好きなことをする罪悪感
タティングレースのスカーフは、飯田に行つたときに作つたモチーフ一枚をスカーフ本体につないでゐる最中だ。
名古屋に行つたときに作つた二枚のモチーフの上にモチーフを作りながら飯田のモチーフをつないだ。
名古屋のモチーフは隣にあと三枚つないで一段になる。
一段をモチーフ五枚にしたからだ。
独立して作るモチーフは横に長くすると本体とつなぐときにつなぐ場所が増えて大変なので、精々一列二枚だな、と思つてゐる。
一枚を縦に長くつなぐことも考へたが、まあそれは名古屋に行くとか京都に行くとか長旅をするときでないとちよつと考へにくいし、あまり縦に長くつなぐとスカーフの長さに影響してくるのでどうかといふ話もある。
まだ六段だから長さの心配はしなくてもいいんだけどね。
ところで、昨日指なしミトンを編み終はつた、といふ話はまた月曜日にも書くとは思ふ。
編み終はると、そこはかとない不安に襲はれる。
手元に編みかけのものがなにもないことが不安だ。
なにも編むものがないといふ状態に慣れない。
もちろん、あみものをはじめて以来「いま現在なにも編むものがない」といふ状態が発生したことはあつた。
編むものが決まらない、とかね。
疲れてゐてそれどころではない、とか。
長くて二週間くらゐだらうか。
一ヶ月といふことはないんぢやないかな。
編むものがない不安といふのは、なにもすることがないといふ不安だ。
なにもすることがないといふことは、生きて甲斐なし、といふことでもある。
実際のところは、なにもすることがなくても生きて甲斐なしなどといふことはないのだらうとは思ふ。
きつと世の中の人はさう云ふだらうし、さういふやうな格言もあることだらう。
さうわかつてゐても、することがないといふのは不安だ。
生きてゐる意味がない。
さう思ふ。
それではあみものやタティングレースが生きてゐる意味をもたらしてくれるのか、といふと、これも実は怪しい。
すくなくともやつがれにとつてはさうだ。
これは自分のすべきことなのだらうか。
ほかにすることがあるのぢやないか。
さういふ不安もある。
あみものもタティングもしてゐて楽しいので、少なくともやつて意味がないことはない気はしてゐる。
でも、楽しければいいのか、といふ話もある。
自分がしたいことをすることに罪悪感があるんだな。
したいことをしちやいけないんぢやあるまいか。
なにかもつとしたくないけれどもしなければならないことをするべきなのではないか。
たとへばもつと自分或は世の中を利するやうなことをしなければならないのでは?
これを「心の中のプロテスタント」と自分では呼んでゐる。
ここのところナリを潜めてゐたのだが、まだ心のどこかに住んでゐるやうだ。
住んでゐるからといつて、云ふとほりにするわけではないのだが。
やつかいな存在である。
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