「論語」と「絵本太功記」十段目
安田登の「身体感覚で「論語」を読みなおす。」を読んだ流れで講談社学術文庫の「論語」をぱらぱらと読んでゐる。
自分では「より善く生きたい」と思つてゐるが、だからといつて「君子」といふわけでもなく、「ダメな人間が学問や文化を語つてもダメ」みたやうな身も蓋もないことが書いてあると、「そもそも学問や文化のことなんて語れないからダメでもいいか」と思つたりする。
「論語」を読んでゐると、案外個人に特化した内容が多いやうに思ふ。
「主には忠、親には孝」とはいふものの、主があまりにもできない人間だつた場合には忠義を尽くす必要はない、といふ。
いいぢやん、孔子!
と思つた、といふことは以前も書いた。
儒教といふと、なにかとお家大事だつたり上司に従へとか、さういふ考へだと思つてゐたけれど、ちやんと「自分で考へろ」とも書いてある。直接ではないけれど。
やつぱり読まずに判断してはいけないんだなー。
でも世の中読まずに「論語つてかういふものでせう」と判断してゐる人が多いのだとしたら、読んだうへであれこれ云つてもあんまし意味はないのかもしれない。
自分で体験しないかぎり納得しない人間はごまんとゐる。
と、そのうちのひとりが云うても説得力はないか。
主が愚かな場合は従はなくてもよいのなら、「絵本太功記」の武智光秀もあんなに苦しまずに済んだのぢやあるまいか。
「絵本太功記」でなにが納得いかないつて、光秀の母の光秀への非難だ。
これも以前書いたやうに思ふ。
反逆するなんて武士の風上にもおけぬ、名家の名に泥を塗るやうなことをしでかして、と、さんざんな云ひやうだ。
主が愚か或は人間として問題があるのなら、光秀は反逆しなくてもよかつた。
主の元を去ればよかつたのだ。
名家といふなら暮らしに余裕もあらう。
または即雇つてくれる先もあつたのではあるまいか。
しかし、主がどうあれ忠義を尽くさねばならぬ、といふ世の中では去るわけにもいかず、それで鬱屈をためてたうとう愛宕山で「ときはいまあまがしたしるさつきかな」といふことにになつてしまつた。
また名家名家とたくさんさうに云ふが、明智家(とここでは書くことにする)は摂津源氏の流れを汲んでゐて、摂津源氏といへば源頼政は平清盛に三位にあげてもらひながら以仁王の乱に参加してゐるし、多田蔵人は鹿ヶ谷の陰謀に加はりながら裏切つたといふことになつてゐる。
先祖だつて裏切つてゐる。
それも盛大に裏切つてゐる。
名家を口にしながら、なぜ光秀はなぢられねばならぬのか。
とにかく「絵本太功記」の十段目を見て納得できた試しがない。
いつ見ても「いや、さうは云ふけどさ」と思つてしまふ。
きつとなにか別の見方があるのだらう。
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