日記のこと
日記といふか日誌といふかを、断続的に長いことつけてゐる。
このblogも日誌のやうなものだらうか。
このblogにうつる前、htmlをせつせと手で打ちながら書いてゐたのは日誌だつた。
日記と日誌との違ひは、自分では日誌は後日役立てるもの、と理解してゐるので、自分のつけてゐるのは日誌だと思つてゐる。
公的な記録ではないが、大抵は未来の自分が見ておもしろいと思ふだらうやうなことを書き残すことにしてゐるので、さういふ意味では「日誌」だらう。
未来の自分なんて、他人のやうなものだしさ。
だが、以下は一般的なことを書くつもりなので、「日記」で統一する。
日記を書かうと思つたのはいつのことだつたか。
幼稚園のときではないと思ふ。
おそらく小学校にあがつてからだ。
宿題で絵日記を書かされたことがある。
自分で書きたくて書いてゐるわけではないのでそんなに続かなかつたし、提出してゐた期間もさう長いことではなかつた。
その後、「アンネの日記」を読んで、自分も日記をつけたいと思つた。
これも小学生のときのことだ。
親が使はなかつたのだらう、古いハードカヴァの日記帳をもらひ受けて書き始めたのはよかつたが、これも長くは続かなかつた。
古い日記帳に心ときめかなかつたし、毎日書くといふ習慣を身につけることができなかつた。
転機は小学校の高学年のときにあらはれる。
友だちにつれられて、家からはちよつと離れたところにある住宅街の中の文房具屋に行つた。
とくにこれといつて買ふつもりはなかつたが、なんとはなしにノートを一冊手にした。
店番のをばさんになにを書くつもりなのかと訊かれて、我知らず「日記を書かうと思つて」と答へてゐた。
するとをばさんが「だつたらこのノートの方がいいよ」と出してきてくれたのは、立派な厚紙の表紙のついたスパイラルノートだつた。
キョクトウのロイヤルカレッジノートと似たやうな体裁で、表紙の色は褪せたやうな抹茶色だつたと記憶してゐる。
このノートとの相性は抜群で、それまで全然書けなかつた日記がなぜかつづくやうになつた。
その後も似たやうなスパイラルノートに日々あれこれつづつてゐた。
当時のノートはもう全然残つてゐないだらうと思ふ。
高校生になつたばかりのころの日記は残つてゐるかもしれないが、どこにノートをしまつたのか定かではない。
日記になにを書いてゐたのかといふと、日々あつたことしたことなどはほとんど書かず、今日はこんなことを考へた、あんなことを思つた、といふやうなことばかり書いてゐた。
中学生のときに部活動の友人に庄司薫を勧められて読んだ。
庄司薫は日記マニアで、学校に通つてゐた時分には「本音の日記」「建前の日記」をそれぞれつけてゐたといふ。
それをまねした時期もあつた。
長いことつづけてゐた日記も就職とともに一時途切れ、その後は一部は手帳といふ形になつて、もう一部はWeb Pageやblogといふ形になつてつづいてゐる。
思へばTwitterもさうか。
Twitterはあとで見たときに「この日はこんなことをしたのか」とわかるやうなことをつぶやくやうにしてゐる。
全然さうは見えないかもしれないけれど。
Instagramはもつとさうかな。
日記を書くのになにを使ふかはとても重要だと思ふ。
それは文房具もさうだし、Webのツールにしてもさうなのだらう。
やつがれはFacebookは向かなかつたが、Twitterはどうやら気に入つてゐるのらしい。
さうしてつづけてなにかいいことがあるのか。
とくに日記帳だつたノートがなくなつてしまつてゐるといふのに、なにか意味があるのか。
たぶん、意味はないと思ふ。
書いたのだから、もつとちやんと見返さなければな。
さうしたらちよつとは意味があるのぢやあるまいか。
でもたぶん、意味はなくてもいいのだ。
なにか書きたいから書く。
それでいいぢやあないか。
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