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Friday, 24 August 2018

怖さの源は強すぎる矜持か

この夏は、怖いものもいろいろ見に行つてきた。

たとへば「蜘蛛巣城」だとか「怪奇大作戦」だとか。

「蜘蛛巣城」はなにが怖いといつて、山田五十鈴が怖すぎる。
そんじよそこらの幽霊ならば裸足で逃げ出す怖さだ。
主人公・鷲津はなぜこの女を妻にしたままなのか。
こんなに怖いのに。
いつも不思議でならない。

「怪奇大作戦」については先日ちよつと書いた。
「壁ぬけ男」の壁ぬけ男ことキング・アラジンはやつぱり怖かつた。
かつては「恐怖の電話」もひどくおそろしかつたものだつたけれど、今回見たらそれほどでもなかつた。電話の形態が変はつたからかもしれない。
「霧の童話」は「八つ墓村」よりはマイルドだし、「京都買います」にはヴィジュアル的におそろしいものは特にない。

自分が苦手なのは視覚的におそろしいものなのだらうか。
さう考へて、思ひ出すことがある。
八つ年上の従兄はホラーの類が大好きで、「エクソシスト」の音声だけをカセットテープに入れてゐたことがあつた。
それをうれしさうに披露してくれたことがあつた。
音だけで十分おそろしかつた。
それ以来、「エクソシスト」には近寄らないやうにしてゐる。

また、小学六年生のときだつたらうか、なにかの授業の時間があまつて、級友たちが担任の教師に怪談話をしてくれるやう頼んだことがあつた。
このときは、もう一人ひどく怖がりの級友とやつがれと二人して教室の一番後ろに行つて、耳をふさいでやりすごしたことだつた。

音だけでも怖いのだ。

それに、「牛の首」が怖いくらゐだから重傷だ。
想像しただけで怖いんだから仕方がない。
想像力豊かといへば聞こえはいいが、所詮、妄想力過多であるにすぎない。

こんな自分でも、見聞きした怖い話・怖い映画はある。
我ながらどうして、と思ふのは「シャイニング」だ。
映画館では見なかつたものの、ある夜TVで放映されるといふので、家の人々と一緒に見た。
怖かつた。
「サイコ」を見たあともホテルのバスルームが怖くて仕方ないが、「シャイニング」もまたさうだつた。
どうしてかういふ映像を作るかなぁ。
でも、最後まで見た。

そして、なんと、その後、原作も読んだ。
怖かつた。
映画で見た映像が脳裡によみがへつてくるからだ。
でも読んだ。
それも原書で読んで、数年後に翻訳書も読んだ。

いつたいこの怖がりのやつがれになにが起きたのか。
そんなに「シャイニング」といふ作品はすぐれてゐるのか。
或は、強く訴へるものがあるのか。

いろいろ考へたが、もしかすると「はじめてまともに見ることのできたホラー映画」といふことで、自分の中では特別な作品になつてゐるのかもしれない。

その後、「シャイニング」は映画も小説も見返したことはないので、なぜ自分にそんなに訴へかけるものがあるのか定かではない。
怖くて見返すことができないからだ。

「東海道四谷怪談」は先に岩波文庫で読んだ。
本で読むかぎりはそれほどおそろしい感じはしなかつた。
冒頭の伊右衛門と直助権兵衛とが民谷姉妹をだますまでのくだりのおもしろさにはちよつと驚くほどだつた。
よほどまづい役者がやつても問題あるまい。
さう思ふほどだつた。

しかし、はじめて「東海道四谷怪談」を見に行つたときは、三階席の一番上の方を取つた。
怖かつたら困るからだ。
見てみたらそれほど怖くはなかつたので、次の時は一階席で見たら、今度は怖かつた。
宅悦の恐れる演技に同期してしまつたのかもしれない。このときの宅悦は片岡市蔵だつたと思ふ。

歌舞伎で怖かつたのは先代の芝翫の「平家蟹」と時蔵の「真景累ヶ淵」だ。
「平家蟹」ははじめて見るので不意打ちだつたが、時蔵の豊志賀は絶対怖いからと思つてやはり三階席の一番上の方から見た。
それでも怖かつた。

お岩さまにしても、怖いのは武家の女である矜持を持つてゐるときだ。
それをあまり前面に出さない役者のお岩さまは怖くない。
そして、武家の出であることを誇りに思つてゐないやうなお岩さまといふのは、役作り的にどーよ、と思はないでもない。

時蔵の豊志賀にもどこかプライドのかたまりのやうなところがあつて、それで怖かつたのだと思つてゐる。
「平家蟹」の玉蟲もさう。
心にさういふかたいところのある人物が恨みにこりかたまるとおそろしい。
さういふことなのかもしれない。

思へば、ジャック・トランスにも作家してのプライドがあつたらう。
キング・アラジンには奇術師としての矜持があつた。
山田五十鈴の浅茅もプライドのかたまりだ。

なるほど、さういふことなのかもしれないな。

と、思ひつつ、それだと「エクソシスト」は説明がつかないのではないかといふ気もする。
見たことがないからわからないのだけれど。

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