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Friday, 31 August 2018

新しい手帳がほしいだけ

九月から LEUCHTTRUM で Bullet Journal を試してみてはどうだらうか、などと考へてゐる。

ここにもくどく書いてゐるやうに、自分流としてシステム手帳での Bullet Journal が気に入つてゐる。
うまく機能してゐるとも思ふ。
唯一機能してゐない点は、あまり見返さないことだ、とも書いた。
システム手帳は綴じ手帳に比べてぱらぱらとページをくるといふことがやりにくい。
結果、あまり見返さないことになる。
手帳を見返すにもふたつあつて、ひとつは探しものをするときやある日の自分の行動などをふり返るため、もうひとつは意味もなくぼんやりとふり返るため、だ。
この「意味もなくぼんやりとふり返る」のがシステム手帳だとちよつとやりづらいのである。

そんなわけで、明日からちやうど九月だし、いい機会だから LEUCHTTRUM を試してみやうかな、と思つたわけだ。

問題はいくつかあつて、システム手帳もやめるつもりはないので、おなじことを二度書くやうだらうといふことだ。
また、日付の決まつてゐる先の予定などは、いまは Weekly Log 代はりに使つてゐるあたぼうステーショナリーのスライド手帳に書き込んでゐるが、ほかの手帳にする場合どこにどう書くかを考へねばならないといふこともある。

システム手帳にはスライド手帳だけ残して、Bullet Journal は LEUCHTTRUM にうつしてしまふといふ二冊体制もありかなあ。
或は、とりあへず LEUCHTTRUM だけにしてみて、「やつぱりシステム手帳の方がいいや」といふことになつた時点で書き写すことにする、とか。

なんとなく、新しい手帳がほしい気持ちなんだよね。
えうはそれだけなのだ。
無駄遣ひなのでやめた方がいい。
うむ、そのとほりかもしれない。

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Thursday, 30 August 2018

いつたい何をどう見てゐたのか

去る日曜日、「仮面ライダービルド」が最終回を迎へた。
結末を記してあるので、ネタバレを厭ふ向きとはここでおさらばでござんす。

そんなに熱心に見てゐたわけではない。
途中だいぶ抜けてゐる。
とくに放映時間帯が変更になつてからしばらくは見てゐなかつた。
浜田晃も途中で死んぢやうしさー。
「仮面ライダードライブ」のときも「堀内正美が死んでしまつたー」といふのでしばらく見なかつた時期があつた。
「ラスボスぢやないのかよ!」みたやうな気分だつたんだな。
浜田晃がラスボスぢやないことはわかつてはゐたけどさー。

最終回前の数回は見てはゐた。
生活時間の中で放映時間がうまい具合に組み込まれたんだと思ふ。意図してさうしたわけではないけれど。

最終回では、「新世界」が生まれて、主人公・桐生戦兎以外の人間には前の世界での記憶がない、といふ状態になつた。
初回は記憶がないのは戦兎の方だつたやうに思ふ。
逆転しちやつたんだな。
「美空はもしかして覚えてゐる?」みたやうな展開になつて、でもそれは勘違ひで、やつぱり自分はひとりなんだ、と戦兎がぼんやりしてゐると、なんとそこに万丈龍我が「なんで香澄と一緒に黒髪の俺がゐるんだよ」とか文句を云ひつつあらはれる。
万丈はこの世界にはふたりゐて、この万丈には前の世界の記憶がある。

さうかー、戦兎ひとりぢやなかつたんだね。
よかつたね。

と思つてゐたわけだ、最終回を見た直後は。

ところがその後 Twitter の TimeLine に「ビルドはBLエンディング」といふやうなつぶやきがちらほら流れてきて、「えっ、さうなの?」とちよつとびつくりしてしまつた。

全然そんなこと考へてもみなかつたからだ。
Twitter でほかの人の感想・考察などを見ると、「なるほど、BLエンディングとはさういふことか」と目からうろこの落ちる思ひだつた。

「ひとりぢやなくてよかつたね」だなんて、なんてお子さまな感想なのか!

多分、BL小説とかBLまんがとか読んだことがない。
それでさういふ感性が欠落してゐるのだらう。
或は「粗にして野だが腐ではない」とか云つてゐるからかもしれない。
あまり腐属性がないやうに思ふし、恋愛ものを見たり読んだりすることがほとんどない。

考へてみたら最近恋愛映画つて少なくないですか。
ぢやあなにが恋愛映画なんだよ、といふ話になるが、いまぱつと映画館の上映作品を眺めてみても「これは恋愛映画」といふものはあまりないやうに思ふ。

もつと考へてみたら「シン・ゴジラ」がよかつたのは恋愛要素を入れなかつたから、なんてな論評があつたことを思ひ出す。
「シン・ゴジラ」はともかく、世の中「恋愛」を前面に出した映画よりもほかのことをfeatureしてそれでゐて恋愛要素もある、みたやうな映画の方が受け入れられやすいのかもしれない。

そんな世の中にありながら、「仮面ライダービルド」の最終回は「BLエンディング」とみな即反応できるんだなあ。
仮面ライダーについては、とくに平成ライダーと呼ばれる作品群については、さういふ見方をする人々もゐる、と聞いてはゐた。
しかし、こんなに見事に多くの人がさう思ふといふさまを目の当たりにして、しみじみ自分はいままでなにを見てきたのだらうか、と思つてしまつたのだつた。

とはいへ、自分は自分の見方で次の「仮面ライダージオウ」も見るつもりでゐる。
そしてまた「えっ、そんな見方もあるのか!」と驚愕することだらう。
それもまた楽しみ。

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Wednesday, 29 August 2018

情報カードのレヴュー

また情報カードを使つてみたいなと思つたときに PoIC に出会つた。それが去年の十一月くらゐのことだ。
以来、5×3の情報カードに日々あれこれ書いて暮らしてゐる。
カードも一千枚を数へるやうになつた。
そこで悩む。
このカードをどうしたものだらう。
いまのところ週に二十枚から三十枚くらゐたまつていく。
このままいくと二千枚を越える日も近い。

PoICのWikiを読んでいくと、ちやんと解決法はある。
「再生産する」のページに詳しく書いてある。

問題は、この手法はカードがたまらないとできないことだ。
そして、カードがたまるといふことは数が多いのでレヴューに時間がかかる、といふことでもある。

Wikiでは約二千枚のカードから必要なカードを抜き出して、「PoICについて」のまとまつた文章を作成してゐる。

これは、文章でなくてもよいのだらうと思ふ。
「ちよつとこれは処理しきれないな」と思ふくらゐカードがたまつてきたら、似たやうな内容のカードを取り出してグループ化し、そのグループの内容をまとめたカードを新たに作成する、でいいのではあるまいか。
Wikiには使用したカードは「取つておけば、さらに有用な情報を引き出すこともできます」と書いてある。
でも、捨ててしまつてもかまはないやうにカードを作れば、或はまとまつた文章を作ればいいのぢやあるまいか。
えうはある程度カードがたまつてきたらレヴューしませう、といふことだと理解してゐる。

これは、普段はなんでもメモするためのノートを使用し、折に触れ母艦ノートに必要なことを転記する作業とおなじだ。
違ふのは、メモ用にカードを使つてゐることだ。
カードだとノートと違つて並び替へも容易で、いはわゆる serendipity のやうなものの発生が期待できる。
ただ、カードを整理する際にかなり広い場所が必要であることと、外出先ではやりづらいことを考へると、どちらがいいのかなあといふ気はする。

あとはこういうことをする時間がとれるか、といふことだが。
情報カードを使ひはじめたのだもの、とるしかあるまい。

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Tuesday, 28 August 2018

ラストスパートできない

タティングレースのドイリーは、最終段の残り半分くらゐのところでとまつてゐる。
くつ下を編んでゐるからといふこともあるし、暑くてなにもやる気がしなかつたといふこともある。

だが一番の理由は「もうすぐ終はつてしまふから」だらう。

世の人は「なにごとも着手するまでが一番大変」といふ。
それはそのとほりかもしれない。
タティングにしても、なにを作るか決めるところがまづ難航することがある。
決まつたところで次はどの糸を使ふかだ。
逆のこともある。
使ひたい糸は決まつてゐて、しかし、なにを作つたらいいのか迷つてゐる。
かういふときははじめるまでが長い。

作るものも糸も決まつて、次にシャトルに糸を巻くのに手間取る。
巻きはじめればあつといふ間なのだが、そこまでに時間がかかつたりする。
理由はいろいろある。
空いてゐるシャトルがない、とか。
もう巻いてある糸の残り少ないシャトルからその残り糸を巻き取るのがめんどくさい、とか。
そもそもシャトルに糸を巻くのがめんどくさい、とか。

シャトルに糸を巻いてしまへば、やつがれの場合はあとは早い。
大抵の場合は早速結びはじめる。

なるほど、なにごともはじめるまでが一苦労で、はじめてしまへばあとは早い。

しかし、あみものにしてもさうなのだが、あと少しでできあがるといふ段階でどうも躊躇しがちだ。
次に作るものが決まつてゐても、だ。

なぜなのだらうか。
ここにも何度か書いてゐる疑問である。
あともうちよつとでできあがる。
その段階に来て手が止まる。

おそらく、仕上げといふのははじめとおなじやうに大変だからだらう。
さう思つてゐる。

タティングレースでいふと、最後のつなぎ方はそれまでと違ふことが多い。
さうすると、それまでうまくつなげてきたものとおなじやうにきれいにつなぐことがむつかしいこともある。
また、糸始末が面倒なこともある。
大抵の場合は magic thread を使つて糸端を引き込むやうにするのだが、それに失敗すると針を使つて縫ひこんだり、目立たぬやうに結んだりする必要がある。
これが苦手でねえ。

そのあとには水通しをして整形といふ作業が待つてゐる。
これもまた苦手でねえ。
とくに今回はいつもよりピコを大きめに作つてみた。
ピコのひとつひとつにピンを打つやうだらうなあ。
この作業が苦痛でね。

整形作業が苦痛な人間がタティングなんぞやつてゐてはいけない。
さうも思ふのだが、結ぶのは好きなんだよ。

整形しなくてもきれいな状態に作れればいいんだが、なかなかさうもいかない。

ドイリーの完成はいつになることやら。

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Monday, 27 August 2018

毛糸を使ひ切る計画でくつ下を編む場合

この暑いのに、毛糸のくつ下をぼそぼそと編んでゐる。

Sock in Progress

パピーのブリティッシュファインを0号の針で編んでゐる。
くつ下だから、編んでゐる最中に編み地が躰にあたることもなく、暑いのは毛糸をかけてゐる指くらゐだ。
だから編める。

と思つたのだがなあ。
今年の暑さはちよつとどうかしてゐる。
一日無風といふ日もめづらしくない。
せめて夜くらゐは風が吹いて眠りやすくなるとだいぶ楽なんだがなあ。

このくつ下はヨガソックスにするつもりだ。
すなはちつま先とかかととは編まない。
さうすると、脚から編んでも毛糸の残りを考へながら長さを決めやすい。
そんな気がする。

つま先から編みはじめるのは、毛糸を使ひきりたいときだ。
足の部分だけ編めてしまへば、あとは脚の部分の長さを調節すればいい。

ところが、Pomatomus や Monkey などのくつ下のデザインで有名な Cookie A. は、脚から編みはじめても毛糸を使ひ切るのに支障はないといふやうなことを云つてゐる。

はたしてさうなのだらうか。
脚部分の長さなら、毛糸がなくなつたところで終はりにすればいい。
だが足部分はどうだらう。
きちんとつま先まで編めなければくつ下として機能しないのではあるまいか。

そんなことを思ひながらしかし、今回は脚部分から編みはじめてゐる。
それでゐながら毛糸を使ひ切らうとしてゐる。
なぜそれができるのかといへば、かかととつま先とを編まないからだ。
足部分は中程を覆ふくらゐ編めばいい。
さう思つてゐるからである。

といふことは、Cookie A.は、つま先やかかとを含めた足部分を編むのにどれくらゐの量を残しておけば大丈夫といふことがわかつてゐるといふことか。

或は脚部分の長さに個人的な規範でもあるのか。

どちらも、かなあ。

ちなみにやつがれはなにも考へずに編むときは、かかとの半ばで折つたときに履き口とつま先とがほぼおなじ位置にくるくらゐの長さが気に入つてゐる。
デザインにもよるけれども、編んだときにバランスがいいなあと思ふのだ。
今回は脚部分はかなり長くなる予定だ。
寒さ対策のレッグウォーマ代はりにするつもりだからそれでいいと思つてゐる。

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Friday, 24 August 2018

怖さの源は強すぎる矜持か

この夏は、怖いものもいろいろ見に行つてきた。

たとへば「蜘蛛巣城」だとか「怪奇大作戦」だとか。

「蜘蛛巣城」はなにが怖いといつて、山田五十鈴が怖すぎる。
そんじよそこらの幽霊ならば裸足で逃げ出す怖さだ。
主人公・鷲津はなぜこの女を妻にしたままなのか。
こんなに怖いのに。
いつも不思議でならない。

「怪奇大作戦」については先日ちよつと書いた。
「壁ぬけ男」の壁ぬけ男ことキング・アラジンはやつぱり怖かつた。
かつては「恐怖の電話」もひどくおそろしかつたものだつたけれど、今回見たらそれほどでもなかつた。電話の形態が変はつたからかもしれない。
「霧の童話」は「八つ墓村」よりはマイルドだし、「京都買います」にはヴィジュアル的におそろしいものは特にない。

自分が苦手なのは視覚的におそろしいものなのだらうか。
さう考へて、思ひ出すことがある。
八つ年上の従兄はホラーの類が大好きで、「エクソシスト」の音声だけをカセットテープに入れてゐたことがあつた。
それをうれしさうに披露してくれたことがあつた。
音だけで十分おそろしかつた。
それ以来、「エクソシスト」には近寄らないやうにしてゐる。

また、小学六年生のときだつたらうか、なにかの授業の時間があまつて、級友たちが担任の教師に怪談話をしてくれるやう頼んだことがあつた。
このときは、もう一人ひどく怖がりの級友とやつがれと二人して教室の一番後ろに行つて、耳をふさいでやりすごしたことだつた。

音だけでも怖いのだ。

それに、「牛の首」が怖いくらゐだから重傷だ。
想像しただけで怖いんだから仕方がない。
想像力豊かといへば聞こえはいいが、所詮、妄想力過多であるにすぎない。

こんな自分でも、見聞きした怖い話・怖い映画はある。
我ながらどうして、と思ふのは「シャイニング」だ。
映画館では見なかつたものの、ある夜TVで放映されるといふので、家の人々と一緒に見た。
怖かつた。
「サイコ」を見たあともホテルのバスルームが怖くて仕方ないが、「シャイニング」もまたさうだつた。
どうしてかういふ映像を作るかなぁ。
でも、最後まで見た。

そして、なんと、その後、原作も読んだ。
怖かつた。
映画で見た映像が脳裡によみがへつてくるからだ。
でも読んだ。
それも原書で読んで、数年後に翻訳書も読んだ。

いつたいこの怖がりのやつがれになにが起きたのか。
そんなに「シャイニング」といふ作品はすぐれてゐるのか。
或は、強く訴へるものがあるのか。

いろいろ考へたが、もしかすると「はじめてまともに見ることのできたホラー映画」といふことで、自分の中では特別な作品になつてゐるのかもしれない。

その後、「シャイニング」は映画も小説も見返したことはないので、なぜ自分にそんなに訴へかけるものがあるのか定かではない。
怖くて見返すことができないからだ。

「東海道四谷怪談」は先に岩波文庫で読んだ。
本で読むかぎりはそれほどおそろしい感じはしなかつた。
冒頭の伊右衛門と直助権兵衛とが民谷姉妹をだますまでのくだりのおもしろさにはちよつと驚くほどだつた。
よほどまづい役者がやつても問題あるまい。
さう思ふほどだつた。

しかし、はじめて「東海道四谷怪談」を見に行つたときは、三階席の一番上の方を取つた。
怖かつたら困るからだ。
見てみたらそれほど怖くはなかつたので、次の時は一階席で見たら、今度は怖かつた。
宅悦の恐れる演技に同期してしまつたのかもしれない。このときの宅悦は片岡市蔵だつたと思ふ。

歌舞伎で怖かつたのは先代の芝翫の「平家蟹」と時蔵の「真景累ヶ淵」だ。
「平家蟹」ははじめて見るので不意打ちだつたが、時蔵の豊志賀は絶対怖いからと思つてやはり三階席の一番上の方から見た。
それでも怖かつた。

お岩さまにしても、怖いのは武家の女である矜持を持つてゐるときだ。
それをあまり前面に出さない役者のお岩さまは怖くない。
そして、武家の出であることを誇りに思つてゐないやうなお岩さまといふのは、役作り的にどーよ、と思はないでもない。

時蔵の豊志賀にもどこかプライドのかたまりのやうなところがあつて、それで怖かつたのだと思つてゐる。
「平家蟹」の玉蟲もさう。
心にさういふかたいところのある人物が恨みにこりかたまるとおそろしい。
さういふことなのかもしれない。

思へば、ジャック・トランスにも作家してのプライドがあつたらう。
キング・アラジンには奇術師としての矜持があつた。
山田五十鈴の浅茅もプライドのかたまりだ。

なるほど、さういふことなのかもしれないな。

と、思ひつつ、それだと「エクソシスト」は説明がつかないのではないかといふ気もする。
見たことがないからわからないのだけれど。

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Thursday, 23 August 2018

八月二十三日

疲れてくると太字の万年筆で覚えてゐる漢詩を書き散らす。
そんなにたくさんはないので、すぐ書くものは尽きる。
でもまあ曹植の「吁嗟篇」でも書けば十分な長さがあるので一篇で済む。

中村吉右衛門の朗読した「漢詩紀行」のDVDを何枚か持つてゐる。
一時これを毎晩寝る前に一番組づつ聞いてゐた。

もともとこの番組を知つたのは、夜勤をしたときのことだ。
その夜は早めに仕事が終はり、一旦宿に帰ることになつた。
朝まだき、TVをつけると、NHK教育で「漢詩紀行」を放映してゐた。
播磨屋の朗読で、もうなんの詩だつたか忘れたが、なんだかとつてもしみじみした気分になつた。
映像もまたゆつたりとしたものだつた。

あれから何年か経ち、DVDが発売されてゐることを知つて、少しづつ買つてゐる。
中に「三国志の詩」といふ巻があつて、これを一番よく聞いてゐると思ふ。

さう、多分今日はさういふ日だ。
いつもなら「短歌行」とか「赤壁賦」の覚えてゐる部分だけ(すなはち好きな部分だけ)とか、有名どころの「楓橋夜泊」だとか李白、白楽天、李賀の詩を書き散らすところ、今日だけは杜甫だらう。
それも「唐詩選」には載つてゐないものを書くのだらう。

何年か前のこの日にもちらりと書いた、きつとここでいふ「英雄」に杜甫自身も入つてゐるのだらうと思ひつつ、また、みづからも日暮時に晏子の故事を口ずさみつつ。

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Wednesday, 22 August 2018

「怪奇大作戦」上映会に行く

八月十九日(日)、和光大学ポプリホール鶴川で催された「放送開始50年「怪奇大作戦」飯島敏宏×実相寺昭雄監督セレクト上映会」に行つてきた。
「鶴川ショートムービーコンテスト」のプレイヴェントとして開催されたものだ。

イヴェントでは、以下の四本が上映された。

  1. 「壁ぬけ男(監督 飯島敏宏)」
  2. 「恐怖の電話(監督 実相寺昭雄)」
  3. 「霧の童話(監督 飯島敏宏)」
  4. 「京都買います(監督 実相寺昭雄)」

上映後、飯島敏宏・桜井浩子・稲垣涌三・鈴木清・中野稔によるトークイヴェントもあつた。

「怪奇大作戦」を大きなスクリーンで見ることに不安はあつた。
大きい画面で見たら怖いぢやないか。
とくに「壁ぬけ男」は壁ぬけ男ことキング・アラジンが異様に怖い。
メイクが怖いし、下からあふるやうな照明も怖いし、じわじわと消へていくさまも怖ければ、最後の場面もまた怖い。
そんなわけでほとんど見ない話なのだが、見れば見てしまふんだな、これが。

久しぶりに見るので、劇伴がかなり凝つてゐることにチトおどろく。かなり攻めてるんぢやあるまいか。
玉木宏樹といふと「大江戸捜査網」を即思ひ浮かべるけれど、こんなところでこんな冒険(?)をしてゐたのか、と思ふ。

助さんこと三沢京助がふしぎとツルツルツヤツヤしてゐるのにもやはりちよつとばかりびつくりする。
こんなだつただらうか。
デジタルリマスタのおかげ?
勝呂誉演じる助さんは主役のはずなのだが、第一話からそれほど活躍してゐるやうには見受けられない。
話の内容的にキング・アラジンの方に興味がうつつてしまふからか。

小林昭二演じる町やんこと町田大蔵がなんだかとつてもリアルだ。
ゐるよ、ゐるゐる、こんな警部、みたやうな。
キング・アラジンが消へたあとを確認するのに踏みつけるあたりとか、妙に説得力がある。
キング・アラジンが消へたあとの壁や床を叩いたり踏んだりして確認するのは意図的にさういふ場面を設けてゐる、とは、トークショーのときの飯島監督の弁だ。
さうやつて、キング・アラジン消失場面で撮つた部分と実際の壁や床を撮つた部分とがおなじものであるかのやうに見せてゐたのだといふ。
そこにさらに小林昭二といふのがさらなる説得力を生んでゐる気がするなあ。
トークショーでは、キング・アラジンを演じてゐた田口計は撮影のため水の中に五時間くらゐゐた、といふ話があつた。

四話ともさうなのだが、とくに「壁ぬけ男」と「霧の童話」とは、「これ、ほんとに三十分枠でおさまるの?」といふやうな内容であると思ふ。
話がぎゆつとつまつてゐるといはうか、「よくぞこれを三十分番組におさめたな」と感心してしまふ。
「霧の童話」はわづかばかり尺足らずな感じもしないではないが、知らないで見てゐたら「これ、つづきものなんぢやないの?」と思ふところだ。

箱の中で見るので、音も大きい。その分いろいろ聞こえるものがある。
第一話である「壁ぬけ男」の劇伴が攻めてるなー、といふのは先に書いたとほり。
アフレコなしの「京都買います」では、宿でくつろぐSRIの面々の背後におそらくは隣の部屋のものだらうにぎやかな声が聞こえてくるし、岸田森演じる牧史郎が鳩にえさをやる場面では鳩の鳴き声が入つてゐる。
それと、「怪奇大作戦」つてなぜ主題歌にあんなにいろんなヴァージョンがあるのだらうか。
今回聞いただけでも三つは異なるアレンジのものがあつたやうに思ふ。
昔の番組つてさうだつたのかなあ。

事前にTwitterで見た範囲では、「行きたいけど行けない」といふやうなつぶやきが多く、また、当日券もあるやうな話だつたので、どれくらゐ人が集まるのだらうかと思つてゐた。
実際に行つてみると、300人入るホールがほぼ満員だつたのではあるまいか。関係者も多くゐたのかもしれないが、自分が発券したチケットの通し番号が150番付近であることを考へると、もともと来やうと思つてゐた人が多かつたのだらうと思はれる。

「ウルトラマン」「ウルトラセブン」と違つて、これといつたイヴェントの情報があまりない「怪奇大作戦」だから、といふこともあるのかもしれない。
TVで再放送したら見る人もゐるんぢやないか知らん。

トークショーについても書きたいが、また機会があつたら。

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Tuesday, 21 August 2018

進歩に気づかない

最近タティングをするのが楽しくてたまらない。

「詩経」に織姫が機を織るさまを「纖纖として素手をあげ 剳剳として機杼を弄す」と詠んだ詩がある。
この「剳剳(サツサツ)」といふ機を織るときの音の感じと、シャトルをあやつるときの感じとが重なるんだなあ。
どちらも杼(シャトル)だしね。

いま作つてゐるのは、復刻版 タティングレース モチーフ&エジング 101に掲載されてゐるモチーフだ。No.19、かな。
大きさからいふとドイリーといつていい。
もともとの本では表紙になつてゐたドイリーだ。

Tatting Doily in Progress

以前は、この中央のモチーフが苦手だつた。
チェインの長さがそろはず、きれいな花びらにならないのだ。
自分にはこのタイプのモチーフは作れない。
さう思つてあきらめてゐた。
今回、不意にドイリーが作りたくなり、この本をパラパラと見てゐたらNo.19が目にとまつた。
思ひきつて挑戦してみると、案外悪くない。
以前は目の増えた段が妙にふくらんでしまつたり、それが気になると次の段はきつくなり過ぎてしまつたり、さんざんな出来だつたのに。
いつのまに上達したのだらう。
かういふ進歩つて、自分ではよくわからないものなのかもしれない。

Tatting Doily in Progress

シャトルを二つ使ふといふのも、以前は忌避してきたものだつた。
シャトルは最大四つ使ふものを作つたことはある。スプリットリングの中にリングを作るのに使はなかつたシャトルを通し、リングにリングを重ねるやうな形のエジングだつた。
でもそれも一度だけ。
どうも使つてゐないときのシャトルの処遇に困つてしまふのだ。
目の前に机でもあればいいけれど、さうさういつもさうといふわけにはいかない。
それに、不器用といふのもいけない。

ところが最近(といつてもここ数ヶ月あまりタティングをしてゐなかつたが)スプリットリングを使つたモチーフやエジングをよく作るやうになつたせゐだらう。
シャトルを二つ使ふことに抵抗感がなくなつてきた。
そんなわけで、目の前に机やそれに代はるものがあるときに限り、このドイリーを作つてゐる。

Tatting Doily in Progress

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Monday, 20 August 2018

羊の匂ひのする毛糸

涼しいと編むねえ。

我ながら現金だなあと思ひつつ、涼しいと編む。
ただ、いまはタティングレースに夢中なので、そんなには進んでゐない。

編んでゐるのは先日編み始めたくつ下だ。
パピーのブリティッシュファインで編んでゐる。
手洗ひ必須なので、ヨガソックスにするつもりだ。すなはちかかととつま先とは編まない。その方が洗ふのが楽な気がするからだ。
実際、かかととつま先とがない方が乾きも早いだらうと思ふ。

パピーのブリティッシュファインのうち、とくに羊の毛の色そのままのやうな淡い灰色を選んだ。
心なしか羊の匂ひがする。

ブリティッシュエロイカもさうだつたかなあ。
パピーのブリティッシュエロイカは極太で、渋い中にもくつきりとした色合ひの毛糸があつて気に入つてゐる。編みやすいしね。つひ縄編みなどしたくなる毛糸だ。
ブリティッシュファインを見ると、ブリティッシュエロイカを中細にしたやうな感じがして、やはりいいなと思つてゐる。中細だけど縄編みめいた模様を入れたくなるのはブリティッシュエロイカに似たところがあるからかもしれない。

七月、異様に暑い日がつづき、台風のおとづれとともにすこし涼しい日があり、また暑い日がやつてきて、ここのところかなり涼しい。
気温も低いが湿度が低いのが過ごしやすい理由だらう。
あみものも進むし、つひつひタティングレースもしてしまふ。

暑いうちは寒くなつたときのことを想像するのはむつかしい。
寒さは覚えてゐる。
去年一昨年とヨガソックスを二足づつくらゐ編んだ。
足下から冷えるからだ。
ヨガソックスで足首を覆ふと、冷えがだいぶやはらぐ。
ほんたうはかかともつま先もあつた方があたたかいことはわかつてゐるけれど、どちらもくつにあたつてすり切れやすい部位だ。
聞くところによると、フィギュアスケータは練習中、首・手首・足首があたたまるやうな装備をしてゐるといふ。
だつたら足首だけでもよからうと思ふ。
首はマフラー、手首は手袋で覆つてゐるしね。

かうして寒さは覚えてゐるものの、体感としてよみがへつては来ない。
したがつて、くつ下の脚部分もどれくらゐの長さがいいかチト判断に苦しむ。
寒くなつてから編んだ方がよかつたのかなあ。
ヨガソックスなら編まうと思つて編み始めればすぐできるのだし。

などといひつつ、去年から気になつてゐたブリティッシュファインを使つてみたかつたんだよね。
毛糸があまるやうなら指なし手袋も編みたいと思つてゐる。

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Friday, 17 August 2018

三年に一度の六位の蔵人

Twitter をやつてゐると、何年かに一度つぶやくことばといふのがあつたりする。

やつがれの場合は「六位の蔵人」がそれだ。
見てみると三年に一度くらゐの割合でつぶやいてゐる。

三年前は、不調でもあつたのだらうか羽生結弦が六位発進のことがあつて、「でもステキ」とでもつぶやいてゐた人があつたのだらう、「六位の蔵人はステキですもんね」などと返信して不審がられてゐた。
このときの衣装が青だつたのだらうと思ふ。
それで、六位→青い服→蔵人、と連想したのだらう。

だからといつて、別段「六位の蔵人」に思ひ入れがあるわけではない。
なんとなく、「ああ、清少納言がステキつて云つてたなあ」くらゐの印象だ。
ステキ、といひながら、別のところでは「六位の蔵人なんてもう先がなささう」みたやうなことも書いてゐたやうに思ふのだが、そちらのことはとんと忘れてゐる。

「蔵人」単体になるともうちよつと頻繁につぶやいてゐて、それは多田蔵人がゐるからだ。
渋谷はヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーに多田蔵人が登場することがあつて、そのたびにつぶやいてゐる。
多分、飯田市川本喜八郎人形美術館にはゐないんだよな。飯田で多田蔵人に会つたことはない気がする。
あと「ひらかな盛衰記」の「義賢最期」がかかつたりすると、やはり多田蔵人が出てくるのでつぶやくこともある。
ただ「義賢最期」がそんなにしよつ中かかる芝居ではないけれど。

多田蔵人はほかのときにもちよこちよこつぶやいてゐる。
たとへば、鵯越の逆落としを決行したのは源義経ではなく、多田行綱だつたのではないか、といふ話があつて、それについてつぶやいてゐたりとか。

多田蔵人といへばやつぱり鹿ヶ谷の陰謀だらうか。
鹿ヶ谷の陰謀に、多田蔵人も一枚かんでゐたけれど、なんだか怖くなつて源頼政に相談し、結局平家に陰謀のことを密告した、といふのがやつがれの記憶の中の多田蔵人だ。
なんか、ずるい。
こどものときはさう思つた。
この密告自体は史実ではなかつたといふ話もある。
なにがほんとかよくわからない。

でもまあ世の中といふのはなにもなにもほんとかどうかよくわからないものなのかもしれない。
ここにかうして書いてゐる「三年に一度、「六位の蔵人」についてつぶやいてゐる」といふのもほんたうだかどうか。

などとて、かう書くと、三年に一度「六位の蔵人」についてつぶやくことが達成されたりもするのだつた。

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Thursday, 16 August 2018

夏にはポメラ

現在愛用してゐるポメラはDM100だ。
その前にDM10を使用してゐた。
DM10はそれなりに持ち歩いてはゐたものの、あまり使ふことはなかつたやうに思ふ。
理由は、意外とかさばるからだ。

DM10は折りたたみ式のポメラで、ゆゑに小さくはなるのだが、その分厚みができる。
これが思つてゐたよりかばんの中で場所を取るのだつた。

折りたたみ式といふことで、使用してゐる際にキーボードがなんとなくたはむ感じのするのも気になつてゐた。
ほかの人に比べてキーボードを打ち込む力は弱い方だとは思ふのだが、ときに画面表示が遅れるやうなスピードで打つてゐるとそれなりにキーボードにも負荷がかかるのだらう。

そんなわけで、DM10を使用することはあまりなかつた。

DM10を使用しなかつたのだから、DM100も同様だらう。
折りたたみ式ではない初のポメラであるDM100が発表されたとき、さう思つた。
すでにDM10があるのだから、DM100は必要ない。
さうも思つた。

つまり、ほしかつたわけだ。

DM100のいいところはといふと、DM10に比べて薄いといふことだ。
折りたたまないから持ち歩くときに厚みは出ない。
そのかはり幅がある。
だが、B5サイズの資料の入るやうなかばんの場合、幅はあまり気にならない。
薄いからどこにでも入る。
さういふわけで、DM10のときよりも持ち歩く頻度が増えた。

また、折りたたまないタイプなので、キーボードを打つてゐてもたはむやうな感覚はない。

いいぢやあないか、ポメラDM100。

といふわけで、すつかり帳面代はりになつてゐるポメラDM100なのだつた。
いまの時期、なにか書きたいと思つても、手がすぐに汗ばんでしまひ、紙に字を書くのが億劫なことがある。
また、MacBook などだとマシン自体が発熱して熱い場合も多い。
そんなときにポメラを出してきて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくる。
ありがたう、ポメラ。

いつでもポメラ 夏にもポメラ。
そんな感じでひとつ。

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Wednesday, 15 August 2018

システム手帳で Bullet Journal

そろそろ来年の手帳が出回る時期だ。

システム手帳で Bullet Journal にするやうになつて、来年の手帳とは縁がなくなつてしまつた。
システム手帳の方眼罫のリフィルに延々とつづけていけるからだ。
ロルバーンのものとか、Bullet Journal を試してみたい手帳もないわけぢやない。
しかし、いろいろなことを考へあはせると、やはりシステム手帳の方がいいのぢやないかといふ気がしてくるのだつた。

システム手帳の方がいい点として、まづ手帳の紙幅がつきるといふことがない、といふことがある。
普通の手帳やノートに書いてゐると、最後のページにやつてくることがある。
これがちやうど月の終はりと重なればいい。
月の初めのあたりと重なると悲劇だ。
Monthly Log を使つてゐた手帳・これから使ふ手帳の両方に作るなど、手間が多い。
残り数ページで月末を迎へる場合は、残つたページがもつたいないなどといはずに手帳を切り替へた方がいいのかもしれない。
でもなかなかそのふんぎりがつかないんだよね。

その点、システム手帳の場合は使つたリフィルは整理して、新たなリフィルを追加すればいいだけだ。
さうやつて endless に Bullet Journal をつづけていくことができる。

次の利点は、Collection Log を自分の好きな単位で作成できることだ。
現在、読了した本、見た芝居、見た映画、聞いた落語の Collection Logs を作つてゐる。
すべて一年単位にする予定だ。
普通の手帳に Collection Logs を作ると、手帳が変はるたびにこれまでの記録を書き写すか、それはそれとして新たに記録をつけはじめるかする必要がある。
システム手帳だと、必要なページはバインダに残しておける。

リフィルを必要に応じて追加・整理できるといふのがシステム手帳を手放せない理由で、また、Bullet Journal にも向いてゐると思つてゐる。

ただ、システム手帳はぱらぱらとページをくるのには向いてゐない。
手帳は、できれば書いた部分をぱらぱらと無意味に眺めて見たいものだ。
少なくともやつがれはさうだ。
さうするとシステム手帳はいまひとつなんだよね。

といふわけで。いま、Moleskine か LEUCHTTRUM のポケットサイズで Bullet Journal を試してみやうかと画策中だ。
ポケットサイズだとすぐ使ひ終へてしまふかもしれない。
でも持ち運びのことを考へるとポケットサイズなんだよなあ。

しばらくはそのことを考へるだけで楽しめさうだ。

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Tuesday, 14 August 2018

ドイリー: この立場なきもの

レース編みやタティングレースをしてゐると、どうしてもドイリーが増える。
ドイリーとはなにか。
辞書には花瓶などの下に用ゐる小さな敷物といふ旨のことが書いてある。

各家庭に黒電話があつたころは、電話の上にレース編みのカヴァが、下にレース編みのドイリーがあつたものだつた。
少なくとも我が家では母の編んだかぎ針編みのレースがかかつてゐて、敷いてあつた。
しかしいまはその黒電話がない。
固定電話さへなくなりつつある。

レース編みのドイリーは行き場がなくなつてしまつた。

ドイリーの使用方法としては、食器棚に皿をしまふときに傷を付けないやう皿と皿とのあひだにドイリーをはさむ、といふものもあるといふ。
それはいい案であると思ふ一方で、食器棚の中ではせつかく作つたものが見えなくなる。
それはそれでいいのかなあ。
見えないところにきれいなものを置いておくといふ美もないぢやない。

しかしドイリーには居場所がない。
少なくとも我が家にはない。
ドイリーなんぞを麗々しく飾れるやうな部屋がないからだ。
レースのドイリーを飾るならもつとあちこち片づける必要がある。

ドイリーは必要ない。
せめてコースターくらゐ小さいとか、テーブルセンターやテーブルクロスくらゐ大きければいいのだが、大きさも中途半端だ。
ドイリーは役に立たないといつてもいい。
それなのになぜ作つてしまふのか。

ドイリーを編んでゐると如何にもレース編みをしてゐるといふ満足感に浸れるからだ。
レース編みといつたらドイリーでせう、くらゐのいきほひである。
レース編みができるやうになると、まづ作りたくなるのがドイリーだ。
レース編みの本に掲載されてゐるものもドイリーが多い。
「レース編み=ドイリー」なのだ。

そんなわけで、久しぶりにタティングレースでドイリー作りをしてみやうと思つてゐるのだが。
なんとなく挫折しさうな気もしてゐる。
はたしてドイリー作りへの一歩を踏み出すか否か。

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Monday, 13 August 2018

趣味≠特技

趣味と特技とは一致しないこともある。

正直云つて、もともと手先の器用な人がはじめて編んだものと自分がいま編んだものとを比べたときに自分の方が目のそろつたきれいな編み地を作れるとはちよつと思へない。
あみものが好き、といつてもさういふ状態なのだ。

以前、ジェニーやリカちやんの服を作るのに熱中してゐたことがある。
毎週土日になると、ひたすらちくちく人形の服を縫つてゐた。
なぜミシンを使はなかつたのかといふと、ミシンも苦手だからだ。
もともと苦手なのに人形サイズの服にミシンをかけるだなんて、到底ムリだと思つてゐた。
実際、ミシンを使つて縫つた服もないぢやないが、基本的には全部手縫ひ、フレアスカートの裾なども全部手でまつつたり縫つたりしてゐた。

それで縫ひものが好きになつたり得意になつたりしたか、といふと、それがどちらも全然そんな風にはならなかつた。
結局、最近では人形の服は編みはしても縫ふことはなくなつたしね。
最初のころよりは縫ひ目も安定してきただらうとは思ふが、あまり実感はなかつた。
ひとつだけ上達した実感があつたのは、スナップ付けがうまくなつたことだ。
早くきれいにできるやうになつた。
それももう全然やつてゐないので、多分もとの状態に戻つてゐることだらう。

斯様に、苦手でもやることはある。
しかし、得意にはならない。
好きにならない場合もある。
やつがれの場合は縫ひものがさうだつた。

一方のあみものはといふと、あひかはらず編み目がそろはなかつたり模様編みをきれいに編めなかつたりすることは往々にしてある。
昨日もひさしぶりにくつ下を編み始めてみたところ、さつそく編み目がガタガタになつてゐることを確認した。

Sock in Progress

それでもあみものは好きだ。
手の動きが好きなんだな。
これはタティングレースにも云へる。
手に針を持ち、指に糸をかけ、編み目に針を入れて糸を引き出す。
さうした一連の動きがとても気に入つてゐるのだつた。

ここのところ腱鞘炎のせゐであみものをほとんどしてゐなかつた。
昨日久々に棒針編みをしてみて、かぎ針編みほどには指に影響がないことが判明した。
なので、今後しばらくは暑さに負けずくつ下など編むことだらう。
ヨガソックスになる予定だ。

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Friday, 10 August 2018

消費者にできること

「ダメ女たちの人生を変へた奇跡の料理教室」を読んだ。

著者キャスリーン・フリンは、三十六歳のときに渡仏してその後ル・コルドン・ブルーを卒業したといふ。
そんな著者がスーパーマーケットでインスタント食品の箱ばかりを買物かごに入れてゆく女の人を見かけたことから、世の料理が苦手といふ人に料理を教へたらどうなるだらうと考へて、料理教室を開くに至る。

教室は、まづ包丁の扱ひ方からはじまる。
食材を刻めるやうになると料理が楽しくなるからだ。
その後の教室ではオリーヴ・オイルや塩、チキンスープなどのテイスティングをしてほんもののおいしさ、ラベルを読むことの大切さなどを教へる。
また鶏をまるごと扱ふことで、食肉はもとは生きた動物であつたことや肉の感触などを学ばせる。
ドレッシングの作り方なども基本の油の量と酢の量さへ守れば好きなものを入れて好きな味・食材にあふ味が作れることを伝へる。

最初は自前の包丁にさへ自信のなかつた生徒たちが、次第に自信に満ち、積極的になつていくさまがおもしろい。

生徒は十人。二十代から六十代まで、生活環境も暮らし向きも異なる女の人たちだ。
教室のはじまる前に、著者は一人一人の家を訪れて台所のやうすや冷蔵庫の中身を確認し、手料理をふるまつてもらふ。
そして教室が終はつて数ヶ月たつたころ、また訪問してゐる。

最初の訪問でわかることは、食生活はそれまでの各人の生ひ立ちや環境が反映したものだといふことだ。
マクドナルドが好きなのは、父とその再婚相手と暮らしてゐたこどものころ実母につれて行つてもらつて食べたものだから、とか。
サルモネラ菌が怖いから肉を焼きすぎてしまひ、いつも黒こげになつてしまふ、とか。
親や夫にバカにされてから包丁を持つのがイヤになつてしまつた、とか。

生徒の何人かに共通してゐる点は、「料理が怖い」といふことだ。
失敗するのが怖い。
理由はわからないが怖い。

著者は、「料理を失敗してもいいぢやない」といふ。
一度の料理を失敗したところで、どうつてことはない。
そしてそれは生徒たちにも浸透していく。

教室終了後、食生活の変はつた生徒の多さに驚く。
食生活はなかなか変へられないものだ。
実際、著者はFacebookでさういふメッセージをもらつて、送つてきた相手をアンフレンドしたと書いてゐる。
これまでの生ひ立ちや環境によつていまの食生活にたどりついたのだとしたら、確かに変へるのはむつかしいだらう。

それが変はる。
生徒たちがこの教室で受けた衝撃のほどが知れる逸話だ。
それほど変はらなかつた人も、考へ方は変はつてゐたやうに見受けられた。
ちよつとおそろしいほどの影響力だと思ふ。

やつがれがおもしろいと思つたのは、食品のラベルを読み内容物を知り、それをもとに購買していけば、消費者が世界を変へていける、といふ点だ。

本の中にケーキミックスの話が出てくる。
最初のケーキミックスは、ほんたうにかんたんにで、中の粉のほかには水を混ぜるだけ、みたやうな状態だつたといふ。
だが、消費者には受け入れられなかつた。
あまりにかんたんすぎて「料理をしてゐる」「ケーキを作つてゐる」といふ感覚に乏しかつたからだと判断した企業は、卵や牛乳など、ケーキミックスに混ぜ合はせるものを増やしたのだといふ。
結果、ケーキミックスを使つたときと使はなかつたときとでかかる時間はあまり変はらなくなつたけれど、ケーキミックスは売れるやうになつた、といふのだ。

店の棚に並んでゐる食品は、企業が売らうとして作つたものだ。
必ずしも消費者が「これがほしい」といつたものが並んでゐるわけではない。
消費者にできることは、その中から自分たちの健康や生活に適した商品を選ぶこと、それにはそれぞれの商品になにがどれくらゐ入つてゐるのか一々ラベルなどで確認すること、場合によつては店員などに訊くことだ、といふ。
そして、消費者にとつてよいものを買ふ。
企業も売れないものは作らないので、結果として消費者の得になる商品が出回るやうになる。

ラベルを読むのはめんどくさい。
安くて味がまあ許容範囲なら、それでいいぢやあないか。
さういふ向きもあらうし、やつがれもさう考へる方だ。
しかし、消費者がちやんと考へて行動しないとなにも変はらない。
反対に、自分にとつてよいものを選んで買ふやうになれば、それで世界は変へられる。

これつて、民主主義の世界とおなじことだよなあ。
人間一人一人がきちんと考へて行動しないと、ろくな世の中にはならない。
めんどくさがつてすべて任せてゐると、いつのまにか独裁主義政権のもとにゐることになる。

問題は、どうやつたらめんどくさがらずに暮らせるか、といふことだなあ。

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Thursday, 09 August 2018

ペネックとカクノと情報カード

あたぼうステーショナリーのペネックでパイロットの万年筆カクノを持ち歩かうと思つたのには、ふたつ理由がある。

ひとつは増殖するkakunoをまんべんなく使ひたいと思つたからだ。
毎日「今日のカクノ」を決めて、ペネックに入れて持ち歩く。
かうすればそのカクノを確実に使ふことになる。
出先でなにも書かないこともあるだらうつて?
それはそのとほりだ。
だが、毎日ペンを入れ替へるので、帰宅後はペネックを机のうへにおいてゐる。
そこらへんにぬかりはないのだつた。

もうひとつの理由は、カクノがコレクトの5×3カードと相性がいいことだ。
コレクトの5×3カードではセクションと呼ばれる方眼罫の情報カードを愛用してゐる。
このカードに普段使つてゐる金ペンで書くと、なんとなく書きにくいことがある。
その日の温度や湿度、気圧によつても違ふのかもしれないし、やつがれの気分によつても違ふ。
中屋万年筆の十角軸でよく書けるなあと思つたら、翌日はあんましよくなかつたりとか、かなり頻繁にあるし、ほかのペンでも同様だ。

カクノはさういふことがあまりない。
ペン先はEF、F、Mと持つてゐて、いづれも書き味にはそれほど差はない。
中に入れてゐるインキもペンによつてさまざまだ。
パイロットの色彩雫を入れてゐるものもあれば、プラチナの古典インクを入れてゐるものもある。
最近お気に入りなのは、中字にLANYのペトロールを入れたペンだ。
これがちよつとぬめりのあるなんともいへないたまらない書き味なのだつた。
ぬらぬらよりも粘り気があるやうに感じる。
書いてゐて、ペン先と紙とがはなれたがらない、そんな感覚を覚える。
コレクトの5×3カードに書いても同様だ。

ペネックにカクノを入れて持ち歩くやうになつてからといふもの、情報カードの字が読みやすくなつたやうに思ふ。
書きやすいから字を書くときに気をつける余裕が生まれるからだらう。

情報カードについても増殖しつつあり、しかもやつがれの暮らしやうではこれは役に立たないのではあるまいかといふ気がしてならないのだが、それを考へなければ、いまのところいいことづくめだ。

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Wednesday, 08 August 2018

その後のペネック

あたぼうステーショナリーのペネックを持ち歩くようになつて早三週間。
時が経つのは早いものだ。
さう思ひつつも、「え、まだ三週間しか経つてゐないの?」といふ気分でもある。
なんか、もう馴染んでしまつてゐるのだ。
生活の一部とでもいはうか。

職場にゐるときはいつでも社員証と一緒にぶら下げてゐて、出勤退勤途中はかばんの中に入れてゐる。
休日はストラップをかばんの持ち手などに結はへつけて持ち歩くことが多い。
前回も書いたやうに、休日は襟のない服を着ることが多いからだ。
出勤するときは社員証を首から下げないといけないので襟のある服を選ぶやうにしてゐる。
社員証を下げてゐるストラップが直接首にあたるのが気になるからだ。
とくにいまの時期は汗を吸ふだらうしさ。
まあ襟があつたところで吸ふんだらうけども。

馴染んでしまふと持ち歩いてゐることを意識しなくなる。
そんなわけで、使ひ心地云々といふのもあまり感じない。
あたりまへにそこにあり、あたりまへのやうに使ふ。
さういふ存在になつてゐる。

そんなペネックだが、ひとつだけ心配な点がある。
それは、ボタンがなんとなくゆるい気がすることだ。
ペネックは上部のぺらぺらした部分をストラップに巻きつけてボタンでとめるやうになつてゐる。
このボタンがぱつちりとまりはするものの、どことなく手応へに欠ける気がするのだつた。
これ、何度もつけたりはづしたりをくり返してゐたら早晩ダメになるんぢやあるまいか。
いまのところ一日に一度はつけはづしをしてゐる。
そのたびにそこはかとなく不安になるのだつた。

だつて、もうあるのがあたりまへなんだもの。

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Tuesday, 07 August 2018

復刻本とタティング熱

Medium でタティングレースに夢中な人の記事を読んで、突然タティング欲がわいてきた。

単純である。

そんなわけで、Chinese Coin Bookmark に挫折したまま糸の巻いてあるシャトルを手にした。
たまたま立ち寄つた本屋では、藤戸禎子の「復刻版 タティングレース モチーフ&エジング101が復刊されてゐて、思はず買つてしまつた。
もとの本はスパイラル綴じで使ひやすかつたが、そのせゐか手に取りすぎてヨレヨレになつてゐるから、と云ひ訳して。

記事に、タティングを修得するのが如何に大変なことであつたか語つてゐる場面がある。
書いた人はYouTubeを見たりした、とあるけれど、動画を見ながら覚えても大変なのか、としみじみしてしまつた。

タティングをはじめたばかりのころYouTubeで公開されてゐるタティングの仕方の動画があつたなら、と時々思ふが、動画を見ながらでも大変なんだなあ。

タティングのスティッチについては、この記事にもあるやうに、「Lark's Head knot」だとか「ハーフ・ヒッチ」と書いてくれればそれでわかる人もゐるだらうにな、と思ふ。
マクラメをやつてゐればその名もずばり「タッチング結び」といふ結び方もあることだし、輪などに結びつけてから作り始める時はこの「Lark's Head knot」をするはずだ。

マクラメ人口がそんなに多くないか。

家に帰つてシャトルを手に、藤戸禎子の本からシャトル一つでできるモチーフを作つてみた。
写真がないのは、家にクロススティッチ針を持ち帰るのをうつかり忘れてしまつて糸始末ができなかつたからだ。

さう、タティングの問題のひとつに糸始末がある。
この記事の中にはなぜ人はタティングをしやうとしないのかについての考察があるが、その中には糸始末の問題はない。
それ以前にタティングに興味を持つてはじめやうといふ人が少なすぎるからだらう。

タティングは、自分にとつてはくつろげる趣味で、それほどきりきりしなくてもできる手芸だと思つてゐる。
糸始末をのぞけば。

もともとの糸が細い上に、細かい結び目に糸をくぐらせていかなければならない。
さもなければそれとわからぬやうに結び目を作らねばならない。

どちらもきりきりしなければできない仕事だ。

この問題をなんとかしやうとして、基本的にはいつも magic thread 方式を取り入れてゐる。
それを夕べはやらなかつたんだねえ。失敗失敗。

涼しくなつてきたら、極細毛糸でタティングをしてみやうかなあ。
毛糸だと糸始末が格段に楽だからね。

そんなわけで突然のタティング熱だが、いつまでつづくだらうか。
気温の低いうちだけか。

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Monday, 06 August 2018

返り血を浴びながら編みたいか

文学の中で一番有名なニッターといつたら、「二都物語」のマダム・ドファージュぢやあるまいか。

「二都物語」は、フランス革命のころのフランスとイギリスとを舞台にした物語だ。
酒屋の女将であるマダム・ドファージュは貴族に虐げられた家族の復讐を誓つてゐる。
マダムはいつでもあみものをしてゐる。
編みながら、復讐する相手の名前を、のちにはギロチン台に上がる人々の名前を編み込んでゐるのだ。

あみもの者としてはここでひつかかる。
えー、そんな憎い相手の名前を編み込んだものを、どうするの?
使ふの?
まさかね。
くつ下であれば、日本なら「踏みつけにする」といふ意味もあらうが、フランスでそれはどうよ、といふ気もする。

あみものは時間がかかるし、編んでゐるうちに愛着もわくので、復讐したい相手の名前を編み込んだりしたくないよなー、と自分なら思ふ。

当時はいまとは違つて、あみものは内職としてどこでも普通に見られるものであり、編みながら愛着を感じることなどなかつた、とも考へられるが。
でもなー、やつぱりないよなー。

「紅はこべ」だつたかには、ギロチンの横で首を斬られた人の血を浴びながらあみものをしてゐる人の話が出てくる。
実際、ギロチンの周囲にはあみものをする人々がゐて(tricoteuseと呼ばれたといふ)、自由の象徴たる帽子を編んでゐたといふのだが、どうなのかなあ。

世の中が殺伐としてくれば、あみもののつとめといはうか役割といはうかも変はつてくるといふことか。
といふことは、今後はやつがれもまたマダム・ドファージュのやうに殺しても殺したりない相手の名前を編み込みながら帽子やくつ下を編むやうになるのだらうか。

その前に編み込みを覚えないとなー。

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Friday, 03 August 2018

無手勝流 熱中症対策

熱中症が不安である。

熱中症にかかつた人の談話を聞くと、倒れる直前まで自分が倒れるとは思つてゐなかつた、といふ。これが結構多い。
先日NHKのニュースに答へてゐた九十代の方は、熱中症で倒れるまでは絵を描いてゐたのだといふ。
絵を描くときはいつも楽しいのに、なんだか楽しくないなと思つてゐたら、倒れたといふ。
暑いといふ気持ちはなかつたのださうな。

つまり、熱中症にかかつてゐるかゐないか、自分では判断がむつかしいといふことだと理解してゐる。
かかつてしまつたときにはもう、自分が熱中症なのかどうかわからない状態になつてゐるのかもしれない。
つねに注意してゐるやうでないと、熱中症は防げないのだ。多分。

といふわけで、ぢやあ水分を取ればいいのか、水分だけぢやなく塩分や糖分も取ればいいのか、といふと、それだけではないんぢやないかといふ気がしてゐる。

ニュースなどでは「水分の補給、それと塩分と糖分も」といふやうなことを云つてゐるが、自分のTwitter の TimeLine に流れてくる情報ではそれだけではダメなのらしい。

体温を必要以上にあげないことが重要なのだ、といふ。
どんなに水分を補給しても、たとへ経口補水液を飲むやうにしてゐたとしても、灼熱状態の中にゐてはダメだといふことだ。
暑さから逃げること、逃げられないのだつたら冷たいものを躰にあてて体温を下げるやう心がけること。
それが肝要だ、といふのが、数多流れてきたRTからやつがれが出した結論である。

といふわけで、「この暑さはヤバいな」と思つたら、小振りの保冷剤を手ぬぐひに包んで首筋や腋の下にあてるやうにしてゐる。
ほんたうは鼠蹊部にもあてるといいのらしいが、あてつづけるのがむつかしい部位なのでできるときだけあててゐる。
首筋・腋の下・鼠蹊部にはそれぞれ太い動脈が通つてゐるので、保冷剤で血液の温度を下げるのがいいといふのだ。

さういや救急病棟で高熱を発してゐる人の首筋・腋の下・鼠蹊部に氷枕のやうなものがあてがはれてゐたのを見たことがある。
体温を下げるのに役立つのは疑ひなささうだ。

ただ、これに関しては、「熱中症には首筋・腋の下・鼠蹊部を冷やしてももう手遅れ」といふ内容のつぶやきが Twitter に流れて来もした。
大本は Facebook に書かれてゐたのだといふ。

それで一時は、首筋・腋の下・鼠蹊部を冷やしても熱中症対策にはならない、といふやうなつぶやきも流れてきたものだつた。

でも元の記事をよくよく読むと、重度の熱中症になつてしまつた場合は、といふ話のやうに思へる。
まだ意識があり、自分で水分を摂取できるやうな状態の場合なら効果はありさうだ。
熱中症といふのが発汗などの手段によつて体温を下げることができなくなることで生じる状態なのだとしたら、水分・塩分・糖分を取るだけではダメで、体温を下げるやうな働きかけも必要だ、といふことだ。
さうやつがれは理解してゐる。

そんなわけで、水分の摂取にはげみつつ、せつせと保冷剤を首筋や腋の下にあてる日々なのだつた。
ほかのことなんて、碌々できやしませんや。

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Thursday, 02 August 2018

ちかごろの京都の町の変はりやう

「京都買います」は、度を越した恐がりのやつがれでも見ることのできる数少ない「怪奇大作戦」のエピソードのひとつである。

なぜといつて、まづ怖くない。
とくにヴィジュアル的に恐ろしいものが出てこないといふことが大きい。
「狂鬼人間(はそもそも見られないといふ話もあるが)」の大村千吉とか、絶対見られないもの。怖すぎて。

まあそもそも「「怪奇」大作戦」といふ名前がよくないといふ話もあるのだが、それはそれとして。

「京都買います」とはどんな話かといふと、「仏像を愛した女の話」である。
仏像を愛する一方で、その仏像のおはします京都の町の変貌をなんとかしたいと思ひ、そこで「京都買います」といふことになるわけだ。
実際にしてゐたことは仏像の窃盗なんだけどね。

「怪奇大作戦」といふTVドラマ自体は、世の中の怪しい事件を科学捜査研究所(SRI)の面々が解き明かす、といふ内容だ。
「京都買います」は、夜な夜な忽然と消へる仏像の謎をSRIが追ひかけるといふ話、ともいへる。

さういふわけで、SRIの牧史郎と仏像を愛する女・須藤美弥子とが出会ふわけだ。

ところで世の中には「聖地巡礼」といふことばがある。
聖地巡礼といへば個人的に最初に頭に浮かぶのはイスラム教徒のメッカへの巡礼なのだが、まんがやアニメ、映画やTVドラマなどの舞台やモデルとなつた土地や建物などを訪れることを「聖地巡礼」と呼ぶ。
最近では「この世界の片隅に」の舞台になつた呉市や、「君の名は」の数寄屋橋……ぢやなくて「君の名は。」の飛騨だとかが有名だらうか。

今年で放映五十周年を迎へる「怪奇大作戦」の舞台となつた場所にも「聖地巡礼」をする人々はゐて、「京都買います」にもとづく「聖地巡礼」はWeb検索をかけるとそれなりの数検索結果があらはれる。
写真を掲載してゐるWebサイトもたくさんあつて、さうした写真を見てゐると「京都買います」のころそのままなところが多い。
店が移転したとか、黒谷でいふと一部朱塗りになつたところがあつたりとか、化野念仏寺でいふとドラマ内で歩いてゐたところが立ち入り禁止になつてゐたりとか、さういふ違ひもないわけではない。
しかし、牧と美弥子とが一緒にゐたところ、またドラマ最終盤でひとりさまよふ牧の立ち寄つたところは驚くほど変はらない。
冬の時期に祗王寺に行くと、椿が一輪だけぽつりとある。
そんなところまで一緒なのだ。

最初のうちは、「ロケ地は寺社ばかりだもの。変はらなくてもそりや当然だよね」と思つてゐた。
だがよくよく考へてみると、これはさういふ風に撮つたのではあるまいか、といふ気がしてくる。

エンディングに出てくる場所は、いまではどこだつたのかわからないくらゐ変はりはててゐるからだ。
エンディングに出てくるのは巨大な換気口やガスタンク、京都タワーや東寺さんの五重塔を望む住宅地などだ。
もう存在しないものも多いだらう。

「京都買います」は、仏像を愛し古いままの京都を望む美弥子とそんな美弥子に惹かれる牧とを描く場面では一見不変とも思へる場所を舞台に選び、エンディングには美弥子や美弥子の師である藤森教授が「いまの京都の変はりやう」と嘆く京都を舞台に選んで撮影された、さういふドラマなのではあるまいか。

そんな気がしてくるのである。

そんな意図なくして撮られたとしたら、それはそれでこの見事な対比にうなるばかりだ。

昨日の「歌舞伎買います」にからめて、それぢや歌舞伎はどうなの、といふ話をしやうと思つてゐたが、長くなつてしまつた。
それはまた別の機会に。

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7月の読書メーター

7月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1706
ナイス数:21

易経〈上〉 (岩波文庫)易経〈上〉 (岩波文庫)感想
米光一成の「思考ツールとしてのタロット」に「コレスポンデンス」という考え方が出て来る。易経もコレスポンデンスでできているのだなあと思いながら読む。なんだか楽しい。
読了日:07月02日 著者:
易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)感想
年を取ると新しいことに出会った時にそれまでの自分の経験と照らし合わせて似たものを引っ張り出してきて「これのようなものだ」と思うようになるという。そこで終わるのではなくて、過去に出会った似たようなもの(と自分が思うもの)と新しいものとを衝撃させて新たな視点新たなものの見方を身につければそれもまたそんなに悪いことではないのではないか。易もまたそうして読み解いていくとよいのではないか。そんな風に今回は読んだ。
読了日:07月05日 著者:
知的生産の技術 (岩波新書)知的生産の技術 (岩波新書)感想
生産に目が向いていた今までに比べて、「どうせ自分は生産なんかしないんだし、だったら紙の整理だろう」ともっと前に気づきたかったよ。いまさら遅いよ。多分、そういうシステムを取り入れたらこどもが小学校からもらってくるプリントもうまいこと処理できるようになるんじゃないかと思うのだが甘いかな。
読了日:07月06日 著者:梅棹 忠夫
その情報,本当ですか?――ネット時代のニュースの読み解き方 (岩波ジュニア新書)その情報,本当ですか?――ネット時代のニュースの読み解き方 (岩波ジュニア新書)感想
ここ数年NHKの午後九時のニュースを見るとトップニュースにがっかりする。「これがトップ?」と思う。そういう状況であることは中にいるとわからないのかもしれない。でも、そういうニュース番組を作っている放送局の人間であることを前面に出して「本当の事実」などと云われると眉につばをつけたくなってしまう。どうやったら本当の事実にたどりつけるかという話はほとんどないので肩透かし。最後にかろうじて「国会図書館」が出てくるが、この本の対象読者には向かない内容かと思う。
読了日:07月16日 著者:塚田 祐之
The Prodigal Tongue: The Love-Hate Relationship Between American and British EnglishThe Prodigal Tongue: The Love-Hate Relationship Between American and British English感想
人類皆平等(という建前)の国と階級社会の国との違いという話がおもしろかった。米語と英語とはスペイン語とポルトガル語ほど変わらないわけ、とかも。「英語でしゃべらナイト」でもいっていたいわゆる「グローバル・イングリッシュ」には米国人や英国人は関わらない方がいい、とかね。外国語で話す体験に乏しいから、というのが理由のひとつだった。なるほどねえ。
読了日:07月19日 著者:Lynne Murphy
植草甚一の勉強植草甚一の勉強感想
植草甚一の全著作を出版順に取り上げている。関東大震災から植草甚一は変わったという旨のことを述べていて、それとは別の話として植草甚一は政治に興味がなかったとか無知だったとかある。だったら市川猿之助の松竹離脱の記事をあんなに丹念にスクラップしていないだろうと思うのだが、澤瀉屋の事件は震災の前だったか。読み返したくなる本もあるけれど、大半は学校に通っている時分に図書館で借りた本で手元にはない。入手できそうな本を探してみるかな。
読了日:07月27日 著者:大谷 能生

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Wednesday, 01 August 2018

「歌舞伎買います」あらすじ

注: 「怪奇大作戦」は「京都買います」のパロディです。

歌舞伎の舞台で、役者の口にしたセリフが消えるという事件が起きた。
口は動いている。そこまでのセリフもきちんと聞こえていた。
だが肝心の名セリフが消えるという不可解な事件だ。

科学捜査研究所(SRI)の牧史郎は、主に歌舞伎役者の身体能力を科学的に研究する藤森教授を大学の研究室に訪ねる。
藤森教授が研究対象にした役者にセリフ消失事件が起きているからだ。
そこで牧は、藤森教授の助手・須藤美弥子と出会う。
歌舞伎に夢中な美弥子に、牧は夢中になってしまう。

SRIの小川さおりに無理矢理つれて行かれた木挽町広場で、牧は美弥子がチラシを配っているのを見かける。
チラシを配りながら美弥子は「歌舞伎を売ってくれ」と訴えている。
チラシには日本国民として歌舞伎に関するいっさいの権利を譲渡することを約束するといった旨のことが書かれていた。

牧を認めて逃げる美弥子。
美弥子を追って、牧は「歌舞伎を買うっていったい?」と問いかける。
「誰も歌舞伎なんか愛してないって証拠ですわ」
美弥子は答える。「それだけのことです」

なおも問うと、美弥子は云う。
歌舞伎のうつくしさのわからない人から歌舞伎を買ってしまいたい。
歌舞伎のよさのわかる人だけの国を作るために歌舞伎を買うのだ、と。

このわたしの気持ちがあなたにおわかりになりまして、と美弥子に訊かれて、牧は答えに窮する。
すると、美弥子は「おわかりにならないでしょうね」「それでいいんです」とほほえむ。
「歌舞伎はわたしだけのもの。そう思いたいからです」と云って。

美弥子とつれだって歩きつつ、牧は美弥子の歌舞伎への愛を知る。
歌舞伎座三階の鬼籍に入つた役者の写真の前で、美弥子は云う。
かつては、かうした役者たちによるすばらしい舞台を見ることができたのだ、と。
いまの舞台からそれを想像するのはむつかしい、と。
美弥子に感想を訊ねられ、しかし牧は答える。
「ぼくは……ぼくは、映像でしか見られない過去の舞台より、実際に生きた役者の舞台の方が好きかもしれない」

牧と歩くうち、美弥子は牧に少しずつ心を開くようになる。

セリフ消失事件は相変わらずつづいている。
そして、事件の前にはかならず美弥子が劇場に姿をあらわしていることを町田大蔵およびSRIはつきとめている。
現場にはカドニウム発信器という、ある一定の音波を打ち消しつつその音を受信機に送る機器が必ずある。

美弥子に疑わしい点のあることに気づいた牧は、ある日美弥子のあとをつける。
関係者として楽屋口から劇場に入った美弥子は、ひとしきり大道具のようすなどを感慨深げに見守ったのち、発信器をしかけてその場を去る。
牧はその発信器を手に入れる。

発信器の発する電波から受信機の位置を特定した警察は、その場にいた藤森教授を逮捕する。
警察に同行していた牧は、教授と一緒にいた美弥子のあとを追う。
いまにも泣き出しそうな顔をして、美弥子は云う。
「歌舞伎以外のものを信じようとしたわたしが間違っていた……」
「それだけのことです」
そう云い残して美弥子は立ち去る。

牧はひとりで芝居通いをする。
「勧進帳」「白浪五人男」「道成寺」「寺子屋」「河庄」「仮名手本忠臣蔵」の七段目……
ふと訪れた楽屋口に、牧は黒衣姿の美弥子を見つける。
だが美弥子は自身は須藤美弥子ではないと云い、須藤美弥子は歌舞伎とともに生きていくと伝えてくれと云っていた、と牧に告げる。
美弥子を説得することばを持たない牧は、立ち去ろうとしてきびすを返し、ふとふり返ると、そこには美弥子の姿はない。
牧の足下に、五十年前の顔見世興行のチラシが吹き寄せ、そこには美弥子によく似た顔の「鏡獅子」の弥生の写真がうつつてゐた。

スーパー歌舞伎、コクーン歌舞伎、超歌舞伎、歌舞伎NEXTなどの映像が流れ、その上にエンドクレジットがかぶさる。

「歌舞伎買います」完。

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