返り血を浴びながら編みたいか
文学の中で一番有名なニッターといつたら、「二都物語」のマダム・ドファージュぢやあるまいか。
「二都物語」は、フランス革命のころのフランスとイギリスとを舞台にした物語だ。
酒屋の女将であるマダム・ドファージュは貴族に虐げられた家族の復讐を誓つてゐる。
マダムはいつでもあみものをしてゐる。
編みながら、復讐する相手の名前を、のちにはギロチン台に上がる人々の名前を編み込んでゐるのだ。
あみもの者としてはここでひつかかる。
えー、そんな憎い相手の名前を編み込んだものを、どうするの?
使ふの?
まさかね。
くつ下であれば、日本なら「踏みつけにする」といふ意味もあらうが、フランスでそれはどうよ、といふ気もする。
あみものは時間がかかるし、編んでゐるうちに愛着もわくので、復讐したい相手の名前を編み込んだりしたくないよなー、と自分なら思ふ。
当時はいまとは違つて、あみものは内職としてどこでも普通に見られるものであり、編みながら愛着を感じることなどなかつた、とも考へられるが。
でもなー、やつぱりないよなー。
「紅はこべ」だつたかには、ギロチンの横で首を斬られた人の血を浴びながらあみものをしてゐる人の話が出てくる。
実際、ギロチンの周囲にはあみものをする人々がゐて(tricoteuseと呼ばれたといふ)、自由の象徴たる帽子を編んでゐたといふのだが、どうなのかなあ。
世の中が殺伐としてくれば、あみもののつとめといはうか役割といはうかも変はつてくるといふことか。
といふことは、今後はやつがれもまたマダム・ドファージュのやうに殺しても殺したりない相手の名前を編み込みながら帽子やくつ下を編むやうになるのだらうか。
その前に編み込みを覚えないとなー。
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