなのだけれども、それもあんまり伝はるやうには話せない。
「ここのkrの発音が最高なんだよね」とかになつてしまふからだ。

「懐かしのラヴァーボーイ(Good Old-Fashioned Lover Boy)」でいふと「Set my alarm, turn all my charm」と無声音と口のやや奥で発音する音で畳みかけてきたあとに「That's because I'm good old-fashioned lover boy」と有声音(含む破裂音)と口の前の方で発音する音を混ぜてくるあたりとか、ちよつとないな、と思ふ。
実際に発音してみるとわかる、かなあ。
でもこの組み合はせが好きといふのは個人的な好みの問題だからわからないこともあるか。
発音してみていいなあと思つたら、「あとはフレディの声で鳴つたら云ふことなし」といふことになるわけで、結局歌を聴きに戻ることになる。

あ、ひとつあつたな、これなら伝はるんぢやないかといふ歌が。
「愛といふ名の欲望(Crazy Little Thing Called Love)」だ。
この歌の好きな点は三つ。
1. ちよつとエルヴィスのやうな歌ひ方
2. ご機嫌なベース
3. Clap and Chorus
以上、だ。
うーん、なんてわかりやすいんだらう。
いい歌だといふことだな。多分。

ところで今回の題名はThe Beatlesの「Her Majesty」からの引用だ。
なぜか「Her Majesty」を聞くと、Queenの「Killer Queen」を歌ひたくなつてしまふ。
おそらく、カセットテープにその順番に入つてゐたんだらうと思ふ。
偶然か、自分でさう編集したのか、はたまた「女王様特集」みたやうなラジオ番組でもあつたのか。
記憶がない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, 20 December 2018

半分死んだ人 Wanna-be

山本夏彦はみづからの著書に「半分死んだ人」といふ題名をつけやうとして編集者から反対されたといふ。
その題名では関西では売れないだらう、といふのだ。
それで上方の人といふのは「死」を厭ふのだなあと知つた。

「死んでいるかしら」といふエッセイを書いたのは柴田元幸。
あの先生、自分が死んでゐることに気づいてないんぢやないの、みたやうな内容だつたと思ふ。
それはまた別のエッセイだつたか知らん。

かういふ「半分死んだ人」とか「死んでゐるかしら」といふやうな、あまり生き生きしたところのないやうな人(といつたら失礼だらうか)を好きになる傾向がある。

なんとなく影の薄い人。
生気に乏しい人。
声もあまり大きくはなく、ぼそぼそ喋る感じで、身振り手振りも小さい人。
もつといふと、仙人のやうな人。
さういふ人を好きになりがちだ。

いつからだらうと考へて、昔からさうなのかもしれないとも思ふ。
多分、アニメやドラマを見てゐて主人公を好きにならないのもさういふところなんだらうな、といふ気もする。
半分死んだやうな人は主人公にはならないからだ。

半分死んだ人のどこがいいのかといふと、生気に乏しい感じ、だらうなあ、やつぱり。
おしつけがましい感じが少ないし、がつがつしたところも見受けられないし(実際のところはがつがつしてゐるのかもしれないけれど)、さういふところが好ましいのだらう。

欲があまり感じられないところもいいのかもしれない。
もちろんその実欲まみれだつたりはするのかもしれないけれど。

自分自身が半分死んだ人のやうになりたいんだらうな。
欲薄く生気の乏しい感じの人間に。
残念ながら正反対の人間なのでよけいにあこがれが強いのだらう。

あこがれるより、さうならうとした方が建設的だよなあ。
いまさらだけど。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 19 December 2018

本当に好きなことは伝はらないのか

好きなことといふのはなかなか伝はらない。
最近、さういふことが何度か続いた。

「なに云つてるの、好きなことを云はないぢやないの」
と云はれたら、はいそれまでよ、なわけだが、このときはちやんと表明してみた。
しかし、普段あまり自分の好きなことについて話をしない人間の「ちやんと表明」なのがいけなかつたのだらうか。
それとも、同好の士がほとんどゐないといふだけのことだつたのかもしれない。

職場で英会話講座のやうなものがあつて一時受けてゐたことがある。
このときに週末の予定を一対一で語る練習があつて、「アール・ヌーヴォ展に行かうと思つてゐる」と云つた。
すると、そのとき相手をしてくれてゐた人が「アール・ヌーヴォつて、なに?」的な質問をしてきて、そこでつかへてしまつた。

アール・ヌーヴォつてなんですか。
新しい芸術。
精々それくらゐしか思ひ浮かばない。

教師は「アール・ヌーヴォの説明をして会話をつづけるんですよ」と云ふのだが、ちよつと興味があるくらゐでよく知りもしないものを説明なんぞできないよ。

だが、ここで問題なのはそこで会話がとぎれることであつて、多分、テキトーなことを云つておけばよかつたのだ。
ミュシャの絵が見たいんですよ、だとか、「新しい芸術」つて意味なんですよね、なにが新しいのかよくわかりませんけど見に行つたらわかるかと思つて、とか、さういふやうなことを云つておけば会話はつづいたはずだ。

ここにも以前書いたことに、美容院で美容師さんに「待つてゐるあひだ、なにを読んでゐたんですか?」と訊かれたことがある。
このときは「韓非子」を読んでゐた。
だが「韓非子」を読んでゐるんです、とはいへなかつた。
その先の説明がめんどくさくなりさうだつたからだ。
で、なにかうやむやに済ませて、美容師さんのお勧めの作家の話などを聞いてそのときはなんとかなつた。

この、説明を避けたがる性格がいけない。
そんな気がする。
ミュシャならミュシャ、韓非子なら韓非子、と、ちやんと云つて、「これこれかういふところが好きなんですよねー」と云へばいいのだ。

なぜそれを避けてしまふのだらう。
めんどくさいから。
それもあるけれど、時々「はづかしいから」といふのもある。

なんではづかしいんですかね。
大和和紀の作品に「KILLA」といふまんががある。
このまんがでは「好きな者/物」といふのは聖域(サンクチュアリ)であり、敵に知られてはならない弱点となる、とある。
こども心にその教へが身についてしまつたのかもしれない。

敵つて誰だよ、といふ話はあるのだが。

といふわけでこの先はしばらく伝はりにくい好きなことの話でもしてみやうかと思つてゐる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Tuesday, 18 December 2018

進まない

タティングレースのスカーフも停滞気味だ。
知れず気分が落ち込んでゐるのかもしれん。

昨日も書いたペパーポット帽子の飾り用のリボンでも作つてみやうか知らん。
正確な長さは帽子本体ができて見ないとわからないけれど、気に入つたエジングを探してちよつと作つてみるといふのはいいかもしれない。
留める部分にちよつと大きめのモチーフを配することを考へて、エジング自体はシンプルなものがいいかもしれんなー。

と、かう考へてゐるときは楽しいわけだ。
しかし、なかなか着手できない。

着手できる人とできない人とで違ひが生じるわけだな。
結局、手仕事系のものは数をこなさないとうまくいかないものだからだ。
口だけで「かういふ小説を書きたい」「こんなマンガを描きたい」といふだけでは永遠に小説やマンガをものすることはできない。
着手して完成させたものだけが次に進めるのだ。

わかつちやゐるけどやめられない、と歌つたのは植木等だが。
わかつちやゐるけどやりだせない。
困つたものだ。

幸ひ、スカーフは職場で昼休みに作ることをもつぱらにしてゐるので、家ではエジングに挑戦してみるかな。
さうするとますます羽織が進まなくなるわけだが。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Monday, 17 December 2018

編み出せない

袖なし羽織はあまり進んでゐない。
編むと決めたペパーポット帽子は、まだ毛糸を購入できてゐない。
モンティ・パイソンを見直しては「ペパーポットのかぶつてゐる帽子にもいろいろあるよなー」と思つてしまつて、な。

パイソンズの演じる女性は外出時に帽子やスカーフで頭を覆つてゐることが多い。
当時はさういふものだつたのだらう。
QUEENの"I Want to Break Free"のプロモーションヴィデオにおけるジョン・ディーコンの扮装がペパーポットの出で立ちの一種にかなり近い。
全身黒づくめで黒い帽子のそんなに広くない淵にリボンだとか花だとかを飾つてゐるのがそれだ。

黒い帽子自体はパピーのクイーンアニーで編むことをだいぶ前に決めてゐて、ずつと飾り部分で悩んでゐる。
かぎ針編みでアイリッシュクロシェにあるやうな六弁の薔薇のモチーフと葉のモチーフとをつなぎあはせて作りたいと思つてゐるのだが、これに使ふ毛糸が思ひつかない。
花の色はスイートピーのやうなものを考へてゐて、それに合ふやうな色番を持つてゐる毛糸がわからないんだな。
店頭に探しに行けばいいのかもしれないけれども。
それとも象牙色のやうな毛糸一色で編まうか知らん。それもよささう。
それだつたら毛糸の選択に迷ふこともなささうだし。
でも編んでゐて飽きるんぢやあるまいか、といふ不安もある。

花と葉はあきらめて、タティングレースでリボン状のエヂングなど作らうか。
それもいいかもしれない。

飾りはいろいろ作るとして、とりあへず帽子部分だけでも編むか。
それには毛糸を入手しなければ。
そんな感じでなかなか進まない。
この状態がもう五年ばかりつづいてゐるので、まだしばらくは続くかもしれない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 14 December 2018

史実でもフィクションでも

旧暦の十二月十四日は赤穂浪士の討ち入りの日といふことになつてゐる。

歴史上のこととなると史実史実とたくさんさうに云ふ人がごまんとゐるが、なぜか赤穂浪士の討ち入りといはうか忠臣蔵には少ないやうな気がしてゐる。
自分の中でもお浄瑠璃や芝居、講談や浪曲で知つた話がなひまぜになつてゐて、もうなにがなにやらわからない状態だ。

そもそも、登場人物(といつてしまふとフィクションのやうだが)の名前からして史実とお浄瑠璃などとではことなつてゐる。
浅野内匠頭が塩冶判官、吉良上野介が高師直、大石内蔵助が大星由良之助といふあたりはいいが、ひとりひとりの義士となつてくると、どちらが本名でどちらがフィクションでの名前かよくわからなくなつてくるほどだ。

なぜか不破数右衛門だけは本名で出ることになつてゐるのでありがたい。

忠臣蔵レヴェルになつてくると、史実とおなじくらゐの圧力でフィクションでのお約束を知つてゐて当然、といふことになつてくる。
これもなかなか怖い。
お約束ごとがやたらと多いからだ。
お軽勘平は戸塚山中で道行。
赤垣源蔵とつくりの別れ。
大高源吾は橋の上。
「先生!」「おお、そば屋か!」は俵星玄蕃。
ほんとの話はこの中にはなささうだなあ。
ほんとの話ぢやないのに、戸塚にはお軽勘平道行の碑が立つてゐて、箱根駅伝の折りなどにたまに紹介されることがある。
ほんとの話ぢやないのに、両国には俵星玄蕃の道場はここにあつたといふ看板が立つてゐるといふ。

もうなにがなにやらわかりませんな。

この「なにがなにやらわからない」ところが昨今年の瀬になつても忠臣蔵ものがTVで放映されない所以なのかもしれない。
時代劇が衰退してゐるから、といふのはもちろんあるとして、ほかに理由があるとしたらこれかな、といふくらゐの話だ。
どうも最近は「なにがなにやらわからない」ことはダメなこと、なかつたことにされがちだからなあ。
なにがなにやらわからないからおもしろいこともあるといふのに。
忠臣蔵なんかさうだと思ふんだがなあ。
時代劇が衰退してゐて今の俳優女優では撮れないといふのなら、過去に作られた名作(迷作?)がいくらでもある。
さういふのを放映してくれたらいいのに。

去年は京都に行つたときに三船敏郎の「大忠臣蔵」を一話だけ見た。
おもしろいぢやんよ。
かういふドラマが見たいんだよねえ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, 13 December 2018

やはらかな音で脚韻

ポリスに「見つめていたい (Every Breath You Take)」といふ歌がある。
ちよつとストーカー的な内容だし、ポリスにはほかに好きな歌がいくつかある。
でもこの歌の脚韻の「eik」「ei」「eis」などのやはらかさにつひつひ聞いてしまつたりする。
最初は take, make, break, takeで、次が day, say, play, stay かな。
実にやはらかい、いい音なのだつた。

ベートーヴェンの「Ich Liebe Dich」なども、脚韻の「agen」「(b)eide」を如何にやさしくやはらかく歌ふかにかけてゐた時期があつた。
とくに最後の「erhalt uns beide」の「beide」は夢見るやうな天上の音を出せたら(出ません)と思つてゐた。

どうやらやつがれの耳は「ei」とか「ai」とかいつた音を「やはらかい」「やさしい」ととらへるのらしい。

ところでビートルズに「Yesterday」といふ歌がある。
かう書くまでもないくらゐ有名な歌だ。
この歌の脚韻は「ei」と「i」の長音との二つしかない。
この「ei」は全然やさしくない。
多分、長いこと「なんでビートルズといつたら「Yesterday」なんだよ」と不満だつたのは、この点に尽きる。

ヴォーカルのポール・マッカートニーの発音がさうなのだらうか。
そんなことはないと思ふ。
「For No One」といふ歌の「breaks」「aches」といふ脚韻のなんとやさしいことよ。
「When I'm 64」の「Valentine」と「wine」、「side」と「ride」も悪くない。うーん、でも「say」と「away」はそれほどでもないか。
さういふ発音をするタイプなのかもしれないな。

スティングのやはらかい「eik」だとか「ei」だとかを聞いてゐると、かういふ甘い発音にだまされてストーカーに追はれるやうになつてしまふのかもしれないなー、などと思つたりする。

なんぞといふことを、最近 ヘヴィー・ローテーション中の「Queen II」の「Some day One day」を聞きながら考へてゐる。
この歌の「ei」もいやといふほど甘つたるいよ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 12 December 2018

人は変態と呼ぶだらう

昨日呟いたことに「ブラームスの交響曲第四番第二楽章にあるクラリネットとオーボエとのかけあひが男女のよびかけあひにたとへられるのが納得できない」といふ旨のものがある。

クラリネットから呼びかけてオーボエが答へ、さらにクラリネットが声をかけてまたオーボエが応へる。
そんなフレーズだ。

これね、楽器から楽器への呼びかけでいいと思ふんですよ。
うつくしいぢやあないですか、楽器と楽器とのinteraction。
クラリネットもオーボエもドイツ語でいへば女性名詞で、そこに男の入る余地はない。
それでいいと思ふんだけどなあ。

といふことをずつと考へてゐるのだが、これを人に理解してもらへるやうに語る術をやつがれは持たない。
わかる人だけわかればいい。
結局さういふことになつてしまふ。

先日、「元祖水玉本舗その2」といふ本を読んでゐたら水玉螢之丞が

どーしてノンケ(オイ[汗マーク])の人つーのはみんな、人形が「人間」になりたがってるって思うかなあ、ナットクいかないなあ[汗マーク]
と書いてゐて、「そのとほりなんだよなあ」と思つた。

確かに、渋谷ヒカリエの川本喜八郎人形ギャラリーや飯田市川本喜八郎人形美術館に行つては、「ちよつとは動いてくれてもいいのよ」と思つたりはするよ。
するけれども、別に人間になつてほしいわけではない。
飯田の美術館は展示室の中が一定時間無人だと照明が消へるしかけがある。人形を保護するためだ。
かういふ時に展示室の中に入ると、中は真つ暗でしばらくして照明がつく。
一歩中に足を踏み入れる瞬間まで、人形たちはこそこそ話でもしてゐたのぢやあるまいか。
場合によつては宴の最中だつたりしたのかも。
さういふ錯覚にとらはれることがある。
ほかにもさう云つてゐた人がゐるので、どうやらやつがれだけのことではないらしい。

人形は生きてゐる。
でも人間になりたいなんぞとは思つてゐない。
もしかしたら思つてゐる人形もゐるかもしれないけれども。
そしてこちらも別に人間になつてほしいとは思はない。
なりたいのなら構はないけれども。

話がずれてきてしまつただらうか。

以前、使ひなれたフライパンがダメになつてゐるのになかなか捨てられない、といふ話を書いた。
それと似た話だと思つてゐる。
歯ブラシとかお箸にしてもさうなのだけれども、日々使つてゐて、とくに自分が世話になつたと思ふものといふのはなかなか捨てられない。
捨てられないといふよりは、捨てていいのか、といふ気持ちになつてしまふ。
だつてこんなにお世話になつたのに。
毎日汚い歯を磨いてくれて、毎日ご飯を食べさせてくれて、そんな相手を捨てられるだらうか。

まあ、捨ててるわけですけれども。

針供養などといふのもさういふところから生まれたものだと思つてゐる。
毎日毎日働いてくれて、あれもこれも縫つてくれて、ありがたう。
さういふ気持ちが供養するといふ行為につながる。

さう書きながら、やつがれほどものを大切に扱はない人間もまたゐないので、この矛盾はどうしたものだらうと思ふのだけれども。

楽器、とくに持ち運び可能な楽器を使つてゐると、不用意に楽器をなにかにぶつけてしまつたときに思はず「痛いっ」と口走つてしまふ。
多分、楽器を演奏する人は多かれ少なかれさうなのではないかと思ふ。
もしかしたら自分の周りだけのことなのか知らん。
楽器をぶつけたら壊れてゐないかどうかの心配しかしない、といふ向きの方が多いのかもしれない。

楽器といふのは日々練習するものであるし、自分の手足または口の延長にあたるものだと思ふ。
加へてやつがれの場合は「こんな下手くそにつきあつてくれてありがたう」とも思つてしまふ。
まあ、「なんでそんなに機嫌悪いんだよ」と思ふことの方が多いけどもさ。自分の腕を棚に上げて。

さう考へると、無生物にならなににでも愛着を抱くといふわけでもないんだな。
世話になつてゐると感謝を抱く一方で、うまく扱へない自分への苛立ちを転嫁する。
そんなものに対して愛着を抱いてしまふのかもしれない。
万年筆がさうだもんな。
万年筆はその日によつて、気温や湿度、気圧などの微妙な差で書き味が変はつてくる。
どんな紙に書くかにもよる。
こちらの体調や気分にもよるところもあるだらう。
気がつかないうちにインキが切れてゐることに苛立つこともある。気に入つて使つてゐても、だ。むしろ気に入つて使つてゐるペンに対する方が苛立ちは強いかもしれない。
そしてもうこれがなくては、と思つてゐるわりに大事にしない。
でも好きだし、日々使ひたいと思つてゐる。
矛盾は承知で、さうなのだつた。

ところで、昨今映画「ボヘミアン・ラプソディ」が興行成績を伸ばしてゐて、歌の方も20世紀の楽曲としては再生回数第一位になつたと聞いた。
歌の「ボヘミアン・ラプソディ」で好きなのは最後のピアノとギターとのかけあひで、ここが聞きたいがためにその前の5分30秒ばかりを聞くことになる。
ピアノがlamentとでも呼びたいやうなすきとほつた旋律を奏で、そこにギターが呼応する。
きつと、ギターは(ギタリストは、ではない)、目で合図を送つてゐるのだ。
#ギターの目がどこにあるのか、とか訊かないこと。
「うつくしい旋律。こちらも弾いていいですか」と。
ピアノは(同上)若干気を持たせる感じで、でも「いいですとも。喜んで」とやはり目で答へる。
二つの楽器は一緒に歌ひ、ピアノ、次にギターの泣きたくなるほどやはらかな音で最後の歌詞を迎へる。
そして銅鑼の音。
Perfect.

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Tuesday, 11 December 2018

極細毛糸でタティングは危険かもしれない

タティングレースのスカーフは細々つづけてゐる。
いまはこんな感じ。

Tatted Scarf in Progress

こんなバイアスでどう使ふの、と思ふが、なんとなくバイアスにしたかつたのだ。

盛本知子が「最近の極細毛糸はタティングに向かない。切れてしまふから」と語つてゐた、といふ話はここに幾度か書いたと思ふ。
そのときは、ベビー用の毛糸の話をしてゐるのだと思つた、とも書いた。
その時点でPuppy New 4Plyでタティングレースのスカーフを作つたことがあつたからだ。
藤戸禎子が出産祝ひのベビー用極細毛糸でタティングレースのショールを作成して受賞したことがあるのはつとに有名だ。
そのショールを前にしての発言だつたので、「ベビー用毛糸の極細ではさういふこともあるのかもしれない」と思つた。

といふのも、先日たうとう糸を切つてしまふといふ事態に直面したからだ。
毛のもけもけしたものが絡まつて、それで糸が太くなつてしまつて引けなくなり、切れてしまつた。
いままでももけもけが絡まつて糸が太くなつてしまふことはしばしばあつたのだが、それでもなんとか糸は引けてゐた。
今回は糸が太くなりすぎてしまつたんだなあ。
毛のもけもけは多少のことなら引けば細くなるのでいままでは引けてゐたのだつた。
限界を超えてしまつたことに気づかなかつたんだな。
反省。

やはり極細毛糸はタティングに用ゐると切れることもある。
作品によつてはより切れやすくなることもあらう。
いま作つてゐるモチーフについては、以前もおなじものでスカーフを作つてゐるので比較的切れにくいと思つてゐる。
毛のもけもけができづらいともいへやう。

あるいは各人の癖のやうなものによつても切れやすくなることもあるのかもしれない。
もしかすると自分のタティングの仕方はそんなに毛のもけもけができないタイプの流儀なのかも。
無手勝流ですけどね。

この先何ヶ月かはタティングについてはこれにかかりきりかなと思ふ。
そのうち暑くなつてどうにもならなくなつたりするのかもしれないが、そのときはそのときだな。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Monday, 10 December 2018

寒くならないとわからない

突然冷えてきた。

そんなわけで、編みかけの袖なし羽織を膝の上にのせてみる。
いままではあたたかく感じたのに、昨日はそれほどでもなかつた。
それでものせてゐるとゐないとでは大違ひで、一度のせるとおろせなくなる。
それですこしだけ編み進む。

実際に冬の気温になつてみないと、どれくらゐあたたかいのかとかわからないものなんだなあ。

五月ごろ、夏ものを出すときにもいつも思ふ。
大抵は連休のころに衣替へモドキをする。
このときに麻や麻混の糸でできたものを羽織ると、まだまだ涼しい。
ああ、麻つて、ほんとに涼しいんだな。
つくづくさう思ふ。
ところが実際に夏になつて羽織るとちやんと暑いんだな、これが。

世の中さうしたものなのだらうか。

それにしても、混紡でもあれだけ涼しい感じがするのだから、冬に麻なんぞを着ても、また重ね着しても、全然あたたかくならないんだらうなあ。
昔の人はどうしてゐたのだらうか。
平安時代末期はとても暖かい気候だつた、平清盛の熱病はマラリアだつたのぢやあるまいか、なんぞといふ話があるけれど、庶民は麻くらゐしか着るものがなかつたとしたらさうでないと暮らしていけなかつたんぢやないかといふ気がする。

もつとも、江戸時代には寒かつた時期もあるといふ話だからなんともいへないが。

それにしても重ね着をしたくらゐではまつたくあたたかくならない。
困つたものだ。
これつて、次第に寒くなつてきてゐたら気にならないくらゐの気温の低さなんだらうかなあ。
先日夏日があつて、急激に気温が下がつたからよけいに寒く感じるのぢやあるまいか。

などと、毛糸に囲まれながら考へることができるといふのはなんといふ贅沢なのだらう。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Friday, 07 December 2018

芝居見物 楽しかつたりさうでもなかつたり

まだふり返るにはすこし早いのだが、今年見た芝居の話を少々。

今年は一月歌舞伎座の高麗屋三代同時襲名披露興行にはじまつて、全部は見てゐないけれど毎月のやうに歌舞伎を見てはゐる。
文楽は東京の公演は九月の国立劇場をのぞいては見てゐると思ふ。
そのほかに劇団☆新感線の「髑髏城の七人」の下弦の月と修羅天魔、「メタルマクベス」のdisc 1〜3。
コクーン歌舞伎とNaruto。
それと東京芸術劇場の「贋作 桜の森の満開の下」といつたところか。

今年のはじめは、とにかく歌舞伎が全然おもしろいものに感じられなかつた。
お正月には去年十一月の定九郎がいまひとつで「ほんたうにこれで幸四郎になるのだらうか」と思つてゐた染五郎が、「車引」の袖からの声だけで「松王丸の声だ!」と思はせ、さらには「勧進帳」の弁慶で大きな成長ぶりを見せてくれたにも関はらず、だ。
そしてその「勧進帳」の富樫が吉右衛門であつたにも関はらず、だ。
さらには四月には愛してやまない鶴屋南北の「絵本合法衢」がかかつたにも関はらず、だ。

なんか、もう、歌舞伎、楽しくないのかも。

さう思つてゐたはずなのに、九月の歌舞伎座で「俊寛」を見て、なにかひどく心打たれたのだつた。
「俊寛」はもともとそんなに好きな芝居ではない。
泣けるといふことでいへば「平家物語」の俊寛の話の方がずつと泣ける。
さう思つてきたし、いまでもさう思つてゐる。
でも、あれはちよつとなにか特別だつたな。
芝居に使ふことばではないかもしれないが、「適材適所」といふ感じ。
これ以外ない配役、これ以外ない床、これ以外ない道具等々。

芝居は、たとへひとり芝居であつたとしても、芝居を構成するすべてのものがかつちりとかみあつたときに最高になるのであつて、ひとりだけとか主役陣だけよければなんとかなるものぢやあない。
好きな役者が出てゐればいいといふものではない。
#すくなくともやつがれにとつては、ね。
その後「メタルマクベス」のdisc1〜3を見てさらにその思ひを強くした。

あらためて考へると、九月の「俊寛」には前段があつた。
八月の歌昇・種之助の勉強会「双蝶会」の「関の扉」がそれである。
歌昇の黒主に児太郎の小町姫・桜の精が大変によくてねえ。
なにがいいのかと問はれるとよくわからないのだが、これまでこの会では背伸びしてゐるやうにしか見えなかつた(そしてそれが悪いわけではない)歌昇にどこか余裕が見え、児太郎の方はといふと品があつてはかなげでそれでゐて立女方の強さも見せてゐたやうに思ふ。
多分、この芝居が今年の転換点だつた。

以降は見る芝居見る芝居楽しく、十月は名古屋でこれ以上の江戸の若旦那はまづゐまいといふやうな梅玉の与三郎が見られたかと思つたら翌月は京都で極上の上方の若旦那、遊蕩に溺れた忠兵衛を仁左衛門で見られるといふ、「なに、これ、なんのご褒美?」的な日々を送つてゐる。
歌舞伎座では何年ぶりだらう、吉右衛門と時蔵とが一緒に芝居してたしね。
それも吉右衛門演じる白蓮が時蔵演じる十六夜を腕にして「悪かあねえなあ」だよ。
うわー、かういふのが見たかつたんだよ!

といふわけで、来年も芝居通ひはつづきさうな予感がする。

ところで、「もう歌舞伎見ないかも」と思つてゐた時期に一番楽しかつたのが、歌舞伎座三月の「於染久松色読販」だつた。
通常は「お染の七役」といつてお染を演じる役者の早変はりを見せる芝居だが、この月は土手のお六の強請場だけが出た。
それつてどうなのよ、と思つたが、これが案に相違の楽しさでなあ。
とにかく、出てくるもの出てくるもの、すべてムダになるものがない。
ちよつとした小道具でさへ、あとでちやんと芝居の筋にからんでくる。
すごいよ、南北先生、すごいよ。
いつもは、早変はりは一休みの幕といつた感じで見ていたから気づかなかつたけれど、こんなによくできた芝居だつたとは。

好きな役者はゐるけれど、それだけで見てるわけでもない。
むしろ、それ以外のところで芝居を見てゐるのかもしれない。
そんな気がした平成最後の戌年だつた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Thursday, 06 December 2018

メモ魔 Wanna-bee

メモ魔ではない。

まれに猛烈に「あれもこれも記録しておかなければ」といふ気持ちになつてあれやこれや書き付けるけれど、大抵の場合はなにごとにつけ「それは書き留めるには及ばないこと」「書かなくても大丈夫でせう」と思つてゐる。
ムラが激しい。

世の中にはメモ魔な人がゐて、うらやましいなあ、と思ふ。
始終メモ帳などを持ち歩いてなにかにつけ書きつけてゐる人とか。
最近だとスマートフォンに記録するのだらうか。たとへば音声入力とかで。
携帯電話やスマートフォンのおかげで写真や動画も撮りやすくなり、記録したい人にはますます記録しやすい状況になつてゐる。

メモをよく取る人の「書き付けなければ」といふ気持ちはどこからくるのだらう。
「しなければ」ぢやないのか。「書きたい」といふ動機か。

四年前、劇団☆新感線の「五右衛門vs轟天」といふ芝居を見て、「一演目一鑑賞」を掲げてゐるこのやつがれがはじめて三度も見に行くほど入れあげたことがあつた。
#二度見に行くことはときにある。

「見たことを忘れたくない!」とばかりに、覚えてゐることを片端からノートに書き付けはじめたのが、千秋楽から四日後のことだつたと思ふ。
当時、満寿屋のMONOKAKI B6を使つてゐて、残りが30ページくらゐあり、「これくらゐあれば余裕で書き終はるだらう」と思つて書き始めた。

終はらなかつた。

仕方がないのでおなじノートを買つてきて、続きを書いて、多分80ページくらゐ書いて終はつた。

斯様に書きたいときもある。

歌舞伎座ギャラリーの歌舞伎夜話なんかもさうかな。
聞いてきて、三、四日かけて覚えてゐることを全部書き出すときもある。
四日もたつとさすがにもう記憶が曖昧で、書くこともなくなつてくる。
それでだいたい一度にシステム手帳のバイブルサイズに10ページ前後かな、書くのは。

その場でメモを取ればいいとも思ふのだが、まあせつかく話を聞きにいくのに役者のやうすや表情を見ないのももつたいないと思つてしまふ。
今後歌舞伎夜話に行くことがあつたらその場でメモを取つてみるかなあ。

つねにかうならいいのだが、どうもさうはならない。
ずぼらなのだらう。
なまけものともいふ。

ほかに、「仕事のことを手帳に書くのは筆の汚れだ」と思つてゐたこともあるから、といふのもある。
お気に入りの手帳にお気に入りのペンで仕事のことを書くなんて、なんだか許せなかつたのだ。
それで勢ひ手帳に仕事のことを書かなくなる。
紙の手帳のことだけではない。
Apple Newton MessagePad を使つてゐたときもさうだ。
仕事の予定なんて入力するのはPDAの汚れ。
さう思つてゐた。
PDAについては、PalmPilotにはさうした気持ちを抱くことがなかつた。
PalmPilot自体がとても事務的なディヴァイスだつたからかもしれない。

いまも「仕事のことを書くのは筆の汚れ」と思つてゐる節があつて、せつかくの手帳に仕事のことを書き入れないこともある。
また最近では仕事のことを書いたノートなどは仕事が終はつた際に廃棄しろ、といふ話もあるので、とつておきたいノートには書かない方がいいといふこともある。

それにしても、なぜ自分はメモ魔にはなりたいのだらうか。
なんとなく、片手に手帳を構へてなにやら字を書く姿にあこがれがあるんだらうな。
実際そんなことをしたら自分の悪書ではとてもとても読めたものではないのだが。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Wednesday, 05 December 2018

好きなことについて口をつぐむとき

昨日は、「この世にあまり知られてゐないやうなことを好きだつたら、どんどん人と語らう」といふやうなことを書いた。

きつかけは、"It's Time to Throw Away the Dickensian Culture of Math Education" といふ記事だ。
この記事では、とある教師が生徒たちに数学について会話をするやうし向けるといふ話が出てくる。

まづは他人と話すこと。
他人と話題を共有すること。
好きなものを広めるには他人との会話が重要なのだ、といふことだらう。

以前、坂東三津五郎が八十助だつたころに語つてゐるのを読んだことがある。
喫茶店に入つたら、みんなが歌舞伎について語つてゐるやうな、そんな世の中になつたらいいな、といふ趣旨のことを。

今月見た芝居の話や、贔屓の役者の話、こんな演目が好き、この役者のこんな役、あの芝居のあんな配役が見てみたい。
話題はいくらでもある。
喫茶店でコーヒーを飲みながら、いつ尽きるとも知れぬ芝居の話に興じる人々。
それが常態になつたら歌舞伎の人気もほんものだな、と、さういふ話なのだらうと思つてゐる。
まあ、世の中、さういふ風にはなつてゐないけれども。

それでも同好の士となら芝居の話でも盛り上がれるが、さうでない相手とはどうだらうか。
芝居をあまり知らない、歌舞伎役者の見分けもつかないやうな相手に歌舞伎の話をしていいものだらうか。
さう考へると、あまりできるとも思へない。

でもどうしてもしたい、となつた時に、どう話すかといふと、三森ゆりかの提唱してゐる「言語技術」にたどりつく。

欧米では(と、広く云ふが)、「言語技術」の教育が盛んで、幼いころから「他人に如何にことばで伝へるか」といふことを教へこまれるのだといふ。

たとへば、こどもへの教育として、三森ゆりかの本には、まづ好きなことについて語る練習が登場する。
「わたしは何々が好きです。それはこれこれかうだからです。だからわたしは何々が好きです」
といふフォーマットで、自分の好きなものについて語る練習だ。

好きな対象はなんでもいいし、理由の部分も好きに語つていい。
聞く方は理由に不明な点や疑問点があつたら質問する。
話す方はそれにきちんと答へる。
そんな感じだらうか。

この練習は、やりやうによつてはすごくイヤな感じになる。
とくに、理由の部分を掘り下げていく過程で、「どうしてそんなに根ほり葉ほり訊くんだよ」といふイヤな気分になることがある。
でも(敢て広い範囲で云ふが)欧米ではそれがあたりまへで、さうやつて他人との意思疎通をはかれるやうになるのださうだ。

この方法のいいところは、自分の好きなものについてなぜ好きなのかさへ語れれば話になる、といふ点だ。
世の中にはどうも「好きなら知つてゐて当然」「好きなら知識豊富なはず」といふ偏見がある。
もちろん、好きなことについては自然と知識が増えるといふことはある。
だつて好きなんだもの、いろいろ知りたいぢやあないか。
だが、好きだからといつてあれもこれも知つてゐるとはかぎらないし、知つてゐる必要もない。
好きといふだけで十分ではあるまいか。

それだと他人と意見を交はすことができない。
でも自分はなにが好きでどう好きでなぜ好きなのかを語れれば、話になる。
言語技術。
いいんぢやあるまいか。

だが、これだと弁論術でいふところのエトス・パトス・ロゴスのロゴスの部分しかない。
好きな理由だからパトスもあるかもしれないけれど、どうもパトスは伝はりにくいやうに思ふ。
まあ、語りやう次第ではあるけどもさ。

さうすると、「わたしは何々が好きです。なぜならこれこれかうだからです。だからわたしは何々が好きです」とフォーマットにしたがつて語るより、「きゃーっ、何々、ステキーっっ!」だとか、「可愛いよ、何々、可愛いよ」だとか、「何々……尊い」みたような話し方の方が、相手に伝はるんぢやないだらうか。
そんな気がしてくる。
この話し方ならパトスは間違ひなく伝はるだらう。
そしてパトスが伝はつた結果、エトスもまた生じるやうな気がする。

ロゴスからもエトスは生じるだらうが、「好きなこと」のやうな感情の関与するところが大きいものの場合は、ロゴスよりもパトスの方が重要なんぢやあるまいか。

でもさうすると、やつがれのやうに長いこと軽佻浮薄のものを遠ざけてきてミーハーとは相容れないと思ひこんできた人間には、好きな話はできなくなつてしまふんだよなあ。
「きゃーっ、何々、ステキーっっ!」つて、それ、思考停止でせう。
さう思つてしまふからだ。
いまはだいぶ変はつてきて、「きゃーっ、何々、ステキーっっ!」もありだと思つてはゐるけれども、長年の習慣といふものはなかなか落とし難いものなのだつた。

言語技術もダメ、パトスにも訴へられないとくると、あとはもう知識勝負しかなくなつてくる。
さうして、好きなことについては口をつぐんでしまふのである。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Tuesday, 04 December 2018

好きなことの話をしやう

普段「タティングレース」と口に出して云ふことがあるだらうか。

数へてゐるわけではないからわからないけれど、最低週に一度は「タティング」と云つてゐるのぢやあるまいか。
或は月に一度。
年に一度といふことはないと思ふ。

といふのは、こんな記事を読んだからだ。
記事の冒頭で、ある教師が生徒に対して気がをかしくなるほどむつかしい数学の問題を出すことがあつた、といふ。
ほかの数学教師に助けを求めてもいいし、学外の人に訊いてもいい。ただしこの教師自身にはなにも訊いてはいけない。
さういふ条件つきだつたさうな。

この教師の目的は、問題を解かせることではなかつた。
数学について教室の外で人と話をすること。
それが目的だつたのだ、と記事にはある。

おそらくは数学のよくできる生徒相手のことだ。
その生徒が手こずるやうな問題を、数学のわからない相手と会話することがあるだらうか。
さう考へると、この教師のやらうとしてゐたことは、「まづは話すこと」だつたのだらう。

この記事を読んで、なんだか突然蒙を啓かれた気がした。
自分は自分の好きなこと、好きだけれどもそれほど世に広まつてゐるとは思へないことを他人と/に話すことがあるだらうか。
ないな。
ない。
同好の士とはあるけれども、それ以外の人とはまづない。
家族ともしない。
それがあたりまへだと思つてゐる。

通じない人間と話をしても仕方がない。
相手にも失礼だらう。
頭の中でさう思つてゐる。
実際、失礼なこともあらう。
自分のまつたく知らない話をされて怒る人間はいくらもゐる。
世間の人はそんなに悠長な暮らしを送つてゐるわけではない。
それでなくてもネットで自分の興味のある範囲しか見ない人間が増えてゐるといふ。

そんなときにタティングの話?
ないわなー。

そもそも自分の好きなことについて話したくない。
話してわかつてもらへるとも思へない。
わかつてもらへるやうに話をしないからだ。

昨日実は「これがほんたうに好きなんだ」といふことを呟いた。
当初、まつたく反応がなかつた。
その他のことにまぎれるやうに呟いたのもいけなかつたのかもしれないけれど、
「ああ、やつぱり同好の士のゐないやうな些事でほんたうに好きなことつて、伝はらないんだなあ」
と、しみじみさう思つた。

伝はらないかもしれないけれど、世界に向けて発信する。
可能なかぎり伝はるやうに発信する。
好きなことを絶やしたくない。
好きなことには長くつづいてほしい。
さう思つたら、さうするしかないのかもしれない。

ところでタティングレースについていふと、自分が云はなくても人気が出てゐるやうではある。
本屋で本を見ればわかる。

ただそれも一過性のことかもしれない。
やはり呟くしか?

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Monday, 03 December 2018

毛100%と化繊

寒くなつてくると袖なし羽織が進む。
膝の上においてゐるとあたたかいからだ。
糸はローワンのフェルテッド・ツイードで化繊混だつたと思ふのだが、思ひのほかあたたかい。
毛糸は化繊や化繊混よりも毛100%があたたかいといはれてゐる。
実際、体感してみるとさうだな、と思ふ。

たとへばヨガソックスだ。
これまでヨガソックスは化繊混のソックヤーンで編んでゐた。
それでも十分あたたかいと思つてゐたが、今年、パピーのブリティッシュファインで編んでみて、こちらの方が断然あたたかいことを身をもつて知つた。
いづれも中細毛糸であるといふ点は変はらない。
ブリティッシュファインで編んだものの方が若干ふつくらとした編み地になつてはゐるけれど、履いてしまへば厚さはほぼおなじだと思ふ。

さうか。
やはり毛100%はあたたかいのか。

と思つてゐたところにフェルテッドツイードだ。
これはほかに比べるものがないものの、ちよつと肩に羽織つてみたときなど、圧倒的にあたたかい。
だからひたすらガーター編みでときに飽きることがあつても編み続けてゐられるのだ。
仕上がつた暁には、とてもあたたかい袖なし羽織になるだらうからだ。

ところで毛にもいろいろあつて、カシミヤの毛は羊毛よりあたたかいといふし、麝香牛の毛はさらにあたたかいといふ。

でも、世の中、それほどあたたかくなくてもいいつてこともあるんだよね。
さういふときは化繊混の出番なのかもしれない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Saturday, 01 December 2018

11月の読書メーター

11月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1593
ナイス数:16

英語とは何か (インターナショナル新書)英語とは何か (インターナショナル新書)感想
大学入試の英語民間試験導入の行く先はさらなる格差社会なのかな、とこの本を読んで思った。
読了日:11月04日 著者:南條 竹則
Through the Language Glass: Why The World Looks Different In Other LanguagesThrough the Language Glass: Why The World Looks Different In Other Languages感想
チョムスキーとか知らなくても読めるけど、知っていたらもっと楽しいだろうな。この本を読むと、古典作品でいろんなものの色をどう表現しているか気になってくる。この本に出てくるのはホーマーだから中国古典だったら比較対象になるものがあるだろうか。今後読むことがあったら色の表現を気にしながら読んでみたい。
読了日:11月11日 著者:Guy Deutscher
翻訳地獄へようこそ翻訳地獄へようこそ感想
女の人のセリフの語尾に「だわ」「なのよ」などをつけることを反対する意見の多い中、ホモセクシュアルの男の人のセリフはオネェ言葉に翻訳する、といふのはどうなのだろうか。ことばだけしか手がかりがなければこういうご時世でもそうするしかないのかな。
などと思いつつ、紹介される書籍には興味深いものも多いし、よく読むとはどういうことか考えさせられる。
読了日:11月14日 著者:宮脇 孝雄
乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)乞食王子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)感想
著者の本にしては一文が短く、読点が多くて読みやすい。エッセイだと思うのにどこまでがほんとうでどこからが作りごとなのかわからないところがいい。のちの「酒宴」や「金沢」につづく感じかな。沖縄のことについて通常よりストレートで語気が荒いように思う。ちょっと意外でそういうところもいい。
読了日:11月18日 著者:吉田 健一
新しい1キログラムの測り方 科学が進めば単位が変わる (ブルーバックス)新しい1キログラムの測り方 科学が進めば単位が変わる (ブルーバックス)感想
「ほんとうに大切なことは目に見えないんだよ」ってこういうことだったのか。
読了日:11月22日 著者:臼田 孝
悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)悪徳の栄え〈上〉 (河出文庫)感想
悪徳を楽しむにはいろいろ云い訳が必要という風にも読めるし、考えてしまう人間には世のしきたりのようなものには従えないといふ風にも読める。
読了日:11月29日 著者:マルキ・ド サド,マルキ・ド・サド

読書メーター

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« November 2018 | Main | January 2019 »