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Thursday, 11 October 2018

古き世のみぞ慕はしき: だんまり

昨日、歌舞伎や時代劇は昔のものの方がいい、といふ旨のことを書いた。

しかし、こと歌舞伎に関しては実際のところ、しかとさうだとはいへない。
比べて見ることができないからだ。
昔見た芝居は見た人の記憶の中にしかない。
たとへ映像で残つてゐたとしても、それは実際の舞台ではない。
映像といふことは撮影した人がゐて、その人或はその人に指示した人の思惑で映す部分が変はる。
ゲキシネなどを見てゐて、「ここが見たいんぢやないのに!」と思ふのもさういふことだらう。

また、舞台を見たときに見えたはずのものが映像だと見えないこともある。
十三代目片岡仁左衛門の「車引」の時平を見たことがあつて、登場する場面で陽炎がたつやうに時平とその周囲がめらめらと揺れたやうに見えた。
あんなに妖しい時平は以降見たことがない。
だが、そのとき(その日ではないかもしれないが)の映像を後に見たら、陽炎のやうなゆらめきなど皆無だつた。
をかしいなあ。あのとき、さう見えたはずなのに。

時代劇のやうに比較して見られたとしても、判定には主観が入るからむつかしい。
ある人は古いものの方がいいといひ、ある人は新しいものの方がいいといふ。
多数決でもとれば白黒つくのかもしれないが、多数決で決まるものでもない。

でも確実に新しいものの方がどうかしてるよ、といふものがあつて、それはだんまりだ。
今月歌舞伎座で「宮島のだんまり」がかかつてゐるといふ。
まだ見に行つてゐないのだが、見た人の感想をちらほら見るに、あまりかんばしくない出来のやうだ。
次から次へと人が出てきて漫然と動いてゐるだけ、みたやうな感じなのだらうと推測する。

だんまりといふのは、月が雲にかくれてしまつて真つ暗闇の中、といふ前提のもとに演じられる。
夜でも灯りのついてゐる現代に暮らしてゐるとわかりづらいかもしれないが、さういふものの一切ない状態で月が隠れると、これはもう一寸先も闇だ。

歌舞伎役者は巡業に出るので夜の月の明るさを体験することはあるだらうと思ふのだが、その逆の闇を体験することはあまりないのかもしれない。

菊之助がお岩さまを演じたときだつたらうか、地獄宿で灯りを消して真の闇の中を歩くといふ演技を小山三で見たことがある。
なるほど、見えないとき人はかういふ動きをするよな、といつたとてもすばらしい動きだつたと記憶する。
小山三はおそらく知つてゐたのだらう。
灯りもない真つ暗な夜のことを。

役者として体験したことのないことができないといふのは致命傷だとは思ふ。
だつてさうしたら人殺しの役とかできないわけでさ。
舞台の上で死ぬことだつてできない。
だつてやつたことないんだから。
それでは話にならないが、体験できることは体験しておいた方がいいのだらう。
先代の芝翫が六代目についてゐたとき、藁打ちやなにやかや「やれ」と云はれ、のちに役の上でやることになつて「やつておいてよかつた」といふことがあつたと云つてゐるし。

だんまりは「東海道四谷怪談」の地獄宿の場とははちがつてもつと形式的な場面だ。
よつて、あまりリアルな動きをしても雰囲気を壊すことになる気はする。
でも、闇の中で人がどう動くか、自分がどう動いたかを覚えてゐれば、また違ふのではないのかなあ。
実際にやつてみやうといふ役者はゐないのだらうか。

役者だけではない。
やつがれが歌舞伎を見始めたころ、もう染料の劣化を嘆く声があつた。
「最近の赤の染料はよくない。安つぽくてぺかぺかした色になる」などといふ話を聞いたものだ。
昔の色を知らないのでなんともいへないが、さうした劣化はあちこちにあるものと思ふ。

いま御園座で「切られ与三」を上演してゐて、「源氏店」の場では与三郎は藍微塵の着物を着ることになつてゐる。
この藍微塵を織れる人はもうゐないと何年か前に聞いてゐたが、どうやらまだおひとり残つてゐるのらしい。
その人に頼んだのかどうかは知らないが、与三郎を演じる梅玉は新たに藍微塵を織つてもらつて衣装を仕立てたのださうだ。

また、昔ながらの豆絞りの手ぬぐひも払底してゐる。
有松ではまだ染めてゐるものの、なくなるといふので「浜松屋」の弁天小僧のために菊五郎が一疋買つた、といふ話をこれも何年か前に聞いたことがある。

小道具なんかもさうなんだらうなあ。
いまはもうないものもあるのだらう。
きつと小道具担当があれこれ工夫してゐるんだらうなあ。
小道具の工夫は昔からあつたものだらうけれど、これまであつてあたりまへだつたものがどんどんなくなつていくのに対処するやうな工夫ではなかつたのではないかといふ気がする。

大道具は、大道具担当自体が劣化してゐる気がする。
歌舞伎座の大道具はちよつとひどい。
床にしく畳や板間を表現する布が、どこかしらたるんでゐるのだ。
昔からさうだつたか知らんと思つてゐたが、国立劇場で見るとさうでもない。
よくよく場面転換のときに見てゐると、布の両端を引つ張らずに片側だけ引つ張つてよしとしてゐる大道具の人がゐる。
それで皺がよつたままになつてしまふのだ。
実際、たるんだ布に足を取られて転びさうになつた役者もゐたと聞く。
それでもあらたまらない。
誰かが大けがをするまでこのままなんではないか、否、大けがをしてもこのままなんではないか。
かういふ劣化もある。

さう考へると、「新しい方がいいことつてなんだらう」と疑問に思つてしまふんだよなあ。
新しい方が現在の嗜好にあつてゐるんぢやあるまいか、といふことはある。
現代人の感覚にあはせて演出や細かいところを変更してゐる場合はね。
でも一口に「現代人」といつても大勢ゐるからなあ。

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