提灯借りに来た
先日 Proust and the Squid といふ本を読んだ。
十年前の学生に「そらんじてゐる詩は何篇あるか」と訊いて得た答へを平均すると、だいたいひとりにつき10篇前後は覚えてゐたといふ。
それが最近(初版は2000年出版らしい)では1篇覚えてゐるか否かだ、といふ。
シャーロック・ホームズなら云ふだらう。
余分な知識はいらない、と。
脳内には考へるためのスペースが必要で、そのためには不要な情報を一々覚えるのは無駄だ、と。
詩が無駄とかいふと、あらぬ方向から被弾しさうだが、しかし、覚えてゐてなにかいいことがあるだらうか。
最近、Twitter の TimeLine に百人一首を覚えたときに教師に云はれたことに関するつぶやきがリツイートされてきた。
うろ覚えで恐縮だが、いまは試験や受験などのために百人一首を覚える必要があるかもしれないが、覚えてゐると心を豊かにしてくれるのですよ、といふやうなことを云はれたとつぶやいてゐたと記憶する。
さうなのだらうか。
百人一首は何首か覚えてゐる。
それがやつがれの心を豊かにしてくれてゐるだらうか。
よくわからない。
あるとき、横浜中華街のとある中華料理屋に行く機会があつた。
とても楽しかつたので、その部屋の壁に書かれてゐた詩の文句を指さして、
「この句のやうな気持ちですよ」
といふ旨のことをその場にゐる人々に伝へた。
そこには王維の詩が書かれてゐて、指さした先には「勸君更盡一杯酒」と書かれてゐた。
返つてきたのは怪訝さうな表情ばかりだつた。
もしかしたら詩全体のことを云つてゐると受け取られたのかもしれない。
世の中むつかしい。
「道灌」といふ落語がある。
太田道灌が狩に出た折り不意の雨に遭ひ、荒ら屋を認めて雨具を借りやうとすると、出てきた賤女が手折つた山吹を差しだして「お恥づかしう」と云ふ。
道灌にはなにがなんだかさつぱりわからないが、供の者の中に歌道に通じたものがゐて、これは兼明親王の歌をふまへたものだと理解する。
兼明親王の歌といふのは「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」といふもので、「実のひとつだになき」が「簑ひとつだになき」、つまり貧乏なのでお貸しする簑ひとつだにないのです、といふことなのだ、と。
そこで道灌は己が歌道に昏いことをさとり、その後歌道に精進するやうになつた、といふ。
この噺を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ひ、道灌ぢやないけれど歌道に精進しやうと思ふのだが、はたして歌道に明るいとはどういふ状態を指すのか。
「道灌」でいふなら道灌の供の者のやうに、なにかのときに「あ、あれはあの歌をふまへたものだな」と即座にピンとくる状態を指すのではあるまいか。
といふことは、歌を覚えるだけでなく、すぐに取り出せるやうな状態にしておかなければならない、といふことだ。
それつて……どれだけ精進すればさうなるんですかね。
そして、覚えると心が豊かになる、といふのは、道灌の供の者のやうな境地に達してはじめて実現することなのではあるまいか。
多分、やつがれが歌道に明るくなる日は来ない。
「道灌」を聞く度に「ああ、予は歌道に昏い」と思ふだらうけれど。
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