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Friday, 28 September 2018

本を読むのをやめやうか

九月二度目の三連休と次の火曜日とはひたすら寝て過ごした。

熱が高かつたこともあり、目が疲れてしまつてスマートフォンはおろかTV画面さへ見るのがつらい。
それでも、布団の中で本を読むこともあつた。
穂村弘の「本当はちがうんだ日記」を読んでゐる途中だつた。
不思議とスマートフォンほど目は疲れず、それでも疲れるからなかなか先には進まない。

なぜ自分はこんな状態なのに本を読むのだらう、と、そのことが気になつた。
別に読まなくてもいいのに。

こどものころは「自分は本が読書が好きだ」と思つてゐたけれど、成人を迎へる前後でそれが単なる幻想にすぎないことに突然気がついた。

自分は本が好きなはずだつた。
多分、幼いころは好きだつたのだらう。
或はそれも思ひ込みだつたのかもしれない。
こどものころはひとりで本を読んでゐるよりも、外で友だち大勢と遊ぶことを求められた。

いまでも忘れないのは幼稚園のときのことだ。
父兄参観日で、外に出て遊ぶ時間があつた。
大多数のクラスメイトは鬼ごつこをしてゐたが、やつがれは三、四名くらゐで砂場で山など作つて遊んだ。
帰宅後、それを母にとがめられた。
なぜみんなに混ぢつて鬼ごつこに参加しなかつたのか、と。

砂場遊びはひとりでしてゐたわけではない。
MちやんやKちやんたちと一緒に遊んでゐた。
だが母にはそれさへ不満だつたのだらう。
なぜもつと大勢と一緒になにかしやうとしないのか。
さう責めるのである。

そんな状態だから、ひとりで本でも読んでゐやうものなら母の意にそまぬことこの上ないといふことになる。

それでも自分は本が好きなのだ。
さう思つてゐたんだがなあ。
気がついてみたら、別段本などたいして好きではないのだつた。
読書をするのは、ほかにこれといつた時間のつぶし方を思ひつかないせゐ。
見たいTV番組もなく、芝居や映画に行くのは気が引ける。出かけるのが好きではないからだ。

さうすると、本を読むくらゐしか、やることがない。
それだつて嫌ひだつたらしないので、それなりに好きなのだなとは思ふ。
でもなー、なんかこー、昔、自分はもつとちやんと本が好きだと思つてゐたはずなんだけどなあ。

床に伏せつて目が疲れるからTVも見られないと嘆いてゐて、それでも本を読むのは、読書が好きだからではない。
読んでゐないと不安だからだ。
なにかしてゐないと不安になる。
それで読むのぢやあるまいか。

いつそ、本を読むのをやめてみるか。
一ヶ月くらいためしてみたらどうだらう。
さう思ひつつも、気がつくと本を読んでゐる。

それは好きといふことなのでは?
そんな気もしないではない。
だが、心のどこかで「強迫観念なのではあるまいか」といふ声もする。

やはり一度、本からはなれてみるしかないか。

Thursday, 27 September 2018

懐かしのミステリマガジン

久しぶりに「ミステリマガジン」を買ひに行つた。
「快盗戦隊ルパンレンジャーvs警察戦隊パトレンジャー(以下、「ルパパト」)」に関する記事が掲載されてゐると聞いたからだ。

最寄り駅近辺の本屋に勇んで行つて、しかし「ミステリマガジン」はおいてゐなかつた。
なぜか「バーフバリ」の文字が背表紙にある「ミステリマガジン」はあつたけれど、七月号とおぼしかつた。
やつがれの求めるのは今月号である十月号だ。
それが、ない。
ミステリマガジンの発売日は毎月二十五日だと思つたんだがな。

本屋の総合・文芸の雑誌の棚の前で右往左往しつつ、突如、なんとはなし懐かしい気分になつてゐた。
昔、こんなことがあつた。
小学生のころ、「ミステリマガジン」や「SFマガジン」を発売日に買ひに行つて、地元の本屋の棚には見つけられなかつた。
そのときの思ひ出が脳裡に蘇る。

毎月は買へなかつた。
当時、どちらも六百円とか六百五十円とかしたと思ふ。
うまいことお小遣ひを貯めることができたときに買ひに行つて、ところがどちらもなかなかないのだつた。

さういふときは折を見て駅に行く機会のあつたときに大きな書店(少なくとも当時のやつがれにとつては大きかつた)に立ち寄つて探す。
一軒目で見つかれば大成功。
大抵は二軒目、場合によつては三軒目でなんとか出会ふことができた。

「ミステリマガジン」も「SFマガジン」もほかの小説雑誌に比べて表紙の紙が上等で絵もすてきだつた。
どちらかといふと「ミステリマガジン」を買ひ求めることが多く、そこで植草甚一と山口雅也とを覚えたやうに思ふ。
青木雨彦はすこし前に連載を終へてゐたやうだつたが、時折名前が出てくるので名前だけ覚えて、後に本で読んだ。

なんで「ミステリマガジン」や「SFマガジン」を買ふやうになつたのかといふと、端的に云へば、背伸びがしたかつたからだ。

小学校の同級生といつて、ちよつとデキる子といふのは、上にやつぱりデキる兄・デキる姉のゐる子が多かつた。
さういふ子は兄・姉のお下がりである知識・情報をなんの苦もなく享受してゐた。
や、「享受」といふのではなかつたかもしれないが、デキる兄・デキる姉のゐなかつたやつがれにはとてもうらやましいものにうつつた。

さうした存在のゐないやつがれは、みづからあれこれ開拓するしかない。
そこで「ミステリマガジン」「SFマガジン」に飛びついたといふわけだ。

単なるポーズ、見栄つ張り、こけおどし。

さうしたもののひとつが早川書房の雑誌だつたわけだ。

なんだか泣けてくるなあ。
情けなくて。
そんなことしなくても、ほかにいいものはたくさんあつたらうに。
その証拠に、コラムを書いてゐた人はいくらも覚えてゐるし、内容も記憶にあるものもあるけれど、小説の方はほとんど記憶に残つてゐない。
そのうち雑誌をなかなか読み終はらずに文庫本ばかり読むやうになつて、雑誌とは自然と疎遠になつていつた。
出会ふ順番が逆だつたんだな、多分。
先に単行本で推理小説なりSF小説なりを十分読んでから雑誌に手を出した方がよかつた。
いまとなつてはあとのまつりである。

小説雑誌は、そのほかにも「野生時代」だとか「オール読物」だとか、おもにエンターテインメント味の強い雑誌を買つてゐた時期がある。「メフィスト」も買つてゐたつけか。
それもまつたく買はなくなつてしまつた。

それがいままた「ミステリマガジン」とはね。
おそるべし、ルパパト。

もしかしたらほかにもやつがれとおなじやうに「ルパパトかー。「ミステリマガジン」、買つてみるか」と思つて手に取つた人が多いのかもしれない。
それであの書店にはなかつたのかも。
早く見つけないと売り切れてしまふかもしれないぞ。
と、心ばかり急くのであつた。

Wednesday, 26 September 2018

樹がふたつ 希に林と森ひとつ

今年六月末ごろ、「「探偵物語」の再放送が終はつてしまつた。もうTVをつけても成田三樹夫が出てゐることはない」といふやうなことを書いた。

去る日曜日、「帰ってきたウルトラマン」で坂田さんとアキちやんとが殺されてしまつて、もうTVをつけても岸田森が出てゐることはなくなつてしまつた。

「探偵物語」終了後の心の支へだつたのに。

と思つてゐたが、もしかすると年内に「必殺仕事人」の再放送がはじまるかもしれず、さうしたら第一話で見られるな、とか、かすかな望みをつないでゐるところだ。

去年の秋から今年の春にかけて、感染症系の病にたてつづけにかかり、爾来平日の夜の映画鑑賞をあきらめてゐる。
無理をすると再発する可能性が高いからだ。
再発してなにが困るかといふと、医療費がかかるといふことだ。
なにもせずのんびりしてゐれば治るといふのならいざ知らず、治療せずにはふつておくと重篤なことになるといふからおだやかではない。
だつたら映画はたまの休みのあいた日に、といふことで手を打つことにした。

映画だけではない。
平日の夜はなるたけ出歩かない。
まつすぐ家に帰る。
さうしてほぼ一年が過ぎた。

見逃した映画、聞き逃した落語、あきらめた展覧会。
風邪に恨みは数々ござる。

さうやつてあきらめてきたといふのに、この三連休、またぞろ体調をくづしてしまひ、予定をすべてあきらめることになつてしまつた。
ええ、くちをしやな。

身の丈にあつた娯楽を楽しめといふ思し召しなのかもしれないが。
さうはいふても世の中に楽しきことのあふれてゐるものを。
なんであきらめられやうか。

といふわけで、あきらめが悪いのがいけないのだ。
もう最初からなかつたことにしてしまひませう。

さうなると楽しみというて、あとは家でできること、あみものやタティング、紡ぎといつた手芸ごとに読書やTVしかないぢやあありませんか、お立ち会ひ。

吁嗟、だといふのに、もうTVをつけても成田三樹夫も岸田森も出て来はしないのですよ。
なんといふことでせう。

ところで、樹木希林の訃報からしばらくたつ。
Twitterでは前夫の話がまつたく出ないといふつぶやきを散見するが、さうかなあ。
新聞のWeb版とかで見かけたけどなあ。
さういふ人は新聞のWeb版は見ないのか知らん。
それとも新聞などはものの数には(とくにWeb版なぞは)入らないといふことなのか知らん。

おそらくは、愚考するに、さういふ人の「全然」はTVのことをさすのではないかと思ふ。
訃報後の報道についてはまつたくTVで見てゐないのでなんともいへないが、多分、ほとんどその話題に触れたものはないのだらう。
あつたとしても、つぶやく人の目には入らなかつたのかもしれない。
TVにはいまだこのていどの影響力は残つてゐるものかとも思ふ。

よくわからないけれどね。
やつがれは、樹木希林の私生活には興味がない。
映画やドラマで見られれば十分。
精々オフィーリアの扮装をしたポスターを見て「樹木希林(或は悠木千帆)のオフィーリアはどんなであつたらう。そのときのハムレットは、もしかしたら前夫ではあつたらうか知らん」と妄想するくらゐが関の山だ。

それで結構楽しいのだつた。

Tuesday, 25 September 2018

タティングレースのスカーフと顔見世興行

極細毛糸を使つたタティングレースを細々とつづけてゐる。

以前もおなじパピーのNew2Plyでタティングレースのスカーフを作つた。
京都南座の顔見世にしていくつもりで計算して、一日一枚作れれば百枚つなげたスカーフにできるといふ計画だつた。着手したのは六月ごろだつたのではないかと記憶してゐる。かなり余裕を持つた計画だつた。
実際には七十枚ほどつないだところでちやうどいい長さになつたので、そこでやめた。
一日一枚といふのは当時は控へめな計算で、実際には二、三枚作れたが、タティングできない日もあらうといふことを考慮した。それに途中で飽きることもあるかもしれないし。
我ながら危機管理ができてゐたのではあるまいか。

今年も顔見世には行くつもりでゐるけれど、いま作つてゐるタティングのスカーフは顔見世に向けて作つてゐるものではない。
あ、「スカーフ」つて書いちやつた。
さう、スカーフにするつもりでゐる。
バイアスのスカーフになつたらいいなあと思ひつつモチーフをつないでゐる。
一列五枚で、ななめになる分長さが出ないから三十列くらゐは必要かな、といふ気がしてゐる。
前のスカーフを作つてゐるときは、それこそ睡眠時間を削つてでもタティングをしてゐたけれど、いまはそんなことはしてゐない。
だからモチーフも作れて一日一枚だ。
顔見世にはとても間に合はない。

ところで今年は京都南座改築新装オープンといふこともあつてか十一月には高麗屋三代の襲名披露、十二月には従来の顔見世と二回興行がある。

いまの南座が新築でオープンした年もそんなだつたな。
三代目中村鴈治郎襲名披露を十一月十二月と二ヶ月続けてかけてゐたと記憶する。
先年、祇園甲部練場での顔見世で「落人」の勘平をやつたのを最後に實川延若がこの世を去つてゐたのが残念で仕方がなかつた記憶もある。

この後しばらく十一月十二月と二ヶ月連続の顔見世が続くが、どうも十一月はやはり客足が延びないらしく、顔見世といへば十二月といふことでおさまつた。

おさまつたんだがなー。
またぞろ二ヶ月連続顔見世とか云ひ出したりしないか知らん。
云ひ出したとしてもお客が来なけりややめるかな。
興行があるのは結構だけれども、顔見世価格だと二の足を踏んでしまふのだつた。
それに最近、ちよつと小屋が開きすぎなんぢやあるまいか。
それはやつがれ風情の心配することではないのか。

とりあへずせつせとモチーフを作ることにしやうか。

Monday, 24 September 2018

輪編みの作り目

ところで人は輪編みのときの作り目をどうしてゐるのだらうか。

現在、ヨガソックスを編んでゐて、もうすぐ片方編み終はる。
もう片方編むのに作り目をすることになるわけで、そんなことを考へてゐる。

これはあくまでも自分のやり方で、どこで見て「さうするといいのか」と覚えたものだ。
どこで見たのかは記憶にない。
本ではなかつた気がする。
Webで見たとすれば、多分blogなどなかつたころのことだと思はれる。

最初から輪編みで編むときの作り目は、一目多く作る。
輪にしたあとの段で端の目同士を一度に編む。
輪にしてすぐ端の目をもう片方の端の目にかぶせる方法も試してみたが、次の段で二目一度の方が自分としてはうまく輪にできると思つてゐる。

四本針や五本針、輪針を使ふ場合でも二本使つて編む場合やマジック・ループの場合は、編み始めの目を針の右端にはおかないやうにする。
少なくとも最初の数段はさうする。
たとへば五本針を使つて全部で68目作つて16目づつ針に分配するとして、編み始めの数段は15目・16目・16目・17目にし、4本目の針に最後にかける目が1目めになるやうにする。
かうすると、編み始めと編み終はりとのギャップが小さくなるからだ。
手袋などで親指部分の目を休めて次の段で作り目をするときなどもおなじやうにしてゐる。

輪ばりで編む場合は、最初の数段は針にリングをかけないやうにする。
リングは最初の目にかけておいて、ギャップなく編めてるなーと確認できてから針にかけるやうにする。
そんな感じかなあ。

おそらく、ほかにもあれこれきれいに編む方法を編み出してゐる人は多からう。
あまり本では見かけないし、編み図などを見てもさうなので、敢て書いてみた。

Friday, 21 September 2018

「幽玄」とクール・ジャパン

今月歌舞伎座の夜の部で「幽玄」といふ演目がかかつてゐる。
その中で「羽衣」と「石橋」、「道成寺」とが演じられる。
坂東玉三郎が太鼓芸能集団鼓童をfeatureした舞台で、そのほかに若手の歌舞伎役者が出演してゐる。

これを見て、「東京オリンピックの開会式や閉会式はこんな感じになるのかもしれないな」と思つた。

「羽衣」も「石橋」も「道成寺」ももともとは能の演目である。
そこから派生した歌舞伎の演目にもある。
いづれもきちんと物語や背景がある演目ばかりだ。

この中で一番もとの演目の物語が表現されてゐたのは「羽衣」だ。
地上に降り立つた天人が松にかけておいた羽衣を漁師・伯竜が手にする。天人は羽衣を返してくれと訴へ、伯竜は天人の舞を見せてくれたら返さうといふ。天人は伯竜に舞つてみせ、やがて天へと帰つてゆく。

「幽玄」の「羽衣」を見てもそのあたりの内容はおぼろげに理解できる。
なぜか伯竜が十一人もゐるけれど。
若手役者一人では玉三郎に太刀打ちできないからか、萩尾望都でもやりたかつたのか(伯竜が「十一人いる!」)、舞台が静岡だけにサッカーをイメージしたのか、そこのところはよくわからない。
でも、「ああ、「羽衣」つて、さういふ話なんだな」といふことはなんとなくわかる。

「道成寺」は能のそれといふよりは歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」の色合ひが強い。
ちやんと道行もある。
安珍清姫といふ背景があることは見てはとれないけれど、なに、「京鹿子娘道成寺」だつてただ見聞きしてゐるだけではそこまではわからない。
「鐘に恨みは数々ござる」といふ詞章と踊りとからうすうす知れる、といつたところか。
おお、なんだか幽玄ぢやん。
一方、「幽玄」の「道成寺」はといふと、「京鹿子娘道成寺」を知つてゐるからわかるけれど、途中なにがなんだかよくわからない部分があつて、「なんでこれが「道成寺」なんだらう」と疑問をいだいてしまふ。
道行から出したことを考へると、玉三郎はできることなら「京鹿子娘道成寺」を踊りたいのかもしれない、といふ気もしないではないが、見てゐるうちに「これはなんだか全然違ふことをしたいのだな」といふ気分になつてくる。

一番よくわからないのは「石橋」だ。
能の「石橋」には、この世には清涼山といふところがあつて、その深山幽谷に自然の為したる石橋があり、文殊菩薩の獅子があらはれて……みたやうな背景があるのだが、「幽玄」の「石橋」にはさういふ背景はきれいさつぱりなんにもない。
単に獅子の扮装をした役者が五人出てきて、毛振りを見せて終はり。
さういふ演目だ。
幽玄といふ奥深い趣は微塵もない。
これぢやあ「石橋」ぢやなくて「Lion Dance」だよ。

それが悪いとは云はない。
はじめて歌舞伎を見る人には、めんどくさい背景は抜きにして華やかな「Lion Dance」を見るだけの方が楽しいといふこともあらう。
そもそも最近の歌舞伎の客は「外国人の目」で歌舞伎を見ているといふ。
外国人の目で見たら、獅子が文殊菩薩に由来するもので、だとか、清涼山といふところがあつて、だとか、さういふことはどうでもいいのかもしれない。
つまり、グローバルな表現としての「石橋」が「幽玄」の「石橋」である、と、さういふことなのかとも思ふ。

それが悪いとは云はないが、それでいいのかなあ。
どことなく「クール・ジャパン」の匂ひがしてこないか。
入り口としてはこれでいいのかもしれない。
さうも思ふ。
でもこれ、歌舞伎座でかける演目ぢやないよな。
玉三郎と「幽玄」といふわび・さびを思はせるやうな題名にだまされてゐる。
そんな気がしてくる。

そして、東京オリンピックが行はれるとして、その開会式や閉会式にはかうした演目が出てくるのぢやないか。
演目や物語の背景は全部取つ払つてしまつて、派手で見栄えのするところだけ集めてくる。
さうなるんぢやないかな。
たかがオリンピックの開会式だ。
それで全然かまはない。
この件に関してはさう思ふ。
それと歌舞伎座とは違ふ。
さう思ふんだけどなあ。

でもまあ世の中、見栄えさへよければいい、といふ向きもたくさんあるので、かうしたものなのかもしれない。

Thursday, 20 September 2018

なんでもかんでも恋愛関係

以前、女の人がひとり旅をすると宿から宿泊を断られるといふ話があつた。
自殺しに来たと思はれるからだ、といふのがその理由だつた。

男の人のふたり旅は宿の人に「さういふ関係」だと思はれがちだといふ話もあつた。
「さういふ関係」といふのは、つまり互ひに愛し合つた仲だといふことだ。

時は流れて、女の人のひとり旅はよく見かけるものになつた。
宿泊を断られたといふ話も久しく耳にしない。

一方の男の人のふたり旅はどうだらう。
相変はらずの状況なんではないかと推測してゐる。

「セサミ・ストリート」の脚本家が同番組のレギュラー・マペットであるアーニーとバートとはゲイだと思ひながら書いてゐた、と云つたといふ。
それを受けて製作会社はアーニーとバートのふたりは「仲のよいともだち同士である」と発言したと聞いた。

アーニーとバートとは同居人だ。
オレンジ色で横長の顔をしたいたづら者のアーニーと黄色くて縦長の顔をしたきまぢめでどこか偏屈なバートとの関係がとてもおもしろい。

こどものころから見てゐるけれど、ふたりがさういふ関係だと思つたことは一度もない。
やつがれの「恋愛脳」とでも呼ぶべき脳の部位が未発達であるからだらうとは思ふ。
また、件の脚本家が番組に参加するやうになつたのは1984年のことだといふ。
それだとやつがれが一番「セサミ・ストリート」を見てゐた時期より後なので、それが原因でもあるのかな、とも思ふ。

それにしても、なぜ人はさうやつてなんでもかんでも恋愛関係にしたがるのかな、とは思ふ。

わづらはしいぢやん。

このあたりが「粗にして野だが腐ではない」所以なのかもしれないが、しかし、いはゆる「腐女子」と呼ばれる人々だつて、みづからの妄想の仲ではふたりをさういふ関係にしても、実際はまた別と考へてゐると考へてゐる人もゐると思ふんだよなあ。
よく「自分の好きなカップリングは原作通り!」などと豪語する人の話も聞くけれど、さうでない、「原作はまあ原作でああだけれど、自分の脳内ではかう」といふ人もゐるんぢやあるまいか。
さういふ人の方が多いんぢやあるまいか。
そんなことはないのかな。

いづれにしても、「必殺シリーズ」などを見てゐても「今回は恋愛ものだ」とわかつた時点で興味を失つてしまふ人間のいふことなので、単に自分がさういふの好きぢやないんだよ、といふだけのことなのだらうとは思ふのだが。

それにしてもアーニーとバート。
ないよなー。
これがグローバーだつたらなんとなくわかるのだ。
グローバーつてつねに愛されてゐないと不安なタイプのマペットだと思ふんだよね。
相棒が存在しないのであれこれ云はれないだけなのかもしれないが。

Wednesday, 19 September 2018

日記のこと

日記といふか日誌といふかを、断続的に長いことつけてゐる。
このblogも日誌のやうなものだらうか。
このblogにうつる前、htmlをせつせと手で打ちながら書いてゐたのは日誌だつた。

日記と日誌との違ひは、自分では日誌は後日役立てるもの、と理解してゐるので、自分のつけてゐるのは日誌だと思つてゐる。
公的な記録ではないが、大抵は未来の自分が見ておもしろいと思ふだらうやうなことを書き残すことにしてゐるので、さういふ意味では「日誌」だらう。
未来の自分なんて、他人のやうなものだしさ。

だが、以下は一般的なことを書くつもりなので、「日記」で統一する。

日記を書かうと思つたのはいつのことだつたか。
幼稚園のときではないと思ふ。
おそらく小学校にあがつてからだ。
宿題で絵日記を書かされたことがある。
自分で書きたくて書いてゐるわけではないのでそんなに続かなかつたし、提出してゐた期間もさう長いことではなかつた。

その後、「アンネの日記」を読んで、自分も日記をつけたいと思つた。
これも小学生のときのことだ。
親が使はなかつたのだらう、古いハードカヴァの日記帳をもらひ受けて書き始めたのはよかつたが、これも長くは続かなかつた。
古い日記帳に心ときめかなかつたし、毎日書くといふ習慣を身につけることができなかつた。

転機は小学校の高学年のときにあらはれる。
友だちにつれられて、家からはちよつと離れたところにある住宅街の中の文房具屋に行つた。
とくにこれといつて買ふつもりはなかつたが、なんとはなしにノートを一冊手にした。
店番のをばさんになにを書くつもりなのかと訊かれて、我知らず「日記を書かうと思つて」と答へてゐた。
するとをばさんが「だつたらこのノートの方がいいよ」と出してきてくれたのは、立派な厚紙の表紙のついたスパイラルノートだつた。
キョクトウのロイヤルカレッジノートと似たやうな体裁で、表紙の色は褪せたやうな抹茶色だつたと記憶してゐる。
このノートとの相性は抜群で、それまで全然書けなかつた日記がなぜかつづくやうになつた。

その後も似たやうなスパイラルノートに日々あれこれつづつてゐた。
当時のノートはもう全然残つてゐないだらうと思ふ。
高校生になつたばかりのころの日記は残つてゐるかもしれないが、どこにノートをしまつたのか定かではない。

日記になにを書いてゐたのかといふと、日々あつたことしたことなどはほとんど書かず、今日はこんなことを考へた、あんなことを思つた、といふやうなことばかり書いてゐた。

中学生のときに部活動の友人に庄司薫を勧められて読んだ。
庄司薫は日記マニアで、学校に通つてゐた時分には「本音の日記」「建前の日記」をそれぞれつけてゐたといふ。
それをまねした時期もあつた。

長いことつづけてゐた日記も就職とともに一時途切れ、その後は一部は手帳といふ形になつて、もう一部はWeb Pageやblogといふ形になつてつづいてゐる。
思へばTwitterもさうか。
Twitterはあとで見たときに「この日はこんなことをしたのか」とわかるやうなことをつぶやくやうにしてゐる。
全然さうは見えないかもしれないけれど。
Instagramはもつとさうかな。

日記を書くのになにを使ふかはとても重要だと思ふ。
それは文房具もさうだし、Webのツールにしてもさうなのだらう。
やつがれはFacebookは向かなかつたが、Twitterはどうやら気に入つてゐるのらしい。

さうしてつづけてなにかいいことがあるのか。
とくに日記帳だつたノートがなくなつてしまつてゐるといふのに、なにか意味があるのか。

たぶん、意味はないと思ふ。
書いたのだから、もつとちやんと見返さなければな。
さうしたらちよつとは意味があるのぢやあるまいか。

でもたぶん、意味はなくてもいいのだ。
なにか書きたいから書く。
それでいいぢやあないか。

Tuesday, 18 September 2018

出先でタティング

外出先でちよこちよこタティングをしてゐる。

先週も書いた極細毛糸でのタティングを待ち時間などのあひだにつづけてゐる。
毛糸はパピーの New2Ply。
以前、田中八重洲画廊での藤戸禎子・盛本知子のタティングレース展で、盛本知子が「最近の極細毛糸ではタティングできない。糸が弱すぎて」といふ話をしてゐるのを耳にした。
おそらく、ベビー用毛糸だとさうなのだらうと思ふ。
ベビー用毛糸の極細毛糸は使つたことがないが、パピーの New2Ply ならできる。
実際に写真のモチーフを作つてゐるし。

Tatting w/ Lace Weight Yarn

ただ、下手なせゐか、毛糸でシャトルの糸と毛糸玉の糸とを使つたものとかシャトル二つ使ひのものとかはなかなかうまく作れない。
シャトル二つ使ひでもスプリットリングだけならいけるかな。これは試したことがない。

そんなわけで、毛糸でタティングするときはいつも同じやうなモチーフになつてしまふわけだ。

それでも今回はいろいろ試してみた方なんだけどね。
先日購入した藤戸禎子の「復刻版 タティングレースモチーフ&エジング101」やMary Konior の「Tatting with Visual Patterns」を見ながらシャトル一つで作れるモチーフを二、三試してみた。
これはと思ふモチーフはつなげてもみた。

でもなんだか違ふんだよなあ。

それで結局以前マフラーを作つたときのモチーフに戻つてきてしまつた。
前回は端がモチーフひとつで三角形になるやうに作つてみたが、今回はバイアスになるやうに並べてみるかなあ。
いくつつながう。
前回は、百枚つなげるつもりで、途中で十分な長さになつたのでそこでやめたのだつた。
今回は、まづ横にいくつ並べることにしやう。

まだモチーフ二つしかつなげてゐないのに、考へることだけは壮大なのだつた。

Monday, 17 September 2018

くつ下編みの醍醐味

Puppy のブリティッシュファインで編んでゐるヨガソックスは、やつとかかと部分の伏せ留めをして、甲の部分に入つた。
まだもう片方を編まねばならないが、だいぶ進んだ気分である。

このヨガソックスは 9to5 Socks (rav) を参考にしつつ、かかととつま先とを除いて編んでゐる。
ヨガソックスを編む所以は、冬にそなへて、だ。
この前の冬はずいぶんと寒くて、毎日のやうに自分で編んだヨガソックスを市販のくつ下の上に重ねて履いてゐた。さうでないのときは厚手のくつ下を履いてゐた。
手編みのヨガソックスはいまのところ三足あつて、それだと日々回らないので、追加で編んでおかうといふ寸法だ。

ヨガソックスのいいところは、つま先とかかとといふ一番穴のあきやすい部分を編まないといふことだ。
くつで擦れてダメになるといふことがない。
最近はダーニング・マッシュルームが発売されたこともあつて、くつ下の補修もおもしろいよね、といふことになりつつあるのかもしれない。
でも、個人的にはマッシュルームよりエッグが好きなんだよなあ。
それに、穴をかがるのには縫ひ針様の針を使ふ。
縫ひ針は苦手なんだよなあ。

といふわけで、外に履いていく用にはヨガソックスの方が都合がいいわけだ。

しかし。
実際に編んでゐると、くつ下編みの醍醐味つて、つま先やかかとにあるよな、といふ気がしてくるのだ。

一口にくつ下を編むといふが、かかとやつま先の編み方には何種類もある。
組み合はせを考へたら膨大な数になる。と思ふ。
また、模様のあるくつ下の場合、かかとまで模様を続けて編むものもあつて、まさに千差万別なのだつた。

あー、やつぱり普通にくつ下編まう。
その前にヨガソックスを仕上げなければ。

Friday, 14 September 2018

Marvelous Marginalia

書物になにか書き込むことに抵抗がある。

自分の買つた本なのだから、好きに使つていい。
気に入つたところ気になつたところには線を引いて、ときに思つたことを書き込む。
さうして「使ひ込んで」こそ。

さういふ話を聞くと、それもそのとほりかな、とも思ふ。

そもそもは付箋を貼るのも嫌ひだつた。
貼るやうになつたのは、Kindle を使ひはじめたことが大きい。
Kindle には付箋を貼る機能もあれば、気に入つたところ気になつたところに線を引く機能もある。メモを書き入れる機能もだ。

さうして Kindle を使つてゐるうちに、紙の本を読むときも気になつた部分に印をつけたいと思ふやうになつた。
でも線を引くのは気が引ける。
電車の中で読んでゐるときにはちよつとやりづらいし。

といふわけで、付箋を貼るやうになつた。

付箋を貼るやうになつた理由としては、カンミ堂の「coco fusen」の存在も大きい。
それまでは付箋は好きではなかつた。
ぺらぺらとしてゐて、さらには色が気に入らない。この色なら、といふ色が存在しない。
「coco fusen」は発色が鮮やかで、さらには「ケースごと貼つて使う」といふ点が気に入つた。

でも、なかなか線を引くことはできずにゐる。
ましてや文字を書き込むだなんてできつこない。

ところがあるとき魔が差した。
自宅で酒を飲むときの友として、柴田錬三郎の三国志を一揃へ買つてきた。
すでに持つてゐる本である。
中学生のときにお小遣ひをちまちま貯めては購入した本がある。
それを大人買ひした。
酒の友として読み、ときに線を引き、ときにツッコミを書き込むためだ。
それ用にペンも購入した。

書き込むのが前提で買つた本なので、そこかしこに線が引いてあるし、書き込みもある。
酒の力も手伝つて、禁忌をやぶることができた。
さういふことなのではないかと思ふ。

でもほかの本にはむつかしいな。
NHKの語学講座テキストには書き込めても、その他の書籍はむつかしい。
付箋を貼るやうになつた、と書いたが、明治書院の「新釈漢文体系」には貼れない。
なんだか怖くて。
おなじものを二冊買ふやうな本ぢやないしね。

さう考へると漢籍も文庫で気楽に読むのがいいのかもしれない。
昨日、講談社学術文庫の「論語」を読んでゐると書いたが、付箋を貼りながら読んでゐる。

でもなあ、図書館から借りてきた本を見ると、書き込みのあるものもあるよなあ。
みんな、本に書き込むことに抵抗はないのだらうか。
しかも図書館の本だ。
書かないだろ、普通。

さう思つたが、かつて、一度だけ「これは書かずにはゐられなかつたんだらうなあ」と思ふ書き込みがあつた。
学校の図書館にあつた本だ。
オペラの筋などを紹介する全集の一冊で、「トリスタンとイゾルデ」だつたと思ふ。もしかすると「ローエングリン」だつたかもしれない。

本には、オペラ(「トリスタンとイゾルデ」だから楽劇かもしれないが、ここはこれで)の演奏や録音についても言及した部分があつて、ルネ・コローの performance についてさんざんな評が書かれてゐた。
書き込みはその文章の余白にあつた。
「それはさうぢやなくて」といふ叫びが聞こえてくるかのやうな、あの peformancde はあれはあれですばらしいのだ、といふことが、おそらくはできるだけ短く書かうといふ努力のもと、鉛筆でつづられてゐた。

ああ、この人は、書かずにはゐられなかつたんだな。
図書館の本とわかつてゐて、否、図書館の本だからこそ、ここに書かれてゐる批評を鵜呑みにしてもらひたくなかつたのだらう。

ファンつて!

それを思ふと、本になにか書き込まないのは、心の底から書かずにはゐられないといふことがないからなのかもしれない。
そんな大げさに考へることはない?
さうかもしれない。

Thursday, 13 September 2018

「論語」と「絵本太功記」十段目

安田登の「身体感覚で「論語」を読みなおす。」を読んだ流れで講談社学術文庫の「論語」をぱらぱらと読んでゐる。

自分では「より善く生きたい」と思つてゐるが、だからといつて「君子」といふわけでもなく、「ダメな人間が学問や文化を語つてもダメ」みたやうな身も蓋もないことが書いてあると、「そもそも学問や文化のことなんて語れないからダメでもいいか」と思つたりする。

「論語」を読んでゐると、案外個人に特化した内容が多いやうに思ふ。
「主には忠、親には孝」とはいふものの、主があまりにもできない人間だつた場合には忠義を尽くす必要はない、といふ。
いいぢやん、孔子!
と思つた、といふことは以前も書いた。

儒教といふと、なにかとお家大事だつたり上司に従へとか、さういふ考へだと思つてゐたけれど、ちやんと「自分で考へろ」とも書いてある。直接ではないけれど。

やつぱり読まずに判断してはいけないんだなー。
でも世の中読まずに「論語つてかういふものでせう」と判断してゐる人が多いのだとしたら、読んだうへであれこれ云つてもあんまし意味はないのかもしれない。
自分で体験しないかぎり納得しない人間はごまんとゐる。
と、そのうちのひとりが云うても説得力はないか。

主が愚かな場合は従はなくてもよいのなら、「絵本太功記」の武智光秀もあんなに苦しまずに済んだのぢやあるまいか。
「絵本太功記」でなにが納得いかないつて、光秀の母の光秀への非難だ。
これも以前書いたやうに思ふ。
反逆するなんて武士の風上にもおけぬ、名家の名に泥を塗るやうなことをしでかして、と、さんざんな云ひやうだ。

主が愚か或は人間として問題があるのなら、光秀は反逆しなくてもよかつた。
主の元を去ればよかつたのだ。
名家といふなら暮らしに余裕もあらう。
または即雇つてくれる先もあつたのではあるまいか。

しかし、主がどうあれ忠義を尽くさねばならぬ、といふ世の中では去るわけにもいかず、それで鬱屈をためてたうとう愛宕山で「ときはいまあまがしたしるさつきかな」といふことにになつてしまつた。

また名家名家とたくさんさうに云ふが、明智家(とここでは書くことにする)は摂津源氏の流れを汲んでゐて、摂津源氏といへば源頼政は平清盛に三位にあげてもらひながら以仁王の乱に参加してゐるし、多田蔵人は鹿ヶ谷の陰謀に加はりながら裏切つたといふことになつてゐる。
先祖だつて裏切つてゐる。
それも盛大に裏切つてゐる。
名家を口にしながら、なぜ光秀はなぢられねばならぬのか。

とにかく「絵本太功記」の十段目を見て納得できた試しがない。
いつ見ても「いや、さうは云ふけどさ」と思つてしまふ。
きつとなにか別の見方があるのだらう。

Wednesday, 12 September 2018

手帳を使ふわけ

手帳に求めるものとはなんだらうか。

巷にあふれる手帳を見るに、やはり社会的な成功だとか自己の目標達成の一助となつてほしい、と思つてゐるのかなあ。

予定がなんのために必要か、といふ話にもなるな。
これこれかういふことを実現するには、いつまでにこれをして、いつまでにはかうなつてゐて、しかるのちにああする、みたやうな予定をたてるには、確かに手帳があつた方がいいだらう。

以前よく書いたやうに、やつがれの手帳は基本的には予定よりも実際にしたことの方を書くものだつた。
記録のために手帳を使ふ。
あとで見返して「あのときはあそこにいつたのか」「このときはこんなことをしたのか」とふりかへるための手帳だつた。

もちろん、予定も管理はしてゐる。

バンドギャル略してバンギャと呼ばれる人々が、チケットの発売日やコンサートの予定、交通手段や宿の手配に特化したスケジュール帳を作つた、といふ話を聞いたことがある。
芝居を見に行く身としては気になるところだ。
チケットの前売日や観劇の予定、チケット代の貸し借りなどについては、もともと手帳につけてはゐた。
Bullet Journal を使ふやうになつてから、そのあたりのことはより管理しやすくなつた気がしてゐる。

Bullet Journal のいいところは、予実管理がしやすいことだ。
前日の夜または当日の朝、やることや予定を書き出す。
実行するたびにタスクの終了を記す。
実行できなかつたことは、後日にゆづつたりやめてしまつたりする。
Bullet Journal はそこのところとてもやりやすい。

そんなわけで Bullet Journal にして以来、日々のこまごまとしたタスクはかなりこなせるやうになつてきた。
その先に行けない、とは以前も書いたとほりだ。
なにか大きいプロジェクトを計画してそのとほりに実行していく、といふやうなことができずにゐる。

と、毎回書いてゐて一向にできずにゐるので、つまるところやる気がないのだらう。

ぢやあ手帳はなんのために使つてゐるのか?
とりあへず最低限社会に迷惑をかけないやう生きていくため、なのかな。

Tuesday, 11 September 2018

毛糸でタティング

最近、タティングばかりしてゐる。
効用としては、無駄に落ちものゲームとかで時間をつぶすことがなくなつたこと、かな。
反対に、あみものとかほかにしたいことができてゐない、もつといふと、やらねばならないこともできてゐない、といつたところか。
まあ、趣味といふのはさうしたものか。

ここのところクロバーのタティングシャトルにめいつぱい糸を巻いて(これを人呼んで「藤戸巻き」といふとかいはないとか)、Mary Konior の Black Magic といふしをりを作つてゐた。
このしをりは、Tatting with Visual Patterns といふ本に掲載されてゐる。
もう何度も作つたことがあるのだが、毎回うまくできない。
今回は、いままでできないと思つてゐたロゼッタ・モチーフが一応できたこともあり、もしかしたら Black Magic もできるやうになつたかも、と思つて作つてみたが、やはりうまくできなかつた。
以前よりはましかな、といつた程度である。

6-9-6 の長いチェインが向かひあふ部分があるのだが、このチェインがいつもきれいな形にならないんだよなあ。

それぢやあといふので、Black Magic とよく似た構造の Anniversary といふパターンをしをりとして作つてみた。
これもおなじ本に掲載されてゐる。
Anniversary は Black Magic よりすつきりした構造をしてゐるので、作るのも比較的かんたんだ。
できあがりも Black Magic よりはまともにできてゐると思ふ。
Anniversary をもう少し練習してみるかなあ。

その後、シャトルにあまつた糸でモチーフなど作つてみてゐたが、ここで毛糸をシャトルに巻いてみることにした。

Tatting w/ yarn

以前も極細毛糸でマフラーを作つたことがある。
そのときに使つたパピーの New2Ply を色違ひで買つてきた。
またマフラーかなにかちよつと大きいものを作るつもりでゐる。

まづは試しにモチーフをいくつか作つてみやうと思つてゐる。
いくつもつなげることになるので、作つてゐて飽きないものぢやないとねー。

タティングは、綿や麻、絹など伸縮性のあまりない糸でする手芸だと思ふ。
毛糸のやうに伸び縮みする糸は扱ひづらい。
さうわかつてゐつつ、スティッチのちよつとふつくらした感じが好きでつひ使ひたくなつてしまふんだよなあ。

それにしてもちよつとタティング熱が高すぎる。
このまま長続きするといいのだが。

Monday, 10 September 2018

あみもの用かばん

最近はなにか手仕事をするとなるとタティングばかりで、あみものはほとんど進んでゐない。

これではいけないと思つて、トートバッグをとりだしてきてはいろいろあさつてゐる。
我が家に来る帆布のトートバッグはかたつぱしから編みかけのもの入れになる運命にある。
これまでこの運命から逃れたトートバッグは二点、それもいづれも家にある中では一番めと二番目に新しい手提げなので、いつ編みかけ入れになつてもをかしかない状況だ。

なぜ帆布のトートバッグなのかといふと、まづ毛糸のひつかかるところがほぼないから、といふのが理由としてあげられやう。
帆布のトートバッグで、ファスナーがなく、これといつた金具もついてゐないものは編みかけ入れに最適だ。
トートバッグは大抵底が大きくて、いろいろなものが入れられる。
小さいバッグには帽子やくつ下などこものの編みかけ、大きいバッグには大物の編みかけを入れる。
編み棒も毛糸もあみものの本もその他あみもの道具も基本的には全部入れることができる。
持ち手があるから持ち歩きやすい。
持ち手がふたつあるので、二色の編み込み模様のときなどは片方の持ち手に一色、もう片方にもう一色の糸を通すと塩梅がいい。

編み終はると、ほぼ必ず毛糸があまる。
その毛糸をいれたまま次なるプロジェクトの毛糸と編み針などをトートバッグに入れる。
これをくりかへしてゐると、いつしかトートバッグが毛糸でいつぱいになつてしまふ。

さうなると、その時点までは手提げとして使つてゐたトートバッグがあみもの用かばんに昇格する。
そんな感じで、あみもの用になつてしまつたトートバッグがあとを絶たない。

これはいい加減なんとかしないとな、といふので、最近はトートバッグは外出時に手提げとして使つてゐる。
うーん、でも、外出先でも編みたいよねー。

かくしてトートバッグはあみもの用かばんになつてしまふのだらう。

Friday, 07 September 2018

疲れてゐては幸せにはなれない

生きる目的は幸せにはない、役に立つことにある。

でも結局は、役に立つといふことは幸せつてことなんぢやないの、と思つたりもする。

人はものを買ひ、他人とつきあひ、好きではないけれども給料のいい仕事につき、休みを取る。すべて、「さうすれば幸せになれる」と思ひながら。
リンク先の記事にはさう書いてある。
さうやつて、いつまでも幸せを追ひ求めつづけてゐる、といふのだ。

でも、それつて全部消費してるだけだよね、と記事はつづく。
消費するだけ、利用するだけの人生はつまらない。
人は役に立つこと、役に立つなにかを作ることで幸せな気分になる。幸せとは、役に立つことの副産物にすぎない。

なるほど、とは思ふわけだ。

生きていく目的を見失ひ、「なんのために生きてゐるのか」と日々疲れ、なにをしても楽しくないと思ふのは、世の中の役に立つやうなことをしてゐないからなのだらう。

しかし、ぢやあどうすれば役に立つことができるのか。

記事には、自分の職掌外のことで上司を手助けしたり、母親を温泉につれて行つたり、配偶者のためにコラージュを作つたり、人生について学んだことを記事に書いたり……とさまざまなことが書いてある。

これまた、なるほど、だ。
さうやつて世のため人のためになるやうなことをして生きてゐれば、満足感は得られるだらう。
自分のためではなく、他のために生きる。
利他的に生きる。それが最終的には幸せになるための生き方なのかもしれない。

いつもさうできれば問題がない。
たとへば、一週間働きづめで疲れてゐて、帰りの電車でやつと座れた。
そのとき、目の前に幼いお子さんをつれたお母さんがあらはれたら、どうする?
下車する駅までは45分はある。
一昨日他線の運転見合はせで超絶混雑する電車に乗つて帰つたときに腰を少々傷めてもゐる。
それでも相手に席を譲るだらうか。

記事には「役に立つ存在であることといふのは考へ方のひとつである」とある。
おそらく、考へるまでもないのだ。
目の前に自分より弱い立場の人がゐたら、手助けする。
なにも考へずにそれができるやうになつてはじめて役に立つことができるといへるのだらう。

でも無理なこともある。
つひ、「いまの自分には無理」と考へてしまふ。
さういふことがある。
睡眠不足だつたり疲れきつてゐたりするとどうしてもさうなつてしまふ。

つまり、疲れてゐては幸せにはなれない、生きる目的を追求することができない、といふことか。
まづはそこからなのか。

Thursday, 06 September 2018

知りたいやうな知りたくないやうな

情報カードに書くことを少し変へてみた。

このまま情報カードが増えつづけ、収拾がつかなくなつてもなー、といふ点についてはつねに危惧を抱いてゐて、先週も「タスクフォースを作らなくちやね」といふやうなことを書いた。

それを書いて、考へた。
PoIC にはカードを四つに分類してゐる。
自分なりに訳すと日誌、思ひつき、タスク、引用、といつたところだらうか。
日誌はそのとほり、日々の記録だ。何時に起きて何をして、天気はどうで、家や学校、職場でこんなことがあつて、といふやうなことを記す。
読んだ本の記録などもここかもしれない。
思ひつきは、思ひついたアイディアを書く。
やつがれは日誌と思ひつきとのあひだにあまり区別がつかないなと思ふことがあつて、さういふことはとりあへずシステム手帳の Bullet Journal に書くことにした。
タスクは ToDo だ。
これが情報カードだと管理しづらくて、早いうちから Bullet Journal に書くやうにしてゐる。
PoIC の Wiki を見ると 43Tabs といふシステムが紹介されてゐて、この方法はとてもよささうに思ふのだが、まだ試してみたことがない。
最後の引用は、本を読んだりTVを見たり街を歩いてゐたりして気になつたことばをそのまま書き記すことだ。
論文を書くために情報カードを使つたことのある向きならおなじみのことだらう。

情報カードを使ひはじめたのが去年の11月で、上にも書いたとほり、タスクについては早々に Bullet Journal で管理するやうになつた。
さらに、先週から日誌についても Bullet Journal に書くやうにした。
日誌は時系列で見たいと思つたからだ。
PoIC の Wiki では、日々書きためた日誌から頭痛の原因をつきとめる、といふ例が出てゐる。
ゆゑに日誌を情報カードに書き留めないのにはちよつと抵抗はあつた。
しかし、タスクフォース化してカードの削減をはかるときに、日誌はちよつと扱ひづらいぞ、と思つたのだ。
タスクフォース化するには、似たやうな内容のことを集める。
日誌は、一枚一枚、一事項一事項独立してゐて、まとめやうがない気がする。
Bullet Journal には書いてゐるので、いざとなつたら抜き出して書くこともできる。
そんな手間のかかることはしない気もするけれど。

そんなわけで情報カードには思ひつきと引用だけを書くことにした。
日誌だか思ひつきだか区別のつかないものも書く。
それで二千枚くらゐたまつたところで見てみたら、自分がなにに興味があるのかわかるのではないか。
さう思つたのだ。

自分がなにに興味があるのかわからないなどと、情けないことこのうへない。
さう思ふ一方で、単に自分がなにに興味があるのか知りたくないのではないか、といふ気もする。
知るのが怖いのだ。
いまさらそんなこと知つても、ねえ。
そんな気もする。

しかし、情報カードといふ形になつたら現実から目を背けるわけにもいくまい。
二千枚たまるのはだいぶ先のことのやうに思ふが、いまからその日にそなへやうと思つてゐる。

Wednesday, 05 September 2018

最近見ているTVドラマ

最近楽しみなものといふと、日曜日の朝のスーパーヒーロータイムと将棋、おなじく夜の「帰ってきたウルトラマン」だらうか。

録画機が壊れたままなので、平日日中の時代劇の再放送を見ることがかなはなくなつてしまつた。
修理するか新しいものを買ふかすればいいのだが、手元不如意にてそのままになつてゐる。

将棋はともかく、自分は結局のところTVドラマが好きなのだな、と思ふ。
それも、歌舞伎由来のもの。

といつて、実はウルトラマンは歌舞伎とは直接関係はないと思つてゐる。

スーパーヒーロータイムは、なにしろ東映だ。
時代劇の流れからきてゐることを考へても正当な歌舞伎の流れをくんでゐる。
「秘密戦隊ゴレンジャー」の名乗りが「白浪五人男」からきてゐるとはよく云はれることだし、話の流れもある種の芝居とおなじパターンだ。

ただ、ウルトラマンの方が歌舞伎らしい部分もあつて、それはウルトラマンに変身することが見顕しになつてゐることだ。
人によつてとらへ方もことなるだらうが、やつがれの目から見ると、アカレンジャーは仮の姿で真の姿は海城剛にうつる。
仮面ライダーはものにもよる気もするが、本郷猛が本来の姿で仮面ライダーは仮の姿だらう。

そこへいくと「ウルトラマン」の場合、ハヤタ隊員といふのは世を忍ぶ仮の姿でウルトラマンが真の姿だ。
見顕しでせう。
ハヤタ隊員実ハウルトラマンといふ寸法だ。
「ウルトラセブン」ならモロボシ・ダン実ハウルトラセブン、だ。

スーパーヒーローものはかうぢやないんだよな。
仮面ライダーだつたり戦隊ヒーローだつたりするのはその人の実の姿ではない。
本郷猛実ハ仮面ライダーと書くと、違和感を感じる。
ゴレンジャーでいへば、スナック「ゴン」のマスター実ハ江戸川司令官とはいへるけどね。
サンバルカンならサファリのマスター実ハ嵐山長官か。

スーパーヒーローものやウルトラマンのいいところは、一年間つづくといふ点だ。
最近のTVドラマは一クール三ヶ月で終はつてしまふ。
それも、期初期末には特別番組が入るものだから、全体の話数も少ない。
「忙しい現代人」とやらの生活様式にはその方がはまるのかもしれない。
気に入らなければ三ヶ月のあひだ我慢すればいいしね。

ただ、一年間なら一年間続けるに足るドラマの骨組みといふのがあると思つてゐる。
骨組みがしつかりしてゐなければ一年間つづけるのはむつかしい。
また、「あ、あれはさういふことだつたのか」だとか「ここであの伏線を回収するのか」だとか、いろいろとおもしろいことも多い。
三ヶ月間のドラマでもそれはもちろんあるけれど、なんといふか、もうちよつと余韻に浸る時間がほしい、といふかね。
十話くらゐで終はつて二時間や三時間のヴァラエティ番組とか見せられるとちよつとがつくりきちやふんだよね。

などと、要するに「こども番組しか楽しめない(プリキュアも見てます)」ことの云ひ訳を延々としてしまふのが、我ながらめんどくさいのであつた。

Tuesday, 04 September 2018

タティングレースの書籍に思ふ

ここのところタティングレースばかりしてゐる。
手持ち無沙汰になるとタティングシャトルを出してきてちよこちよこ結んでゐる。

そんなわけで、ドイリーもできあがつた。

Tatted Motifs

藤戸禎子の「復刻版 タティングレース モチーフ&エジング 101」に掲載されてゐるドイリーだ。
Lisbeth #40 の Wedgewood Lt.を使つた。ちよつとくどい感じの水色といふか空色といふか、そんな色だ。
Lisbeth #40 は、使つた範囲でいふとかういふちよつと淡い色の方が結びやすい。ベージュ系もなかなかいい感じで結べる。
乾かす時にもつとちやんと引つ張るんだつたなぁ。今度やつてみやう。

下に写つてゐるのは、何度も作つてゐる栞で、こちらはオリムパス金票40番で作つた。
比べてみると、金票40番の方がどことなく湿り気のある結び心地な気がする。湿り気といふか、ぬめり感、かな。色にもよるとは思ふけれど。

下手ながらモチーフもいくつか作つてゐる。
懲りずに極細毛糸でタティングしやうと考へてゐて、シャトル一つだけで作れるモチーフを探してゐるのだつた。
毛糸でシャトルと糸玉とを使ふモチーフなども試してみたが、どうも塩梅がよろしくない。
シャトル一つで作れるモチーフの方が毛糸には向いてゐる。すくなくとも極細毛糸はさうなんぢやないかな。まあこれも個人的な好みがあるかとは思ふ。

そんなわけでいまは Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐるモチーフを試してゐるところだ。
この本、好きなんだよなあ。
掲載されてゐる作品の中にはそれほど好きではないものもあるし、作つたことのないものもたくさんあるけれど、なんとなくいいのだ。
気に入つてゐる。
この本と、藤戸禎子の「華麗なるレース タッチングレース」とが自分の中では三指に入るタティングレースの本で、あとの一冊はそのときの好みで変はる。
いまだつたら「復刻版 タティングレース モチーフ&エジング 101」かな。

Tatting With Visual Patterns と「復刻版 タティングレース モチーフ&エジング 101」との共通点は、タティングの仕方をことこまかく説明してゐないところだ。
シャトルの扱ひ方とか基本的なことはもうご存じでせう、といふ作りなのだ。
世の中のタティングレースの本を見るとわかると思ふが、どの本にも懇切丁寧なタティングの仕方が載つてゐる。
シャトルの糸の巻き方からリングの作り方、チェインの作り方、ジョゼフィンノットや最近ではスプリットリングなどの作り方まで、写真付きでステップごとに説明してある。
それ、さー、全部の本に必要?
さういふのはすつ飛ばして、とにかく作品を見せてほしい、そしてその作り方を教へてほしい。
さういふタティング愛好家もゐるのぢやああるまいか。

それだけタティングが世に知られてゐないといふことなんだらうけど。

あみものの本だつて、作り目の仕方や棒針編みでいへば表編みや裏編み、かぎ針編みでいへば細編みや長編みの仕方から増やし目減らし目の仕方などを説明した部分もあるけれど、タティングレースほどには丁寧には説明してゐない。
それでいいと思ふんだけどな。
さういうのが必要な人は、それにふさはしい本を求めればいい話でさ。

そんなわけで、ここ二、三年ほどずいぶんとたくさんタティングレースの本が出版されてゐるけれど、どれもいまひとつ食指が動かないのだつた。
あんなに出して、売れてゐるのかなあといふ気もする。

人気があるのは結構なことだ。
書籍もそろそろ次のステップに行つてもいいんぢやないか。
そんな気がする。

Monday, 03 September 2018

怒濤の九月

涼しくなつた。
といつてもまたすぐ暑くなるのだらうが、とりあへず涼しい。

それで編んだかといふと、編んでないのだつた。
そろそろハマナカのポームで編んでゐた三角形のショールくらゐはなんとかしたいと思つてゐる。
あと、パピーのブリティッシュファインで編みはじめたヨガ・ソックスね。
こちらはもうちよつと脚部分を編んで、甲にかける部分を編めば片方はできあがる。

なぜあみものが進まないのかといふと、タティングレースにかまけてゐるからだ、とは以前書いたとほりだ。
冬のころ、ノールビンドニングにかまけてしまつて、それ以降タティングとはご無沙汰してゐたのだが、この「ご無沙汰」だつたのがいまのタティング熱に拍車をかけてゐる気がする。
「タティングつてこんなに楽しかつたつけか」といふ感じだ。

あみものもしばらくしてゐないので、興がのつてくればおなじやうな状態になるとは思ふんだがね。
順番がちよつと違ふのだらう。

本屋でこの秋冬のあみもの本を何冊かパラパラと見てみた。
今年はヨークのあるセーターがはやりなのか知らん。
首から編む、とか。
「毛糸だま」といへば今月半ばには「毛糸だ! まつり」を開催するといふ。
ちやうど予定がいろいろ入つてゐる時期で、行けない気がしてゐる。
九月は歌舞伎座で秀山祭だし、文楽はあるし、さらにホール落語には行くし「メタルマクベス disc2」もあるしでなんだかてんやわんやなのだつた。
てんやわんやにしてゐるのは自分なんだがね。

昔は、赤坂ACTシアターで芝居を見るのにかぎ針編み一式を持つて行つて隙を見つけては編んでゐたんだがなあ。
いまはあみもの道具一式を持ち歩くのがどうも億劫だ。
それでタティングレースになつちやふんだよね。

Saturday, 01 September 2018

8月の読書メーター

8月の読書メーター
読んだ本の数:7
読んだページ数:1834
ナイス数:26

ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室感想
邦題の「ダメ女」はないよなあ、と読んでいて思う。この料理教室に参加した人々はそれぞれの経験から食生活が思うようにいっていない。なにごとにも原因があるということか。でもきっかけさえあれば、自分を縛っていた過去から自由になることができる、ということなのかな。人間らしく暮らすには「毎日八時間睡眠」とか「自炊」とか、日々できないことばかりでもう自分はダメなんじゃないかと思いつつ、でも読んでしまった。
読了日:08月07日 著者:キャスリーン・フリン
Reading in the Brain: The New Science of How We ReadReading in the Brain: The New Science of How We Read感想
ヒトが文字を書くようになってたかだか数千年、ものを書いたり読んだりする脳の機能はどうなっているのか、という話。脳の部位の名前がたくさん出てきて途中で挫折しかけた。読書における脳の機能は文化や言語が異なってもおなじことから得た仮説が展開される。書かれた文字を認識して意味とつなげるというのは実は脳にとってものすごく負担だったりするのかなあ。左右の認識の話とか失読症に関する話もおもしろかった。
読了日:08月09日 著者:Stanislas Dehaene
怪談牡丹灯籠 04 怪談牡丹灯籠怪談牡丹灯籠 04 怪談牡丹灯籠感想
この噺をせめて週に一度続きものとして聞いてみたい。
多分自分が求めているのは「それは次回の講釈で」なんだろうと思う。紙芝居はもう子供の頃にはなかったけれど、TVドラマだとかアニメだとか人形劇だとかで「それは次回の講釈で」に慣らされて、でもいまそれに変わるものが自分にはない。桂歌丸が年に一度高座にあげていたけれど、そんな頻度じゃダメなんだと思う。今のご時世、毎週だとか毎日だとか通って聞くのは現実的ではないのも確かだけれど。
読了日:08月13日 著者:三遊亭 円朝
日本語を翻訳するということ - 失われるもの、残るもの (中公新書)日本語を翻訳するということ - 失われるもの、残るもの (中公新書)感想
いきなり「ウチ」「ソト」という用語が出てきてそれから説明になるのだが、「ウチ」「ソト」というのは一般的な概念なのだろうか。もともと日本語の持っている音がまず失われるというのはわかるのだけれども、「ウチ」「ソト」という感覚は他の言語にもあるはずで、ぴったり対応はしないかもしれないが「ウチ」なら「ウチ」、「ソト」なら「ソト」の表現で訳せばいいんじゃないかと思うのは素人考えなのか。
読了日:08月17日 著者:牧野 成一
羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季感想
多分、ここに描かれている羊飼いの暮らしは長いことおなじなのに違いない。でも四輪バギーやトラクターなどは極最近入ってきたものだろう。また羊の肉の流通も昔とは変わっているものと思われる。変わったこともあるとは思うが、そういうことはあまり出てこない。あえてはずしているのかもしれない。
羊毛を(たまに)紡ぐものとしては読まねばと思って手に取った。ハードウィックについて今まで知らなかったことがたくさん買いてあっておもしろい。スウェイデールについても。
謝辞にこんなにじーんときた本は初めてかもしれない。
読了日:08月24日 著者:ジェイムズ リーバンクス,James Rebanks
身体感覚で『論語』を読みなおす。: ―古代中国の文字から― (新潮文庫)身体感覚で『論語』を読みなおす。: ―古代中国の文字から― (新潮文庫)感想
自分のことばになおすと「自己肯定感を持って己をむなしうして生きろ」かなあ。「論語」や「聖書」などが生きづらい世の中を如何に生きるかの書、というのは感じていて、「聖書」がこうせよという通りに生活した人によると実践してみるとpracticalであることがわかった、というし。論語は人によって解釈もさまざまだからそのとおりにするのはむつかしいかもしれない。
読了日:08月29日 著者:安田 登
弟子弟子感想
わかりあえないことをわかりあう関係もありうる。子路がきちんと理解していたかどうかは定かではないが、無意識のうちにわかっていたのではあるまいか。
読了日:08月30日 著者:中島 敦

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