騒がしいのは苦手だが
大物を作つてゐると、書くことがほとんどなくなる。
タティングレースのスカーフは、進んではゐるものの、いまのところモチーフが週に一枚できるか否かといつたところで、このままだといつまでもできあがらないかもしれない。
昨日、あみものの方では袖なし羽織を再開したと書いたが、こちらもしばらくはできあがらない。
どうしたものかのう。
もうちよつとタティングをする時間を作れればいいのだが、いまのところさうした時間がない。
通勤電車で座れたときにでもするか。
もうちよつとまとまつた時間がほしいんだよなあ。
だいたい電車で座れるとはかぎらないし。
前回、ピコの少ないタティングレース作品が好きだ、といふやうなことを書いた。
つまりはごちやごちやしてゐないもの、といふことか。
自宅はごみ屋敷なのになあ。
これでよく芝居のチケットをなくさないものだと我ながら関心するほどだ。
世の中、なにもかも芝居のチケットだつたらいいのに。
でも、考へてみると、なんとなくごちやごちやしたものも好きかもしれないことに気づく。
先週の映画「ボヘミアンラプソディ」の話ぢやないけれど。
たとへば幸田文と森茉莉とでは森茉莉の方が好き、とかね。
映画「帝都物語」でこの二人の父親である幸田露伴と森鴎外とが神田明神付近の出店をふらふらする場面があつて、のぞきからくりを見る、といふやうな場面がある。
実のところ、やつがれはお祭りだとか夜店だとか花火大会だとか人が大勢あつまつてにぎやかでどことなくいかがはしい感じのするものが苦手だ。
だがこの映画はいい。
なんとなく、のぞきからくりをのぞき込んでゐるやうな気分にさせられる。
猥雑で混沌としてゐてわけがわからない。
それでゐて、夜道をゆく泉鏡花の後ろ姿のやうなうつくしい絵も随所に出てくる。
鏡花は坂東玉三郎が演じてゐて、後頭部から肩に流れるラインの麗しいことにいつ見てもとらはれてしまふ。
実相寺昭雄にはときどきかういふ横顔の絵が出てくることがあつて、出てくるたびにはつとしてしまふ。
見たことはないけれど、きつと伝説の森茉莉の部屋といふのもそんな感じで、他人から見たらごみ屋敷なのかもしれないが、そこかしこに「仏蘭西色」のものがあつたり、のぞくと向かうがゆがんで見える硝子の瓶があつたり、自分好みの配色でならべた手触りのいいタオルがかけてあつたりするのだらう。
さういふカオス(と一口でくくつてしまふのは乱暴ではあるものの)なものに惹かれてしまふことがあるんだよなあ。
といふわけで、ピコの多いモチーフをせつせと作つてはつなぎあはせてゐるのかもしれない。
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