Marvelous Marginalia
書物になにか書き込むことに抵抗がある。
自分の買つた本なのだから、好きに使つていい。
気に入つたところ気になつたところには線を引いて、ときに思つたことを書き込む。
さうして「使ひ込んで」こそ。
さういふ話を聞くと、それもそのとほりかな、とも思ふ。
そもそもは付箋を貼るのも嫌ひだつた。
貼るやうになつたのは、Kindle を使ひはじめたことが大きい。
Kindle には付箋を貼る機能もあれば、気に入つたところ気になつたところに線を引く機能もある。メモを書き入れる機能もだ。
さうして Kindle を使つてゐるうちに、紙の本を読むときも気になつた部分に印をつけたいと思ふやうになつた。
でも線を引くのは気が引ける。
電車の中で読んでゐるときにはちよつとやりづらいし。
といふわけで、付箋を貼るやうになつた。
付箋を貼るやうになつた理由としては、カンミ堂の「coco fusen」の存在も大きい。
それまでは付箋は好きではなかつた。
ぺらぺらとしてゐて、さらには色が気に入らない。この色なら、といふ色が存在しない。
「coco fusen」は発色が鮮やかで、さらには「ケースごと貼つて使う」といふ点が気に入つた。
でも、なかなか線を引くことはできずにゐる。
ましてや文字を書き込むだなんてできつこない。
ところがあるとき魔が差した。
自宅で酒を飲むときの友として、柴田錬三郎の三国志を一揃へ買つてきた。
すでに持つてゐる本である。
中学生のときにお小遣ひをちまちま貯めては購入した本がある。
それを大人買ひした。
酒の友として読み、ときに線を引き、ときにツッコミを書き込むためだ。
それ用にペンも購入した。
書き込むのが前提で買つた本なので、そこかしこに線が引いてあるし、書き込みもある。
酒の力も手伝つて、禁忌をやぶることができた。
さういふことなのではないかと思ふ。
でもほかの本にはむつかしいな。
NHKの語学講座テキストには書き込めても、その他の書籍はむつかしい。
付箋を貼るやうになつた、と書いたが、明治書院の「新釈漢文体系」には貼れない。
なんだか怖くて。
おなじものを二冊買ふやうな本ぢやないしね。
さう考へると漢籍も文庫で気楽に読むのがいいのかもしれない。
昨日、講談社学術文庫の「論語」を読んでゐると書いたが、付箋を貼りながら読んでゐる。
でもなあ、図書館から借りてきた本を見ると、書き込みのあるものもあるよなあ。
みんな、本に書き込むことに抵抗はないのだらうか。
しかも図書館の本だ。
書かないだろ、普通。
さう思つたが、かつて、一度だけ「これは書かずにはゐられなかつたんだらうなあ」と思ふ書き込みがあつた。
学校の図書館にあつた本だ。
オペラの筋などを紹介する全集の一冊で、「トリスタンとイゾルデ」だつたと思ふ。もしかすると「ローエングリン」だつたかもしれない。
本には、オペラ(「トリスタンとイゾルデ」だから楽劇かもしれないが、ここはこれで)の演奏や録音についても言及した部分があつて、ルネ・コローの performance についてさんざんな評が書かれてゐた。
書き込みはその文章の余白にあつた。
「それはさうぢやなくて」といふ叫びが聞こえてくるかのやうな、あの peformancde はあれはあれですばらしいのだ、といふことが、おそらくはできるだけ短く書かうといふ努力のもと、鉛筆でつづられてゐた。
ああ、この人は、書かずにはゐられなかつたんだな。
図書館の本とわかつてゐて、否、図書館の本だからこそ、ここに書かれてゐる批評を鵜呑みにしてもらひたくなかつたのだらう。
ファンつて!
それを思ふと、本になにか書き込まないのは、心の底から書かずにはゐられないといふことがないからなのかもしれない。
そんな大げさに考へることはない?
さうかもしれない。
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