ほんたうに大切なものは目に見えない
「ほんたうに大切なものは目には見えないんだよ」といふのは「星の王子さま」だつたらうか。
いづれにせよ、情緒的なことについて云つたことだらうと思はれる。
いまは違ふ。
いまは物理的に目に見えないものが大切で、それがわかるかどうかが運命の分かれ道になつてゐる。
さう思つたのは、「新しい1キログラムの測り方」を読んだからだ。
世の中、量子がわからないと最先端のことはわからない。
新井紀子の「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」で話題になつたことに、きちんと文章が読めない人間がたくさんゐる、といふことがあるが、きつとさういふ読めない人といふのはかういふ感じなんだらうな、と「新しい1キログラムの測り方」を読んで思つた。
著者・臼田孝は、おそらく「かう書けばわかつてもらへるだらう」と、門外漢にもわかるやうにやさしく丁寧に書いてくれてゐる。
その文章が、なにを云つてゐるのかわからない。
日本語として読めるけれど、なにを云はんとしてゐるのか見当がつかない。
思へば、高校の数学も虚数でコケる生徒が多いといふ。
目に見えない、手に触れない、intangible なもののことを考へ理解できないと先に進めない。
先に進めなくてもいいといへばさうなのだが、なんだらうな、この「わからないけどわかりたい」気分。
人は「わかつた気持ちになりたい」ものだ、とは千野帽子の云つてゐたことだつたやうに思ふ。
だから、わからなくてもわかつた、と思つてしまひがちだともいふ。
米光一成は「わかつたと思ひ込んでしまふことが危険」といふやうなことを云つてゐたと思ふ。
そこから先に進めなくなるからだ。
わかつたことは終はつたこととして、それ以上考へたり深く理解したりしやうとしなくなる。
わからないと思ひ、でもわかりたいと思ふといふことは、まだ見込みがあるといふことかな。
とりあへず、「新しい1キログラムの測り方」は再読するつもりでゐる。
ところでこの本に1875年のメートル条約締結国の一覧が出てくる。
国名の並び順がおもしろいことになつてゐるのだが、これはおそらくフランス語で各国の名前を書くとアルファベット順にかうなるのだらうと思はれる。
さういふことはわかるんだけどな。
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